07 夏の終わり

 ステージを終えた後は、もはやお馴染みとなった打ち上げである。

 この八月だけで三度目の打ち上げであり、瓜子の見知った相手はずいぶん顔ぶれが重なっていたものの、それで喜びの思いが損なわれることはありえなかった。


 会場は昨年と同じく、クイーンズホテルのレストランである。メインの宴会場で『ジャパンロックフェスティバル』の正式な打ち上げが行われている裏で、『トライ・アングル』の関係者がささやかな打ち上げを開いている格好だ。しかしそれでも参加者は五十人以上にも及んだため、盛り上がりのほうにも不足はなかった。


「お世辞ぬきで、今回も凄いステージだったなぁ。なんかもう、こっちが自信をなくしちゃうぐらいだよぉ」


 瓜子のかたわらでそのように声をあげたのは、『モンキーワンダー』のドラマーたる原口千夏である。今回は特別に、そちらの面々も招かれることになったのだ。


 打ち上げは立食パーティーの形式であり、彼女は最初から瓜子のかたわらに居座っていた。そうして乾杯の挨拶が終わるなり、そんな感慨をこぼしたのだった。


「ユーリさんなんて、スタジオ練習はせいぜい週イチだったんでしょ? それであんなステージをこなせるなんて、もはやバケモノだよねぇ」


「はあ……ユーリのように努力の足りていない人間がステージで大きな顔をしてしまって、恐縮の限りですぅ」


 旺盛な食欲を満たしていたユーリが眉を下げながら答えると、原口千夏はのほほんとした笑顔で「違う違う」と手を振った。


「嫌味を言ってるんじゃなくって、ほんとに感心してるんだよぉ。一年近くも音楽から離れてて、復帰早々にあんなライブができるだなんて、普通じゃ考えられないことだからさぁ」


「うんうん! ユーリさんは、やっぱり持ってるモノが違うんだよ!」


 ユーリの力量に感服していると公言してはばからない定岡美代子が、昂揚した面持ちでそのように口をはさんだ。


「だからユーリさんも、そんな小さくなることはありません! 格闘技だって、重要なのは練習時間の長さじゃなくて、試合の結果でしょう? バンドっていうのは良いライブができたら、それが正義なんです!」


「あうう……でもでも短い練習時間で良い結果を求めるというのは、あまりに浅ましき振る舞いでありましょうし……」


「いやいや。ユーリちゃんの場合、重要なのは気持ちのほうなんだからな。あんまり練習を詰め込んでも気合が減退するだけだろうから、今ぐらいのペースに落ち着いたわけだよ」


 と、遠からぬ位置にいたリュウも笑顔でフォローをしてくれた。


「もっと練習が必要だって判断されてたら、千駄ヶ谷さんがそういうスケジュールを組んでただろうさ。ユーリちゃんはベストの練習量でベストの結果を出したんだから、どうか胸を張ってくれよ」


「はあ……そうなら、幸いなのですが……」


 ユーリはもじもじしながら、口もとをほころばせた。メンバーのリュウにフォローしてもらえるのは、やっぱり心強いことであるのだろう。瓜子自身、リュウの言葉には強い説得力を感じていた。


 ともあれ――ライブは、大成功に終わったのだ。今はユーリも、その喜びをめいっぱい噛みしめる資格があるはずであった。

 打ち上げの会場も、最初からとてつもない熱気をかもしだしている。きっとステージの熱気が、そのままこちらに持ち込まれたのだ。今日のステージをともに作りあげたスタッフたちも、それを客席から見届けた女子選手の一行も、誰もが充足しきった面持ちでこの時間を楽しんでいたのだった。


(本当に……今日のライブは、凄かったからな)


 瓜子もまた、心の深い部分で喜びの思いを噛みしめている。

 台風で中止の憂き目を見た昨年の無念も、これで完全に晴らされたことだろう。ユーリを筆頭とするメンバーたちの満ち足りた笑顔が、何より瓜子を幸福な心地にしてくれるのだった。


