02 女帝と猛牛の代理戦争、再び

 開会セレモニーを終えた後は、軽いウォームアップで温めた身体を冷やさないように気をつけながら、モニターでプレマッチの模様を見守ることになった。

 本選の第二試合に出場する鬼沢いつきは廊下でウォームアップに励んでいるため、控え室は静かなものである。第八試合の出場である後藤田成美も、静かな気合のみなぎる眼差しでモニターを見据えていた。


 やがてプレマッチが終了したならば、バンタム級王座決定トーナメントの一回戦である。

 その第一試合は、高橋道子と香田真央。第二試合は、鬼沢いつきと小笠原朱鷺子。それが、二週間前にようやく発表された対戦表であった。


 もちろんその前段階で、鬼沢いつきのエントリーはトーナメントの関係者にだけ周知されている。それを隠したままにしておけば、鬼沢いつきばかりが対戦相手の研究に取り組めるという不公平が生じてしまうためだ。最近のパラス=アテナは、そういう部分で不始末を犯さないようにひときわ留意しているようであった。


「ついに、高橋さんの出陣ですね。香田さんには無差別級の時代に負けてしまいましたけれど……おたがいに体重を絞っての再戦なんですから、過去の結果は関係ありませんね」


 後藤田成美が落ち着いた声でそのように告げると、美香のチーフセコンドである師範代が「ああ」と応じた。


「高橋が十キロ以上もウェイトを落とすと聞いたときには、自分も耳を疑ったものだが……あれは、正しい判断だった。結果がどうなるにせよ、高橋は見違えた試合を見せてくれるはずだ」


 質実な気性をした師範代はそのように語っていたが、高橋道子の成長ぶりは美香が息を呑むほどである。香田真央がそれ以上の成長を果たしているなどとは、なかなか想像できるものではなかった。


(でもきっと、香田さんはドライアウトだけで規定のリミットを目指すことができたのでしょうから……それはそれで、コンディションも万全なのでしょうね)


 まずは青コーナー陣営から、高橋道子が入場する。

 この段に至っても、彼女は昂っていなかった。やはり、現役時代の来栖舞を思い出させるたたずまいである。そして来栖舞本人も、チーフセコンドとしてひっそり追従していた。


 そして赤コーナー陣営から、香田真央も入場してくる。

 そちらはそちらで、実に柔和な面持ちである。首から下は大層な肉体美であるのに、彼女は純朴そうな童顔で、そして実際に若かったのだ。昨年プロに昇格したばかりである彼女は、今年で二十一歳という若年であったのだった。


 しかしまた、高橋道子もまだ二十四歳であるのだから、十分に若い。さらに、この次に出場する小笠原朱鷺子や鬼沢いつきが今年で二十六歳の年代であることを考えあわせると、バンタム級がこれから隆盛していく階級であると言えるのかもしれなかった。


(桃園さんも、たしか二十二歳ぐらいでしたっけ。彼女も早く復帰できるといいのですけれど……でも、まずはこの試合ですね)


 美香たちが見守る中、高橋道子と香田真央はレフェリーのもとで向かい合った。

 高橋道子は百七十センチ、香田真央は百五十六センチであるため、身長差は十四センチにも及ぶ。しかしその分、香田真央の肉厚な体格が際立っていた。


 やはり彼女も、四キロか五キロはリカバリーしているのだろう。もともとアマチュア時代から、彼女はこのバンタム級で戦っていたのだ。《アトミック・ガールズ》で無差別級に挑んだのは、バンタム級に目ぼしい相手が存在しないためであったのだろうと思われた。


 いっぽう高橋道子は、過酷な減量を終えてから初めての試合となる。しかし彼女は五・八キロもリカバリーしていたため、まったく見劣りはしていなかった。均整の取れた、来栖舞さながらのシルエットである。それより遥かに分厚い体格をしている香田真央のほうが、特殊であるのだった。


