06 リベンジ
そうしてついにやってきた、午後の七時――待機スペースでくつろぐ『トライ・アングル』のメンバーのもとに、会場のスタッフがせわしない足取りで近づいてきた。
「お疲れ様です。セッティングも完了していますので、オンタイムでお願いします」
メンバーたちは立ち上がり、のんびりとした足取りでステージの裏手に向かった。
ステージの裏手にはステップが設置されており、そこを登れば舞台袖である。そしてこちらの舞台袖は客席からも見える造りになっていたため、瓜子にとってはここがひとまずのお別れの場所であった。
「みなさん、頑張ってください。去年以上のステージを期待しています」
「お、ハードルを上げてくれるねぇ。ま、瓜子ちゃんにそこまで言われたら、気合を入れないとな」
「気合なんざ、とっくにあふれかえってるよ!」
「おうよ! 瓜子ちゃんが横で見守ってくれるだけで、百人力だからな!」
『ベイビー・アピール』の三名がそのように声をあげると、最後のひとりたる漆原がゆったりと右腕を上げた。
「じゃ、今年の夏の締めくくりとして、かっとばしていこうぜぇ」
そちらには、「おー」という気の抜けた声が返される。そしてユーリはひとりで「はーい!」と両腕を振り上げた。
まずは『ワンド・ペイジ』の面々がステップを上がっていき、『ベイビー・アピール』の面々がそれに続く。そうして先頭の西岡桔平がステージに出たと思しきタイミングで、盛大な歓声が上げられた。
ユーリは演奏陣のセッティングを待つために、まだ居残っている。
そして、もじもじしながら瓜子のほうを振り返ってきた。
「あにょう、普段であればグータッチやハイタッチをいただいている場面でございますけれども……今は千さんしかおられませんし、もうちょびっとだけ濃厚なコミュニケーションを頂戴してもよろしくありましょうか?」
「それでユーリさんの気合が入るんなら、なんでもござれっすよ」
瓜子が笑顔を届けると、ユーリは花が開くように微笑を広げて、瓜子の身を抱きすくめてきた。
温かくてやわらかくて力強い抱擁が、瓜子の身をぎゅうぎゅうと圧迫してくる。それが五秒を突破したところで、瓜子はユーリの背中をタップした。
「あの、そろそろ充電は完了したんじゃないっすか?」
「いやーん。まだまだ足りていないのですぅ」
甘えた声で言いながら、ユーリはさらなる怪力で瓜子の身をしめあげてきた。
「あー、できればこのままうり坊ちゃんを小脇に抱えてステージに出ていきたいにゃあ。ステージの小道具として、なんとか認可をいただけないものかしらん」
「ステージで一緒に涙を流してたら、笑われちゃいますよ。横で見守ってますから、頑張ってきてください」
「うん」と素直に応じつつ、ユーリは最後に瓜子の頭に頬ずりをして、身を離した。
そのタイミングで、ステージのほうからさまざまな楽器の音色が鳴らされてくる。
「ユーリ選手、スタンバイを」
千駄ヶ谷の冷徹なる指令に「はぁい」と応じながら、ユーリは瓜子のほうに右の拳を差し出してきた。
さきほどの抱擁は何だったのだと苦笑しつつ、瓜子はグータッチに応じてみせる。ユーリは天使のごとき微笑をこぼしながら身をひるがえし、ステップを駆けのぼっていった。
客席から、新たな歓声が爆発する。
瓜子と千駄ヶ谷もステップに足をかけると、ユーリの元気な声が響きわたった。
『みなさん、こんばんはぁ。「トライ・アングル」、いざ出陣でぇす』
リュウのギターが、荒々しいイントロをかき鳴らす。
そこに山寺博人のエレアコギターのバッキングと陣内征生の優美なアップライトベースの旋律が重ねられたところで、瓜子は舞台袖に到着した。
他なる楽器が同時に演奏を開始するタイミングで、ユーリは右腕を振り上げる。
ライブハウスに比べると照明の演出もささやかであったが、その迫力に瓜子は思わず息を呑んでしまった。
『一曲目は、新曲の「Re:Boot」でぇす』
西岡桔平の疾走感あふれるドラムに、タツヤの重々しいベースとダイの荒々しいパーカッションが重ねられている。
そして、エレキギターをかき鳴らしているのはリュウひとりであり――漆原はステージのもっとも奥まった場所で、電子ピアノの鍵盤を乱打していた。
『Re:Boot』は、山寺博人が作詞と作曲を手掛けた新曲である。
