02 開会セレモニー
ルールミーティングを終えた後は、メディカルチェックにマットの確認にバンデージのチェックと、いつも通りに進行されていく。
ただ瓜子は、ユーリが無事にメディカルチェックを通過できたことに、こっそり安堵していた。山科医院における定期健診でも毎回問題は生じていなかったが、いざ試合の当日に変調に見舞われたりはしないかと、瓜子はひそかに案じていたのである。
そんな瓜子の心配も杞憂に終わり、ユーリは試合に出場できることが確定した。
《アトミック・ガールズ》公式の試合衣装とウェアに着替えたユーリは、やはり心から幸福そうな面持ちであった。
「ついに興行が始まってしまうのだねぇ。ユーリは夢見心地でありますけれども……幸い、おなかは空かないようなのです」
「試合の当日も乗り越えられたら、もう安心っすね。でも、試合が終わるまで気を抜かないように気をつけましょう」
ユーリが最後に尋常ならざる飢餓感に見舞われたのは、前回の興行で復帰の挨拶をした後となる。それはおそらく興奮のあまりに発症する事態なのであろうから、今日という日には決して気を抜くことはできなかった。
「このお牛様が腹ペコでぶっ倒れそうになったら、プロテインでカロリーバーを流し込んでやりゃいいんだろ? それはこっちで受け持つから、おめーは自分の試合に集中しとけや」
と、心優しいサキはそんな風に語りながら、瓜子の頭を小突いてきた。
本日は瓜子がエキシビションマッチであるという関係もあって、リューク氏やビビアナにセコンドは頼んでいない。そもそもビビアナなどは日本語が覚束ないため、メイのセコンドぐらいしか務まらないのだ。
よって本日は、ユーリのセコンドが立松とジョンとサキ、瓜子がサイトーとメイ、愛音がジョンと柳原と蝉川日和という布陣になっている。ジョンだけが掛け持ちになってしまうが、第一試合と第十試合ならば支障はなかろうという判断であった。
そんなこんなで時間は流れすぎ、ついに開会セレモニーの時間である。
入場の順番に整列した最後尾で、ユーリは「うにゃあ」と声をあげていた。
「かえすがえすも、ユーリなんぞがメインイベントというのは恐縮の限りなのですぅ。これでは会場のお客様がたも、不満の思いでみっしりなのではないでしょうかぁ?」
「この期に及んで、なーに言ってんのさ! 今日はうり坊とトッキーがエキシビションなんだから、しかたないっしょ!」
そんな風にユーリをなだめてくれたのは、瓜子の後ろに並んでいた灰原選手だ。ちなみにユーリと灰原選手の間には、にやにやと不敵に笑うジジ選手が立ちはだかっていた。
「ま、あたしが受け持ってやってもよかったけど、前回の試合で魔法老女に後れを取っちゃったから、あんまでかい口は叩けないしさ! 今日のところはあんたの復帰試合が一番注目されてるんだろうし、うだうだ言ってないで覚悟を決めな!」
「はいぃ。恐縮でありますぅ」
そうしてこちらが騒いでいる間に、入場が開始された。
二名のアマチュア選手の後は、愛音、大江山すみれ、小柴選手、犬飼京菜と、まずは立て続けにアトム級の精鋭が姿を消していく。それに続くのはマリア選手と小笠原選手で、お次が瓜子の出番だ。
瓜子が花道に足を踏み出すと、本日も多大なる歓声と拍手をいただくことができた。
ただ今回は、どこか切々とした響きも感じられる。それはどこか、一年前のユーリの入場を思い出させる雰囲気であり――もしかしたら、これが《アトミック・ガールズ》における瓜子の試合の見納めなのではないかという思いが渦巻いているのかもしれなかった。
(あのときも、ユーリさんは『アクセル・ロード』に備えてエキシビションだったんだよな)
ただ瓜子の場合、《アクセル・ジャパン》で勝利するだけでは正式契約に至らないだろうという見込みであったのだが――しかしそれも、何も明確な話ではない。過去には地方大会の一勝だけで正式契約に至った選手もいなくはないようであるので、瓜子自身にも先のことなどはまったくわからなかったのだった。
(だから……あたしもこれがアトミックで最後の試合になるかもしれないっていう覚悟が必要なんだ)
そんな思いを噛みしめながら、瓜子は小笠原選手の隣に立ち並んだ。
その後には灰原選手とジジ選手が続き、ついにユーリの登場だ。
そのときこそ、凄まじいばかりの歓声が轟いた。そちらは瓜子と反対に、《アクセル・ファイト》から《アトミック・ガールズ》に舞い戻ってきた身なのである。
