04 エキシビションマッチ

 本選の五試合が終了したならば、十五分間のインターバルをはさんで、後半戦の開始である。


 第六試合は小笠原選手の出陣で、その次の出番である瓜子は入場口の裏手で待機する。小笠原選手はいつも通りのゆったりとした笑顔で、武魂会のコーチやオリビア選手とともに出陣していった。


 小笠原選手も瓜子と同じく、本日はキックルールのエキシビションマッチである。バンタム級は選手の層が薄いため、小笠原選手もこういった形で調整試合を組まれることになったのだ。


 ただし相手は、キック界のトップファイターである。《トップ・ワン》という団体で六十一キロ以下級のランキング二位という、まぎれもない実力者であった。

《トップ・ワン》は《G・フォース》ほど堅苦しい団体ではないものの、MMAの興行にトップファイターを送り込むというのは珍しい話である。この後に続く瓜子の対戦相手も、五十二キロ以下級の第三位という実力者であったのだった。


「だって、キックとかMMAとかの枠を取っ払って考えたら、今の日本で一番盛り上がってる女子格闘技は《アトミック・ガールズ》だろうからねー。それなら、いっちょ噛みして名前をあげてやろうって人間が出てきてもおかしくないんじゃないかなぁ」


 以前にプライベートの場でそんな風に語っていたのは、瓜子の旧友たる佐伯芳佳であった。もうひとりの友人であるリンが《トップ・ワン》の所属選手であったため、本日の対戦相手の情報収集がてら、ひさびさに旧交を温めることになったのだ。


 まあ何にせよ、余所の団体が《アトミック・ガールズ》に興味を抱いてトップファイターを送り込んでくれるというのは、ありがたい限りである。たとえエキシビションマッチであろうともKO決着はありえるルールであるため、あちらとしても《アトミック・ガールズ》の王者を倒して名をあげようという野心を抱いているはずであった。


 今日のルールは三分三ラウンドで、ボクシンググローブは8オンス、テンカウントルールのスリーノックダウン制。肘打ちは無しで、首相撲は有り。あくまで非公式マッチであるために戦績には数えられず、時間切れの場合は判定もつけられないが、それ以外は公式試合と変わりのない内容であった。


「あののっぽのネエチャンは今でもたまに武魂会で試合をしてるらしいから、とりあえずブランクの心配はねえだろ」


 キックミットで瓜子の攻撃を受けながら、サイトーはそのように語っていた。

 もうひとりのセコンドであるメイは、試合を覗き見することなく、瓜子のウォームアップをじっと見守っている。瓜子としても、無理に覗き見をお願いする気持ちはなかった。


 そうして五分ほどの時間が過ぎたところで、大歓声が響きわたる。

 扉の隙間からは、リングアナウンサーの声がうっすらと聞こえてきた。


『二ラウンド、五十六秒! 右ニー・キックにより、小笠原朱鷺子選手の勝利です!』


《トップ・ワン》のトップランカーも、小笠原選手の敵ではなかったようだ。

 瓜子は満ち足りた思いで、同じ攻撃をミットに叩きつけた。


「やー! トッキー、すごかったよー! 一ラウンド目は様子見してたけど、膝蹴り一発であっさり勝っちゃった!」


 と、小笠原選手よりも先に、次の出番である灰原選手の陣営がやってきた。


「これなら、うり坊もラクショーだね! 来月の大一番に向けて、景気よくKOしてきなよ!」


「灰原選手って、ナチュラルにプレッシャーをかけてくれますよね。まあ、自分もベストを尽くすつもりです」


 瓜子がそのように答えたとき、小笠原選手も凱旋してきた。

 ほどよく汗をかいているが、どこにもダメージを負った様子はない。まぎれもなく快勝であったようだ。


「お疲れ様です。最高の結果だったみたいっすね」


「うん。そっちも、頑張ってね」


 瓜子や灰原選手と拳をタッチさせて、小笠原選手は控え室に消えていった。

 瓜子はいざ、扉の前で出番を持つ。まずは青コーナー陣営である相手選手の入場が始められて、それから瓜子の名前が呼ばれた。


 瓜子が花道に足を踏み出すと、本日二度目の熱気が全身に叩きつけられてくる。

 本日もKO決着が多かったため、客席の盛り上がりは大変なものだ。そして、「瓜子!」と「うりぼー!」のコールがあちこちで大合唱されていた。


 ただやっぱり、それらの声にもどこか取りすがるような響きが感じられる。

 これが《アトミック・ガールズ》における、瓜子の最後の試合になってしまうのか――そんな切々たる思いが、会場中にあふれかえっているかのようであった。


 しかし瓜子は心を揺らすことなく、花道を踏みしめる。

 先のことなどは、瓜子にも想像がつかなかったし――それに、《アクセル・ファイト》とは関係なく、選手はいつ引退に追い込まれてもおかしくはないのだ。ユーリのおかげでその厳しい現実を思い知らされた瓜子は、たとえこれが最後の試合になってしまっても後悔のないように死力を尽くすつもりであった。