しかし、いずれ発表される『YU』に備えて、漆原のピアノプレイも早々に披露されることになったのだ。
現在の『トライ・アングル』には、『YU』を含めて四曲の新曲が存在する。『Re:Boot』がその第一弾として選ばれたのは、こちらの楽曲がもっともアップテンポであり――そして、ユーリの復活を描く歌詞であったためであった。
なおかつこれは、山寺博人がユーリをお見舞いした際に、天啓のように授かった楽曲でもある。ユーリの変わり果てた姿にインスピレーションを刺激された山寺博人が、山科医院の病室で歌メロを録音した楽曲であるのだ。
もともと『トライ・アングル』は、アップテンポの楽曲を手掛ける予定であったという。『トライ・アングル』の持ち曲でもっともアップテンポであったのはカバー曲である『境界線』であったため、それを上回る楽曲を作りあげたいという声があげられていたのだ。
しかし、そんな思惑とは関係なく、山寺博人はこの『Re:Boot』を作りあげたらしい。六キロばかりもウェイトが増して、これまで以上の生命力をみなぎらせていたユーリの姿が、問答無用で山寺博人の何かを駆り立てたのだ。
もともとユーリの持ち曲には、『リ☆ボーン』という楽曲も存在した。あれはベリーニャ選手との対戦で長期欠場を余儀なくされたユーリが復帰する際に、『復活』をテーマに準備された楽曲であったのだ。
あれもまた、ユーリの復活には相応しい内容であったに違いない。
しかしこの『Re:Boot』は、『リ☆ボーン』よりもさらに克明に、沈滞する苦しみとそこから抜け出す喜びを綴った歌であった。
(去年のアトミックの興行も、シリーズタイトルは『Re:Boot』だったんだよな)
あれは、《カノン A.G》にかき回されてしまった《アトミック・ガールズ》を蘇らせたいという決意のもとに定められたシリーズタイトルであったのだ。
もちろん山寺博人は、それとは関係なくこちらの歌詞を手掛けたのだろう。瓜子にとってはあまり馴染みのある言葉ではなかったが、再起動を意味するリブートという言葉はそれなりに一般的であったようなのだ。
ともあれ――この『Re:Boot』が素晴らしい楽曲であるというのは、揺るぎない事実であった。
もともと勢いのある曲を得意にするのは『ベイビー・アピール』のほうであったが、『ワンド・ペイジ』には独自の疾走感と切迫感が存在する。そんな『ワンド・ペイジ』を想起させてやまない楽曲に、『ベイビー・アピール』の力でまた異なるパワーと勢いが付加されるのだ。それが素晴らしい相乗効果を生み出すことは、すでに『burst open』や『カルデラ』で立証されていた。
リズムの土台は、西岡桔平のドラムとタツヤのベースが支えている。それを補強するのは、山寺博人のエレアコギターとダイのパーカッションだ。この時点で、『ワンド・ペイジ』と『ベイビー・アピール』のサウンドは強くがっしりと融合されていた。
そしてこのたびは、リュウのギターと陣内征生のアップライトベースの他に、漆原のピアノまで加えられている。漆原の奏でる電子ピアノは生ピアノそのままの音色であったが、それがこれほどまでにロックサウンドと調和することを、瓜子はこちらの演奏で初めて思い知らされたのだった。
幼少時代からピアノを習わされていたという漆原は、ギターに負けないぐらいピアノの腕が達者である。そして、『YU』では切々とした音色を奏でていた漆原のピアノが、今は激情を爆発させていた。
漆原は立った状態で、鍵盤に指先を叩きつけている。まさしく乱打と称するに相応しい熱演である。ベースに負けない重低音からヒステリックな高音域まで網羅するそのプレイは、陣内征生のベースプレイを彷彿とさせてやまなかった。
持ち曲で一番のアップテンポであるため、演奏の勢いは凄まじいことになっている。
そしてそこに、ユーリが振り絞るような歌をのせているのだ。
それで歌詞の内容は、動けぬ苦しみとそこから復活する喜びであるのだから――瓜子はレコーディングやスタジオ練習の段階から、涙を禁じ得なかった。
すっかり暗くなった空の下、スポットに照らされるユーリは、まるで自ら発光しているかのようである。
髪や肌が真っ白であるためか、赤いスポットであれば真っ赤に染まり、青いスポットであれば真っ青に染まる。ユーリは本当に生身の存在であるのか疑わしくなるほどに、燦然と光り輝いていた。