 そうしてレフェリーがルール確認している間に、モニターの画面はおたがいのセコンド陣の姿に切り替えられる。

 青コーナーには来栖舞、赤コーナーには兵藤アケミが控えているのだ。無差別級の時代に高橋道子と香田真央が対戦した際も、それはかつて観客たちを熱狂させた来栖舞と兵藤アケミの代理戦争であると大いに話題を呼んでいたのだった。


 拳を合わせた両名は、かたや引き締まった面持ちで、かたや穏やかな面持ちで引き下がる。

 そうして試合開始のブザーが鳴らされて――香田真央が、勢いよく前進した。


 彼女の持ち味は、この突進力である。左右の拳を振りながら突進し、相手の攻撃は頑丈な肉体で受け止めて、時にはバックステップで回避する。そうして相手に自分以上のダメージを与えつつ、最後には得意の組み合いに持ち込むのがパターンであった。


 いっぽう高橋道子は、ストライカーだ。もちろん組み技や寝技の稽古も怠ってはいないが、勝負を決めるのは得意な立ち技となる。それが、名うてのオールラウンダーであった来栖舞との相違であった。


 高橋道子は遠い距離から右アッパーを出して、相手の突進を牽制する。

 鋭いバックステップでそれを回避した香田真央は、同じ勢いでまた突進した。

 そこに、高橋道子の左ショートフックが繰り出される。

 それを右腕でブロックした香田真央は、レバーブローを繰り出した。

 それを右肘でブロックした高橋道子は、左の膝蹴りを放つ。


 すると――香田真央が、アウトサイドに回り込んだ。

 これまでの試合では、見せたことのない動きである。

 しかしこちらの陣営も、そんな可能性は考慮していた。香田真央は半年ぶりの試合であるから、サイドステップや真っ直ぐのパンチなど、新たな武器を身につけているのではないかと思案していたのだ。


 よって、高橋道子は慌てず騒がずステップを踏んで、相手と正対した。

 正対はしたが、距離は詰まったままだ。そこに、香田真央が鋭い左ジャブを繰り出した。

 高橋道子は首をひねって、それを回避する。そして、自身も左ジャブをお返しした。香田真央はその攻撃をダッキングで回避して、右のボディブローを放つ。高橋道子は自らもアウトサイドに回って、その攻撃を回避してみせた。


 いきなりインファイトの打撃戦であるが、おたがいにクリーンヒットは許していない。この時点で、両名が格段にレベルアップしていることは証明されていた。

 香田真央は半年ぶりの試合であったが、そのときの対戦相手こそが高橋道子に他ならない。高橋道子は彼女の頑丈さと俊敏さを突き崩すことがかなわず、KO負けを喫したのだった。


 さらに言うならば、高橋道子はそれまでに連敗を重ねている。昨年は四戦連続でKO負けを味わわされ――それで、バンタム級への転向を決意するに至ったのである。

 いっぽう香田真央はプロ昇格の査定試合で中堅の筆頭格であった大村芳子を下し、プロデビューの一戦で高橋道子を下している。そうして無差別級の最後の砦たる小笠原朱鷺子がバンタム級転向を表明したため、それを追いかける格好でバンタム級に乗り込んできたのだった。


 香田真央はこの若さで柔術茶帯の腕であり、しかも全日本大会で二階級制覇を成し遂げている。《フィスト》のアマチュア大会では宇留間千花に敗れてプロ昇格を逃したが、それはあちらが規格外のモンスターであったため、致し方のない話であろう。その一点さえ除けば、エリート中のエリートと称せるのではないかと思われた。


