05 ガトリング・ラッシュと極悪バニー、再び

 久子は、花道に足を踏み出した。

 とたんに、凄まじいばかりの歓声が五体に叩きつけられてくる。それがまた、久子をいっそう昂らせた。


 久子の人気は一昨年の下半期から、ぐんぐん急上昇中である。取りも直さず、それは瓜子たちと親睦を深めたゴールデンウィークの合宿稽古をきっかけとしていた。


 あの合宿稽古を体験するまで、久子は人並みの稽古しか積んでいなかった。何せ生活のために働かなくてはならないため、そうまで稽古にばかりエネルギーを割いていられなかったのだ。

 それでもべつだん、自分が不真面目であったとは思わない。週に四回ていど、一日に三、四時間は稽古をしていたのだから、立派なものであろうと思う。プロファイターとは名ばかりのファイトマネーしかいただいていないのだから、損得勘定を抜きにして頑張っているつもりであった。


 だが――初めて体験した合宿稽古の場において、久子はスタミナが追いつかなかった。そして、そんな醜態をさらしていたのは久子と高校生の愛音ばかりであったのだ。

 久子は、それが悔しかった。これまでの自分の頑張りを否定されたような心地であった。生来、負けず嫌いであった久子は、それを契機として稽古時間を増やし――そして気づけば、週に五、六回、一日に五時間ばかりも稽古する習慣に落ち着いてしまったのだった。


 それはきっと、真実も同時に火がついていたためであったのだろう。彼女はスタミナを切らすこともなかったが、余所の選手たちの実力を思い知らされて一念発起することになったのだ。

 そしてそれは、久子も同様であった。久子は瓜子から、真実はユーリから、それぞれとてつもない刺激を受けることになったのだ。


 瓜子とユーリは、それこそ練習の虫であった。彼女たちは週に六回、一日に五時間の稽古というのがマストであったのだ。なおかつ、仕事が早めに終わった際には稽古時間を延長し、唯一の休みである日曜日にも自宅の練習スペースで取っ組み合っているという話であったのだった。


 そうして久子は、瓜子を追いかけることになった。

 追いかけて追いかけて――そして、今日という日を迎えることになったのだ。


 大歓声の花道を歩いている間、久子は顔がにやけるのを止められなかった。

 久子がこれほど楽しみにしている瓜子とのタイトルマッチを、観客たちも同じぐらい楽しみにしてくれているのだ。久子は客席にぶんぶんと手を振って、時には投げキッスを飛ばしてみせたが、それでも体内に渦巻く熱情は収まるものではなかった。


 そうして花道を踏み越えたならば、セコンド陣のほうに向きなおる。

 そちらの面々は、相変わらずにやにやと笑っていた。


「相手がどんな化け物でも、お前のパンチには耐えられねえさ。足を使って、先に当てていけ」

「気合を入れ過ぎて、空回るなよ? それさえ気をつけりゃ、どこかに勝機が転がってるだろうさ」

「スタミナ配分は、まあ必要ねえだろ。初回からかっとばして、あっちが化ける前にKOを狙ってやれ」


 久子は「うん!」とうなずいてから、マウスピースをくわえた。

 そうして三名のセコンドたちとハイタッチしてから、ボディチェック係のほうに向きなおる。


 まずは顔に薄くワセリンを塗られて、手足の肌に異物を塗っていないか簡単にチェックされる。さらに、マウスピースの有無を確認されて、ボディチェックは終了だ。


 久子はスキップまじりで、ケージに上がった。

 久子が試合を行うのは、四ヶ月ぶりのこととなる。運営陣としては前回の大会でこのタイトルマッチを行いたいと考えていたようであるが、瓜子が大晦日の《JUFリターンズ》に参戦することになったため、この三月に順延されてしまったのだ。それで、久子が故障を抱えることを恐れた運営陣が、一月大会で試合を組んでくれなかったのだった。


 四ヶ月ぶりの大歓声が、久子の心を深く満たしてくれる。

 自分の強さと美しさを見せびらかしたいと願う久子にとって、試合の場というのは最高のステージである。この瞬間を楽しむために、久子は過酷なトレーニングに明け暮れて、美容にも磨きをかけているのだった。