しかしまた、ユーリの存在は幻想的であるのと同じぐらい、生々しい存在感に満ちている。
その純白の肉体からはとめどもなく生命力があふれかえり、その歌声は暴風雨さながらであった。
ユーリは大きくステップを踏み、時にはターンを切りながら、声も高らかに復活の歌を歌いあげている。
今のユーリにこれほど相応しい曲は、他に存在しないことだろう。あらためて、ユーリの魅力をこれ以上もなく引き出せる『トライ・アングル』の力量には感服するばかりであった。
(それにやっぱり、ヒロさんだよな)
山寺博人は、きわめて鋭敏な感受性を隠し持っている。だから入院中のユーリをひと目見ただけで、このような曲を作りあげることができるのだ。
山寺博人は、ユーリのことを深く理解してくれている。
そんな風に思うと、瓜子はいっそう涙腺を刺激されてならなかった。
客席の人々も、『トライ・アングル』のステージに熱狂している。
瓜子が遅ればせながらそちらに目を向けると、五千人を収容できる客席がほとんど人で埋まってしまっていた。
それだけの人々が、『トライ・アングル』の復活に期待をかけていたのだ。
瓜子の胸はどんどん熱くなっていき、それがまた大量の涙を誘発した。
『ありがとうございまぁす。新曲の「Re:Boot」でしたぁ』
あっという間に『Re:Boot』が終わりを迎えると、ユーリが熱狂の余韻を感じさせない声を発する。
そしてそこにアップライトベースを乱打する音色が重ねられて、人々にまた大歓声をあげさせた。
二曲目は、『ワンド・ペイジ』のカバー曲である『カルデラ』だ。
テンポそのものは『Re:Boot』のほうがまさっているものの、こちらはシャッフルのリズムならではの疾走感が存在する。それで一曲目の勢いを加速化させるために、『カルデラ』がこの場所にあてがわれたのだった。
そしてこちらの楽曲でも、漆原はピアノを受け持っている。
もとより三本のギターを重ねるというのは、なかなかアレンジが難しいようであったのだ。それでも『トライ・アングル』の面々は十分以上のアレンジを見せてくれていたが、漆原がピアノに転向するとまた新たな魅力が加えられるのだった。
こちらでは山寺博人とのツインヴォーカルとなるため、切迫感も倍増である。
『Re:Boot』で発火した客席は、そのままの勢いで燃え続けることになった。
『ありがとうございまぁす。二曲続けて、ノリノリの曲を聴いていただきましたぁ』
曲の合間に差し込まれるユーリのMCは、やはりすっとぼけている。
後半に向かうにつれてユーリもどんどん熱くなっていくようであるのだが、序盤は楽曲とのギャップがはなはだしいことこの上なかった。
『あらためまして、ご来場ありがとうございまぁす。たくさんあるステージの中で「トライ・アングル」を選んでいただき、感謝の気持ちでいっぱいでぇす。ユーリたちも頑張りますので、めいっぱい楽しんでいってくださいねぇ』
ユーリがどれだけとぼけた声をあげても、客席の人々は大歓声で応えてくれる。
にこにこと無邪気に笑いながら、ユーリはとても嬉しそうだった。
『ではでは、時間に限りがありますので、次の曲を始めまぁす。こちらは、ねっとりお楽しみくださぁい』
そうしてユーリが身を引くと、陣内征生は弓を使って妖しい旋律を奏でた。
この出だしのアレンジをわきまえている人々は、期待に満ちた歓声をあげる。そこに、ポジションをチェンジさせた西岡桔平がパーカッションを鳴らし、リュウが重々しいハウリングの音色を重ねた。
さらに、不協和音めいたピアノの音も、ちろちろと鳴らされる。
この曲でも、漆原はピアノを披露することになったのだ。これでまた、オリジナル版とは異なる魅力が加えられるはずであった。
ユーリはたっぷり間を取ってから、歌詞のないスキャットをねっとりと口ずさむ。
さきほどまでの無邪気な姿が嘘のような、妖艶なる雰囲気だ。それでいっそうの声援がわきたった。
照明は赤で統一され、ダイとタツヤが重く粘ついたリズムを打ち出す。
それと同時に、ユーリは悲鳴のようなシャウトを響かせた。
ミドルテンポのダークな楽曲、『アルファロメオ』である。
うつむいていた顔を上げたユーリは、すでに魔性の女になっている。
首から下はTシャツとダメージデニムのショートパンツで、こちらの楽曲にはまった相応しくないはずであったが――そんな違和感は、ユーリのかもしだす妖艶なる色香でどっぷりと塗り潰されていた。