「すごいですね。高橋さんだけじゃなく、相手もすごいです」


 と、後藤田成美がそのようなつぶやきをもらした。

 高橋道子と香田真央は、ずっとケージの中央で苛烈な打撃戦を展開していたのだ。その勇猛なる姿に、客席からは大変な歓声が巻き起こっていた。


 香田真央は、前進しようとしているはずである。高橋道子は時おりサイドに回りつつ、決して後退しようとはせずに、真っ向からその圧力を受け止めているのだ。

 そして、リーチでまさる相手に突進を阻まれつつ、香田真央も決して引こうとしない。彼女もまた時おりサイドに回りつつ、左右のフックにジャブやストレートを織り込みながら、なんとか高橋道子の牙城を突き崩そうと苦心していた。


 試合時間が二分を過ぎ、三分を過ぎても、まったく様相は変わらない。

 高橋道子がローや膝蹴りを織り込み、香田真央が組み合いのモーションを見せても、最後にはまた殴り合いだ。おおよその攻撃はおたがいブロックできていたが、これほど神経の削れる展開はなかなか他にないはずであった。


 驚くべきことに、そのまま第一ラウンドは終了してしまう。

 トーナメントの一回戦目は五分二ラウンドであり、判定で決着がつかなければ延長ラウンドというルールになっていたが――これではポイントのつけようもないのではないかと思われた。


「だが、アトミックのルールはマスト判定だ。ジャッジは必ずどちらかにポイントをつけることになる。その採点が予想できないとなると……おたがいに、次のラウンドで勝負をかけるしかないだろうな」


 師範代は、そのように語っていた。

 そうして開始された、第二ラウンド――こちらでは、高橋道子がステップを踏むことになった。

 しかし、逃げのステップワークではない。相手の突進を受け流しつつ、自らの攻撃を当てるためのアクションである。高橋道子の顔はいよいよ鋭く引き締まり、この難敵を絶対に打ち倒すのだという熱情を静かにたぎらせていた。


 いっぽう香田真央は相変わらず柔和な面持ちであるが、さらなる勢いで拳を振り回し、何とか相手を追い詰めようと突進する。おたがいにスタミナを使いまくっているはずなのに、その激しさは初回のラウンド以上であった。


 高橋道子は足を使いつつ、遠い距離からパンチを当てようとする。

 香田真央はその距離を潰そうと突進し、左右のフックにアッパーやストレート、時には両足タックルを仕掛ける。しかしなかなか、劇的な変化は訪れなかった。


 ずっとインファイトで殴り合っていた第一ラウンドも、おたがいに動きまくっている第二ラウンドも、過酷さに大きな変わりはないだろう。肉体面ばかりでなく、精神面でもきわめて過酷であるはずだ。それでも集中を切らさない両選手に、またもや大歓声があげられていた。


 そして美香も、ひそかに大きな感慨を噛みしめている。

 高橋道子はこの半年間で、驚くべき成長を果たしたはずであるのに――香田真央も、まったく負けていないのだ。それはすなわち、彼女も同じだけの成長を果たしているということであった。


 そんな二人の姿をフェンスの外から見守っているのは、来栖舞と兵藤アケミだ。

 かつて《アトミック・ガールズ》の双璧であった彼女たちの後輩門下生が、これだけの激闘を見せている。観客の中には、来栖舞と兵藤アケミの死闘を思い出している人間も少なくないだろう。高橋道子と香田真央は、決して先達のファイトスタイルをそのまま受け継いでいるわけではなかったが――気迫のほどは、決して負けていなかった。