「みよっぺは、またピンク頭にカラんでたんだわよ? まったくご執心だわね」


 と、どこからともなく鞠山選手がにゅっと顔を出してきた。


「あっちでは、トキ坊がお色気ウサ公にカラんでただわよ。こっちのアイドルコンビは高根の花だと思い知って、ターゲットを変更した感が否めないだわね」


「えーっ! マジですか! もー、しょーもないやつだなー! ほらほらぐっちー、わたしたちがフォローしないと!」


「えー? あたしはもっとうり坊ちゃんにカラんでたいなぁ」


 ごねる原口千夏の腕を抱え込んで、定岡美代子は立ち去っていった。

 その姿を見送ってから、リュウは鞠山選手に向きなおる。


「えーと、確かにトキってのは助平まるだしだけど、一線だけは越えないって評価じゃなかったっけ?」


「ああいうのを放置しておくと、周囲に悪影響なんだわよ。トキ坊より倫理観の欠けた男性スタッフが調子に乗らないように、ブレーキを掛ける必要があるんだわよ」


「ああ、なるほど。花ちゃんさんは、ほんとに気配りの鬼なんだな」


 ついにリュウも、その呼称が定着したようである。瓜子がそれを微笑ましく思っていると、眠たげなカエルを思わせる目がこちらに向けられてきた。


「それに、トキ坊より危険なのは、ぐっちーだわね。わたいは半分がた『モンキーワンダー』の身内という立場だわから、うり坊の貞操を守る義務が発生するんだわよ」


「ええ? さすがにそれは、気にしすぎですってば。もしぐっちーさんが本気でアプローチしてきても、自分はきちんとお断りするだけですし……」


「でも、今日のあんたはスキだらけに見えるんだわよ。ぐっちーが勘違いしないように、予防線を張る必要があるんだわよ」


 瓜子がきょとんとすると、リュウが「ああ」と笑った。


「スキだらけっていうか、瓜子ちゃんは幸せオーラが全開だもんな。これなら確かに、いつも以上に人をひきつけちまうか」


「まったくだわよ。あまりぐっちーの煩悩を刺激しないでもらいたいもんだわよ」


 それでも瓜子が納得できずにいると、リュウが優しい笑顔で言葉を重ねた。


「きっと瓜子ちゃんは、ライブの成功を喜んでくれてるんだろうな。そのおかげで、可愛らしさが倍増しちまってるんだよ。俺らみたいにしょっちゅう顔をあわせてなかったら、その魅力にクラクラきちまっても不思議はないさ」


「な、なんすか、それ。あんまりおかしなことばかり言わないででほしいっす」


 瓜子が顔を赤らめながらユーリのほうを振り返ると、そちらにはそれこそとろけるような笑顔が待ちかまえていた。


「ユーリもずっと、うり坊ちゃんの幸せオーラにくるまれているような心地であるのです」


「ユ、ユーリさんまで何を言ってるんすか。それを言ったら――」


 瓜子のほうこそ、ユーリの幸福な気持ちに感応しているようなものなのである。

 瓜子がそのように考えていると、鞠山選手は肉づきのいい肩をすくめた。


「幸せオーラの相乗効果だわね。まったく、お熱いことだわよ。それに惑わされる周囲の人間は、たまったもんじゃないだわね」


「まったくだ。でも普通だったら、こんな二人の間には割り込めないって察しそうなもんだけどな」


「ある種の人間は、そういう空気に狩猟本能をかきたてられるもんなんだわよ。ぐっちーは根がハンター気質だから、用心が必要なんだわよ」


 そんなやりとりを聞かされては、瓜子も居たたまれない限りである。

 するとそこに、新たな一団がやってきた。西岡桔平に山寺博人、小笠原選手に小柴選手という、なかなか風変わりなカルテットだ。瓜子はその場の空気が変わることを期待して、そちらに笑いかけみせた。


「みなさん、お疲れ様です。ジンさんだけ、別行動ですか?」


「はい。あいつは速攻で酒が回ってきたんで、置いてきました。ああなったら、もう世話を焼く甲斐もありませんからね」


 西岡桔平の視線を辿ると、陣内征生は身内のスタッフを相手にはしゃいでいた。普段は誰よりも内向的な人物であるが、一定量のアルコールで豹変するのである。


「今日は最高のステージだったんで、あいつも浮かれてるんでしょう。もちろん俺も、大満足です。来月のワンマンも、頑張りましょうね」


「はいぃ。お世話をかけるばかりですが、どうぞよろしくお願いいたしますぅ」


 ユーリは平身低頭という言葉そのままに、純白の頭をぺこぺこと下げる。

 すると、小柴選手がしょんぼりしながら発言した。


「でも、わたしたちは誰もチケットを取れなかったんですよね。九月はキャパ千人の会場だったから、しかたないのかもしれませんけれど……」


「ええ。何せ企画を立てたのが七月半ばだったんで、目ぼしい会場はもう埋まっちゃってたんですよね」


「あうう……ではではやっぱり、ユーリのせいでありますねぇ……」


「いやいや。企画を立てたのは運営陣ですから、ユーリさんが気にする必要はありませんよ」


 そんな風に言ってから、西岡桔平は短い髭に覆われた下顎を撫でさすった。


「でも、格闘技関係のみなさんが来場できないのは残念ですね。それだったら……いっそ、招待枠にねじこんじゃいましょうか」


「ええ? そ、それはあまりに、申し訳ないです! みなさんだって、アトミックの興行は自腹で来てくださっているのですから……」


「そもそもアトミックには、選手の招待枠ってものが存在しないでしょう? 次回のワンマンにはモンキーのメンバーとかだって招待するんですから、遠慮することはありませんよ」


 と、西岡桔平は慈愛にあふれかえった笑みをたたえた。


「ただやっぱり、友人関係で招待できるのは十人ぐらいがめいっぱいなんですよね。それなら、今回このフェスに来てくださった方々限定という形でどうでしょう? 灰原さんとかは、もうチケットを買っちゃいましたかね?」