もちろんそれは、喜ばしいだけの話ではない。『アクセル・ロード』に出場したユーリは、そのまま世界に羽ばたくのではないかと期待されていたのだから――ある意味では、夢破れての出戻りであったのだ。
しかし、そんな御託を吹き飛ばすほど、ユーリは魅力的な姿をさらしていた。
その美麗なる姿をまばゆいスポットに照らされて、無邪気に微笑み、ひらひらと手を振っている。ほんの直前までうじうじ悩んでいたなど、誰も想像できないことだろう。内心を隠してアイドルらしく振る舞う手腕に関して、ユーリの右に並ぶものはなかった
それにまた、ユーリも決して外面を取りつくろっているわけではない。
客席からの大歓声が、すぐさまユーリを幸福な心地にしてくれたのだ。今この場でもっとも大きな幸せを噛みしめているのは、ユーリであるはずであった
『以上、二十二名の精鋭が、本日この場で熱い試合をお届けいたします! それでは、選手代表の挨拶を……ユーリ・ピーチ=ストーム選手にお願いいたします!』
リングアナウンサーの宣言によって、いっそうの歓声が吹き荒れる。
ハンドマイクを受け取ったユーリは、無垢なる笑顔でぺこりと一礼した。
『みなさん、今日はご来場ありがとうございまぁす。ユーリもメインイベントに相応しい試合をお見せできるように頑張りますので、よろしくお願いしまぁす』
なんのてらいもない、ごく尋常な挨拶である。
しかし客席のボルテージは上がる一方であったし、ユーリもにこにこと笑いながら、目もとに白いものを光らせていた。
うかうかしていると、瓜子も目の奥が熱くなってしまいそうである。
そんな瓜子の左右では、小笠原選手と灰原選手が満足そうに笑っていた。
『それでは選手退場です!』のアナウンスに従って、入場とは逆の順番で花道を引き返す。
瓜子が入場口の裏手に到着すると、ユーリはさっそくサキに頭を小突かれていた。
「一年以上ぶりの出戻りだってのに、愛想のねーこったな。もうちっと気のきいたセリフは思いつかなかったのかよ?」
「えー? サキたんなんてもっと長いおやすみだったのに、挨拶も何もなかったんじゃなかったっけぇ?」
「アタシは客寄せパンダじゃねーからな。復帰試合でメインを張るようなパンダ牛には、それ相応の責任ってもんが生まれるだろーよ」
「うにゃあ。パンダ牛とは、またけったいな……でもでも、どっちも白黒ツートンだねぇ。あっ、ユーリはお牛さんではないけれどね!」
サキと語らっている間に、ユーリはどんどん弛緩していく。そのためにこそ、サキはユーリにあらぬ言葉を投げつけているのだろう。それで瓜子が感じ入っていると、こちらまで頭を小突かれてしまった。
「そら、さっさと控え室に戻んぞ。どうせ出番はまだまだ先だけどな」
そうして一行は、控え室に戻ることになった。
すると、ドアの前には柳原と蝉川日和が待ちかまえている。こちらに同行していたジョンと合流して、愛音はその場でウォームアップだ。
「邑崎さん、頑張ってくださいね」
「ふん。あっちもジリ貧だろうから、せいぜい寝首をかかれねーようにな」
「ユーリたちも、勝利祈願の念波を送ってるからねぇ」
「はいなのです! 必ずや、勝利してみせるのです!」
ユーリからも激励された愛音は、普段以上に凶悪な肉食ウサギの形相になっていた。
それを横目に、瓜子たちは控え室に入室する。するとそちらでは、赤星道場の面々が待ちかまえていた。
「すみれ、お疲れ様。試合の進行を見ながら、じっくり熱を入れていこう」
「はい。よろしくお願いします」
そうして大江山すみれの陣営は、控え室の奥でウォームアップを開始する。
瓜子やユーリは終盤の出番であるため、まずは待機だ。それで灰原選手たちと一緒にパイプ椅子に腰を下ろそうとすると――思いも寄らない人物が接近してきた。
「猪狩選手、試合前に失礼します。少々お話をよろしいでしょうか?」
それはジジ選手のセコンドである、ハンサム・ブロイことマテュー・ドゥ・ブロイであった。かつては《JUF》の四天王であった、ブロイFAというジムの会長である。
「おやおや。ついに猪狩も、あんたから挨拶をされる身分になったってわけか」
と、立松がすかさず間に入ってくれる。マテュー氏は、悠揚せまらず「ええ」と微笑んだ。
「私も大晦日の《JUFリターンズ》を拝見して、驚嘆させられたひとりです。ええと、あなたは――」
