03 入場

 それから、二週間と少しが過ぎて――三月の第三日曜日、《アトミック・ガールズ》三月大会の当日である。

 試合会場である『ミュゼ有明』に到着した久子は、また大いに心を浮き立たせることになった。物販ブースに、久子と瓜子のポスターが張られまくっていたためである。


 ポスターだけで、なんと四パターンも存在した。しかもそのひとつは、久子単体の水着姿であったのだ。久子個人の物販グッズが販売されるというのは、これが初めての体験であった。


 さらに、ブースにはバリエーションの豊かなクリアファイルやポストカードなどが山積みにされている。それらのすべてが、みんな異なる写真であるのだ。何百枚もの写真から厳選されたものであるため、久子としてもまったく申し分のない出来栄えであった。


「あのさあ……嬉しいのはわかるけど、そろそろ控え室に行かない? 自分の水着姿に見とれて遅刻なんてしたら、言い訳が立たないよ?」


 久子のかたわらに控えた真実が、苦笑まじりに呼びかけてくる。久子は昨日も彼女の家に押しかけて、ともに来場したのだった。


「だって、印刷がギリギリだったとか言って、まだサンプルももらってなかったんだもん! こんなに山ほど準備されて、売れ残ったりしないかなー? あたしのだけ売れ残ったりしたら、超ショックなんだけど!」


「知らんよ。それより、試合に集中しなさいな」


「シューチューなんて、今さらっしょ! なんせ、うり坊とのタイトルマッチなんだからね!」


 そうして久子はいっそうの気合をみなぎらせながら、控え室に向かうことになった。

 そちらで待ちかまえていたのは、赤星道場の面々だ。本日は、マリアの復帰試合もマッチメイクされていたのだった。


「おー、マリアじゃん! 先月の《フィスト》の打ち上げ以来だねー! 調子はどーよ?」


「はい、ばっちりです。今日は絶対に、結果を出してみせます」


 マリアは本日も、おひさまのようににこやかであった。

 彼女はあまりに善良すぎるためか、いささか面白みを感じない。しかしそのぶん気持ちのいい人間であるため、久子も好ましく思っていた。


 そんな彼女のセコンドとして控えているのは、大江山の父娘と青田コーチだ。最近は《レッド・キング》も休業中であるためか、コーチ陣も人手にゆとりがあるのかもしれなかった。


 そしてそれ以外には、あまり仲良くしている相手の姿も見えなかったが――その代わりに、久子が苦手にしている人物がいた。アトム級の正規王者にしてベテランファイターたる、雅である。


(うわー、雅ねーさんも同じ陣営だったのかー。ま、うり坊とサキが同じ陣営なんだから、そりゃそっかー。でもこの人、おっかないから苦手なんだよなー)


 言動の荒っぽい人間などはあしらいやすいものであるが、この雅という女性はねっとりと微笑みながら冷たい圧力を与えてくるのだ。こういう内心の知れない人間は、久子のもっとも苦手とするところであった。


 しかし、それからすぐに武魂会と天覇ZEROの面々が到着したため、控え室は一気に賑やかになった。そちらには、小柴あかり、小笠原朱鷺子、鞠山花子という顔ぶれが居揃っていたのだ。


 久子と真実は一月大会を区切りとしてプレスマン道場での出稽古を一時取りやめていたが、天覇ZEROでの出稽古はずっと継続している。四ッ谷ライオットのコーチングに不満があるわけではないのだが、やはり体格の似通った女子選手とのスパーリングは有用であるし、それより何より楽しいのだ。一昨年のゴールデンウィーク以降、久子たちはすっかり他なる所属の女子選手との合同稽古に魅了されてしまっていた。


(魔法老女はいちいちムカつくけど、ま、そこまで悪いやつじゃないしね)


 鞠山花子というのもまた、何らかの本性を押し隠している人間であるのだろう。よって久子もあまり素直な気持ちで接することはできないが、人間としては信頼していた。それにまあ、彼女とケンケンやりあうのも、楽しくないことはなかった。複雑怪奇な気性をしたユーリや、まったく内心の知れない雅に比べれば、遥かに心安いぐらいだ。久子にしてみれば、楽しいケンカ相手のようなものであった。


(雅ねーさんも《カノン A.G》の騒ぎのときは、けっこーカッコよかったもんなー。あのまま仲良くなれたら、面白かったのに……ま、住んでる場所も遠いし、しかたないか)


 その雅と花子は、さっそくこそこそと密談し始めた。《アトミック・ガールズ》のスターティングメンバーであった彼女たちは、久子たちにはうかがい知れない絆を結んでいるようであるのだ。それもまた、久子がずかずかと入り込めない領域であるように感じられた。


