04 清涼な朝
翌朝――瓜子が目を覚ましたのは、午前の八時十五分であった。
特に早起きをする理由はなかったので、目覚ましアラームは八時三十分に設定していたのだが、それよりも早く目が覚めたのだ。ひさびさの長旅で多少の疲れが残されていようとも、やはり長年の生活で培われた体内時計はそうそう狂いを生じないようであった。
そうして瓜子が寝返りを打ってみると、隣のベッドではユーリが安らかな寝顔を見せている。
ベッドとベッドの間には数十センチのスペースがあったので、さすがにそれを跳び越えることはできなかったようだ。ただ、ベッドの脇にこぼれ落ちた右腕が、瓜子の温もりを求めた形跡のように思えてしまい――瓜子は起きぬけから、温かな心地であった。
が、足もとのソファセットに目をやると、和んだ気持ちが一気に引き締められてしまう。そこではすでに千駄ヶ谷が座しており、モーニングコーヒーを楽しみながらタブレットを操作していたのだ。瓜子の起床に気づいた千駄ヶ谷がユーリの眠りをさまたげぬようにと口もとに指を立てる姿まで含めて、昨年にも見た光景であった。
経費節約のため、瓜子とユーリは千駄ヶ谷と同じ部屋で眠ることになったのだ。そして、ユーリのメンタルを重んじる千駄ヶ谷がソファベッドに陣取るのも、昨年の通りとなる。
(ジャパンフェスってのはなかなか印象的なイベントだから、つい何でもかんでも昨年と比較しちゃうけど……昨年と同じ部分もそうじゃない部分も、おんなじぐらい楽しいよな)
そんな思いを噛みしめながら、瓜子はベッドの上に身を起こした。
すると、隣のベッドでもユーリが「むにゃあ」と寝ぼけた声をあげて、ベッドの脇に垂れていた右腕をあてどもなくさまよわせる。瓜子は千駄ヶ谷の目を気にしつつ、ついその手の先をキャッチしてしまった。
「おはようございます。ユーリさんも、もうお目覚めですか?」
「あ、うり坊ちゃんだぁ……にゅふふ……うり坊ちゃん、だいしゅき……」
ユーリはうっとりと微笑みながら、瓜子の手を握り返してくる。
昨年は、千駄ヶ谷の耳を気にして、ユーリをたしなめていただろうか。あまり記憶は定かではなかったが、とりあえず本年はユーリをたしなめる気分にはならなかった。
◇
それから十五分ほどしてホテルのロビーにおりてみると、女子選手の大半がすでにくつろいでいた。
やはりファイターには、朝寝を楽しむ人間も少ないのだろう。そして、瓜子の記憶ではもっとも朝寝坊の多い灰原選手も、「おっはよー!」と元気な挨拶の声を飛ばしてきた。
「タツヤくんたちはメッセージが返ってこないから、まだ寝てるんだろうねー! ま、あっちはあたしらと違って、でっかい仕事をやりとげてるわけだし! 朝寝を楽しむ権利はあるよねー!」
「あんたが元気なのは、稽古をしてないからなのかね。合宿稽古では、いっつも寝坊してたのにさ」
多賀崎選手が相槌を打つと、灰原選手は「かもねー!」と陽気に応じた。
「とりあえず、おながかが空いちゃったなー! あとはイネ公たちだけなんだけど、どうしよっか?」
「お、噂をすれば、何とやらだね」
多賀崎選手の視線を追うと、たったいま瓜子たちも出てきたエレベーターから愛音とオリビア選手が姿を現した。
「おっはよー! あれあれ? メイっちょはまだ寝てるのー?」
「いえ。愛音たちが起きた頃には、もういなかったのです。こちらではなかったのです?」
そうして一行が小首を傾げていると、小笠原選手が「おや」と笑った。エレベーターではなくホテルの玄関から、メイが姿を現したのだ。
メイは稽古で使用する黒いTシャツとハーフパンツに身を包んでおり、首からはスポーツタオルをさげている。そして上気したその姿を見れば、何をしていたかは明らかである。灰原選手は「ひょえー」と呆れ返った声をあげた。
「まさか、メイっちょは走ってきたのー? 旅行中ぐらい、ゆっくりすればいいのにー!」
「うん。でも、力、余ってたから」
