02 道程
小笠原朱鷺子が武魂会の道場に通い始めたのは、小学校にあがった年となる。
もともと道場に通っていたのは、朱鷺子の兄だ。それで朱鷺子も興味半分で、入門を志願したのだった。
それから朱鷺子は、もう二十年ばかりも道場通いを続けている。兄は中学にあがると同時に退門し、妹などは最初から入門することもなく、朱鷺子だけがどっぷりとこの世界に浸かることになったのだった。
もちろん朱鷺子も、最初からプロ選手を目指していたわけではない。武魂会というのはグローブ空手の流派であり、その時代からキックボクシングのプロ選手に進む道も確立されていたものの、そんな話は念頭になかった。朱鷺子はただ、身体を動かすのが好きなだけであったのだ。もしも兄が空手ではなく野球やサッカーのチームに入っていたのなら、それを追いかけていたのではないかと思われた。
それから朱鷺子は長きにわたって、確たる目的もなく稽古を積んできた。ただもちろん、不熱心だったわけではない。朱鷺子にとっては身体を動かすこと、ひいてはグローブ空手という競技を楽しむことが主眼であったため、それ以外に目的や目標というものを携えていなかったのだ。
グローブ空手という競技は、楽しかった。キッズクラスの時代にはグローブばかりでなくヘッドガードなどの防具も装着が義務づけられていたので、そうまで痛い思いをすることもなかった。余所の子供がミニバスケやダンスなどを楽しんでいるのと同じ感覚で、自分もグローブ空手という競技を楽しんでいるつもりであった。
そこで転機となったのは、中学校への進学である。
それぐらいの時期から、朱鷺子はクラスメートの少年少女たちにたびたび疑問を投げかけられることになった。
「どうして空手なんてやってるの?」
実に数多くの人間が、そのように問いかけてきたのだ。
そしてそれらのおおよそには、「女のくせに」という意味も付随されているようであった。
朱鷺子は何の疑問も持たないまま道場通いを続けてきたが、そうまで周囲から疑問を投げかけられれば、自問せざるを得ない。
自分はどうして、グローブ空手を続けているのか――
しかしやっぱり、明確な答えは存在しなかった。小学一年生の頃から道場に通っていた朱鷺子にとって、武魂会の稽古というのはもはや生活の一部であったのだ。
小学生の中学年ぐらいからは、武魂会の主催する公式大会などにも出場している。最初の年には地区予選で敗退してしまったが、次の年には全国大会まで進むことができ、さらに翌年には準優勝をしてトロフィーをもらうことができた。それで朱鷺子は、いっそうのやりがいを持って稽古に取り組むことがかなうようになったのだった。
しかし、朱鷺子がそういう熱意を示せば示すほど、周囲の人間はいっそう不思議そうな顔をした。
中学生となったからにはクラスメートの過半数が何らかの部活動に入部していたのに、どうして朱鷺子ばかりが疑問をぶつけられるのか、そちらのほうが不思議なぐらいであった。
(男だったら、そんな風には言われないのかな。柔道部も、女子部員はずいぶん少ないみたいだし……女が格闘技をやるのって、そんなに珍しいことなのかな)
そんな疑問を抱きつつ、朱鷺子は道場通いを継続させた。
そんなある日――何の気もなしに立ち寄った書店にて、朱鷺子は小さからぬ驚きに見舞われることになった。本棚に、血まみれの女が表紙になっている雑誌を発見したのである。
それは格闘技マガジンという雑誌で、表紙を飾っているのは来栖舞であった。
兵藤アケミとの死闘を制した来栖舞が、左の目尻から大量の鮮血をこぼしつつ、勝利の雄叫びをほとばしらせていたのだった。
当時の朱鷺子は、MMAや総合格闘技という言葉もよく知らなかった。ただ、来栖舞の手には指の出る奇妙なグローブがはめられており、殴り合いに興じていたことは一目瞭然であった。
(やっぱり女でも、いいんじゃん)
得も言われぬ昂揚に見舞われた朱鷺子は、その場で格闘技マガジンを購入して帰宅した。そうして自宅でその中身を読みあさり、MMAや《アトミック・ガールズ》について学ぶことになったのだった。
その当時、《アトミック・ガールズ》はまだ設立して間もない時代であった。格闘技ブームが終焉した中、来栖舞たちが懸命に興行を盛り上げようとしているさなかであったのだ。来栖舞と兵藤アケミは三度目の対戦であり、前回の試合で敗北を喫した来栖舞が血まみれのリベンジを果たした――と、そのように記載されていた。
女でも、格闘技に没頭する人間は存在する。時にはこうして専門誌の表紙を飾ることもある。それは解消しようのない疑問を抱えていた朱鷺子に、大きな安心感をもたらしてくれたのだった。
そうして意気揚々と道場に向かった朱鷺子は、そちらでもまた新たな事実に行き当たることになった。武魂会の門下生には、キックボクシングばかりでなくMMAにチャレンジする人間も少なくはないと聞かされたのだ。
「もちろんキックに比べたら、そんなに数は多くないけどな。武魂会の理念は、『挑戦する勇気』だからな」