 やがて、赤コーナー陣営から瓜子も入場してくる。

 セコンドとして付き従っているのは、立松とサイトーとメイだ。それらの見慣れた姿が、久子をいっそう昂揚させた。


 ボディチェックを完了させた瓜子は、落ち着いた足取りでケージに上がってくる。

 その小さな身体にみなぎる闘志の炎が、久子の内に燃えさかるものと激しく呼応するかのようであった。


『それではコミッショナーより、タイトルマッチ宣言を執り行います!』


 瓜子の保持していたチャンピオンベルトが、ラウンドガールの手によって客席に掲げられる。

 そのきらめきは眩しいばかりであったが――久子にとっては、些末な話であった。もちろん久子は人生で初のタイトルマッチに対して思うぞんぶん昂っていたが、それより何より重要であったのは、瓜子と再び対戦できるという喜びであった。


 その後に披露された国歌清聴に関しても、もどかしい限りである。

 久子は早く、試合をしたかった。これまで自分が育んできたものを、あらゆる人々に見せつけてやりたかった。客席の人々にも、控え室の人々にも、いずれ格闘技チャンネルで放映を観る人々にも――そして何より、瓜子に自分の力を伝えてやりたくてならなかった。


『ご清聴、ありがとうございました。それでは、ご着席ください。……これより、本日のメインイベント! ストロー級タイトルマッチ、五十二キロ以下契約、五分三ラウンドを開始いたします!』


 ついにリングアナウンサーが、そのように宣言した。


『青コーナー。百五十六センチ。五十一・九キログラム。四ッ谷ライオット所属……バニーQ!』


 久子はおもいきり、両腕を突き上げてみせた。

 胸部を保護するチェストガードは窮屈だし、バニーガールのコスチュームにも収まらないため、着用していない。そんなもので底上げしなくとも、久子は業界でトップスリーに入るぐらい、魅惑的なプロポーションをしているはずであった。


『赤コーナー。百五十二センチ。五十二キログラム。新宿プレスマン道場所属……《アトミック・ガールズ》ストロー級第五代王者、《フィスト》ストロー級第四代王者……猪狩、瓜子!』


 瓜子は軽く礼をしながら、右腕を上げた。

 そちらの大歓声こそ、ケージを揺るがすほどである。化粧もヘアメイクも施されていない彼女は、ひたすら幼げな可愛らしい容姿に過ぎなかったが――その小さな身体は、光り輝いているかのようであった。


 久子はどうしようもなく胸を高鳴らせながら、レフェリーのもとまで進み出る。

 同じように前進してきた瓜子は、やはり小さかった。身長などは四センチしか変わらないが、彼女はちまちまとした幼児体型であるのだ。

 ハーフトップとファイトショーツに包まれたその肉体も、水着姿とは異なり不可思議な色香も発散させていない。布地面積の差など些細なものであったが、その些細な違いでバランスが違ってくるのだろう。今の瓜子に感じられるのは、アスリートとしての鋭さと逞しさのみであった。


(二年前は、こんなちびっこに負けるわけないって余裕かましてたんだよなぁ)


 当時の瓜子はデビュー半年ていどの新人選手で、久子との対戦が三試合目であったのだ。それに実際、今ほどの怪物じみた強さも体得していなかったはずであった。

 しかし、今の瓜子はまぎれもない怪物だ。《JUFリターンズ》における赤星弥生子との対戦が、何よりその事実を証明していた。


「では両者、クリーンなファイトを心がけて!」


 レフェリーの手振りに従って、瓜子は両方の拳を差し出してくる。

 久子もまた、両手でその手をつかみ取ってみせた。


「ぜーったい負けないよー! うり坊も、手なんか抜いたら許さないからね!」


 瓜子は気合のみなぎる眼差しのまま、「押忍」と口もとをほころばせた。

 試合の直前に、なんと可愛らしい笑顔を見せてくれるのだろう。そんな瓜子の笑顔までもが、久子の心を躍らせた。


「では両者、コーナーに!」


 久子は最後にめいっぱいの力で瓜子の手を握ってから、フェンス際まで退いた。

 瓜子もこちらを見つめたまま、後ずさっていく。大歓声がいつまでもやまないため、鼓膜がどうにかなってしまいそうであった。


 レフェリーの「ファイト!」という声に、試合開始のブザーが重ねられる。

 久子は全身に脈打つ熱情に従って、まずはおもいきり前進した。


 久子はアウトスタイルというものを身につけたが、ただ逃げ回るだけが能ではない。インとアウトの素早い出入りこそが、久子の求めるスタイルであった。


 まずは、遠い距離から右フックをふるってみせる。

 瓜子はすかさずアウトサイドにかわしたので、久子も逆の方向にステップを踏んだ。


 ほんの二ヶ月前まで週二回のペースで稽古をともにしていたため、おたがいの手の内はおおよそわきまえている。

 しかし、試合となれば勝手が違ってくるものだ。アドレナリンの作用だか何だかか知らないが、久子は稽古よりも試合のほうが鋭い動きができるものと自負していた。


 それに、スパーでは大きなグローブや防具を装着している。それでは動きが鈍ってしまうし、攻撃の威力も落ちてしまうのだ。瓜子は骨の硬さを売りにしていたが、久子とてパンチ力の強烈さを自慢にしていた。