 そうしてボディチェックを終えてケージに上がると、いっそうの歓声が吹き荒れる。

 対角線上の対戦相手は、左右のグローブを打ち鳴らしながら気合をみなぎらせていた。


《トップ・ワン》のランキング第三位たるトップランカーで、年齢は二十四歳、身長は百六十センチ――瓜子の旧友たるリンいわく、足癖の悪いサウスポーのアウトファイターであるそうだ。

 かつての瓜子にとっては、もっとも苦手とするタイプである。

 しかし、そんな苦手意識はこの近年で払拭されていた。プレスマン道場には、足癖の悪いサウスポーのアウトファイターが二人も居揃っているのだ。ちょうど身長も同程度であるし、今の瓜子にとってはむしろ馴染み深いぐらいであった。


 ただもちろん、決して油断したりはしない。

 しょせんファイトスタイルなど、ひとつの目安にしかならないのだ。この選手には、この選手ならではのストロングポイントというものが存在するはずであった。


(この選手は、首相撲も得意らしいからな。肘打ちは禁止だけど、膝蹴りには気をつけよう)


 選手紹介を為された後は、レフェリーのもとで対戦相手と向かい合う。

 本日はエキシビションマッチであるが、ストロー級の体重制限であったため、相手もきっちりと身体を作っている。背丈は愛音と同程度で手足も長かったが、愛音よりも骨格ががっしりとして見える。瓜子よりひと回り大きく感じる逞しさであったが、それもいつもことのであった。


 それにやっぱり、気合のほどが尋常ではない。やたらと名前の売れてしまった瓜子を食ってやろうという意気込みが、ひしひしと感じられた。本気の勝負を望んでいる瓜子にとっては、ありがたい限りである。


「では、エキシビションでもルールは厳守するように。おたがい、クリーンなファイトを心がけて」


 レフェリーの合図でグローブをタッチさせ、瓜子は自分のコーナーに戻った。


「あんまり頭から突っ込むんじゃねえぞ! まずは距離を作っていけ!」


 大歓声に対抗して声を張り上げるサイトーに、瓜子は軽く右手を上げて応えてみせる。

 そんな中、試合開始のブザーが鳴らされた。


 瓜子も相手も、ゆっくりとケージの中央に進み出る。

 きっと相手はケージで試合を行うのも初めてのことであろうが、リングよりも広いケージはアウトファイターにとってうってつけだ。熱い気合をみなぎらせつつ、その足取りには余裕が感じられた。


 しかしまた、対戦相手の気合というのは、瓜子にとって集中力の糧である。相手が気合をみなぎらせればみなぎらせるほど、瓜子の心は鋭く研ぎ澄まされていった。

 それに瓜子は六月の《NEXT・ROCK FESTIVAL》でもキックルールのエキシビションマッチに挑んでいたので、まだその感覚が残されている。瓜子はそのときの試合で、キックルールにおける新たなファイトスタイルを見出していた。


 それを実践するべく、瓜子は外回りで相手に接近していく。相手に合わせて、こちらもまずはサウスポーだ。足が短い分は小刻みにステップを踏んで、じわじわと相手に接近していった。

 射程距離では相手にかなわないので、牽制の攻撃は角度でかわす。相手の右ジャブは、アウトサイドに踏み込むことで回避できた。


 相手はいくぶんやりにくそうに、とにかく距離を取ろうとする。

 そのステップのタイミングを読んで、瓜子は大きく足を踏み出し、右のインローを繰り出した。


 おたがいサウスポーであるため、瓜子のローは相手の右足の内側にヒットする。

 相手はきちんと右足を上げてローをカットしていたが――それでも一瞬、嫌そうな顔をした。瓜子の利き足は右であるため、前足であってもそれなりの威力であるのだ。そこには、骨密度も大きく影響しているはずであった。