 よって久子は、武魂会の面々と楽しませていただく。そちらはもう、なんの気兼ねもいらない顔ぶれであった。


「コッシーもトッキーも、元気そーだね! 試合が終わったら、今日も一緒に打ち上げを楽しもうねー!」


「今日は猪狩とのタイトルマッチだってのに、灰原さんは余裕しゃくしゃくだね。まあ、それが灰原さんの強みなんだろうけどさ」


 小笠原朱鷺子は、ゆったりと微笑んでいる。彼女は久子より年少であったが、ものすごく大人びているのだ。たとえ年少だとしても、久子にとっては頼り甲斐のある先輩のような存在であった。


 いっぽう小柴あかりは、この段階でもういささか張り詰めた顔をしている。今日の対戦相手は犬飼京菜という強敵であったし、そうでなくとも彼女は思い詰めるタイプであったのだ。しかし、試合になれば過不足のない実力を発揮できるので、これも彼女にとっては必要な精神統一の表れなのだろうと思われた。


 そうして挨拶をしたのちは、一丸となって試合場に向かう。

 その途中で、雅がすっと姿を消したが――久子は、気にしないことにした。彼女の世話を焼くのは、久子の役割ではないのだ。


(きっと雅ねーさんは、試合前に対戦相手と顔をあわせたくないタイプなんだろうな。だったら、好きにすりゃいいさ)


 彼女は久子と同じく、プレスマン道場の門下生とタイトルマッチを行う予定であるのだ。かといって、久子が雅と結託する理由はなかった。


「うり坊、おつかれー! ついにこの日が来ちゃったねー!」


 ケージのそばに瓜子の姿があったので、久子はそのように呼びかけてみせた。

 瓜子はこちらを振り返り、いつも通りのあどけない笑顔を返してくる。


「はい。今日はよろしくお願いします」


 瓜子とは、昨日もタイトルマッチの調印式で顔をあわせている。昨日も今日も、彼女は思わず頬ずりをしたくなるぐらい可愛らしかった。

 ただその小さな身体には気合がみなぎっているし、それは久子も同様であるのだろう。そして、瓜子が自分との試合に気合をみなぎらせているという事実が、いっそう久子を昂揚させた。


 そんな瓜子の周囲には、プレスマン道場の陣営が居揃っている。サキ、愛音、メイ、立松、ジョン、サイトー、柳原――久子にとっても、見慣れた面々だ。そこにユーリが含まれていないことも、この数ヶ月ですっかり見慣れてしまった。


「物販ブースは、もう確認したー? あたしはもちろん、うり坊もめっちゃ色っぽかったよー! やっぱ、トシ先生の腕は確かだねー!」


「や、やめてくださいよ。試合前に対戦相手の集中を乱そうだなんて、灰原選手らしくないっすよ?」


「あはは! そんなんで集中を乱すのは、うり坊だけっしょー? おかげであたしは、テンション上がりまくりだよー!」


 すると、仏頂面をした愛音が声をあげた。


「灰原選手は、スターゲイトとマネージメント契約を結ぶ準備を進めているとうかがったのです。それは、事実であるのです?」


「うん! タイトルマッチが終わるまでは大人しくしとけってコーチ陣がうるさかったから、今週中に話をさせてもらうつもりだよー!」


 そんな事情も相まって、久子はいっそう気分揚々なのである。

「そうなのですか」と、愛音は可愛らしく口をとがらせる。


「まあ、灰原選手だったらモデルとしても大失敗することはないのでしょうけれど……失礼ながら、遅咲きの感は否めないのです」


「へっへーん! イネ公は、ずいぶん悔しそうだねー! だったら自分も、モデルとして売り込んでみればー? ま、グラドルとして売り込むには、ちょーっとあちこちのボリュームが足りなそうだけどねー!」


「やかましいのです。モデルにとってグラマラスなプロポーションだけが重要でないことは、猪狩センパイが証明しているのです」


「だってうり坊は、お胸がお貧しくても色気たっぷりだからねー! あんたにはとーてい真似できないっしょ!」


「だ、だから、そういう話題はご遠慮くださいってば」


 そうして久子たちが騒いでいると、別の一団も近づいてきた。武中キヨが所属する、ビートルMMAラボの面々である。


「四ッ谷ライオットのみなさん、お疲れ様です。今日も最後までよろしくお願いします」


「おー、キヨっぺ! お疲れさまー! 今日は兄ちゃんも一緒だったんだ?」


「ふん。俺も来月の試合までは、手が空いてるからな」


《NEXT》のトップファイターであるという武中キヨの兄が、愛想のない表情と言葉を返してくる。彼とはこれまでに、打ち上げで何度か顔をあわせていた。


「キヨっぺも、今日は正念場だね! 魔法老女の寝技は厄介だから、それだけは気をつけなねー!」


「はい。わたしとしては、いきなり屈指のトップファイターをぶつけられた心地です。でも、これを乗り越えられたら、大きいですからね。死ぬ気で勝ちを拾ってみせます」


 武中キヨもまた、瑞々しい気合をみなぎらせている。

 彼女はほどよく誠実で、ほどよく無邪気な人間であった。彼女に連勝した久子を恨んでいる様子もないし、むしろ他の相手よりも親愛を抱いてくれている様子であった。


(あたしもついに、年下のコになつかれる立場になっちゃったかー。ま、あたしもいよいよアラサーだからなー)