メイは毎朝、エアロバイクを漕ぐのが日課であるのだ。それにこの中では、もっとも長い時間をトレーニングに注ぎ込んでいるはずであった。
そんなメイがシャワーと着替えをするのを待って、一行は食堂に移動する。朝食は、昨年と同じくホテルのバイキングで済ませることにした。
そしてその後も、昨年と同じくエア・ブリーズというエリアに出向いてみようという提案が出されたが――そうすると、メイがもじもじしながら辞退を申し出た。
「僕、高いところ、苦手なこと、わかったから……今回は、辞退したい」
エア・ブリーズというエリアに向かうには、標高差四百三十メートルのゴンドラに乗る必要があるのだ。というよりも、むしろゴンドラからの景色を楽しむために、そちらのエリアを目指すようなものであった。
しかしメイは昨年その道中で、ずっと瓜子にしがみつくことになったのだ。それでメイの恐怖がまぎれるのであれば瓜子もいくらでも身を捧げる所存だが、本人はそうまでしてゴンドラに乗りたいとは思っていないようであった。
「だったらワタシも、メイと一緒にいますねー。戻ってきたら、合流しましょー」
オリビア選手がそのように言いたてると、メイはいくぶん気恥ずかしそうにそちらをにらみつけた。
「僕、子供じゃないから、付き添いは無用。オリビアも、一緒に行けばいい」
「ワタシはゴンドラより、メイとおしゃべりしたいだけですよー。ワタシの勝手なので、気にしないでくださーい」
大きなくくりでは同郷となるオリビア選手は、瓜子たちと親睦を深める前からメイのことを気にかけていたのだ。当時のメイはそんなオリビア選手に対してもいっさい甘い顔を見せていなかったが、今はきかん気な妹を思わせる微笑ましさであった。
そんな一幕を経て、メイとオリビア選手を除く一行はゴンドラに乗り込む。
そちらに広がる雄大なる光景は、やはり昨年のままであった。
都心では決して目にすることのできない、大自然の威容である。見渡す限りが緑に覆われた山々で、青い空と朝もやがいっそうの雄大さを演出している。ユーリは子供のように瞳を輝かせていたし、それは瓜子も同様なのであろうと思われた。
ゴンドラの先に待ち受けるのは、広々とした高原だ。
長袖の上着を羽織っていても、いくぶん肌寒い。高原のあちこちに巨大なモニュメントが設置され、屋根つきのステージからは幻想的な電子音の調べがゆったりと流されていた。
「……去年は朝から、雨がぱらついていたのだよねぇ」
清涼なる高原の空気を胸いっぱいに吸ってから、ユーリはそのようにつぶやいた。
すると、影のように控えていた千駄ヶ谷が「ええ」と応じる。
「朝の時点で台風の接近が観測されており、夜間のステージは開催が危ぶまれておりました。本年は大きく天候が崩れることもありませんでしょうから、どうぞご安心ください」
「はぁい。慎重無比なる千さんにそのように言っていただけたら、ユーリも勇気百倍ですぅ」
やはりユーリとしては、暴風雨でステージを中止にされた記憶がぬぐいきれないのだろう。
しかし本年は台風も発生していないし、天気予報も千駄ヶ谷が述べた通りである。山の天気は変わりやすいため、瓜子たちは常に雨具を持ち歩いていたが、ステージが中止になるほどの事態には決して至らないはずであった。
そうして小一時間ばかりもゆったりとしたひとときを楽しんだならば、ゴンドラで下界におりる。そのタイミングで、西岡桔平とリュウからメッセージが届けられてきた。
「西岡氏と田辺氏と漆原氏の三名が、合流されるそうです」
ホテルの入り口で待っていると、その三名がやってきた。タツヤとダイは二日酔いでダウン、山寺博人と陣内征生は体力温存のために昼までゆっくり過ごすのだそうだ。
「ま、俺たちの出番は午後七時だからなぁ。それまでには、あいつらも復活するだろぉ」
そんな風に言いながら、漆原はすぐさま千駄ヶ谷にすりよっていく。
瓜子たちが『ベイビー・アピール』の面々と出会ったのはもう二年以上も前の話であるわけだが、漆原はいまだに千駄ヶ谷のことをあきらめてないのだ。その執念には、瓜子も舌を巻くばかりであった。
