インターバル

新たな局面

 三月の第三月曜日――その日も瓜子は、朝一番でユーリのもとを目指していた。

 本日は、《アトミック・ガールズ》三月大会の翌日である。瓜子は今回も一発のバックハンドブローしかくらわなかったため、メディカルチェックは免除されている。なおかつ試合の翌日ということで、午後の時間もまるまる空いていたのだが――どうにも気が逸ってしまったので、朝から来院することになったわけであった。


 興行の結果は、上々である。瓜子はタイトルを守ることができたし、サキも王座を統一することができた。鞠山選手もマリア選手も勝利して、多賀崎選手や小柴選手は敗北することになってしまったが、相手が魅々香選手や犬飼京菜であれば致し方がない。ユーリを悲しませる結果にはならないはずであった。


 よって、瓜子が気にかけているのは、ユーリの容態である。

 この二ヶ月ほど、ユーリの容態は悪い意味で安定していた。


 靭帯損傷に続いて頭蓋骨と右前腕の骨折も完治に至り、それからは多少ながら肉がついて、体重もようやく四十キロを突破したのだが――そこでユーリは、発熱に見舞われる機会が増えてしまったのだ。


 臓器の働きも安定してきたため、食事も流動食から通常の病院食に切り替えられた。しかし、病院側がきちんとカロリー計算しているにも拘わらず、ユーリはたびたび発作的な飢餓感に襲われて、それを無理にこらえようとすると昏睡状態に陥ってしまう。それで現在もなお、栄養素の塊であるという特別仕立ての輸液を摂取していたのだが――その後の運動量が足りないと、栄養の過剰摂取で熱を出してしまうようなのである。


「かといって、昏睡状態を放置しておくわけにもいかないからねぇ。これは何とか摂取した栄養の分まで運動してもらうしかないかなぁ」


 山科院長はそんな方針で、ユーリの看護に努めた。しかし二ヶ月が経過した現在でも、なかなか折り合いがつかなかったのだった。


「もう歩くことに不自由はないし、エアロバイクなんかも漕いでもらっているのだけれどね。運動が過剰になるとまた輸液が必要になってしまうし、輸液を摂取させると運動させざるを得ないし……バランスを取るのが、なかなかに難しいのだよねぇ」


 山科院長はその段に至っても柔和な面持ちであったが、瓜子としては不安なばかりであった。

 しかしそれでも、ユーリは一歩ずつ回復しているのだ。体重が増えて、歩行も容易になったというのは、まぎれもなく前進している証であろう。そんな希望の念でもって、瓜子は体内に渦巻く不安の念を抑え込んでいる状態にあった。


(怪我は完全に治ったんだから、あとはユーリさんの特殊な体質と……やっぱり、精神面の何かが原因なのかな)


 最近のユーリは、精神状態も安定している。というか、瓜子と再会したその日から、ずっと心は安定しているのだ。

 ただ、ユーリは元日早々、初めての発熱と昏睡状態に見舞われている。

 大晦日に瓜子と赤星弥生子の一戦を見届けて、ユーリは初めて自分の口からファイターとして復帰したいと宣言し――そしてその翌日に発熱して、飢餓状態に陥り、特別な輸液を処方されることになったのだ。


 ファイターとして復帰したいというユーリの熱情が、肉体に悪い影響を与えてしまったのであろうか?

 それならば、何としてでもこの苦難を乗り越えるしかない。ファイターとしての復帰をあきらめることなく、健康な肉体を取り戻すしかないのだ。そのために、瓜子も死力を尽くしてユーリを支える所存であった。


 そうして山科医院に到着した瓜子は、本日も受付カウンターで女子事務員に出迎えられることになった。


「桃園さんは、リハビリ室です。今日からリハビリの内容を見直すとのことで、猪狩さんのご意見もうかがいたいそうですよ」


「わかりました。いつもありがとうございます」


 瓜子はぴしゃぴしゃと自分の頬を叩いてから、いざリハビリ室に直行した。

 すると――そちらではユーリと山科院長の他に、見慣れない人々も待ちかまえていた。


「やあやあ、猪狩さん。今日は早かったね。でも、ちょうどよかったよ。いちおう君の意見も聞いておきたかったからさ」


 まずは山科院長が、笑顔でそのように告げてくる。

 病院着のユーリはマットの上にちょこんと正座をして、輝く瞳で瓜子を見上げている。まるでご主人の帰りを待ちわびていた子犬のような風情だ。その愛くるしい姿に、瓜子は涙ぐみながら笑顔を返すことになった。