「だけどこのままじゃ、判定決着だ。どっちのラウンドも、どっちにポイントがつくかわからんぞ」


 竜ケ崎支部の師範がそのようにつぶやいたとき、香田真央が何度目かの両足タックルを仕掛けた。

 高橋道子はいくぶん足をもつらせつつ、それを回避する。すると、いったんマットに膝をついた香田真央が、身を屈めたまま追いすがった。


 さすがにスタミナの限界であったのか、高橋道子は右膝の裏に手をかけられてしまう。

 そうして彼女がバランスを崩すと、香田真央は恐るべき突進力でさらに詰め寄った。

 左の膝裏にまで手をかけられて、高橋道子はついに尻もちをついてしまう。

 香田真央は猛然と、上半身にのしかかろうとした。


 高橋道子は尻もちをついたまま、香田真央の短くて逞しい首裏に手をかける。

 そして、突き上げた右膝を相手の腹にあて、腰を切りながら、両腕をねじる。それで重心を崩された香田真央は、高橋道子の横合いに倒れ込むことになった。


 高橋道子はマットに尻もちをついた体勢で、首相撲の応用で相手の重心を崩してみせたのだ。

 長身である彼女はもともと首相撲を得意にしており、なおかつプレスマン道場の出稽古でますます磨きをかけていたのだった。


 高橋道子はすぐさま起き上がり、ファイティングポーズを取る。

 その肩が、大きく上下していた。疲れ果てているところで咄嗟に瞬発力を使い、またスタミナを削られることになったのだ。


 しかし、それよりもスタミナを消費したのは、香田真央のほうであろう。テイクダウンの失敗というのは、何より疲れるものであるのだ。

 そうしてのろのろと起き上がった香田真央は、すぐに動くことができなかった。

 そこに今度は、高橋道子が躍りかかった。


 高橋道子が右フックを振るうと、香田真央はぎりぎりのタイミングでブロックする。

 高橋道子が左ボディを繰り出すと、それもかろうじてガードした。

 しかしやっぱり、足は止まっている。

 すると、高橋道子は再び相手の首裏に手を回し、右の膝蹴りを叩きつけた。

 香田真央はその攻撃をもブロックしてみせたが、勢いに押されて後ずさる。高橋道子は左右のフックを振り回しながら、それを追いかけた。


 香田真央は驚異的な粘りで、その猛攻をもガードしてみせる。

 しかし、足もとはふらついており、体勢を立て直すこともかなわない。それでふらふらと後退し、フェンスに背中をぶつけることになった。


 高橋道子はスタミナの消耗も考慮せず、さらにパンチの乱打を見せる。

 左右のフック、レバーブロー、ショートアッパー、また左右のフック――火のついたような猛攻である。


 香田真央は亀のように縮こまることで、それらの攻撃に耐えしのんだ。

 だが、身長でまさる高橋道子に頭上からたたみかけられると、その圧力に耐えかねた様子でじわじわとへたり込んでいく。その尻がマットにまで到達し、それでもなお高橋道子が左右のフックをあびせかけると――ついに、レフェリーが割って入った。


『二ラウンド、四分五十五秒! レフェリーストップにより、高橋道子選手のTKO勝利です!』


 それが、勝負の結果であった。

 美香は詰めていた息を吐き、控え室には厳粛に拍手が打ち鳴らされる。天覇館には、こういう際に声をあげる人間が少なかった。


「執念で、勝利をもぎ取ったな。高橋は、立派だった」


 師範代は、そのように語っていた。

 トーナメントの一回戦目でこれほどのスタミナを使ってしまったことには、言及しない。天覇館の門下生は、目の前の試合に死力を尽くすことを身上にしているのだった。


 しばらくして、高橋道子が控え室に戻ってくる。

 彼女はバケツの水をかぶったように汗だくで、腕や顔を赤く腫らしていた。クリーンヒットは許していないはずだが、香田真央の豪腕によって相応のダメージを負っていたのだ。


 天覇館の面々はさきほどと同じように、厳粛な拍手で勝利をたたえる。他のジムや道場の陣営も、こちらに遠慮をしてただ手を打ち鳴らしていた。


「高橋、おめでとう。決勝戦まで、ゆっくり休むように」


 師範代がそのように声をかけると、高橋道子は「押忍」とだけ答えて、控え室の奥に歩を進めていく。

 新宿プレスマン道場を筆頭とする賑やかな面々が存在しないためか、どこまでも厳粛なたたずまいだ。

 美香にとっては、こちらこそが本来の居場所であったのだが――ただ、ほんの少しだけ、彼女たちの賑やかさが恋しかった。

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