朱鷺子の通う小田原支部道場の師範は、そんな風に語っていた。
「だけどまあ、朱鷺子はまだ中学生だ。今は余所見をしないで、道場の稽古を頑張るべきだと思うぞ」
そんな師範の教えに従って、朱鷺子は道場の稽古に励んだ。
ただ、親にねだって格闘技チャンネルというものに登録し、《アトミック・ガールズ》の試合を視聴する環境を整えた。そうして来栖舞たちが戦う姿を目にした朱鷺子は、これまで以上の熱情を授かることになったのだった。
(アタシも、プロを目指してみよう。MMAは十八歳以上らしいから、まずはキックだな)
そうして朱鷺子は周囲の疑問の目も黙殺して、いっそう熱心に稽古に取り組んだが――とある変化が、朱鷺子の熱情に歯止めをかけてきた。
朱鷺子は中学時代の三年間で十五センチも背がのびてしまい、もともと小さくもなかった背丈が百七十八センチに達してしまったのだった。
「上背の成長に、体重が追いついてないな。たっぷり食べて、肉をつけることだ」
師範の教えに従って、朱鷺子は体重の増量に励んだ。たらふく食べて稽古に打ち込むと、ひょろひょろの身体はすぐに逞しく肥大していった。
だが――そうすると、今度は体重の重さが歯止めになってしまった。六十五キロもの体重になってしまうと、キックの世界ではなかなか対戦相手を見つけられなかったのだ。
「柔道だったら、そう珍しい数字でもないんだがな。やっぱり打撃系の競技は、女子選手の人口がいっそう少ないんだよ」
それでけっきょく、朱鷺子は無聊をかこつことになってしまった。もともとは十六歳になると同時にキックでプロデビューという目論見であったのに、それもかなわなくなってしまったのだ。
武魂会の公式大会であれば、無差別級という階級も存在する。が、そちらもキックに劣らず、参加選手が少なかった。全国大会でさえ女子の無差別級は三、四名しか参加選手がおらず、朱鷺子は一試合か二試合に勝利するだけで優勝することができてしまった。
(なんだよ、もう。だったら最初から、MMAのプロを目指してやる。何せ《アトミック・ガールズ》では、無差別級が花形なんだからな)
高校三年生になった朱鷺子は、両親を説き伏せることになった。進路志望を「MMAのプロ選手」および「武魂会の指導員」に定めてみせたのだ。その際に力を添えてくれたのは、やはり道場の師範であった。
「MMAのプロ選手なんてのは、それ一本で食べていけるわけではありません。いま活躍している選手たちも、そのほとんどは兼業ファイターでしょう。ただ、指導員に関しては見込みがあります。MMAはあくまで副業と考えていただき、うちの指導員を目指してくれるのでしたら、こちらとしてもこんなにありがたい話はありません」
そうして師範は、いかに朱鷺子が後輩たちから慕われているか――その熱心さが、どれだけ尊敬されているか――そんな言葉で朱鷺子を赤面させつつ、両親を説得してくれたのだった。
そうして朱鷺子は高校を卒業すると同時に、武魂会の指導員という肩書きを手にすることがかなった。
その春からは指導員としての職務に励みながら、余所のジムでMMAの稽古を積んだ。そうして二年ばかりの修行期間を経て、いざ《アトミック・ガールズ》への出場を申請したのだが――そこでまたもや、体重の壁というものが立ちふさがってきた。
『武魂会の全国大会で複数回優勝というのは、立派な戦績ですね。ただ、いきなりプロの選手として扱うのは難しいので、まずはアマチュア選手としてプレマッチに出場していただきたいのですが……残念ながら、六十五キロというウェイトでは目ぼしい対戦相手を準備できないのですよね』
電話で応対してくれた、当時のブッキングマネージャー――現在の運営代表である駒形氏は、そのようにのたまわっていた。
「でも……少し前に、武魂会の全国王者がプロデビューしていましたよね。あの選手は、最初からプロ選手として扱われたんでしょう?」
『ああ、はい。ただ、あちらの選手は軽量級でしたので……無差別級はプロ選手も数が少ない代わりに、全員が一騎当千の猛者であられるのです。ですから、二十歳でMMAの試合経験もない新人選手をぶつけるのは、いささかならず危険ですので……』
「だったら、ウェイトを落としますよ。無差別級の下は、五十六キロ以下でしたっけ?」
『は、はい。でも、九キロもウェイトを落としてしまいますと……武魂会の無差別級で全国優勝したという実績も意味を失ってしまいますし……』
「とことん、実績が足りていないってわけですか。わかりました。こっちでも、あれこれ模索してみます」
こういう際に、朱鷺子は逆上するタイプではない。そんな真似をしても問題が解決するわけではないのだから、血圧を上げるだけ損である。それなら、問題解決のために思考を巡らせるべきであった。
(やっぱり全国優勝って言っても三、四人しか出場しない規模じゃ、説得力が足りないんだ。何か、それ以上の実績を積まないと)
それで朱鷺子が選択したのは、キックボクシングのプロの舞台で実績を積むことであった。