(うり坊はまだ、あたしの本気のパンチをくらったことがないでしょ? あたしのパンチだって、痛いんだからね!)


 そんな思いを込めながら、久子は左ジャブを繰り出した。これもまた、プレスマン道場で磨きをかけたテクニックだ。

 瓜子は鋭いステップで、久子の攻撃を回避する。プレスマン道場の方針で、試合の前半はリズムをつかむことを重んじているのだ。それがこちらのセコンド陣に「スロースターター」と言わしめた要因であった。


 それに瓜子は窮地に陥ると、怪物じみた爆発力を発揮させる。

 本人いわく、追い詰められると集中力が跳ねあがり、五感が冴えわたるようであるのだ。それで彼女がどれだけの怪物に変貌するかは、これまでの試合で明かされていた。


 久子はあまり過去の試合をチェックしない性分であるが、瓜子の試合だけは欠かさず見返している。

 瓜子が怪物としての片鱗を見せたのは、久子と出会ってからしばらく過ぎた後――二年前の五月大会、ハワイのラニ・アカカとの対戦においてである。

 しかし決定打となったのは、その二ヶ月後。メイとのタイトルマッチであろう。マリアと対戦する真実のセコンドとして会場に入った久子は、控え室のモニターでそのさまを見届けることになった。


 それ以来、瓜子はほとんどの試合で怪物じみた強さを見せつけている。

 例外は、秒殺で終わってしまった試合のみだ。あとは、チーム・フレアの一色ルイが勝手に自爆した折にも、瓜子の怪物じみた力を持ち出す隙はなかった。


(だからうり坊はスロースターターじゃなくって、ピンチになるといっそう強くなるってだけのことさ)


 ならば、瓜子がピンチという状況になる前に、試合を終わらせる。

 それが、久子たちの出した結論であった。

 試合時間は、あまり重要ではない。とにかく瓜子がおかしな集中力を発揮させる前に、KOで沈めるのだ。


(要するに、赤星弥生子の大怪獣タイムみたいなもんだ。自分の意思で出したり引っ込めたりできないってんなら、それよりはマシだろうさ!)


 久子は思うさまステップを踏みながら、攻撃の隙をうかがった。

 瓜子は慎重であるため、なかなか隙は見つからない。久子が弱めの左ジャブで誘っても、なかなか自分から近づいてこようとはしなかった。


(時間はあんまり関係ないけど、うり坊があたしの動きに慣れる前に、一発かます!)


