05 極悪バニーと天覇のグラップラー

「うり坊、おっめでとー! やっぱ、ラクショだったねー!」


 瓜子が花道を戻ると、灰原選手がハイタッチを求めてきた。

 まだ感情の定まっていなかった瓜子は何とか笑顔を作りながら、それに応じてみせる。すると、セコンド役の多賀崎選手も穏やかな笑顔で拳を差し出してきた。


「覗き見するゆとりはなかったけど、一ラウンドKOなら言うことなしだね。おめでとさん」


「押忍。ありがとうございます」


 瓜子は多賀崎選手と拳をタッチさせてから、灰原選手に向きなおった。


「灰原選手も、頑張ってください。控え室で見守ってますからね」


「うん! あたしだって、ぜーったい勝ってみせるからねー!」


 笑顔の灰原選手に別れを告げて、瓜子はサイトーやメイとともに控え室を目指した。

 その道中で、ジジ選手の陣営と行きあう。ジジ選手はにやにやと笑いながら無言で通りすぎ、マテュー氏だけが落ち着いた笑顔で声をかけてきた。


「ナイス・ファイト。やっぱりあなたは素晴らしいファイターです、猪狩選手」


「押忍。ありがとうございます」


 そうして控え室に到着すると、今度は祝福の嵐である。何せ本日は、懇意にしている人々だらけであるのだ。


「うり坊ちゃん、おっめでとー! 最後のキックもかわゆかったよー!」

「猪狩さん、お疲れ様でした! さすがの横綱相撲でしたね!」

「……とにかく、ノーダメージで何よりであったのです」

「うり坊ちゃん、かっちょよかったー! これでまたファンも激増だねー!」

「本当にすごかったッスよー! やっぱ猪狩さんは、キックの実力もすごいッス!」

「まったくもって、つけいる隙もない試合運びだったね。エキシビションにしとくのはもったいないぐらいだったよ」

「本当に、素晴らしい試合でしたねー。ワタシも見習いたいですー」


 年配のコーチ陣が遠慮していても、この騒ぎである。

 そして、満を持したかのように鞠山選手が接近してきた。


「だけど今日も、ちびっこ怪獣タイムはおあずけだっただわね。今年に入って、あんたの牙城に迫る選手がいなかったっていう証拠なんだわよ?」


「そんなことはないですってば。きっと弥生子さんとの対戦で、勝負勘が磨かれたんだと思います」


 その赤星弥生子も遠慮をして、遠くのほうにたたずんでいる。ただその切れ長の目は、とても優しげな眼差しで瓜子を見つめてくれていた。


「さ、馬鹿騒ぎはそろそろおしまいにしてくれや。こっちも、クールダウンがあるんでな」


 サイトーの鶴のひと声で、包囲網の人垣が解除される。そしてユーリは名残惜しそうな微笑みを瓜子に投げかけてから、ウォームアップを再開させた。

 瓜子がパイプ椅子に着席すると、サイトーと柳原が左右から手足にマッサージを施してくれる。その心地好さに身をゆだねながら、瓜子はモニターに目を向けた。


 そちらでは、すでに灰原選手と後藤田選手が向かい合っている。

 客席も、大変な盛り上がりようだ。前回の興行では鞠山選手に敗北を喫してしまったが、灰原選手の人気は健在であった。


 しかし今回は、どちらにとっても正念場であろう。これは、本年になってから王者の瓜子に敗北した者同士の対戦であるのだ。なおかつ、負けたほうは連敗の憂き目を見てしまうのだった。


 ただし下馬評は、圧倒的に灰原選手の有利である。彼女は亜藤選手に山垣選手と、黄金世代のトップファイターに連勝した身であるのだ。

 しかし灰原選手は、今年に入って瓜子と鞠山選手に敗北してしまった。間にはさまれた『NEXT・ROCK FESTIVAL』の試合では秒殺勝利を飾っていたものの、あれは代役出場で中堅選手との対戦であったのだ。《アトミック・ガールズ》で三連敗となってしまったら、いかに人気選手でも崖っぷちに立たされてしまうはずであった。