 久子は現在二十六歳で、今年の内にもうひとつ齢を重ねることになる。武中キヨは、それより二、三歳は年少であるはずであった。


「そういえば、鞠山さんって試合前の挨拶を嫌がるタイプでしょうか? それだったら、遠慮しておこうかと思ってるんですけど」


「え? 遠慮も何も、魔法老女だったらすぐそこに――」


 と、久子はそこで花子が姿を消していることに気づいた。

 視線を巡らせると、ずいぶん離れた場所で他の一団と歓談している。それは、天覇館の面々であった。


(あー、魔法老女はミミーと仲良しなんだっけ。あたしも挨拶しておきたいけど……ミミーこそ、あんまりマコっちゃんとは顔をあわせたくないんだろうなー)


 そんな風に考えた久子は、笑顔で武中キヨを振り返った。


「ま、試合前の挨拶なんて、どーでもいいんじゃない? 試合の後なら、恨みっこなしで仲良くできるだろうしさ!」


「そうですか。それじゃあ、タイミングが合えばということで」


 武中キヨも、納得した様子で微笑んでくれた。

 試合前の心境は、人それぞれであるのだ。対戦相手と顔をあわせたくないと考える人間もいれば、久子のように何も気にしない人間もいる。

 しかし久子にとって重要であるのは、試合前ではなく試合後であった。

 試合が終わったらノーサイドで、どんな相手とも仲良くしたい。その一点さえ守れれば、結果的にすべて丸く収まるはずであった。


「そーいえば、ゴールデンウィークまであと一ヶ月ちょいだね! トッキー、キヨっぺも誘っちゃって問題ないっしょ?」


 久子の言葉に、朱鷺子は「ああ」と微笑んだ。


「そういう話は試合が終わってからと思ってたけど、もちろんアタシは大歓迎だよ。でも、武中さんの都合はどうなのかな?」


「え? それってみなさんが仲良くなるきっかけになった、武魂会の合同合宿のことですよね? それに、わたしも誘っていただけるんですか?」


 武中キヨは、たちまちぱあっと顔を輝かせた。

 久子は「もっちろーん!」と応じてみせる。


「キヨっぺとは、まだ出稽古で一緒になったこともないしねー! 打ち上げとかで仲良くなれたんだから、稽古も一緒に楽しもーよ!」


「ありがとうございます! そんなの、想像しただけでワクワクしちゃいますね!」


 武中キヨが無邪気にはしゃぐと、その兄が「おいおい」と口をはさんだ。


「それより、試合に集中しろよ。仲良くするのはけっこうだけど、こいつは遊びじゃないんだからな」


「ふーんだ! そんなこと言って、羨ましいんでしょ? でも、合宿稽古は男子禁制だからね!」


「……去年は卯月さんが特別コーチで参加したって言ってたじゃねえか」


「まさか、兄貴はそのポジションを狙ってるの? 下心が見え見えだよー」


「ふ、ふざけんな! 誰が汗くさい女どもに下心なんて持つかよ!」


 兄をからかう際には、武中キヨもいっそう無邪気な素顔があらわになる。その姿は、いつも久子の胸を温かくしてくれた。親に勘当されて以来、久子は兄とも弟とも絶縁状態であったのだった。


 もはや十年近くも音信不通である家族たちに、生まれ変わった自分の姿を見てほしい――そんな考えもなくはなかったが、やはり自分からのこのこと顔を出す気持ちにはなれない。この新しい自分を否定されてしまったら、久子は今度こそ家族を恨むことになってしまうはずであった。


(ま、あたしが雑誌の表紙でも飾ったら、嫌でも目に入るだろうしな。……あ、でも、ここまで人相が変わってたら、さすがにわかんないかな?)


 何にせよ、それは久子にとってさほど重要な話ではなかった。

 久子はつくづく器が小さいため、そんなあれこれ抱え込むことはできないのだ。家族や故郷の人間たちと真っ当な関係性を築くことのできなかった久子は、この新天地で出会った人々を大切にすることで手一杯であったのだった。


 そうしてその日も試合前とは思えない和やかさの中で時間は過ぎていき――ついに、《アトミック・ガールズ》三月大会は開演することに相成ったのだった。

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