(案外、影ではこっそり仲良くしてたりして。……なんて、口が裂けても言えないけどさ)
何にせよ、千駄ヶ谷の冷徹なるたたずまいには何の変化も見られないし、漆原は何の不服もなさそうににこにこと笑っている。これで『トライ・アングル』の業務は滞りなく進められているのだから、瓜子が干渉する筋合いはいっさい存在しなかった。
「メイっちょたちは、森のステージだってよー! とりあえず、合流してから後のことを考えよっかー!」
そうして三名の男性メンバーを加えた一行は、いざ会場を目指す。
森のステージという場所では、アコースティックギターとパーカッションだけでささやかなライブが開かれている。メイとオリビア選手は至極穏やかな面持ちで、それらの演奏を見物していた。
本格的なライブステージが開始されるのは、午前の十一時になってからだ。それまでは、あちこちに点在する小さなステージを見物して回ることになった。
「みなさんとこんなにのんびり過ごせるのが、一番贅沢な時間の使い方ですよね。来年こそは参加したいって、うちのカミさんも決意表明してましたよ」
西岡桔平がのんびりと笑いながら、瓜子にそのように語りかけてくる。
「ご家族と一緒だったら、もっと楽しいでしょうね。お子さんたちも、そろそろライブのステージを楽しめそうですか?」
「上の子なんかは、ライブ映像を観て踊ってますよ。下の子は、来年でやっと幼稚園なんで……あともうひと息ってところですかね」
ようやく三十路を突破した西岡桔平は、そんな風に語りながら温かく微笑んでいた。
あけぼの愛児園の児童たちのおかげですっかり子供にも慣れてきた瓜子としても、いずれ西岡桔平の子供たちと交流を深められる日が楽しみでならなかった。
(でも、来年こそ、か……何事もなければ、来年だってこのイベントに出場できるかもしれないんだもんな)
瓜子はそのように考えたが、あまり現実感はなかった。
去年の今頃は、まさかユーリがあのような奇禍に見舞われるとは想像もしていなかったのだ。そして瓜子も目前に《アクセル・ジャパン》を控えているためか、今後の行く末についてはずいぶん予測が難しくなっていたのだった。
瓜子は今回の《アクセル・ジャパン》で結果を出せれば、また別の地方大会に招聘されるかもしれない。
そしてそこでも結果を出せれば――《アクセル・ファイト》と正式契約を交わす目も出てくるのだ。もしもそのような事態に至ったならば、瓜子はたびたび海外の試合に駆り出されることになり――そして、《アトミック・ガールズ》を始めとする日本の興行にはいっさい出場できなくなってしまうのだった。
(去年なんかは、ユーリさんがそういう立場になるかもしれないって覚悟を固めることになったけど……今年は、自分の番なんだ)
そしてさらに言うならば、今度は瓜子がユーリのような目にあうかもしれない。
これは《アクセル・ファイト》に限った話ではないが、ファイターというのはいつ選手生命を絶たれてもおかしくない過酷な稼業であるのだ。瓜子はユーリの一件でその事実をまざまざと体感させられたために、これまで以上に未来の予測が難しくなったのかもしれなかった。
(でも……そんな不安に怯んでたら、一歩も立ち行かないからな)
そんな風に考えながら、瓜子はユーリのほうを盗み見た。
ユーリは、愛音と楽しげに語らっている。サングラスの脇からこぼれる眼差しは、明るくて透明だ。本日の夜にライブを控え、来月には復帰試合を控えている現在、ユーリは深い幸福の渦中であるはずだった。
たとえ瓜子がどのような運命を迎えても――そして、ユーリがどのような運命を迎えても、二人の関係性は変わらない。
そんな風に信じることができるのは、なんと幸福であることか。だから瓜子は不安よりも大きな希望を胸に、今を生きていけるのかもしれなかった。
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