 しかし、レフェリーのもとで後藤田選手と向かい合った灰原選手は、普段通りの不敵な面持ちである。

 鞠山選手との試合では、ずいぶん張り詰めた形相であったが――あれはきっと、多賀崎選手が前の試合で負傷したことが原因であったのだろう。もとより灰原選手というのは、逆境をプレッシャーに感じるタイプではないのだ。


 かたや後藤田選手も、落ち着いたたたずまいである。こちらは灰原選手とまったく違う意味で、心を強く保っているのだろう。すでにベテランの域である後藤田選手は、天覇館の選手に相応しい沈着さであった。


「さー、次は灰原さんだねー! この後藤田って人も、けっこー強いんでしょ?」


 そのように発言したのは二階堂ルミで、問いかけられたのは蝉川日和だ。蝉川日和は相変わらず気のない面持ちで「はあ」と応じた。


「そりゃあトップファイターなんだから、お強いんでしょうね。でもあたしはキックの選手ッスから、そういう話は他の方々にお願いしたいッス」


「でも、ひよりちゃんはうり坊ちゃん目当てでアトミックのDVDを買いあさったんでしょー? だったら、うちよりはくわしいじゃん!」


「う、うっさいッスよ。……あたしの持ってるDVDには、後藤田って選手はあんまり出てなかったんスよ。なんか、怪我が多くて試合数が少ないみたいッスね」


 蝉川日和の言う通り、後藤田選手はこの二年ていどで数えるほどしか試合をしていない。《カノン A.G》の時代に一色ルイに敗れてからは、去年のラニ・アカカ選手、今年三月の復帰試合、五月の瓜子との対戦と、わずか三戦しかしていないのではないかと思われた。


(でも、後藤田選手の強さは痛いぐらいに感じられた。だからあたしも、あんなに集中できたんだしな)


 さきほど鞠山選手に指摘された通り、瓜子は今年になってから集中力の限界突破という現象に見舞われていない。そこまで窮地に追い込まれる前に、試合が終了するためである。

 しかしそれは、決して対戦相手が弱かったためではなく――むしろ、相手の強さを感じ取ることで、瓜子は自然に神経が研ぎ澄まされるようになったのだ。これこそが、赤星弥生子との対戦で得た大きな変化であった。


 以前の瓜子であれば、集中力の限界突破なくして灰原選手や後藤田選手に初回のラウンドで勝てたとは思えない。しかし瓜子は自分でも驚くぐらい、試合の開始と同時に神経が研ぎ澄まされて――それで、六試合連続一ラウンドKO勝利という結果を叩き出すことがかなったのである。それはひとえに、相手の尋常ならざる気迫に呼応した結果であるはずであった。


(ただもちろん、あたしの手応えとしても手ごわく感じるのは灰原選手のほうだけど……後藤田選手は、名うてのグラップラーだからな。展開次第では、どう転ぶかわからないぞ)


 瓜子がそのように思案する中、試合が開始される。

 灰原選手はウサギを思わせるステップワーク、後藤田選手はどっしりとしたクラウチングのスタイルだ。

 灰原選手が軽妙にして力強い攻撃を繰り出しても、後藤田選手は動じない。彼女は生粋のグラップラーであったが、そのぶん打撃のディフェンスは磨きぬいているのだ。そこからグラウンドに引きずり込む手腕は、この階級で亜藤選手と一、二を争うはずであった。


(組み技だけに関して言えば、鞠山選手以上かもしれないもんな。だから、後藤田選手は怖いんだ)


 もともと鞠山選手は、組み技に重きを置いていなかった。たしか瓜子と最初に対戦した頃など、サキの評価も六十点だとか何だとか、ずいぶん低めであったのだ。鞠山選手は不利な状態でも寝そべってしまえばいいというスタンスで、組み技よりも寝技と打撃技の習得に大きな比重を置いていたのだった。


 いっぽう後藤田選手は、堅実なファイターだ。打撃技では防御が固く、寝技と同じぐらい組み技にも重きを置いている。何かとトリッキーな鞠山選手と比べてどちらが厄介であるかは、相性によるのだろうと思われた。


