04 怪物との対峙
合宿稽古は、二日目以降も粛々と進められていった。
本年の合宿稽古は、九日間にも及ぶ。その期間内には二日間の平日がはさまれていたが、それらの日も道場は休館日であったので、朱鷺子たちが好きに使うことができたのだ。
しかしもちろん、すべての稽古日にフルで参加できる人間はごく限られている。たとえゴールデンウイークであろうとも、最初から最後まで自由の身でいられるというのは――十五名の参加メンバーの中で、朱鷺子と清水雅とメイの三人きりであった。
サービス業に従事している人間は、平日のみならず土日や祝日でも仕事で抜けることになる。魔法少女カフェで働く鞠山花子と小柴あかり、バニー喫茶で働く灰原久子、ネットカフェで働く武中清美は、午前中に抜けることが多かった。また、サービス業ではないものの、流通の関係でカレンダーが関係ない倉庫で働いているという蝉川日和も、午前中にシフトを詰め込んでいた。
朱鷺子と同じく道場の指導員である来栖舞やオリビアは、間の平日だけ抜けていた。天覇館や玄武館は、それらの日が休館日でなかったのだ。実家の仕事を手伝っているという多賀崎真実や、事務職である御堂美香も、それと同じスケジュールであった。
養護施設で働くサキは日取りや時間帯に関わりなく、不規則な形で時おり職場に向かっていた。休みを申請すれば休めないこともないようであったが、それでは給金が激減してしまうし、他のスタッフの苦労がかさんでしまうという事情もあったようだった。
唯一の学生である邑崎愛音は、平日に一コマだけ大学の講義があるとのことであった。なおかつ、九日連続で道場に泊まり込むことを親に反対されたため、その一日だけはしぶしぶ帰宅していた。
そして、モデル業というもっともユニークな仕事に従事している猪狩瓜子も、間の平日に仕事を入れられてしまっていた。
なおかつ彼女はすべての日程において、午前中は必ず桃園由宇莉の入院先に向かっていた。驚くべきことに、彼女は桃園由宇莉が帰国してからの四ヶ月半、一日も欠かさずにお見舞いを継続しているという話であったのだった。
たとえ自身の試合の当日であろうとも、彼女は午前中に桃園由宇莉のもとへと向かっていたのだ。移動時間を含めれば四時間に及ぶというのだから、それは並大抵の話ではなかった。
しかも彼女は週六で一日五時間という練習時間をキープしており、撮影の仕事がない日ものきなみ稽古に注ぎ込んでいるという。彼女はまさしくすべての時間を、格闘技と仕事とお見舞いに割り振っているわけであった。
(でもきっと、それは桃園がいた頃からそうだったんだろうな)
猪狩瓜子も桃園由宇莉も、天賦の才能というものを有している。猪狩瓜子は尋常でない骨密度、桃園由宇莉は――あまり詳細はわからないが、とにかく特異体質であるのだろう。彼女は筋肉が筋肉に見えないというだけでなく、そのウェイトからは想像もつかないような怪力を発揮できるのだ。たとえ全身が筋肉で構成されていようとも、六十キロ足らずのウェイトであれだけの怪力を発揮できる道理はなかった。
しかしそれは、朱鷺子の身長と同じようなものであるのだろう。
百七十八センチの背丈である朱鷺子は、女子選手として規格外の体格を有している。まあそのおかげで減量に苦労しているわけであるが――ともあれ、この人並外れた体格は、天賦の才能というものに分類されるはずであった。
しかし朱鷺子は、その才能だけに頼ってきたわけではない。中学の後半から高校の前半まではひょろひょろの体格であったため、死ぬ気で食事をして死ぬ気で稽古に励んだのだ。猪狩瓜子や桃園由宇莉もその特異な体質で最大限のパフォーマンスを発揮できるように、死ぬ気で稽古を続けてきたはずであった。
世間では、努力ができるのも才能の内、という言葉が飛び交っている。
であれば――彼女たちが授かったのは、むしろそちらの才能であった。余人を遥かに上回る努力こそが、彼女たちを怪物に仕立てあげたのだ。
朱鷺子はそれを見習いたいと思っているし、そのように考えている人間は少なくないはずであった。邑崎愛音や小柴あかり、メイや蝉川日和、灰原久子や多賀崎真実などは、その傾向が顕著である。努力であれば、自分だってできる――彼女たちはそんな思いで、二人の怪物を追いかけているように思えた。