「い、いえ。こちらはみんな、落選してしまいましたけれど……」


「それなら人数的にも、ちょうどいいですね。去年も今年もこんな大人数で新潟まで遠征してくれたんですから、俺たちもみなさんには感謝しているんですよ。なあ、ヒロ?」


「……だから、俺に振るなよ」


 と、山寺博人はそっぽを向いてしまう。

 そして、あわあわとする小柴選手に代わって、鞠山選手がずいっと進み出た。


「寛大なはからい、感謝するだわよ。もし運営陣からもオッケーをいただけたら、あらためてお話をさせていただきたく思うだわよ」


「ああ、そうですね。それじゃあ話がまとまったら、あらためてご連絡します。今は、打ち上げを楽しみましょう」


 ということで、あらためて乾杯の挨拶が交わされた。

 瓜子とユーリはソフトドリンクであるが、楽しい気持ちに変わりはない。それに、西岡桔平の粋なはからいや、『トライ・アングル』のライブ観戦を熱望する小柴選手の心意気も、瓜子の幸せな気分に拍車を掛けてくれた。


「そういえば、さっきうちのマネージャーから聞いたんですけどね。会場で出していた『トライ・アングル』のグッズはのきなみ品切れになって、通販サイトのほうは予約が殺到しているそうですよ」


「ええ? 本当っすか? それは嬉しい報告っすね」


「はい。話によると、俺たちのステージが終わった直後に物販ブースが大混雑になったそうです。それが本当なら、光栄な限りですね」


 瓜子はますます、幸福な心地であった。

 すると、真っ赤なカクテルを優雅にすすっていた鞠山選手が、「ふふん」と鼻を鳴らす。


「そういえば、アトミックの物販でもうり坊グッズが売り切れ続出だそうだわね。きっと来月には、これまで以上の数が準備されるだわよ」


「う、うるさいっすよ。せっかくの楽しい気分に、水を差さないでください」


「同じ現象が起きてるのに、どうしてそっちだけネガティブ案件になるんだわよ? グッズの売り上げはイベントの生命線なんだわから、おめでたさに変わりはないだわよ」


 瓜子ががっくり肩を落とすと、小笠原選手が「あはは」と笑った。


「次回からは、桃園のグッズも売りに出されるんでしょ? 二人そろって、記録更新しそうだね」


「ええ。猪狩さんにとっては、そっちが本番ですもんね。俺たちもひさびさに観戦できるんで、楽しみにしています」


 西岡桔平は温かく笑いながら、ユーリのほうに向きなおった。


「もちろんユーリさんにとっても、本業は格闘技ですからね。今日のステージに負けないぐらい、最高の結果を目指してください」


「はぁい。ありがとうございますぅ」


 ユーリは、輝くような笑みをこぼした。

 音楽活動に関してもモデル活動に関しても確かな結果を残して、ついに来月は復帰試合であるのだ。千駄ヶ谷が打ち立てたユーリ復活計画の、ここが最初の山場であった。


 しかしもちろん外部の思惑など関係なく、ユーリは奮起しまくっている。どれだけ音楽活動が充実していても、ユーリの本分は格闘技であるのだ。そっちで結果を出せなければ、何も手放しでは喜べないのだった。


 しかしまた、それで今日の達成感が阻害されるいわれはない。来月の試合に大きな期待をかけながら、今日の大きな仕事をやりとげたユーリは、心から満ち足りた面持ちであった。


「今日も、夢見心地っすか?」


 会話の隙間を狙って瓜子がそのように囁きかけると、ユーリは透明な微笑をこぼしつつ「うん」とうなずいた。


「今日のリベンジも、何度も何度も夢見ていたからねぇ。夢に見ていたことが次から次へと現実になっちゃって……なんだかちょっぴり怖いぐらいだよぉ」


「前にも言いましたけど、ユーリさんはそのために頑張ってきたんですからね。何も怖がったりする必要はないから、今の喜びをめいっぱい噛みしめてください」


「うん……でも、これで復帰試合まで実現しちゃったら、さすがにおなかがぺこぺこになっちゃうかなぁ」


「そのときは、自分がプロテインを流し込んであげますからね」


 瓜子がおどけた口調で言うと、ユーリはいっそう幸福そうに微笑んでくれる。

 そうして瓜子が、ふっと周囲を見回すと――その場の人々が、のきなみこちらを注視していた。


「だから、その熱々オーラが目の毒なんだわよ。ホテルの部屋に戻るまで、煩悩を抑制できないんだわよ?」


「ぼ、煩悩って何すか。ちょっと内緒話をするぐらい、いいじゃないっすか」


「ふん。こんな騒ぎの中でこそこそしてるから、勘ぐられるんだろ」


「ヒ、ヒロさんまでおかしなこと言わないでくださいよ!」


 瓜子が思わず取り乱すと、おおよその人々が楽しげに笑った。

 そしてユーリも、一緒になって笑っている。瓜子は気恥ずかしさと幸福感がごっちゃになって、いっそう心をかき乱されてしまった。


 そうして本日の祝宴も、賑々しく過ぎ去っていき――それとともに、瓜子たちの夏も終わりを迎えることになったのだった。

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