26th Bout ~Turbulent autumn~
ACT.1 《アトミック・ガールズ》九月大会
01 入場
『ジャパンロックフェスティバル』の終焉とともに、瓜子たちの夏は終わりを迎えた。
もちろん九月になろうとも残暑は厳しいばかりであったが、やはり瓜子やユーリにとっては新潟遠征がひとつの区切りであったのだ。
次に迎えるイベントは、もちろん《アトミック・ガールズ》の九月大会である。
瓜子はエキシビションマッチであったが、ユーリにとっては十ヶ月ぶりの復帰試合であるのだ。それで瓜子は自分の試合以上に、胸を高鳴らせることになってしまったのだった。
「自分はコーチ陣に無理を言ってまで、エキシビションマッチを組んでもらうことになったんすけど……今さらながら、ユーリさんのセコンドを受け持ちたかったなあって思いにとらわれちゃうんすよね」
「にゃっはっは。そんなお言葉を聞かされたら、ユーリもとろとろに融解してしまいそうなところですけれども……でもでもどうか、うり坊ちゃんはご自分の試合に集中なさいませ。たとえエキシビションでも、大事な大事な調整試合なのでせう?」
「ええまあ、そうなんすよね。本当に、カラダがふたつ欲しいところっすよ」
そんな言葉を交わしつつ、瓜子は日々の稽古に取り組むことになった。
もちろん大会までの期間も、日中は撮影の仕事に忙殺されている。『トライ・アングル』のミュージックビデオの撮影に、《アトミック・ガールズ》で販売されるグッズ関係の撮影、そしてユーリと一緒に臨むグラビア撮影と、試合前でも容赦なく仕事を詰め込まれていたのだ。これは本当に、ユーリが入院していたとき以上の激務であった。
しかしこれも、ユーリが滞りなく復帰できたという証なのである。
音楽活動においてもモデル活動においても、ユーリは見事に返り咲いた。『トライ・アングル』が出演した野外フェスはどちらも大評判であったし、九月末に予定されているワンマンライブのチケットも即日でソールドアウトとなっている。グラビアを飾った雑誌も大層な売れ行きのようであるし、撮影の業務は次から次へと舞い込んでくるし――どこを取っても、ユーリの人気に衰えは見られなかった。
よって、重要であるのは復帰試合である。
ユーリの本業は、あくまで格闘技であるのだ。こちらで確かな結果を出さない限り、完全な復活を果たしたとは言えないはずであった。
そうして瓜子はユーリとともに、多忙な業務と過酷な稽古をやりとげて――ついにその日を迎えたわけであった。
◇
九月の第三日曜日、《アトミック・ガールズ》の九月大会である。
その日も瓜子とユーリは、プレスマン道場および四ッ谷ライオットの面々とともにワゴン車で会場の『ミュゼ有明』を目指すことになった。
本日の出場者は、瓜子、ユーリ、愛音、そして灰原選手の四名だ。
コーチ陣もフルメンバーで、メイや蝉川日和も駆り出されているし、もちろん灰原選手は多賀崎選手とセットであるため、ワゴン車は二台に分けられている。一台は、ジョンの自前のワゴン車であった。
「こっちのコーチ連中だって自前の車なのに、プレスマンのお世話になっちゃうのは申し訳ない限りですね」
多賀崎選手がそのように声をあげると、運転役の立松は「かまわねえさ」と陽気に応じた。
「多賀崎さんと灰原さんが遠慮したって、車は二台必要なんだからよ。選手を三人も試合に送り出せるなんて、コーチ冥利につきるってもんだ」
「うんうん! きっとマコっちゃんも、次の大会ではお呼びがかかるだろうからさ! 今日のところは、あたしのセコンドをお願いねー!」
八月の半ばを過ぎてからようやく対戦相手が決まった灰原選手は、ご機嫌な様子でそのように言っていた。
灰原選手も愛音も、小笠原選手も小柴選手も、ついでに言うなら大江山すみれやマリア選手や犬飼京菜も、お盆を越えてからようやく正式にオファーがあったのだ。しかも、その全員がトップファイター同士の対戦という熱い内容であったのだった。
「だからけっきょく、十試合全部がトップファイター同士の潰し合いってことになったんだよねー! 今回はずいぶんブッキングに時間がかかったけど、悩んだだけの甲斐はあったんじゃないかなー!」
「うん。その中で一番しんどいのは……やっぱ、高橋ってことになるのかな」
本日、高橋選手には思いも寄らない対戦オファーが告げられた。かつての五十六キロ以下級の絶対王者、ジジ・B=アブリケル選手がバンタム級に階級を上げて乗り込んでくることになったのである。
「でも、あのイレズミ女は階級を上げる前から、ピンク頭やミミーに負けてるしさ! 今のヨッシーだったら、ラクショーじゃない?」
「それは、桃園や御堂さんが凄かったってだけのこったろ。あたしだってジジと同じ階級だったんだから、あいつのおっかなさは思い知らされてるよ」