 久子はおもいきりマットを蹴って、瓜子のアウトサイドに踏み込んだ。

 そして、スピードを重視した左のショートフックを叩きつける。

 グローブは小さいし防具もつけていないため、久子の動きは稽古の際よりも軽やかだ。この踏み込みで、このパンチであれば、絶対に当たるはずだった。


 しかし――久子の拳は、空を切った。

 そしてボディのど真ん中に、思わぬ衝撃が走り抜ける。

 ダッキングで久子の攻撃をかわした瓜子が、カウンターのボディブローを当ててきたのだ。


 その一発で呼吸を止められた久子は、マウスピースを噛みしめながら後ずさった。

 しかし、瓜子との距離は変わらない。久子が下がるのと同じ勢いで、瓜子が前進してきたのだ。


 その左拳が、ぐっと攻撃のモーションを見せる。

 それで久子は反射的に上体を反らしたが――それでもかわしきれないスピードで、鋭い左ジャブが鼻を叩いてきた。


 闘争本能を刺激された久子は、足を使わずに右フックをお返しする。

 しかし再びダッキングでかわされて、カウンターの右ストレートを合わされてしまった。


 その一撃ずつが、とてつもなく痛い。

 あちらもまた、稽古の際よりも小さくて薄いグローブであるのだ。久子がこの痛みを味わわされるのは、二年以上ぶりのことであった。


 久子と同様に、瓜子も稽古の際よりも身軽に動けているのだ。

 その事実を思い知らされた久子は、体勢を整えるべくステップを踏んだ。


 しかしやっぱり、瓜子との距離は変わらない。

 追い詰められた久子は、右アッパーを繰り出した。

 だが、瓜子の姿が消えている。いつの間にかアウトサイドに逃げた瓜子が、右ジャブを叩きつけてきた。


 右ジャブということは――久子が認識していない間に、スイッチをしたということだ。

 久子がほとんど本能で頭部をガードすると、間一髪のタイミングで左フックが飛ばされてきた。


 瓜子の拳が、久子の前腕にめりこむ。

 その一撃で骨が折れてしまったのではないかというぐらい、瓜子の拳は痛かった。


 そして久子は、バランスを崩してしまう。

 左足に、インローを叩きつけられたのだ。

 久子が半ば恐慌状態で頭を抱え込むと、そこに左右のフックが浴びせかけられた。

 そして息をつく間もなく、腹を叩かれる。二度目のボディブローで、久子は涙ぐむぐらい苦しかった。


(なんだよ……なんでそんなに、強いんだよ!)


 怒りにも似た激情に衝き動かされて、久子はがむしゃらに右フックを繰り出した。

 それをすかした瓜子が軽い左ジャブと重い右フックを返してくる。瓜子はまた、知らない内にスイッチをしていた。


 久子の攻撃は一発も当たっていないのに、瓜子の攻撃はすべて当たっている。

 自分と久子には、それほどの実力差があるのだろうか?

 そんな思いが、久子を惑乱させた。


(そんなわけない! あたしだって……あたしだって、あんなに頑張ってきたんだから!)


 久子は、左右のフックを振り回した。

 その頃には、瓜子の姿が遠ざかっている。そして、離れた場所から右ミドルを出してきた。

 久子がかろうじて腹を守ると、またうんざりするような痛みが前腕に走り抜ける。拳ばかりでなく、瓜子は脛までもが石のように硬かった。


 そうして久子の動きが止まると、瓜子はまた接近してパンチを出してくる。

 久子は何とかガードしたが、金属バットで滅多打ちにされている気分であった。


 これではまるきり、赤子扱いである。

 二年と二ヶ月ぶりのリベンジマッチであるというのに――人生で初めてのタイトルマッチであるというのに――あれだけ待ち焦がれた瓜子との対戦であるというのに――このままでは、何もできないまま終わってしまう。


 そんな思いが、久子に悲哀にも似た気持ちを抱かせた。

 そんな結末は、どうしても我慢できない。

 そして、思ってもみない激情が、久子の背筋に走り抜けた。


(あたしがそんなにへっぽこだったら……うり坊が、ひとりぼっちになっちゃうじゃん!)