「俺はプレスマン道場の立松ってもんだ。いちおう卯月があんたとやりあってた頃は、セコンドを務めたりもしていたんだがな」
「ああ、チーム・プレスマンの……それは失礼いたしました。以前は敵味方の陣営でしたが、今日はよろしくお願いいたします」
生粋のフランス人であるマテュー氏であるが、日本語は堪能だ。現役当時は甘いマスクで数多くの女性ファンを魅了していたようだが、現在はすっかり貫禄がついて大企業の社長を思わせる風格であった。
「まずは、《アクセル・ジャパン》の出場おめでとうございます。猪狩選手であれば、《アクセル・ファイト》との正式契約も決して夢ではないでしょう」
「押忍。ありがとうございます」
「そして、ユーリ選手……本来であれば、あなたのほうこそが先に正式契約を獲得していたところであったのに……とても残念な結果でしたね」
素知らぬ顔でパイプ椅子に陣取っていたユーリは、「いえいえぇ」とよそゆきの笑顔で答えた。
「ユーリなどは、力不足の極致でありましたぁ。実力うんぬんの前に、心がまえからしてふにゃふにゃでありましたからねぇ」
「そのようなことは、決してありません。……あなたもまた、宇留間選手の冒涜的な振る舞いに腹を立てておられたのでしょう?」
マテュー氏は、ふくよかになった顔に精悍なる表情を漂わせた。
「かくいう私も、彼女の暴虐なる振る舞いには歯噛みしていました。選手生命をかけて彼女の暴走を食い止めたユーリ選手には、心からの賛辞を届けさせていただきたく思います」
「……いえ。ユーリはそんな、立派なアレではありませんのでぇ」
「はい。きっとユーリ選手も、悪魔に魂を売ったような心地であったのでしょう。あなたは宇留間選手を倒すために、自らのファイトスタイルを投げ打って……きわめて不本意な形で、試合を進めることになったのでしょうからね」
マテュー氏は身を屈め、ユーリの美麗なる顔を真っ直ぐ見つめながら、そのように言い放った。
「だからこそ、私はあなたに敬服しているのです。そしてあなたが選手として復帰したことを、心より喜ばしく思っています。どうか今後も、憂いなくご活躍なさってください。私はジジとともに、あなたを追いかけるつもりです」
ユーリはどこか困っているような面持ちで微笑んでいる。
するとマテュー氏もふっと微笑み、身を引いた。
「そして、猪狩選手もです。猪狩選手とユーリ選手は、まぎれもなく日本を代表するファイターでしょう。《アクセル・ジャパン》も、心して拝見させていただきます」
それだけ言って、マテュー氏はジジ選手のもとに戻っていった。
「やれやれ」と、立松は肩をすくめる。
「相変わらず、真面目くさったやつだぜ。だけどまあ、あいつこそ尊敬に値する人間だろう。ありがたく、激励のお言葉を頂戴しておきな」
「押忍。……マテューさんは試合を観ただけで、ユーリさんの気持ちを理解してくれたんですもんね」
ユーリはいくぶん曖昧な表情をしていたので、瓜子はその手を握ってみせた。
ユーリは純白の睫毛を伏せつつ、ふわりと微笑む。
「ユーリなんて、そんなお言葉を頂戴できる立場ではないのににゃあ。……きっとみんなは、ユーリのことを誤解しているのです」
「誤解なんて、してないっすよ。少なくとも、自分はそのつもりです」
「うん……うり坊ちゃんは、ユーリの浅ましき本性もしっかり理解してくれているのでしょうけれども……」
ユーリはそのように語っていたが、マテュー氏だって決して誤解などはしていないのだろう。彼はユーリがどのような思いで宇留間選手と戦い、その腕をへし折ったか、それを正しく理解した上であのような言葉をかけてくれたのだ。
そういえば――マテュー氏は故郷のフランスでMMAが立派なスポーツであると認めさせるために、ずっと尽力してきた立場であるのだ。そんなマテュー氏であるからこそ、MMAの概念を根本から覆すような宇留間選手を不快に思い、ユーリに心を寄せることになったのだろう。そう考えれば、瓜子よりもさらに深い部分でユーリを理解しているのかもしれなかった。
きっと世界には、マテュー氏のような思いでユーリのことを見守ってくれている人間がいるはずだ。
そんな風に考えると、瓜子は見えない何かにがっしりと背中を支えられたような心地であったのだった。
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