もとより朱鷺子は武魂会の全国大会覇者であるので、その気になれば《G・フォース》で融通をきかせてもらうことができる。ただ、あまりコネクションを活用しすぎると実績にケチをつけられそうであったので、まずは尋常にプロテストを受けて合格してみせた。
そしてそちらでも運営陣と交渉して、もっとも現実的なラインを探る。その結果、六十キロまで落とせば対戦相手は見つくろえるという返事をいただけた。
朱鷺子は計画的に減量して、《G・フォース》の試合に臨んだ。結果は、一ラウンドKO勝利である。さらに四ヶ月を置いて二度目の試合でも、同じ結果を残すことができた。そうして朱鷺子はほとんど一年越しで、再びパラス=アテナに電話を入れることになったのだった。
「自分なりに、実績を作ってみせました。これでもまだ、《アトミック・ガールズ》のプロ選手には相応しくないでしょうか?」
『お、小笠原選手は、まだこちらの出場を希望されていたのですか? てっきり今後は、キックの世界でやっていかれるのかと……』
「あれは、あくまで実績作りです。やっぱりアタシもこのウェイトをキープするのはしんどいんで、アトミックでは無差別級を希望します」
朱鷺子がそのように言いつのると、駒形氏は恐縮しきっている様子で面談を求めてきた。
試合にエントリーするのに面談が必要なのかと首を傾げながら、朱鷺子は都心に存在するパラス=アテナの事務所に向かい――そこで、来栖舞と対面することになったのだった。
「……君が、武魂会の小笠原朱鷺子くんか」
当時の来栖舞は、静かな闘志に満ちあふれていた。
なおかつ、朱鷺子にとっては人生を変えるきっかけとなった相手である。さしもの朱鷺子も、いささかならず心拍数を上げることになってしまった。
「《G・フォース》の試合は、わたしも拝見したよ。……確かにあれらの試合の際より、しっかり身体ができているようだね」
「はい。リバウンドで、六十七キロになっちゃいました」
「リバウンドか。しかし、無駄肉などはひとかけらもなさそうだ」
沈着な低い声でそのように語りながら、来栖舞はパイプ椅子で小さくなっている駒形氏のほうを振り返った。
「彼女なら、プレマッチの様子見も必要ないだろう。わたしも、彼女がプロの舞台で活躍する姿を拝見したく思う」
「そ、そうですか。来栖選手がそう仰るなら……」
そんな一幕を経て、朱鷺子はついに《アトミック・ガールズ》で試合を組まれることになった。
相手は、当時の無差別級でもっとも実績のない選手となる。その若手選手を、朱鷺子は一ラウンドで下してみせた。
二戦目は、いきなり中堅選手である。それもまた、無差別級の層の薄さを示しているのだろう。朱鷺子はその選手も、一ラウンドで下してみせた。
そうして、三戦目――これまたいきなり、朱鷺子は無差別級のナンバーツーである兵藤アケミを相手取ることになった。当時の兵藤アケミは来栖舞や外国人選手ぐらいしか対戦に相応しい相手が存在しなかったため、運営陣も調整試合のつもりで朱鷺子をぶつけたのだろうと思われた。
だが――朱鷺子はその試合でも、勝利してみせた。
ただし、フルラウンドを戦い抜いての、判定勝利である。朱鷺子は全ラウンドを通して合計五回のダウンを奪ってみせたが、兵藤アケミはどれだけのダメージを負ってもまったく勢いを弱めることなく、猛牛のごとき突進力で朱鷺子を攻めたててくれたのだった。
あの日の切迫した思いや、試合後のうんざりするような痛みと疲労感――そして、兵藤アケミに勝利できたという充足の思いは、今でも朱鷺子の心にくっきりと残されている。いまだ二十一歳であった朱鷺子が、あの兵藤アケミに勝利することができたのだ。朱鷺子が本当の意味でファイターとしての自分を確立したのは、あの一戦なのだろうと思われた。
それからすでに、五年以上の日が過ぎている。
最初の三年ほどは、来栖舞や兵藤アケミとしのぎを削り――その後の二年ていどは、新たな同志たちとこの道を歩むことになったのだ。
もちろん来栖舞は、今でも朱鷺子の隣に立ってくれている。
しかし、彼女が選手を引退してから、すでに二年近い日が経とうとしていた。
それに続いて、兵藤アケミや清水雅もグローブを置き――《アトミック・ガールズ》のスターティングメンバーは、ついに鞠山花子ただひとりになってしまった。
しかし《アトミック・ガールズ》には、まだあの頃と同じだけの――いや、あの頃以上の熱気が残されている。来栖舞たちからバトンを渡された数多くの選手たちが、それだけの成果をあげているのだ。
朱鷺子は今年で、二十六歳。ベテランファイターを名乗るには早かろうが、若手や中堅と呼ばれる立場ではない。桃園由宇莉や猪狩瓜子という規格外の存在に頼るばかりでなく、自分もしっかりバトンをつかんで、来栖舞たちの意志を受け継ぐのだと――そんな思いで、朱鷺子は本年もゴールデンウィークの合宿稽古を開催したわけであった。
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