03 熱き夜
午後の七時――すっかり日が暮れた頃に開始された『ワンド・ペイジ』のステージも、瓜子が期待していた通りの素晴らしさであった。
日が暮れると、屋外のステージはまた日中と異なる魅力をかもし出す。巨大な黒い影と化した山々に囲まれて、まばゆいステージの上で演奏に没頭する『ワンド・ペイジ』の姿は、瓜子の目に涙をにじませるぐらい感動的であった。
そして、瓜子の入場曲である『Rush』も当然のようにセットリストに組み込まれている。『砂の雨』も『カルデラ』も素晴らしい演奏で、瓜子は何度となく胸を高鳴らせることになってしまった。
そうして『ワンド・ペイジ』のステージも終えたならば、いっそうの大人数となってしまう。もともと大所帯である女子選手の一行に、三つのバンドが合流したのだ。しかしまあ、この後には大御所バンドのステージも控えていたので、バンド関係の面々はすぐさま離散することになった。
「わたいたちも、メインステージに向かうだわよ。このライブを観ずして、今日という日は終わらないだわよ」
そんな宣言をして、鞠山選手は小柴選手とともに離脱していった。
いっぽう高橋選手は小さなほうのステージでお好みのバンドが出演するらしく、そちらに向かっていく。それに同行したのは、オリビア選手であった。
「じゃ、あたしらは腹ごしらえしよっか! いいかげんに、おなかぺこぺこだもんねー!」
本来であれば『ワンド・ペイジ』のステージ前に腹ごしらえをしたかったのだが、『ベイビー・アピール』や『モンキーワンダー』の面々が合流してからは身動きが取れなかったのだ。そうして来場してからずっと同じ場所に留まっていた瓜子たちも、ようやく会場を巡ることになったわけであった。
現在も三つのステージでは演奏中であるし、それ以外のサブステージやテントなどでも弾き語りやDJイベントなどが開催されている。こういうフェスは、夜こそが本番という面もあるのだろう。ステージの客席ばかりでなく、会場中が人で賑わっていた。
一行は、あちこちに出されている物販ブースや屋台を巡る。屋台の充実度は、昨年に体験した通りだ。これは音楽を抜きにしても日本で有数の大きなイベントであるため、日本全国からさまざまな飲食店が屋台を出しているのだった。
人が多いので落ち着かない気分であるが、お祭り気分は高まるばかりである。人混みが苦手なユーリも楽しさのほうがまさっているようであるので、瓜子も心置きなくその熱っぽい空気を楽しむことができた。
物販ブースではイベントTシャツが販売されていたため、瓜子も熟考の末、購入を決断する。ユーリは治療費で預金を溶かしてしまったため、瓜子もいっそう清貧の生活をつらぬくのだと誓っていたが、バックプリントに『トライ・アングル』や『ワンド・ペイジ』や『ベイビー・アピール』の名が記されたイベントTシャツだけは、どうしても記念の品として確保しておきたかったのだった。
そして物販ブースでは、『トライ・アングル』のグッズも販売されており――いくつかのTシャツが売り切れであることを見届けた千駄ヶ谷は、「ふむ」と冷徹なる声をあげた。
「イベントの二日目で在庫が尽きてしまうというのは、忸怩たる思いですが……売り上げが好調であることを嘆くわけにもいかないでしょう。あとは通販の売れ行きに期待をかける他ありません」
「はい。売り切れちゃったのは、ピンクとホワイトのSと、ブラックのLっすか。やっぱカラーで男女の人気が分かれるんすかね」
「はい。通販のほうでも、ホワイトのSはピンクと同時に在庫が尽きてしまいました。取り急ぎ、追加分を発注しているさなかとなりますが……これはやはり、モデルをお頼みした猪狩さんの効果なのでしょうね」
瓜子は『トライ・アングル』の公式ウェブサイトの通販ページにおいて、モデル役を頼まれてしまったのだ。まあ、水着の撮影に比べれば百倍マシかと、瓜子も腹をくくって引き受けたのだが――千駄ヶ谷の言い分は、承服しかねた。
「自分は全カラーのTシャツを着させられたんすから、それでホワイトだけ人気が出る理由はないんじゃないっすか?」
「いえ。SNSにおいて、猪狩さんはホワイトがよく似合うという評判であったのです。ピンクの売れ行きはユーリ選手、ホワイトの売れ行きは猪狩さんの人気に根差しているのでしょう。お疑いであれば、こちらのタブレットで確認を――」
「あ、いえ、けっこうです。余計な口を出して、申し訳ありませんでした」
そうして瓜子が溜息をついていると、ユーリが「にゅふふ」と頬をつっついてきた。どういう心理で行われた行動であるかは、謎である。
その後は、屋台でさまざまな料理に舌鼓を打つ。