(それをまざまざと知ることができたのが、この合宿稽古なんだ。最初はただの思いつきだったけど……あの頃の自分をほめてやりたい気分だね)
そんな思いで、朱鷺子はこの年の合宿稽古でも力を尽くした。
フルメンバーのそろう時間は限られていても、練習相手に困ることはない。もっとも勤勉な鞠山花子たちでも、毎日出勤するわけではないのだ。全日程を通して、朱鷺子が清水雅とメイの三人きりになって気まずい思いをすることはなかった。
これだけのメンバーが集まれば、実に有意義な稽古を積むことができる。
それに朱鷺子はウェイトを落としたことで、その有意義さが増したような心地であった。これまでパワーに頼っていた場面でも、テクニックでしのがなければならない事態にたびたび至っていたのだ。やはりバンタム級で戦うからには、これまでと異なる技術が必要であるようであった。
朱鷺子はこれまで六十七キロのウェイトであり、それを六十一キロまで落とす計画を立てている。しかしまた、六キロの肉を削るわけではない。減量の基本はドライアウト、いわゆる水抜きであるのだから、理想は計量日までに水分だけで六キロ落とし、試合までにすべてリカバリーすることであった。
しかし、そのサイクルを肉体に馴染ませるには、長きの時間が必要となる。そもそも水分だけで六キロ落とすというのは簡単な話ではないし、それを翌日の試合までにリカバリーできたとしても、どこかに負担がかかってしまうものであるのだ。普通に考えて、六キロもの水分を肉体から除去することが健康的なわけがなかった。
また実際、朱鷺子は一昨年の秋口にそれで失敗している。チーム・フレアの安い挑発に乗って、短い減量期間で試合を受けることを了承してしまったのだ。それで秋代拓海などに惨敗してしまったのは、今でも人生で最大の汚点であった。
よって朱鷺子は、水分だけではなく肉そのものも落としている。今回は三キロの肉を落として、三キロの水分を抜く計画であった。
しかし朱鷺子は無差別級でありながら、もともと節制に励んでいた。体脂肪率は十五パーセントであり、これ以上脂肪を落とすことはアスリートとしても生物としても望ましくないという話であったのだ。
よって、朱鷺子が手放そうとしている三キロは、すべて筋肉である。
たかが三キロという思いもなくはなかったが、しかし、それでパワーが落ちたことは明白であった。ただ筋肉が減ったというだけでなく、肉体そのものがわずかに衰弱したような感覚であった。これこそが、ナチュラルウェイトで戦える無差別級と体重制限のある階級の最大の相違なのだろうと思われた。
(でも、他の連中だって、同じ苦労を背負ってるわけだからね。これで勝てなきゃ、意味がないってことさ)
そんな思いを胸に、朱鷺子は稽古に明け暮れた。
そして、合宿稽古の最終日――朱鷺子は、猪狩瓜子とスパーを行うことになった。
もちろんこれまでも、猪狩瓜子とは何度となくスパーを重ねてきている。合宿稽古のみならず、プレスマン道場での出稽古においてもだ。ただ、その日はいささか趣が異なっていた。
「真央の怖さは、あの突進力だ。猪狩くんに、仮想・真央としてスパーリングをお願いしてはどうだろう?」
そのように言い出したのは、来栖舞であった。
時刻は午後の三時を過ぎたぐらいであり、朱鷺子も他のメンバーも汗だくの姿である。スポーツドリンクで水分を補給しつつ、朱鷺子は「うん?」と小首を傾げることになった。
「アタシも香田の突進力に関しては、おもいきり警戒してるよ。だから今まで、メイにその役をお願いしてたわけだけど……舞さん的には、まだ足りないっていう見込みなのかな?」
「確かにメイくんの踏み込みの鋭さは、真央以上だろう。直線的な出入りに長けていて、左右のフックがメインというスタイルもよく似通っている。ただ……真央も得意な技に磨きをかけるだけでなく、新たな技術の習得にも注力するだろう。何せ、真央の後ろにはアケミが控えているのだからな」
「ふうん? 言っちゃ悪いけど、アケミさんこそ愚直な突進にすべてをかける、一点突破のタイプだったよね」
「だからこそ、だ。それだけでは朱鷺子に勝てないということを、アケミは嫌というほど思い知らされているだろうからな」
来栖舞は真剣そのものの面持ちで、そのように言いつのった。