もとよりジジ選手は、階級を上げてベリーニャ選手に挑みたいと表明していたのだ。しかし、ユーリに敗れたことでその願いは潰えて、《カノン A.G》が設定した魅々香選手との対戦でも敗れ去り――それから二年もの歳月を経て、ついに復活を果たすわけである。
まあ鞠山選手の情報によると、ジジ選手は日本以外の場所で試合を続けていたらしい。しかしそれでも《アクセル・ファイト》との正式契約に足る実績は積めなかったため、日本に出戻ってきたのだろうという話であった。
「きっとうり坊やメイメイが《アクセル・ジャパン》に出場すると聞いて、日本に活躍の場を求めたんだわね。現金なやり口だわけど、バンタム級が充実するのは幸いなんだわよ」
鞠山選手は、そのように評していた。
どうやらジジ選手の陣営は、「交通費や滞在費は不要なので試合を組んでもらいたい」と、逆オファーしてきたようであるのだ。いまだ資金難であるパラス=アテナにとって、それは飛び上がるほどの僥倖だったのではないかと思われた。
「ジジはコーチのハンサム・ブロイともども、しばらく日本に滞在するらしいね。あちこちのフィスト・ジムが、出稽古の申し込みをされたみたいだからさ」
「ふーん! ま、ヨッシーだったら返り討ちにできるだろうから、あとはオニっちやマオっちが後に続けるかどうかだねー!」
「うん。結果はどうあれ、楽しそうなカードだよね。あいつが元の階級のままだったら、あたしにもやりあうチャンスがあったのにさ」
ひさびさに参戦する海外の強豪選手に、女子選手の一行はいささか活性化しているようである。それだけでも、ジジ選手の参戦というのは実りのあるものであった。
そんな中、ユーリはずっとにこにこと笑っている。まるで遠足に行く子供のように、無邪気なたたずまいだ。相変わらずユーリは大きな喜びから飢餓感を誘発されることなく、至極平穏な日々を過ごすことができていた。
やがて二台のワゴン車は、会場に到着する。
そちらの入り口で控え室の割り振り表を確認した灰原選手は、「うひょー!」とはしゃいだ声をあげた。
「今日はみんなして、おんなじ控え室だねー! ……あ、だけど、ヨッシーだけは別々なのかー! うーん、残念!」
瓜子もまた、そちらの内容を確認させていただいた。何せ本日は、見知った相手が数多く出場するのだ。
第一試合は、愛音と金井選手。
第二試合は、大江山すみれと前園選手。
第三試合は、小柴選手とベテランのトップファイター。
第四試合は、犬飼京菜とベテランのトップファイター。
第五試合は、マリア選手と沖選手。
第六試合は、小笠原選手のエキシビションマッチ。
第七試合は、瓜子のエキシビションマッチ。
第八試合は、灰原選手と後藤田選手。
第九試合は、ジジ選手と高橋選手。
そして第十試合は、ユーリと香田選手だ。
「なるほど。高橋選手と前園選手と後藤田選手で、天覇館は青コーナー陣営に固められたわけっすね」
「うんうん! うり坊もジュニアっちと同じ陣営で、ご満悦っしょー?」
「それはまあ、嬉しいのは確かですけど……すねないでくださいよ、ユーリさん」
「すねてないですぅ」
「そら、騒いでないで控え室に向かうぞ。知った顔ばかりでも、気を抜かないようにな」
そうして控え室に向かってみると、まさしく見知った人々が群れ集っていた。赤星道場に武魂会にドッグ・ジム、さらにはセコンド陣として鞠山選手やオリビア選手まで控えているので、本当に天覇館を除くほとんどの朋友が集結しているような様相であった。
「あ、ひよりちゃんだー! わーい、合宿以来だねー!」
そんな中から、まずは元気な二階堂ルミが呼びかけてくる。彼女のようなタイプが苦手だと公言している蝉川日和は「どもッス」と素っ気なく頭を下げるばかりだ。
そして瓜子のもとには、赤星弥生子が近づいてくる。ユーリの視線を気にしながら、瓜子は「どうも」と笑顔を届けた。
「今日はご一緒の陣営でしたね。よろしくお願いします」
「うん。今日はエキシビションだから、猪狩さんもどうか怪我のないように」
赤星弥生子はいつも通りの沈着さで、ただ切れ長の目に温かな光を宿している。初めて出会った頃のぴりぴりとした空気を思えば、別人のような穏やかさだ。しかしそれでも、彼女の凛然としたたたずまいには何の陰りも見られなかった。
本日は二名の選手が出場するため、赤星道場の陣営も豪華な顔ぶれだ。師範の赤星弥生子に、師範代の大江山軍造、青田コーチ、青田ナナ、二階堂ルミ、それに六丸と、雑用係まで見知ったお相手であった。
いっぽう犬飼京菜も大和源五郎、ダニー・リー、マー・シーダムという妥協のない布陣で、鞠山選手やオリビア選手は武魂会のセコンドを務める。これほど賑やかな控え室というのは、ちょっとひさびさのことであった。
(今日はユーリさんの復帰試合だから、余計に嬉しいな。あとは、最高の結果を目指してもらうだけだ)
そんな風に考えながらユーリのほうを振り返ると、とろんとした垂れ気味の目がじっと瓜子を見つめている。そしてそのふくよかな唇が、すぐさま瓜子の耳に寄せられてきた。