 そんな後藤田選手と相対して、灰原選手はいくぶんやりづらそうにしている。

 後藤田選手の防御が固いため、なかなかリズムがつかめないのだろう。亜藤選手や山垣選手は攻撃的である反面、ディフェンスが甘いため、そちらともまったく異なるタイプであるはずであった。


 それに後藤田選手は、灰原選手が近づくたびにテイクダウンのフェイントをかけている。これも相手のリズムを崩すのに有効であるはずだ。かえすがえすも、後藤田選手には地味で堅実な強さが備わっていた。


 すると――灰原選手が、いきなり乱打戦を仕掛けた。

 二発のジャブに右フック、左ボディから右の膝蹴りと、怒涛のコンビネーションを披露する。いきなりのインファイトに面食らったのか、後藤田選手はディフェンスに徹して組み技を仕掛けることもできなかった。


 そうして好きなだけ攻撃を叩き込んでから、灰原選手はすみやかに距離を取る。

 後藤田選手は、いざ前進しようとしたが――その鼻先に、右のハイキックが繰り出された。

 灰原選手は、ハイキックがあまり得意ではない。彼女ももともとはパンチャーであるし、どっしりと足を踏まえてこそ破壊力のある攻撃を出せるタイプであったのだ。


 よって、この攻撃も後藤田選手にとっては予想外であったのだろう。

 後藤田選手は慌てて頭部のガードを固めようとしたが、きわどいタイミングで間に合わず――左腕ごとこめかみを撃ち抜かれることになった。


 後藤田選手がよろめくと、灰原選手は再び肉迫する。

 さきほど以上の猛攻で、今度は得意のパンチの連発だ。後藤田選手は懸命にガードを固めたが、灰原選手の怪力で振るわれるコンビネーションは暴風雨さながらであった。


 それでも後藤田選手がここぞというタイミングで組みつこうとすると、灰原選手はその肩を突き放して、右アッパーを射出する。

 灰原選手の右拳は、ものの見事に後藤田選手の下顎を撃ち抜き――後藤田選手は、膝から崩れ落ちることになった。


 レフェリーはすぐさま割って入って、試合終了を宣告する。

 その判断の正しさを示すように、へたりこんだ後藤田選手はそのまま動こうとしなかった。


『一ラウンド、二分五秒! 右アッパーにより、バニーQ選手のKO勝利です!』


 灰原選手は意気揚々とケージを一周し、フェンスに飛びつくとその上にまたがって、力感みなぎる両腕を振り上げた。


「ふん。成美ちゃんはあんたとの試合で顎関節を痛めて、しばらく試合ができなかったんだわよ。そこをあの馬鹿力で追撃されたら、ひとたまりもないだわね」


 瓜子の真後ろに立ちはだかっていた鞠山選手は、そんなつぶやきをもらしていた。確かに後藤田選手は瓜子との試合で下顎の骨折を疑われて、救急病院に搬送されたのだった。


「まあ、それより前からダメージが溜まってたんだろうだわね。インファイターの下顎は、消耗品なんだわよ」


 古くから、ボクシングの世界でも「グラスジョー」という言葉が存在する。直訳すると「ガラスの顎」で、顎が打たれ弱い選手を指しての言葉だ。顎にダメージをくらい続けると、KOされやすくなるという俗説も存在した。


(そうでなくても、後藤田選手はベテランファイターだからな)


 しかしまた、後藤田選手に同情することはできない。瓜子や灰原選手も、数年後には同じ立場になるのである。新人選手も若手選手もベテラン選手も、その立場に応じて死力を尽くすしかないのだった。


(それでもって、鞠山選手は後藤田選手より五年分ぐらいはベテラン選手なんだもんな)


 そんな思いを胸に秘めつつ、瓜子がこっそり背後の様子をうかがうと――短い腕を傲然と組んだ鞠山選手は、その眠たげなカエルのような目にとてもやわらかい慈愛の光をたたえてモニター上の後藤田選手を見つめていたのだった。

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