03 夕食と勉強会

「どっひゃー! 疲れたよー!」


 合宿稽古初日のメニューが終了すると、マットにひっくり返った灰原久子が盛大に声をあげた。

 それと同じぐらい汗だくの姿である朱鷺子は、苦笑しながら年長の後輩選手を見下ろす。


「なんだか灰原さんを見てると、桃園を思い出しちゃうね。意識的に、あいつの穴を埋めてあげてるとか?」


「バカ言わないでよー! あたしのどこが、ピンク頭と似てるってのさ? あたしは知的なクールビューティーで売ってるんだからねー!」


「知的……クール……」


「うっさいなー! 言ってみただけだよー! マコっちゃん、シャワールームまでおんぶしてー!」


「そいつは、御免こうむるよ」


 と、多賀崎真実も汗だくの苦笑顔で応じる。この場で涼しい顔をしているのは、コーチ役の来栖舞と清水雅のみであった。


「雅のおかげで、いっそう稽古が充実した。遠路はるばる来てくれたことを、感謝している」


「嫌やわぁ。そないな言葉を聞かされて、うちが喜ぶとでも思うとんのぉ?」


「それでも、感謝の気持ちはきちんと伝えないとな」


 来栖舞がうっすら微笑むと、清水雅は「ははん」と鼻を鳴らしてさっさと鍛錬場を出ていってしまう。両名は長きにわたって《アトミック・ガールズ》を支えてきた戦友の間柄であったが、プライベートではほとんどつきあいがなかったようであるのだ。これからは、選手でなく一個人として新たな関係を築いていくことになるのかもしれなかった。


「それじゃあ当番になったメンバーは、夕食の支度をよろしくね。サキ、面倒をかけるけど、取りまとめ役をよろしく」


 サキはいつも以上の仏頂面で、何も答えようとしない。やはり、前回の興行で清水雅に仕掛けられた悪さが遺恨になっているのだ。公衆の面前でサキの唇を奪うなど、清水雅の豪胆さはまったく底が知れなかった。


 ともあれ、本日の稽古は終了である。オーバーワークを避けるために、夕食の後は勉強時間にあてているのだ。初日の本日も午後の一時から六時までみっちり稽古を積んだので、誰も物足りなくは思っていないはずであった。


 夕食は、手軽に鍋である。この大人数で、しかもバランスのいい食事を心がけると、やはり鍋物がもっとも簡単であるのだ。ただし、料理自慢のサキにかかれば、簡単な鍋物も極上の仕上がりであった。


「あー、やっぱこの時間が至福だなー! お酒が恋しくてしかたないけど!」


「それは最終日のお楽しみね。またワンドやベイビーの人らも来てくれるっていうから、盛大に打ち上がろうよ」


「うんうん、楽しみだなー! キヨっぺの兄ちゃんも、家でじりじりしてるんじゃない?」


「あはは。兄貴なんて、じりじりさせておけばいいんです」


 灰原久子の隣席となった武中清美は、屈託のない顔で笑っている。そちらは灰原久子におまかせできそうであったので、朱鷺子は蝉川日和に声をかけておくことにした。


「蝉川も、お疲れ様。寝技の稽古中はひとりぼっちにさせちゃったけど、時間の無駄にはならなかったかな?」


「時間の無駄なんて、とんでもないッスよー! みなさんの熱気にあてられて、ずっと血圧は上がりっぱなしでした!」


 彼女は今回のメンバーの中でただひとり、キック専門の選手であったのだ。ゴールデンウイークの期間はおおよその道場が休館であったので、彼女も喜び勇んで参加を表明したのだった。


「でも、明日からは全員いっぺんに寝技の稽古に取り組むんじゃなく、ふたつの班に分かれて交互にやることにしようか。そのほうが、花さんの負担も減るだろうしね」


「舞ちゃんと雅ちゃんがそろってる時点で、わたいの苦労なんて激減なんだわよ。でも、朱鷺子ちゃんの提案に異存はないんだわよ」


「えーっ! でも、あたしのせいでスケジュールを変えさせちゃうなんて、なんか恐れ多いッスよー!」


「別に、アンタのためだけじゃないさ。アンタとの立ち技スパーは誰にとっても有意義だから、ひとりで遊ばせておくのはもったいないって話だよ」


「小笠原さんにそんな風に言われたら、よけい恐れ多いッスねー!」


 蝉川日和は顔を赤くしながら、毛先の跳ねたショートヘアーを引っかき回した。朱鷺子が彼女としっかり交流するようになったのは今年に入ってからであるが、四ヶ月も稽古をともにしていれば気心も知れてくる。彼女はびっくりするぐらい素直で裏表のない人間であるので、朱鷺子もすぐに親睦を深めることがかなった。