瓜子の背筋は、ぞくぞくと粟立っていく。
まるでユーリが見知らぬ何かに変貌してしまったかのようで、瓜子はいつも寒気に見舞われてしまうのだ。
しかしそこには、毒薬のような魅力も存在した。
妖しいユーリも、存分に美しい。もしもこれがユーリの本性であったなら、瓜子もどのように接していいのかわからなくなってしまうところであったが――それでもなお、妖艶なるユーリは蠱惑的な魅力にあふれかえっていた。
(もしもこれが演技じゃなくって、ユーリさんの本性の一面だったとしても……あたしは、受け止めてみせますよ)
そんな思いをかきたてられるぐらい、ユーリは別人のようだった。
客席の人々も、すっかりこの妖しい空気に魂をつかまれているようである。ユーリの歌声と他のメンバーの演奏には、それだけの力が備わっていたのだった。
そうして『アルファロメオ』が終了すると、夢から覚めたように盛大な拍手と歓声が爆発する。
ユーリはまた深くうつむいて、何も応えようとしない。その沈黙をいぶかしがるように、拍手と歓声がひいていくと――すみやかにポジションチェンジを果たした西岡桔平のカウントで、『砂の雨』が開始された。
こちらもミドルテンポで暗めの楽曲であるが、『アルファロメオ』とはまったく雰囲気が異なっている。ステージには、妖艶な空気を一掃するように明るいスポットが照らされていた。
そうして歌に入る頃には、ユーリも本来の姿を取り戻している。
ユーリは澄みわたった面持ちで、愛する人を失った悲哀とそれを取り戻す幸福を切々と歌いあげた。
瓜子は涙をこらえられないし、客席にもそういう人間は山ほどいたことだろう。『アルファロメオ』でかき乱された心に、さらなる揺さぶりをかけられたような心地であった。
そしてMCもはさまないまま、次には『ピース』も披露される。
こちらは『砂の雨』で揺らされた心に同質の揺さぶりをかけられるようなものだ。ひとたびのステージでなんべんも涙を流してしまう瓜子にしてみても、やはりもっとも情動を揺さぶられるのはこの二曲の流れであった。
もちろん歌っているユーリ自身も、存分に涙をこぼしている。
メイクをしていない真っ白な頬に、透明な涙がこぼされていく。そんなユーリの姿に、瓜子はいっそうハンカチを濡らしてしまうわけであった。
『立て続けに、三曲聴いていただきましたぁ。みなさん、楽しんでおられますかぁ?』
ユーリが涙をふきながら問いかけると、また歓声が爆発した。
ユーリは『ふいー』と天を仰いでから、にわかに妖精めいた微笑をこぼす。
『去年はこれぐらいの時間で、ライブが中止になってしまったのですよねぇ。ユーリはその後、しばらくお歌の仕事を休む予定だったので……とても悲しかったです』
歓声が、これまでとは異なる雰囲気でうねりをあげる。
ステージの背面の巨大モニターには、ユーリの透明な笑顔が大写しにされているのだ。そのインパクトは、歌声にも匹敵するはずであった。
『今日は最後までやりとげられそうなので、とても幸せな気持ちです。残り半分、おつきあいくださいねぇ』
ユーリはにこりと、無邪気に微笑む。
その笑顔も、去年を上回る破壊力であるはずであった。
『ではでは。大暴れするのはのちのちのお楽しみとして、まずはぷかぷか楽しい「ジェリーフィッシュ」でぇす』
その後も気象予報に裏切られることなく、ステージは順当に進められていった。
『ジェリーフィッシュ』の後は『ハダカノメガミ』と『境界線』でたたみかけ、『ケイオス』で混沌とした空気を生み出したのち、締めくくりは『burst open』だ。
『burst open』のイントロで、ユーリは再びTシャツを脱ぎ捨てることになった。
『サマースピンフェスティバル』のときと同様に、昂る気持ちを抑えることができなかったのだろう。
去年の今日という日には、千切れたドレスシャツが暴風にさらわれることになった。
本年は、丸められたTシャツが優雅な放物線を描いて、客席の誰かの頭上に舞い落ちる。そしてビキニの姿になったユーリは、これ以上もない喜びの思いを満身からほとばしらせながら、すべての歌を歌いきってみせたのだった。
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