 久子はおもいきり、右足を振り上げた。

 それをかわした瓜子が、またアウトサイドに回り込んでくる。そちらにヤマを張っていた久子は、足が戻りきらない内に左のバックブローを振り回した。

 しかし、ダッキングでかわされてしまう。

 ならば、低い軌道の右フックだ。

 瓜子はバックステップで、その攻撃をも回避した。


 久子は声にならないわめき声をあげながら、突進した。

 左右のフックに、右ローを振り回す。間合いも何も計算していないので、それらもすべて簡単にかわされた。

 そこで瓜子がまた近づいてこようとしたので、久子は両足タックルのフェイントをかけてみせた。

 瓜子は弾かれたような勢いで、バックステップを踏む。やはり、テイクダウンの仕掛けも十分に警戒しているのだ。


 久子はフェイントに使った手で、そのまま右アッパーを繰り出した。

 これも、距離が届かない。

 そこまで見越していた久子は、右アッパーの勢いに乗る格好で足を踏み出し、左フックにまで繋げた。

 これは、ウィービングでかわされる。

 続いての右フックは、ダッキングでかわされた。

 ならばと左のレバーブローを繰り出すと、それをすかした瓜子がアウトサイドに回り込もうとした。


 ここである。

 これまでのアクションで瓜子がアウトサイドに回り込むタイミングを計った久子は、右方向に旋回しながら右腕を振りかざした。


 再びの、バックハンドブローである。

 久子は天に祈るような心地で旋回し――一瞬の奇妙な静寂の後、右拳に確かな感触を得た。

 硬い、とてつもなく硬い感触である。これは絶対に、腕などではない。久子のバックハンドブローが、瓜子の頭部をとらえたのだ。


 久子は瓜子の姿を視認する前に、左フックのモーションに入った。

 そうして身体をねじっていくと、瓜子の顔が見えてくる。

 瓜子は痛そうに、右の目を細めている。

 その顔に、久子は左フックを繰り出した。

 だが――その左拳が瓜子のこめかみに触れる前に、凄まじい衝撃が下顎に炸裂した。


 久子の視界が、真っ白に染まる。

 下顎にくらった衝撃で、頭蓋骨がどこかに飛んでいってしまったような心地であった。


 そうして次に気づいたとき――灰原はヘッドコーチに膝枕をされながら、マットに横たわっていた。


「コーチ……なんで……?」


「おっ、ようやく気づいたか。まだ頭を動かすんじゃねえぞ。二、三分は、意識を飛ばされてたんだからな」


 そんな声が、ひどく遠い場所から聞こえてくる。

 それは、会場が大歓声に包まれているためであった。


 ヘッドコーチは、ほっとした顔で笑っている。その手の氷嚢が、久子の頭に押し当てられていた。

 ポロシャツ姿のリングドクターは、自分の役目は終わったとばかりに立ち上がる。そうして彼が身を引くと、チャンピオンベルトを巻いた瓜子の姿があった。


「しあい……どうなったの……?」


「一ラウンド、二分半ていどで、KO負けだ。まあ、前回の試合より短いぐらいのタイムだったが……あのときとは比べものにならねえぐらい、根性を見せたよ」


 それはきっと、二年二ヶ月前の話をしているのだろう。その日の久子は、三分ていどの試合時間でTKO負けをくらうことになったのだ。


「あたし……だめだったね……」


「駄目なことはねえよ。相手が怪物すぎただけさ」


「それじゃあ……だめなんだよ……」


 久子はずきずきとうずく右手の甲を目もとに押し当てて、泣き顔を隠した。

 二分半の試合時間で、久子の当てた攻撃は一発だけだ。こんなに不甲斐ない話はなかった。


(サキとやりあったときのうり坊も……こんな気分だったのかな……)


 デビュー二戦目で王者のサキと対戦した瓜子は、やはり一ラウンド目でKO負けを喫することになった。そしてその際には、サキに一発の攻撃を当てることしかできず――奇しくもその攻撃は、右のバックハンドブローであったのだった。


「灰原選手、お疲れ様です」


 と――限りなく優しい声が、久子の上に降ってきた。

 久子は身を起こす気力もないまま、右手の陰から頭上をうかがう。そこに、とても心配そうな表情をした瓜子の顔が浮かんでいた。


「うりぼう……しょうりしゃいんたびゅーは……?」


「そんなの、待たせておけばいいんすよ。灰原選手は、大丈夫っすか?」


「……だいじょうぶじゃ、ない……」


 そうして久子が嗚咽を呑み込むために口を閉ざすと、瓜子の温かい手が久子の左手を包み込んできた。


「今日はありがとうございました。いつかまた、よろしくお願いします」


「なにいってるんだよ……あたしみたいなへっぽこは、なんのやくにもたてないよ……」


「へっぽこなんて、とんでもないっすよ。最後のラッシュでは、背筋が凍りました。自分がどれだけ必死だったか、灰原選手にはわからないんすか?」


 瓜子の顔が、とてもあどけない微笑をたたえている。

 あんな怪物のような強さを持ちながら、それは天使のように可愛らしい笑顔であった。


「やっぱり灰原選手は、すごいです。これからも、どうぞよろしくお願いします」


 そのように語る瓜子の右目の下あたりが、わずかに赤くなっていた。

 それが久子の残せた、唯一の証であるのだ。

 久子はどうしようもなく涙をこぼしながら、「なんだよー……」と笑ってみせた。


「そんなふうにいわれたら、もっとがんばるしかないじゃん……あたしがこんきをのがしたら、うりぼうがなんとかしてよね……」


「あはは。それは多賀崎選手におまかせします」


 瓜子は最後に久子の手をぎゅっと握りしめてから、身を起こした。

 そうして背中を向ける瓜子のほうに、久子は思わず手をのばしてしまう。そしてその手で、ぐっと拳を作ってみせた。


(わかったよ……あんただって、がんばってきたんだもんね……あたしはぜったい、あんたにおいついてみせるよ……)


 そうして久子は、力なくまぶたを閉ざした。

 会場には、相変わらずの大歓声が渦巻いていたが――それはまるで、子守歌のように久子の心を安らがせてくれたのだった。

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