まだ九月の試合までには若干のゆとりがあったため、出場が決まっているメンバーもウェイトを気にすることなく腹を満たすことができた。
「でも、ユーリさんはちょっと気をつけてくださいね。今でも四キロぐらいは落とさないといけないんすから――」
「にゅわー! それは人前で数値を発表しているも同様であるのです!」
どうせ周囲にはユーリのウェイトをわきまえている人間しかそろっていないというのに、ユーリはわざわざ瓜子の口をふさいできた。
讃岐うどんをすすっていた小笠原選手は、そんなユーリを笑顔で振り返る。
「以前はナチュラルウェイトでもバンタム級のリミットに届いてなかったのに、今じゃあ四キロオーバーだもんね。ほんと、たくましくなったもんだ」
「うにゅにゅ……小笠原選手のお口をふさぐわけにはまいりませんので、何卒ごかんべん願いたいのでしゅ……」
「別にいいじゃん。六十五キロなら、アタシとタメなんだしさ。……ま、アタシは十センチばかり背で勝ってるけどね」
「にゅわー! 小笠原選手が素敵な笑顔でサキたんのごとき罵倒をあびせかけてくるのです!」
ユーリがフレアハットに包まれた頭を抱え込むと、多賀崎選手が興味深げに顔を寄せてきた。
「小笠原は、ナチュラルウェイトを落としたんでしょ? もう六十五キロまで復活したのかい?」
「うん。理想は六十七まで戻して、ドライアウトで六キロ落とすことだからね。しばらくは今ぐらいをキープして様子を見ようと思ってるよ。何せ減量ってのは、慣れない領分だからさ」
かつて厳しい減量の末に秋代拓海に不覚を取った小笠原選手は、そういった面に慎重であるのだ。そして、減量に適した身体作りが完成したならば、今以上の実力を発揮するはずであった。
「もー! こんなとこにきてまで、格闘技の話? ちょっとは音楽の話で盛り上がったらー?」
鮎の塩焼きにかぶつりいていた灰原選手は、口の周りを油で光らせながら文句を言いたてた。
しかし瓜子にしてみれば、ひさびさに格闘技の話題を口にした心地である。本日はハチベイたちに大晦日の感想を伝えられたぐらいで、それ以外はずっと別なる雑談に励んでいたような印象であった。
(まあ、これは大事な仕事であると同時に、骨休めの慰安旅行みたいなもんだからな)
何せ、瓜子とユーリが二日連続で稽古を行わないなど、普段では絶対にありえない事態であるのだ。明後日の夕刻にマンションまで帰りついたなら、ユーリがすぐさまスパーを申し込んでくることは目に見えていた。
しかしそれまでは、瓜子もこのお祭り気分を楽しもうと考えている。
本年にはユーリの思い出作りという名目も存在しなかったが、その代わりに、ユーリの快気祝いの延長戦であるという意識が残されていたのだった。
ずいぶん目まぐるしい日々を送っているものの、ユーリが退院してからまだひと月と少ししか経過していない。十ヶ月にも及んだ苦難と孤独で穿たれた心の穴には、まだまだスペースが残されているはずだ。そこを人の温もりで埋め尽くすまで、瓜子はいくらでも奮起するつもりであった。
しばらくすると、小笠原選手の携帯端末に鞠山選手のメッセージが届けられてくる。いつの間にか一時間が経過して、メインステージのライブが終了したのだ。瓜子たちが屋台のブースで待ち受けていると、やがて鞠山選手と小柴選手が姿を現した。
「ワンドとベイビーとモンキーの面々は、また別のステージに散っていっただわよ。今日は最後までイベントを満喫するようだわね」
現在は午後の九時であり、セカンドステージはこれが大トリの開始時刻となる。ただし、メインステージは午後の十時が大トリの出番であった。
「これからさらに二時間も粘るなんて、さすがの気合だね。アタシはもう、胸も腹もいっぱいかな」
「わたいとあかりんは、胃袋だけが伽藍洞なんだわよ。トキちゃんはわたいたちを見捨ててホテルに戻る算段なんだわよ?」
「そんなこと言ってないじゃん。高橋とオリビアだって、まだ戻ってこないしね」
ということで、鞠山選手と小柴選手が空腹を満たしている間、瓜子たちはまた雑談に励むことになった。
しかしそこで、ついに大勢のファンたちがユーリのもとに押し寄せてしまう。夜間にはサングラスを外すので、面が割れる危険が高まるのだ。
するとすぐさま、千駄ヶ谷が取り仕切りを開始する。屋台のブースから距離を取り、写真やサインを願う人々を一列に並ばせたのだ。このような熱狂の場に容易く秩序をもたらせるのは、千駄ヶ谷の支配力のなせるわざであった。
「猪狩さん。あなたはユーリ選手のもとに留まり、ともにご対応をお願いいたします」
そんな言葉を残して、千駄ヶ谷は愛音の協力のもとに行列の整理に取りかかった。