 現在のユーリのウェイトは、四十三キロである。

 かつての平常体重に比べるとまだ十五キロばかりは軽いし、百六十七センチという背丈から換算しても健康的な数値とは言えないことだろう。しかし、痩せ細った顔にはずいぶん肉がついてきたし、以前に比べればよほど元気そうに見える。そして、雪のように白い髪も五センチていどの長さになって、小柴選手のショートウルフに追いつきつつあった。


「おはようございます。ユーリさんも、すごく元気そうですね」


「うん……今日は、嬉しいサプライズもあったからねぇ……」


 ユーリの声は、まだいくぶんかすれてしまっている。ただその声も、はっきりと弾んでいるように感じられた。


「嬉しいサプライズですか? それに、こちらの方々は……?」


「こちらの方々は、卯月くんの要請で駆けつけてくれたのだよ」


 瓜子も何となく、そんな答えを予想していた。そこには一名ずつの男女が並んでおり、どちらも外国人であったのである。

 男性のほうは三十歳前後の白人で、もしゃもしゃの金髪をしており、酒を飲んでいるかのような赤ら顔だ。それにやたらと恰幅がよくて、青い瞳が明るく輝いており、なんだかレム・プレスマンを連想してしまった。


 女性のほうはもう少し若めで、南米の血筋であろうか。きゅっとひっつめた髪や鋭く輝く瞳は黒く、肌はマリア選手を思わせる黄褐色だ。背丈はユーリと同じぐらいもあって、よく鍛えられていそうなしなやかな身体つきをしていた。


「こちらの女性は、ビビアナ・アルバさん。こちらの男性は、リューク・プレスマンさん。どちらも、卯月くんのチームメイトであられるそうだよ」


「プ、プレスマン? それじゃあ、もしかして……」


「はい。レムは、ぼくの父です」


 リューク・プレスマンなる人物はにこにこと笑いながら、金色の産毛が密集したグローブのような手を瓜子に差し出してきた。


「お会いできて光栄です、瓜子さん。あなたのご活躍は、父や卯月さんから聞いていました。それに、大晦日の試合も拝見しましたよ。あれは、心臓が爆発するようなファイトでした」


「ど、どうもありがとうございます。……日本語がお上手なんですね」


「はい。卯月さんと円滑にコミュニケーションできるように、頑張りました。ぼくもいちおう、チーム・プレスマンのサブトレーナーなんです」


 温かく力強い手で瓜子の手を握りしめながら、リューク・プレスマンはそう言った。


「こちらのビビアナは元選手で、今はトレーナー陣の一員です。ビビアナ、*********」


 リューク・プレスマンが早口の英語でうながすと、ビビアナ・アルバはむすっとした顔で一礼してくる。どうやらこちらは、不愛想なタイプであるようだ。


「実は前々から桃園さんのリハビリについて、卯月くんにも相談していたのだよ。そうしたら昨日の夜、いきなり彼らが派遣されてきたのさ」


「リハビリの? それじゃあこちらの方々が、ユーリさんのリハビリを手伝ってくださるんすか?」


「うん。これからは、格闘技の基礎トレーニングというものもリハビリの中に取り入れてみようと思ってね」


 山科院長がそのように告げるなり、ユーリが正座をしたまま身を乗り出してきた。


「ね、すごいサプライズでしょ……? ユーリはずっと、わくわくが止まらないのです……」


「あ、危ないから、あまり興奮しないでくださいね。でも……普通のリハビリでも加減が難しいっていうお話だったのに、格闘技のトレーニングなんて大丈夫なんすか?」


「同じだけのカロリーを消費するなら、楽しい内容のほうが精神状態によろしいかと思ってさ。何せ桃園さんというのは、精神状態がそのまま肉体に反映されてしまうようだからねぇ」


 あくまでも柔和な面持ちで、山科院長はそのように言いつのった。


「卯月くんもそのように考えて、こちらの方々を派遣してくれたのだよ。トレーニングメニューはプレスマン氏が考案して、補助やパートナーはアルバさんが受け持ってくれるのだそうだ」


「はあ……でもそうすると、何らかの必要経費ってものが生じちゃいますよね? トレーニングのお手伝いだったら、自分たちでも……」


「でも、猪狩さんやご友人の方々がつきっきりになることはできないだろう? それに、見知った人たちとの長時間に及ぶ接触は、桃園さんの精神状態にどのような影響を与えるかもわからないからね。桃園さん自身、自分の弱った姿を見知った人たちに見られたくないという気持ちが少なからずあるみたいだからさ」