「それに、アケミと真央ではもとの体格が違っている。なおかつ真央も、バンタムまでウェイトを落とすわけだからな。アケミよりも、よほど俊敏に動くことができるだろう。あの突進力にサイドステップや真っ直ぐのパンチまで加えられたら、大きな脅威になるはずだ」
「なるほど。さすがは、舞さんだね。アケミさんの怖さを一番知ってるだけはあるよ」
朱鷺子が軽口まじりに返事をすると、来栖舞も一瞬だけ眼光をやわらげた。
「ともあれ、そういう細かいテクニックに関しては、猪狩くんがもっとも秀でているだろう。何せ、キックのランカーであったのだからな」
「うんうん。いまや日本を代表する女子ファイターの筆頭だしね」
「あ、あの、そういう話は自分のいないところでお願いします」
遠からぬ場所でインターバルを取っていた猪狩瓜子が、顔を赤くして文句をつけてくる。朱鷺子は「ごめんごめん」と笑ってみせた。
「とにかく、お願いできるかな? 香田を意識して前後の動きと横回転のパンチをメインにしつつ、ときどき横の動きと縦のパンチを織り交ぜてくれるとありがたいんだけど」
「押忍。香田選手と最後に手合わせをお願いしたのは、去年の夏になっちゃいますけど……なんとか、イメージしてみます」
ということで、朱鷺子は猪狩瓜子とスパーすることになった。
ヘッドガードとニーパッドとレガースパッドの三点セットを装着し、グローブは試合用のものより分厚い八オンスのオープンフィンガーグローブだ。これならば、おたがいに深刻なダメージを負うことはないはずであった。
合宿稽古を終える頃には試合の二週間前となるため、朱鷺子も猪狩瓜子も無茶な稽古はできないのだ。減量してもウェイトでまさる朱鷺子のほうこそ、相手を壊してしまわないように心がけなければならなかった。
(ただ、やっぱり猪狩にはヒヤリとさせられることが多いからな。勢いあまらないように気をつけながら、集中しないと)
そうして朱鷺子は、猪狩瓜子と相対した。
あらためて、猪狩瓜子は小さい。朱鷺子との身長差は二十六センチにも及ぶし、彼女は骨でウェイトがかさむために体格も華奢に見えるぐらいであるのだ。ただその内に怪物じみた爆発力がひそんでいることは、朱鷺子も嫌というほど思い知らされていた。
次回のトーナメントで朱鷺子と対戦する可能性のある香田真央は、身長百五十六センチの小兵となる。それでも猪狩瓜子よりは大きいが、無差別級やバンタム級としては考えられないぐらいの背丈であろう。そのぶん筋肉量が尋常でないため、通常の選手とは異なる頑丈さとパワーをそなえているのだった。
(確かにあの香田が小回りのよさまで身につけたら、いっそう厄介だろう。さすが舞さんは、慧眼だな)
そんな思いを噛みしめながら、朱鷺子は慎重に間合いを測った。
猪狩瓜子は香田真央を意識して、前後にステップを踏んでいる。メイには一歩及ばないものの、それでも鋭い踏み込みだ。これならば、仮想・香田真央としても不足はなかった。
「牽制であれば、関節蹴りも有効ということにしよう。おたがい、怪我だけはさせないように心がけて」
来栖舞の言葉に「押忍」と応じながら、猪狩瓜子は一気に踏み込んできた。
それで振るわれたのは、さっそくの関節蹴りだ。ただ、膝ではなく脛を狙うような軌道であった。
(これなら当たっても危なくないけど、邪魔な動きだな。こんなにコンパスに差があっても、やっぱり関節蹴りってのは嫌な攻撃だ)
朱鷺子もまた、牽制で関節蹴りを出してみせる。本来、この技を有効に使えるのは、体格でまさる朱鷺子のほうであった。
猪狩瓜子は鋭くバックステップを踏んで、その攻撃を回避する。そして、朱鷺子が蹴り足を戻す動きに合わせて、また大きく踏み込んできた。
左のショートフックを出されたため、朱鷺子もステップで回避する。
今のがジャブであったなら、腕には触られていたかもしれない。それぐらいの、急接近であった。
朱鷺子はアウトサイドに踏み込んで、浅めの右ローを狙う。
猪狩瓜子がバックステップでそれを回避すると、来栖舞がまた声を飛ばしてきた。
「真央は、愚直な人間だ。猪狩くんはもう少し積極的に前進した上で、バックとサイドの動きを適度に織り交ぜて」
「押忍」と応じた猪狩瓜子が、勢いよく前進してくる。
アウトサイドに回ってその勢いをいなそうとすると、鼻先に右フックが通過していった。猪狩瓜子らしからぬ、強引な攻撃だ。
(そうそう。香田だったら、それぐらい強引につっかかってくるはずだ)
朱鷺子はステップを踏んで、間合いの調節を試みる。