「……やっぱり小笠原先輩は、すごいですね」


 と、朱鷺子の隣に陣取っていた小柴あかりが、囁き声でそのように告げてくる。その子犬を思わせるつぶらな瞳は、尊敬の念か何かにきらめいていた。


「すごいって、何が? またアンタ得意の、過剰評価かな?」


「過剰なことなんて、ありません。先輩は稽古をしている間も、ずっと蝉川さんや武中さんのことを気づかってましたもんね。わたしには、とうてい真似できません」


「だから、それが過剰だっていうんだよ。アタシはいちおう幹事なんだから、初参加の人らを気づかうのは当たり前でしょ」


「その当たり前のことを難なくこなせるから、すごいんです」


 小柴あかりはいつも真っ直ぐで、朱鷺子を微笑ましい心地にさせてくれる。それこそ、朱鷺子にはとうてい真似のできない所業であった。


(十八歳から指導員なんてやってりゃあ、少しは世慣れるのが当然さ。……まあ、アタシはもともとこういう性分なんだろうけどさ)


 格闘技の選手には、我の強い選手が多い。まあ、戦うことで身を立てようというのだから、それが当然の話であるのだろう。

 しかしそれと同時に、内向的な人間も多い。そういう人々は、ふだん内側に溜め込んでいるものを試合で吐き出しているのだろうか。今回の参加メンバーで言うと、小柴あかりや御堂美香や来栖舞などがそちらのタイプであった。


(あとはメイなんかも、けっこう色々と溜め込んでいそうだけど……プレスマンに入門してからは、ずいぶん我が出るようになったよな)


 と、ついついそんな風に気を回してしまうのが、朱鷺子の性分である。そんな自分と同じタイプに分類されるのは――おそらく鞠山花子あたりなのだろうと思われた。


(サキもそれに負けないぐらい気を回してるように思えるけど、あいつはそれをほとんど表に出さないんだよな。でもきっと、指導員に向いてるのがその三人ってことなんだろう)


 朱鷺子はたびたび、達観していると評されることがある。そんな大した話ではないように思うのだが、しかしまあ、いつでも百七十八センチの高みから世界を俯瞰しているような感覚はなくもない。ただそれは、人間にとって美点にも欠点にもなりえるはずであった。


(アタシはこういう場を取りまとめるのが苦手じゃないけど……その代わり、なりふりかまわず突っ走るってのが苦手なんだよな)


 そんな朱鷺子は一昨年の秋口に突っ走り、玉砕した。パラス=アテナを乗っ取った連中のやり口が頭に来て、無茶な減量を敢行し、そして秋代拓海に惨敗することになったのだ。頸椎損傷という深手を負って長期欠場することになった朱鷺子は、つくづく自分に「主人公の適性」がないのだなと痛感させられたのだった。


(そういうところも、アタシは花さんに似ちゃってるのか。花さんも、裏方の仕事が大好きだもんな。きっと桃園や猪狩なんてのは……生まれついての主人公なんだろう)


 朱鷺子がそんな風に考えたとき、ななめ向かいから来栖舞が呼びかけてきた。


「朱鷺子。この後の勉強会について、何かプランはあるのか?」


「うん、そうだね」と答えながら、朱鷺子はふいに懐旧の念にとらわれた。

 自分はいつから、来栖舞と気兼ねなく語らえるようになったのか――そして来栖舞は、いつから自分の名前を呼び捨てで呼ぶようになったのか――そんな思いが、胸中を駆け巡ったのだった。


(初対面のときは、あんなにガチガチだったのにな。まあ舞さんも、今とは比較にならないぐらい張り詰めてたけどさ)


 そんな思いを心の片隅で噛みしめながら、朱鷺子は言葉を重ねてみせた。


「……やっぱり初日の今日は、試合の決まってる人間を優先したいよね。とはいえ、アタシなんかはトーナメントの組み合わせが決まってないから……御堂さん、猪狩、邑崎、小柴かな」