「今日は弥生子殿を目の前にしてもユーリの存在を忘れないでいてくれて、幸福な限りなのですぅ」
「ええ? ユーリさんは本当に、弥生子さんを意識しすぎっすよ」
瓜子がそのように囁き返すと、赤星弥生子はくすりと笑った。
「相変わらず、二人は睦まじい限りだね。では我々は、試合場に向かうとしよう」
「あ、それなら自分たちもご一緒します」
「むにゃー! 言ったそばから、ユーリを放置しないでいただきたいのです!」
そうして騒がしい一行は、騒がしいまま場所を移すことになった。
その行き道でひたひた近づいてきたのは、犬飼京菜である。彼女とは、二ヶ月ぶりの再会であった。
「あんたと赤星は見るたんびに、気安くなってるね。あの頑固女を、どうやって手なずけたのさ?」
「いやいや、そんなんじゃないっすよ。犬飼さんとも、どうか仲良くさせてください」
「ふん! プレスマンの連中なんかと馴れ合うのは、ごめんだね!」
犬飼京菜はいーっと歯を剥いてから、さっさと歩を速めてしまう。
すると、後から続いた大和源五郎がこっそり語りかけてきた。
「最近は出稽古で猪狩さんたちを迎える機会もなかったから、お嬢も物足りないんだろうな。まあ、子供のやることだと思って勘弁してくれや」
「押忍。最近は日曜日にも仕事が詰まっちゃってるもんで……また機会があったら、よろしくお願いします」
「無理をすることはねえさ。猪狩さんは、来月に大一番を控えてるんだからな。加減を知らねえお嬢とのスパーなんざ、見てるこっちがひやひやしちまうよ」
そう言って、大和源五郎は土佐犬のような顔にくしゃっと皺を寄せた。
「昔だったら、お嬢もプレスマンの選手に先を越されたって気を立ててたところだろうがな。今はそんなわだかまりもなく、存分に応援させていただくよ」
「押忍。ありがとうございます」
やはり多くの人間は、来月の《アクセル・ジャパン》に意識が向いているようだ。
しかし瓜子は、本日の試合に集中する所存である。たとえエキシビションマッチでもKO決着はありえるルールであるので、瓜子は最高の結果を目指すつもりであった。
そうして試合場に出向いてみると、天覇館やフィスト・ジムの面々も居揃っている。
その中で注目を集めているのは、やはりジジ選手だ。コーチのブロイ氏を相手に軽いシャドーを見せているジジ選手の姿に、小笠原選手が「へえ」と反応した。
「さすがにしっかり身体を作ってるみたいだね。ウェアの上からでも、ひと回り大きくなってるのがわかるよ」
「ええ。海外の選手は、骨格の作りも違いますしね」
五十六キロ以下級の時代から、彼女は日本人選手よりもひと回り大きな身体をしていたのだ。そこから五キロがプラスされて、いっそう力強い印象になったようであった。
また、以前は鮮やかなグリーンに染められていた髪が、現在は赤毛と金髪のまだらになっている。そして、つるつるに剃られた右側のこめかみには黒いトライバル、目もとには黒と青の隈取、咽喉から右の頬にかけては鉤爪を生やした悪魔の赤い手の甲と、あちこちにタトゥーが刻みつけられており、首から上だけでも人目をひいてやまないジジ選手であった。
「やあ。そっちもお疲れさん」
と、柔術道場ジャグアルの陣営と語らっていた高橋選手がこちらに近づいてきた。それに同行しているのは、道場のコーチと来栖舞と魅々香選手だ。
「押忍。高橋選手は、いよいよ大一番っすね」
「うん。でもまあジジに関しては、御堂さんの時代から戦略を練ってたしね。あたしも御堂さんに続いてみせるさ」
そのように語る高橋選手は、穏やかな面持ちだ。
以前はこの段階から気を張っていたのに、やはり減量と同時に沈着な心持ちを体得できたようである。
「外国人選手とやりあうのは、オルガ以来だしね。悪いけど、小笠原さんまで出番は回さないんで、そのつもりでね」
「いやいや。どんな結果になっても、アタシもいっぺんぐらいはジジとやりあってみたいところだよ。貴重な海外の強豪選手なんだしさ」
小笠原選手もまた、泰然としたたたずまいである。
やはりどちらも、オルガ選手と対戦したことが大きな自信となっているのだろう。実績の上ではジジ選手のほうがまさっているのであろうが、オルガ選手というのはそれだけ恐るべき相手であったのだ。
(きっとオルガ選手も、あちこちで頑張ってるんだろうな。ユーリさんと宇留間選手の試合を観て、どんな気持ちになったのかはわからないけど……できることなら、今日の試合も観てほしいな)
オルガ選手はいつか《アクセル・ファイト》でユーリや小笠原選手にリベンジしたいと言い残し、故郷たるロシアに帰っていったのである。
それが実現するかどうかは、三人全員の努力にかかっているはずであった。
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