 瓜子がスイッチを覚えたのはMMAに転向してからであるので、キックの時代には左構えからの右ローという技を使ったことはなかった。

 これは瓜子の、新しい武器である。まずはこの痛い右ローで、相手の出足を鈍らせるのだ。


 そこから瓜子は、左のミドルに繋げてみせた。

 相手は余裕をもってブロックしたが――また一瞬だけ、顔をしかめる。今回は奥足からの蹴りであったため、そこで威力が上乗せされたはずだ。

 さらに瓜子は再びの右ローから左ミドルと、同じ攻撃を繰り返してみせる。

 どちらも同じように防御されたが、最後の左ミドルでははっきりと痛そうな顔をしていた。


 瓜子はキックの時代、パンチャーであったため、序盤からこのように蹴りを多発することはなかった。瓜子はたいてい体格で劣っていたので、なおさら慎重に振る舞う必要があったのだ。

 しかし、8オンスのボクシンググローブをつけていると、瓜子のパンチ力は半減する。普通はグローブの重さが威力に加算される面もあるのだが、瓜子の場合は拳の硬さがやわらげられるデメリットのほうが大きいようであるのだ。それはMMAで4オンスのオープンフィンガーグローブを使用するまで、自分でも気づくことのできなかった特性であった。


 キックルールであれば、パンチよりも蹴りのほうが大きなダメージを与えることができる。それを活かしてリズムを作るというのが、六月の試合で獲得した瓜子の新たなスタイルであった。

 それに、テイクダウンの心配がなければ、実にのびのびと動くことができる。それもまた、MMAを経験したことで獲得できたひとつの武器であるはずであった。


 いったん距離を取った瓜子が左ローのモーションを見せると、相手は怯んだ様子でバックステップを踏む。

 右ローを防御しても足が痛んだので、奥足からのローはもらいたくないという意識が芽生えたのだろう。それこそが、瓜子の思惑であった。


 瓜子はアウトサイドに回りつつ、もういっぺん左ローのモーションを見せる。

 やはり相手は、バックステップで逃げようとした。

 それを追いかけるべく、瓜子は空振りした左足をそのまま踏み込み、右ミドルを射出する。これもキックの時代には持っていなかった、空手流のコンビネーションだ。


 相手も攻勢に転じようという気概を残していたため、そこまで大きく下がっていない。よって、一歩の踏み込みで右ミドルを当てることができた。

 利き足の、奥足からのミドルである。これまでで一番の破壊力を左腕で受け止めて、相手は頼りなく身を揺らした。


 さらに瓜子は蹴り足をそのまま前に下ろして、右ジャブに連動させる。

 腹を守っていた相手は、すかさず頭部をガードした。

 瓜子の右拳は、相手の左腕にヒットする。

 その右拳を引きながら、瓜子は渾身の左ボディを繰り出した。


 腹から頭に意識を振られた相手は、完全にボディを空けてしまっている。

 その無防備なレバーに、瓜子の左拳が突き刺さった。

 たとえ重たいグローブで骨密度の効能が薄れようとも、レバーにクリーンヒットさせれば効かないわけがない。相手選手は、はっきりと苦悶の顔を覗かせた。


 相手は瓜子の身を突き放し、ふらつく足取りで逃げようとする。

 瓜子は正面から、それを追いかけた。

 相手がカウンターを狙ってくるようであれば、それに対処する心づもりであったが――相手はそんな気配もなく、ただ下がっている。とにかく距離を取りたいという弱気が見えていた。


 瓜子は大きく踏み込んで、前足を振り上げる。

 横回転の蹴りではなく、前蹴りだ。

 相手はすかさず、腹を守った。レバーのダメージが、そのように判断させたのだろう。瓜子は八センチばかりも身長で負けているし、そうでなくとも前蹴りでは腹を狙うのが定番であるのだ。


 しかし瓜子はぎりぎりまでたたんでいた右膝を突き出すようにのばしながら、相手の下顎を狙った。

 サキに憧れてファイターを志した瓜子は、昔からハイキックの習得に熱心であったのだ。そこで獲得した股関節の柔軟性をも駆使して、瓜子は限界まで右足を振り上げた。


 相手はぎょっとしたように、身を引こうとする。

 その下顎に、真下から、瓜子の右足の先がちりっとかすめた。


(ちぇっ。足の長さが、二センチ足りなかったか)