「ふむ。小柴くんも、試合が決まっていたのだったか? わたしも次回の対戦表は確認したつもりなのだが……」


「小柴は、六月の《NEXT》だよ。例の、ロックフェスってやつさ」


「ああそうか。そちらはチェックを怠っていた。対戦相手も、決定済みなのか?」


「うん。アトミック以外の興行で活躍してる、フィスト・ジムの選手だよ。まあ、トップファイターと言える実力だろうね」


「わたいのコレクションから、二試合分のDVDを持参してるんだわよ。あかりんも視聴済みだけど、他の面々の意見も聞きたいところだわね」


 と、鞠山花子がすかさず声をあげてくる。彼女は《アトミック・ガールズ》ばかりでなく、女子選手が出場した《NEXT》や《フィスト》の試合映像などものきなみ収集しているのだった。


「さすがは、花子だな。わたしは美香と同じ組になって、沙羅選手攻略の意見を聞きたく思う」


「沙羅と対戦経験があるのは……多賀崎さんとオリビアか。ていうか、その階級は三人しかいないもんね。多賀崎さんたちは、そっちの組に入ってくれる?」


「ああ、もちろん。ただ、あたしがあいつと対戦したのはもう二年も前の話だし、北米の合宿所では御堂さんも一緒だったから、それほど目新しい情報はないと思うよ」


「それでも着眼点の相違から、目新しい発見を得られるかもしれない。お手間を取らせるが、どうかよろしくお願いする」


「もちろんですよ。まずは御堂さんに、アトミックのベルトを巻いてもらわないといけませんからね」


 去年の合宿では来栖舞に対して固くなっていた多賀崎真実であるが、今日はずいぶん和やかな面持ちである。それは彼女が『アクセル・ロード』の経験を経て成長したためであるのか――それとも、来栖舞の張り詰めた気配が年々やわらいでいるためなのか――なかなか判別の難しいところであった。


「じゃ、あたしもマコっちゃんと一緒の組ねー! てゆーか、次回は二人とも出番がないから、なーんか物足りないなー!」


「ふん。負けた人間が勝った人間に出番を譲るのは、自然の摂理なんだわよ」


「あんたは勝ったくせに、出番なしじゃん! ま、老体をいたわれてるんだろうねー!」


「雅ちゃん。礼儀を知らないウサ公が何かわめいてるだわよ」


「み、雅ねーさんは引退しちゃったんだから、関係ないっしょー? いちいち雅ねーさんを引っ張り出すのはヒキョーだぞー!」


 またおかしな騒ぎが持ち上がってしまったが、しかしこの顔ぶれを考えればまだしも平穏の部類であるのだろう。何せこの場には、つい先月対戦した選手同士が三組も存在しているのだった。

 しかし、猪狩瓜子に敗北した灰原久子も、サキに敗北した清水雅も、御堂美香に敗北した多賀崎真実も、わだかまりを引きずっている様子はない。猪狩瓜子と灰原久子に至っては、試合の後に打ち上げまでともにしているのだ。それも余所では、なかなか見られない光景であるはずだった。


(そういえば、打ち上げではオリビアとマリアも同席してたっけ。試合が終わったらノーサイドって言っても、ここまで徹底できるのは大したもんだ)


 朱鷺子がそのように考えていると、来栖舞が猪狩瓜子に呼びかけた。


「猪狩くんの相手は、成美だったな。支部は違えど、わたしが同門たる成美について語るのは信義にもとる行為だろう。申し訳ないが、今日は別の組ということにしてもらいたい」


「承知しました。こっちはどういう顔ぶれになるんすかね」


「小柴と邑崎を、どう割り振るかだね。小柴の相手はフィスト・ジムの選手だから、いちおう四ッ谷ライオットのお二人とは別の組ってことにしようか。あと、花さんは小柴についてもらって……雅さんは、どうする?」


「うちは何でもかまへんよぉ。ま、せっかくやし可愛いあかりちゃんとご一緒させてもらおかぁ。フィスト・ジムやろが何やろが、うちはなぁんのしがらみもあらへんさかいなぁ」