それを踏みにじって、猪狩瓜子が突進してきた。これこそ、香田真央らしい挙動である。
朱鷺子が前蹴りで止めようとすると、猪狩瓜子は飛び跳ねるように後方へ逃げる。そしてすぐさま、前進してきた。普段であればサイドに逃げるところであろうが、香田真央であればそのように動くことだろう。
朱鷺子が左ジャブで牽制すると、今度はダッキングで懐にもぐりこもうとする。
朱鷺子が膝蹴りで迎え撃つと、左腕でボディを守り――そして、左ジャブを返してきた。
その拳が、朱鷺子の鼻を浅く叩く。朱鷺子は両腕をのばしてストッピングして、相手から遠ざかろうとした。
その手が、ふわりとすかされる。
猪狩瓜子が、インサイドに逃げたのだ。
そして――重い衝撃が、朱鷺子の右脇腹に弾けた。
レバーブローを叩き込まれたのだ。
八オンスのグローブとは思えない衝撃が、朱鷺子のレバーを脅かす。
思えば――スパーリングで猪狩瓜子にレバーブローをクリーンヒットされたのは、これが初めての体験であった。
(……こんなのを試合用のグローブでくらってたら、大ダメージだったな)
あらためて、朱鷺子は距離を取ろうとする。
しかし、瓜子の小さな姿は遠ざからない。彼女は愚直な突進で、距離を詰めてきていた。
朱鷺子は左ジャブを出そうとしたが、それよりも先に右フックを振り回される。
そして、ボディを守っていた右腕に、左拳を叩きつけられた。右フックをフェイントにして、またレバーブローを狙ってきたのだ。
背筋に焦燥感がたちのぼるのを感じながら、朱鷺子は後方に下がろうとする。
しかし、猪狩瓜子との距離は広がらない。メイとのスパーでも、こういう状況は慣れっこのはずであったが――これは、それ以上の圧迫感であった。
猪狩瓜子の左右の拳が、ぶんぶんと鼻先を通りすぎていく。
その流れで、また腹を守る右腕を叩かれた。顔への攻撃で意識をそらしつつ、執拗にボディを狙っているのだ。それもまた、圧迫感の一因であった。
いまだレバーが疼いているために、朱鷺子は半ば本能でボディを守っている。そのおかげで、二発のレバーブローを防げたわけであるが――その分、反撃の手が止まってしまっていた。
逃げても逃げきれず、反撃もできなければ、いずれ追い込まれてしまう。
そのように考えた朱鷺子は、首相撲で相手の首裏をとらえようとした。
その手をすりぬけて、猪狩瓜子の身がインサイドに回り込む。
そして、ガードのなくなったレバーに再びの拳を叩き込まれ――朱鷺子がその苦しみで身を折ると、目の奥に白い火花が弾け散った。
朱鷺子はわけもわからぬまま、マットに片膝をついてしまう。
そうして朱鷺子が顔を上げると、猪狩瓜子はファイティングポーズを取ったまま後退していた。
「……立ち技のスパーですから、仕切り直しですよね?」
猪狩瓜子の問いかけに「うん」と応じてから、来栖舞はひとつ息をついた。
「だけど、今の動きは見事だった。……わたしの知る限り、猪狩くんが朱鷺子からダウンを奪ったのは初めてのことだ」
「押忍。まぎれもなく、初めてのことでしたよ」
そのように答える猪狩瓜子は、どこか困惑気味の面持ちである。
朱鷺子は視界が揺れていないことを確認してから、身を起こした。
「香田は左右のフックを振り回しながらボディも狙ってくるのが定番だし、愚直な突進の中でいきなりサイドに動くってのも、こっちの要求通りだったね。……香田がこんな動きを身につけてたら、アタシも危ないや」
「数ヶ月ていどの稽古で、真央の動きがそこまで見違えることはないだろう。……仮想・真央としては、いささかレベルが違いすぎたな」
「つまり、これを攻略できたら、香田には楽勝ってことだね」
朱鷺子は無理やり、笑ってみせた。
「それじゃあ、もう一本お願いするよ。今の調子で、アタシを追い込んでよ」
猪狩瓜子は「押忍」と応じて、拳をかまえなおす。
その小さな姿を見つめているだけで、朱鷺子はぞくぞくと背筋が粟立ってしまった。
この四ヶ月間で、朱鷺子は猪狩瓜子とのスパーリングに手馴れてきていた。しかし、彼女が普段と異なるスタイルを取っただけで、このざまである。
やはり彼女は、小さな怪物であるのだ。
そんな思いが、朱鷺子の心を常にはない感覚でかき乱していたのだった
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