 それは、山科院長の言う通りである。それでユーリは、いまだにサキや愛音ともいっさい接触していなかったのだった。


「まあ、こちらの方々に対する報酬に関しては、出世払いでかまわないという話だったよ。……というか、これも治療の一環だからねぇ。形としては、当院から卯月くんに人員のレンタル料をお支払いして、それを桃園さんに請求すると同時に、卯月くんが肩代わりするという感じだね」


 何にせよ、最終的にすべての借財を背合うのはユーリであるのだ。五ヶ月間にわたる入院費と治療費で、ユーリの資産は着実に溶けていっているのだった。


「でも、『トライ・アングル』の活動のおかげで、ユーリの貯金もまだゆとりがあるでしょう……? あと、ナイショの和解金ってやつもプラスされてるはずだからねぇ……」


『アクセル・ロード』で許されざる不始末が生じた際、ユーリは三万ドルにも及ぶ和解金を受け取っているのだ。それは間違いなく、ユーリの預金口座に振り込まれていた。


「でも……このリハビリだっていつまで続くかわかりませんし……立派なトレーナーにつきっきりで面倒を見てもらうとなると、ずいぶん経費がかさんじゃうんじゃ……」


「ぼくたち、格安のお値段です。日本でトレーナーを雇うより、ずいぶんお安いはずです」


 赤ら顔で朗らかに笑いながら、リューク・プレスマンはそのように言葉を重ねる。さらに、山科院長もそれに追従した。


「とにかく僕としては、最善の治療法を模索しているつもりだよ。まず一番に考えるべきは、桃園さんの復調なのじゃないかな? 桃園さんもすっかり期待しているようだし、これで予定を取りやめたら、それこそ熱でも出してしまうんじゃないかな」


「……うり坊ちゃんは、このミッションに反対なのでありませうか……?」


 ユーリがとても不安そうに、瓜子の顔をおずおずと見上げてくる。

 ユーリにそんな顔をされてしまったら、瓜子も腹をくくるしかなかった。


「わかりました。自分も院長先生と卯月選手の判断を信じます。……でも絶対に、ユーリさんを破産させたりしませんからね」


「ありがとぉ……貯金が尽きる前に復活できるように、ユーリも頑張るねぇ……」


 ユーリは心から幸せそうに、天使のごとき微笑みをたたえた。

 それで瓜子は、また涙ぐんでしまう。何にせよ、ユーリの心の動きはそのまま瓜子の心をも揺さぶってしまうのだった。


 そこで、ビビアナ・アルバが瓜子のほうにずいっと進み出てくる。妙に引き締まった面持ちをした彼女は、早口の英語で何事かをまくしたててきた。


「本当は、瓜子さんのスパーリングパートナーを務めたかったと言っています。彼女はつい一昨年まで現役の選手でしたので、血が騒いでしまうのでしょうね」


「はあ……ビビアナさんはまだお若そうなのに、選手を引退されたんですね」


「はい。網膜剥離で、MMAは引退せざるを得なかったのです。でも、柔術に関しては現役ですし、彼女は黒帯の腕前ですよ」


 黒帯の柔術家――それはユーリも、瞳を輝かせるはずである。


「よって、視力に難があるというユーリさんには自分の境遇を重ねているはずですし、このような状態から復帰を願っている姿にも心を動かされているはずです。ただ、卯月さんがユーリさんにご執心なので、ちょっぴりジェラシーを感じているのでしょうね」


 リューク・プレスマンがそのように言いたてるなり、ビビアナ・アルバは頬を赤くしてそちらをねめつけた。リューク・プレスマンは「オウ」と笑顔で自分の額を叩く。


「うっかり外来語を使ってしまいました。ここは嫉妬と言うべきでしたね。でも彼女は稽古にかこつけて悪さをするような人間ではないので、ご安心ください。そして、ユーリさんのこれまでの試合もすべて映像で拝見していますので……内心では、ユーリさんにも強い興味を抱いているはずですよ」


「そうですか」と応じながら、瓜子も気持ちを引き締めなおした。

 何にせよ、これも大きな前進であるはずなのだ。五ヶ月間も稽古から離れていたユーリが、少しずつでも稽古を再開させるというのなら――それは、これまで以上の飛躍であるはずであった。


(頑張ってください、ユーリさん。みんな、ユーリさんの復帰を心待ちにしていますからね)


 そうしてユーリの治療とリハビリは、ここで大きな局面を迎え――そして瓜子が想像していた以上の勢いで、劇的に変転していったのだった。

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