 そうして勉強会の組み分けも、着々と進められていった。

 朱鷺子は穴埋めのような形で、猪狩瓜子と小柴あかりの組とさせていただく。そちらに割り振られたのは、鞠山花子、清水雅、サキ、蝉川日和、という顔ぶれであった。


「邑崎の相手は、フルコンの経験者らしいんだよ。オリビアは、そっちの観点からよろしくね」


「はーい。どんな選手なのか、楽しみですねー」


 メイと同じ組になれたためか、オリビアは嬉しそうだ。いっぽうメイも似たような心境であるのだろうが、そちらは内心を隠した無表情であった。

 食後は十五分ほど食休みをしてから、二手に分かれる。いっぽうは食堂で、いっぽうは会議室である。DVDを視聴できるのは会議室のみであるので、まずは一時間で場所を交代する手はずであった。


「まず、うり坊のお相手は後藤田成美ちゃんだわね。いちおうわたいも天覇系列の所属だわけど、成美ちゃんと大きなしがらみはないから中立的観点から語らせてもらうだわよ」


 勉強会では、鞠山花子が率先して取りまとめ役を担ってくれる。気質としては朱鷺子と同系統でも、MMAに関する造詣は雲泥の差であるのだ。作戦参謀として、彼女ほど心強い存在は他になかった。


「成美ちゃんは二戦連続でうり坊とのタイトルマッチをキャンセルすることになっただわけど、年明けの復帰試合を見た限り、故障のダメージは引きずってないんだわよ。タイトルマッチのチャンスを二回も逃す代わりに、コンディションを万全に整えたんだわね」


「押忍。今回はノンタイトルマッチになっちゃいましたけど、自分も楽しみでしかたありません。黄金世代の選手と対戦するのは、これが初めてですからね」


「成美ちゃんは、試合巧者なんだわよ。うり坊がもっとも気をつけるべきは、タイムアウトの判定決着だわね。成美ちゃんがあんたに火をつけないように気をつけながら丁寧に試合を進めたら、あんたの判定負けもありえるんだわよ」


 そこまで語ってから、鞠山花子はにわかに目を細めた。


「と――これまでだったら、わたいはそう考えてたんだわよ。わたい自身、去年の対戦ではそういう作戦を実行したわけだわからね」


「はい。今は何か、状況が変わってるんすか?」


「それは、わたいが聞きたいんだわよ。うり坊、あんたは……ちびっこ怪獣タイムを自由自在に操れるようになったんだわよ?」


 猪狩瓜子は一瞬きょとんとしてから、「あはは」と無邪気に笑った。


「笑ってごまかすんじゃないだわよ。きりきり答えるんだわよ」


「いや、そもそもちびっこ怪獣タイムって、何なんすか? そんな愉快な芸を身につけた覚えはないっすよ?」


「あんたが大ピンチになると発動する、例の厄介な芸のことなんだわよ。あんたは前回、ウサ公と対戦したとき……ピンチになる前から、動きが冴えわたってたんだわよ」


 それは朱鷺子も、気にかかっていた。あの日の灰原久子は素晴らしい動きを見せていたのに、猪狩瓜子はまるですべての動きを見通しているかのような挙動でもって、ただ一発のバックハンドブローを除くすべての攻撃を回避してみせたのだった。