もちろん瓜子は、最初からユーリのもとに留まるつもりであったが――千駄ヶ谷の思惑は、別にあった。ユーリに写真やサインを願う人々の過半数は、瓜子にも同じ要望を伝えてきたのである。さらにその内の過半数はユーリと瓜子のペア撮影を望み、中には瓜子のみを目的とする人間もまぎれこんでいた。
瓜子は昨年にも、同じような憂き目にあっている。
しかし昨年の段階では、瓜子もひとりのファイターか、あとはせいぜい『トライ・アングル』のマスコットキャラクターであったのだ。個人的にサインや写真をせがまれることはあったが、ユーリと同じTシャツにサインをしたり、同じ写真におさまったりという行いに及んだ記憶はなかった。
これがきっと、ユーリとペアでグラビア活動に励んだ成果であるのだろう。
千駄ヶ谷の目論見通り、ユーリと瓜子の対立構造というのは、見事に粉砕されたのだ。ユーリと瓜子は顧客を奪い合うことなく、二人でセットのグラビアアイドルとして人気を博したようであった。
(ユーリさんの復帰をサポートできたのは何よりだけど……あたしのことは、オマケとして扱ってくれないものかなぁ)
瓜子のそんな思いもむなしく、人々はユーリと瓜子に同じぐらいの熱意を叩きつけてきた。そして中には、瓜子だけに熱意をぶつけてくる者もおり――昨年ではおおよそファイターとしての人気であったのが、本年はモデルとしての人気に二分されているような手応えであった。
そんな騒ぎを三十分ばかりも続けていると、千駄ヶ谷がようやくサービスタイムの終了を告げてくる。ただし、行列に並んだ分はお相手をしなければならないため、最後のひとりを片付けるにはそこからさらに十分ほどが必要であった。
フレアハットをかぶりなおしたユーリは、「ふいー」と息をつく。ユーリはこの騒ぎが始まると同時に手袋を装着していたが、それでも握手というのは精神的な負荷であるのだ。鳥肌は、腕から首もとまでに及んでしまっていた。
「今すぐうり坊ちゃんに抱きついて悪寒を相殺したいところなのだけれど、今度はパパラッチに盗撮されちゃいだしそうだしなぁ。ここは泣いて馬謖を切りましょう」
「お、ひさびさに馬謖が切られましたね。相変わらず、理不尽に切られてますけど」
瓜子が笑うと、ユーリも「にゃはは」と幸せそうに笑った。
そうして千駄ヶ谷や愛音とも合流して、休憩ブースを目指す。鞠山選手たちの腹が満たされた時点で、女子選手の一行はそちらに移動していたのだ。そしてそこでは、高橋選手とオリビア選手も合流していた。
「やあ、お疲れさん。そっちの騒ぎは、遠目で眺めてたよ。さすが二人は、とんでもない人気だね」
「本当ですねー。ワタシは部外者なのに、なんだか誇らしい気持ちでしたー」
高橋選手もオリビア選手も、にこやかな面持ちである。瓜子としては色々な気持ちを抱え込んでいたが、それでもまあこの場で水着姿をさらしたわけでもないので、そうまで悪い気分ではなかった。
「でも自分は、もっとファイターとして評価されたいっすけどね」
瓜子がそのように告げると、小笠原選手が笑顔を寄せてきた。
「猪狩は十分に評価されてると思うよ。あの大晦日の一件以来、評価はうなぎのぼりでしょ。これだけ時間が経っても、まだあちこちで語り草にされてるぐらいだしさ」
「そうなんすかね。その割には、さっきの人らも目当ては半々って感じでしたけど」
「そりゃあモデルとしての評価もうなぎのぼりなんだろうから、しかたないさ。この一年で、猪狩のグラビアをコンビニで見かけなかったことなんて、ほとんどなかったしね。今は桃園と一緒に売り出してるんだから、なおさらさ」
その言葉に瓜子が肩を落とすと、小笠原選手はいっそう力強く笑った。
「アンタたちには苦労をかけるけど、グラビア活動だって女子格闘技の知名度を上げる役には大貢献してるはずさ。ここはひとつ、前向きに考えてもらえないかな」
「はあ……前向きっすか?」
「うん。モデルとファイターの知名度が半々ってのが不服なんだったら、モデルとしての人気を維持したまま、ファイターとしての人気で上をいけるように頑張ってよ。そうしたら、きっと満足のいく結果を得られるはずさ」
「素晴らしい」と、千駄ヶ谷が冷徹なる無表情のまま拍手をした。
「小笠原選手のお言葉には、深く感銘を受けました。猪狩さんもユーリ選手も、ただいまのお言葉を励みにしてどちらの業務にも等しく熱情を傾けていただきたく存じます」
瓜子がげっそりとしながら小笠原選手を見返すと、その口が「ごめん」という形に動かされた。しかしその顔には、朗らかな笑みがたたえられたままである。
ともあれ、苗場の夜は深い闇に閉ざされて――瓜子たちの長い一日も、いよいよ終わりが近づいていたのだった。
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