 相手の反撃に備えて、瓜子はすぐに距離を取る。

 だが――相手はふらふらとたたらを踏んで、そのまま横倒しになってしまった。


 レフェリーが割って入り、「スタンド!」と指示を送る。

 相手はマットに拳をついて、立ち上がろうとした。

 しかし、腰を浮かせかけたところで、またぐしゃりと倒れ込んでしまう。その姿を見て、レフェリーが「ダウン!」と宣告しなおした。


 バランスを崩してのスリップではなく、ダメージを受けてのダウンであったのだ。

 瓜子の蹴りは下顎をかすめたのみであったが、それで脳震盪を起こしてしまったようだ。横回転の蹴りやパンチなら珍しくもない話であるが、前蹴りでそんな現象が生じるのは稀なことであった。


 レフェリーがカウントを数える中、瓜子はニュートラルコーナーに引き下がる。

 相手は5カウントまで力をたくわえ、それから立ち上がろうとしたが――再びよろめいて、倒れ込んでしまった。


 レフェリーはセブンでカウントを止めて、両腕を交差させる。

 試合終了のブザーが断続的に鳴らされて、客席には新たな歓声が爆発した。


『一ラウンド、一分五十二秒! 右フロント・キックにより、猪狩瓜子選手のKO勝利です!』


 瓜子は、大きく息をついた。

 少しばかり、不完全燃焼の感は否めなかったが――それでも、KOを狙った攻撃で試合を終わらせることができたのだ。それまでの展開もすべて作戦通りであったし、すべてが順調に終わったことを嘆くわけにはいかなかった。


 レフェリーに呼ばれてケージの中央に戻った瓜子は、右腕を頭上に掲げられる。

 それでまた、さらなる歓声が渦を巻いた。


 相手選手は、ぐったりと身を横たえたままである。レバーにダメージをくらった上に脳震盪まで起こして、気分が悪くなってしまったのだろう。瓜子はそちらの容態をうかがおうとしたが、それよりも早くリングアナウンサーに捕まってしまった。


『キックルールの一戦を見事に勝利された、猪狩選手です! 猪狩選手、ひと言お願いいたします!』


『あ、はい。……MMAの経験を、キックの試合で活かすことができました。今日はあくまでエキシビションですけど、結果を出せてよかったです』


『本日もノーダメージの完全勝利でありましたね! 猪狩選手は《JUFリターンズ》における赤星弥生子選手との一戦以降、すべての試合をノーダメージの一ラウンドKO決着という、素晴らしい戦績を残しておられます! 来たるべき《アクセル・ジャパン》に向けて、準備もぬかりなしといったところでありましょうか?』


 リングアナウンサーがそのように言いたてると、大歓声にどよめきが入り混じった。

 それに共感を示すように、リングアナウンサーはうんうんとうなずく。


『猪狩選手が世界に羽ばたくというのは大きな喜びであると同時に、大きな喪失感をもたらしてやみません! そちらに関しても、ひと言お願いできますでしょうか?』


『押忍。先のことは、まだわかりませんけど……とにかく自分は、目の前の一戦一戦を大切にやりとげたいと思っています』


 瓜子がそのように伝えると、客席にはこれまで以上に惑乱した空気がわきかえった。

 いったいそれが、どのような感情に基づくものであるのか――もしかしたら、客席の人々も心が定まっていないのかもしれない。だったらそれは、瓜子も同様であった。


『あと、ひとつだけ言えるのは……自分は《アトミック・ガールズ》が大好きで、《アトミック・ガールズ》に育ててもらった身であるということです。この先どんなことになっても、自分は《アトミック・ガールズ》の看板を背負っていくつもりです。決して恥ずかしい姿を見せないように頑張りますので、どうかよろしくお願いします』


 瓜子は気持ちも定まらないまま、ただ心の中にある思いをそのまま伝えてみせた。

 すると――頼りなげに揺らいでいた喚声が、ひとつの形にまとまっていく。そして、熱っぽい調子で「瓜子!」や「うりぼー!」のコールが繰り返されたのだった。


 やっぱり多くの人々が、瓜子と同じ思いでいてくれているのだ。

《アトミック・ガールズ》を去るのは寂しいが、《アトミック・ガールズ》の力を世界に示したい――さまざまな感情の入り乱れる心の根底にあるのは、そんな思いであったのだった。


 自分の名を呼ぶ声に包まれながら、瓜子は胸を詰まらせてしまう。

 もうこれ以上はしゃべることも難しそうであったので、瓜子がおもいきり頭を下げると――今度は暴風雨のような拍手が、瓜子の思いを支えてくれたのだった。

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