「あんたは明らかに、一段階レベルが上がったんだわよ。やっぱり大怪獣との対戦が、あんたを覚醒させたんだわよ?」


「うーん。道場のみなさんにも同じように聞かれたんすけど……自分にそんな意識はないんすよね。ただ、灰原選手の猛攻は凄かったんで、最初から最後まで必死でした」


「必死になると、ちびっこ怪獣タイムが発動されるんだわよ? 今日のスパーなんかでは、そこまで大きな変化は感じなかったんだわよ」


「それはまあ、稽古と試合じゃ心持ちが違いますからね。もちろん稽古は稽古で、本気で取り組んでるつもりですけど……みなさんだって、それは同じことでしょう?」


 何を隠している様子もなく、猪狩瓜子はそう言った。

 まあ、彼女がこのような話題で言葉を偽ることはないだろう。答えにくい問いかけであれば、答えられないとはっきり告げるはずだ。猪狩瓜子は、そういう人間なのである。


「あんたは、自分の変化に無自覚なわけだわね。前回の試合は、まだ見返してないんだわよ?」


「はい。最近はちょっと忙しかったんで、現場で拝見できなかったサキさんと雅選手の……あ、いや、雅さんの試合だけ拝見しました」


「へえ。どないな感想やったのか、じっくり聞かせてほしいところやねぇ」


「今は、目先の議題を優先するだわよ。……まあ、うり坊の変化が不確定要素なら、それは除外して話を進めるんだわよ。警戒すべきは、成美ちゃんのまったり戦法だわね」


 と、何かを振りきるようにして、鞠山花子は話を進めた。

 彼女は猪狩瓜子と同じ階級であるので、その変化については気にかかってしかたないのだろう。しかしそこで私心にとらわれないのが、鞠山花子の美点であった。


(同じ階級に猪狩みたいなやつがいたら、花さんも退屈しないだろうな。アタシも桃園の復帰を期待したいところだけど……あいつのベストウェイトは、バンタムじゃなくってフライっぽいんだよなぁ)


 もしも桃園由宇莉が復帰しても、階級をもとのフライ級に戻す可能性は否めない。『アクセル・ロード』の活躍を見る限り、彼女はそちらの階級まで絞ったほうが万全の動きができるようであるのだ。


 そうすると、朱鷺子がバンタム級で相手取るのは、高橋道子と香田真央と――あとは内々で《アトミック・ガールズ》への出場を取り決めた、鬼沢いつきぐらいであろう。かつて『アクセル・ロード』にも招聘された鬼沢いつきは遠方の住まいであったため《アトミック・ガールズ》とは縁がなかったのだが、このたび上京することになったのだ。それでバンタム級王座決定トーナメントの最後の出場枠に登録されたことは、このゴールデンウイークが終わると同時に告知される手はずになっていた。


 鬼沢いつきも、決して悪い選手ではない。高橋道子や香田真央も、それは同様であろう。しかし、彼女たちが来栖舞や兵藤アケミの領域まで到達するには、まだ長きの時間が必要なのではないかと思われた。


(まあアタシだって、絞ったウェイトでどれだけの動きができるかは未知数だけど……それにしたって、舞さんやアケミさんの領域ってのは、荷が重いよな。そもそも無差別級とバンタムじゃ、戦いの質ってもんが変わってくるんだろうからさ)


 来栖舞や兵藤アケミが恐ろしかったのは、やはりその重量から生み出されるパワーである。来栖舞などは朱鷺子とほとんど変わらないウェイトであったが、あちらは身長が八センチほど低い分、筋肉量が違っていたのだ。なおかつ、無差別級においては減量の必要がないため、誰もが万全のコンディションで試合に臨めるのだった。


 朱鷺子や高橋道子や香田真央は、その安楽な道を捨てて減量に挑んでいる。それもすべては、無差別級に明るい未来が見えないためであった。

 たとえバンタム級でも、日本国内では対戦相手に不足する。しかし、世界にまで目を向ければ――そちらこそが、女子選手のボリュームゾーンであったのだった。


(《アクセル・ファイト》からのスカウトを目指すなら、王座の獲得がマストだろう。高橋や香田も、そういう覚悟で稽古を積んでるはずだ)


 朱鷺子はべつだん、金や功名のために海外進出を目指しているわけではない。さらに言うならば、ただ好敵手を欲しているわけでもなかった。


 もちろんMMAを楽しむには、好敵手の存在が不可欠である。かつての来栖舞や兵藤アケミ――この近年で言うならば、オルガ・イグナーチェヴァ――それらの選手と拳を交わす楽しさと過酷さは、朱鷺子の心にしっかりと刻みつけられていた。


 しかし、朱鷺子が求めているのはあくまで《アトミック・ガールズ》の灯火を守ることであり、ひいては日本の女子格闘技界を守ることであった。《アトミック・ガールズ》で活躍する選手は、世界でも通用する――その事実を補強するために、自らも海外進出を望んでいるのだった。


(もしもアトミックが潰れちゃったら……中学時代のアタシみたいな人間が、行き場を失っちゃうもんね)


 そんな思いを胸に、朱鷺子は稽古に明け暮れている。

 目先の楽しさを追いかけることが、自分の居場所を守ることに繋がるのであれば――そんな幸福な話は他にないはずであった。

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