02 新たな熱情
「じゃじゃーん! 今日のビキニは、黒でしたー!」
久子がカーテンの引かれた脱衣スペースから飛び出すと、真実は雄々しい顔に苦笑を浮かべた。
「あんた、何歳だよ? 見てるこっちが恥ずかしくなっちまうだろ」
「まずはマコっちゃんにサービスしてあげよーと思ったんだよー! どうどう、色っぽい?」
「あんたから色気を取ったら、何が残るのさ? いいから、さっさと準備しちまいな」
「ふっふーん!」と胸をそらしながら、久子はガウンを肩に引っ掛けた。
まだ試合までには二週間以上を残しているため、久子のウェイトは五十五キロていどである。これからじっくり調整して、試合の前日までに五十二キロまで落とすのだ。
久子が最初のダイエットに成功した十九歳の頃よりは、遥かに重い数値となる。しかし久子は、現在のプロポーションこそがベストであると自負していた。重量がかさんでいるのは、筋肉が脂肪よりも重いためであるのだ。シルエットそのものは、現在のほうが細く見えるぐらいのはずであった。
それでいて、胸や尻は以前よりも大きくなっている。それで腰のくびれが強調されて、いっそう理想的なラインを描いているのだ。なおかつ、腿やふくらはぎの張り具合もちょうどよく、若い頃とは比較にもならない脚線美となっていた。
現在の久子は、異性に心をひかれないように自分を律している。久子は男を見る目がない上に、恋をするとどっぷりのめりこんでしまうためである。
よって、美容に重きを置く理由はないかに思われたが――実情は、まったく違っていた。自分の容姿に自信がつけばつくほど、久子は満ち足りた心地であったのだ。
やはり久子は、容姿に重きを置く人間であったのだろう。だから学生時代はコンプレックスを抱えることになってしまったし、今はこれほどに幸福な心地であるのだ。
他人のためではなく、自分のために容姿を磨く。それだけで、久子は十分に幸福であった。それを他人に見せびらかしたいというのは――格闘技の試合で強い自分を見せたいというのと、同じようなものだ。他の人間がどうだかは知らないが、久子にとってはそれが真実であった。
だから久子は、顔などに傷がつくのが怖い。
しかし、格闘技をやめようという気持ちにはなれない。現在の久子にとって、美しさと強さは同じぐらい重要であるのだ。格闘技をやめて美容ばかりを追い求めていたら、今の半分しか幸福になれないはずであった。
(だから、やっぱり……あたしの最大のライバルは、このちびっこうり坊ってわけだ)
そんな闘志を燃やしながら、久子は部屋の片隅で小さくなった瓜子の前に立ちはだかった。
「今日は、タイトルマッチの前哨戦だね! まずは、見た目の可愛さでうり坊に勝ーつ!」
「だ、だから、それは灰原選手の完勝ですってば。……メイクさんたちが、ずっとお待ちかねっすよ?」
「あー、そうだったそうだった! それじゃあ、よろしくお願いしまーす!」
久子は肩に引っ掛けていたガウンを適当に羽織って、パイプ椅子にどしんと着席した。
そうして久子が顔と髪をいじくられている間に、真実は瓜子とのおしゃべりにいそしむ。真実もまた、瓜子に大きく心を寄せているはずであるのだ。
「猪狩は本当に、お疲れ様だね。MMAのほうでは、あたしもめいっぱい頑張るつもりだけど……こればっかりは、肩代わりのしようもないからなぁ」
「そのお気持ちだけで、十分です。でも、撮影中はなるべくこっちを見ないでくださいね」
「あはは。承知したよ。でも……猪狩はちょっと、元気がないみたいだね。もしかして、あっちのほうで何かあったのかい?」
「あっち」とは、入院中であるユーリについてであろう。今はメイク係の耳があるため、真実も言葉を選んでいるのだ。
「ええまあ、ここ最近、大きな変化はないんですけど……その変化のなさが、問題っていうか……」
「でも、体重は戻ってきてるんだろう? また熱を出しちまったのかい?」
「はい。栄養摂取と運動量のバランスが、なかなか難しいみたいです。……もし時間があったら、あとでゆっくりお話しさせていただけませんか?」
「もちろんだよ。灰原だって、気になってしかたないだろうしね」
もちろん久子も、ユーリの病状は気にかかってならなかった。彼女はついにすべての負傷が全快して、痩せ細った身体にようやく肉がついてきたという話であったのだが――それと同時に、発熱の機会が増えてしまったという話であったのだった。
久子はユーリという娘に対して、複雑な気持ちを抱いている。真実や瓜子に対しては混じり気のない情愛を抱いているのだが、ユーリに対しては――どうも、素直に好きとは言いにくい心情なのである。
もしかしたら、それは同族嫌悪というものなのかもしれなかった。
久子とユーリは、少しだけ似た部分を持っているのだ。きっと辿ってきた過去は大きく違っているのであろうが、その末に育まれた性根が――異性を遠ざけながら美容に磨きをかけて、それを見せびらかすことに幸福を覚えるという、そんなひねくれた性根が似てしまっているように思えてならないのだった。
しかもユーリは、自らの美しさを商売にしている。彼女は久子よりも美しく、とてつもないほどの色香を有しているため、グラビアアイドルを生業とすることがかなったのだ。
なおかつユーリは、久子よりも強い。階級が違うので公式の場で決着をつけることはかなわないが、仮に試合をしても勝つことは難しいだろう。彼女は穴も多い代わりに、それこそ化け物じみた爆発力を有しているのだ。それでウェイトのハンデまであったら、なかなか勝機など見いだせるものではなかった。
そんなユーリに対して羨望や嫉妬の思いがないと言えば、嘘になる。
しかしそれは、決して深刻なレベルの話ではない。強さに関しては久子も稽古を積んでいくしかないし、美容に関しては――久子は、今の自分に満足しているのだ。ユーリのような存在に生まれ変わりたいなどとは、夢さら思わなかった。
それにユーリは、その類い稀なる美貌と色香のせいで、不幸な半生を歩んできたのだ。
久子が知るのはただ一件、中学時代に教師に襲われかけたという話についてのみであったが――判断材料は、それで十分以上である。ユーリは久子と正反対の理由で、異性を遠ざけることに相成ったのだった。
そんなユーリを、気の毒に思う気持ちもある。ただ、現在のユーリはとても幸福そうに見えたし、瓜子とも仲睦まじい関係を築いていた。久子もまた瓜子の存在には強く心をひかれているので、それに対する嫉妬心というのもなくはない。その反面、自分には真実がいるという満足感もあったし――要するに、ユーリに対してはさまざまな感情が入り乱れて、端的に言い表す言葉が見つけられないのだった。
(それにあいつって、うり坊にはべたべた甘えるくせに、あたしらに対してはおっかなびっくりなんだもんな)
出会った当初のユーリは、もっとわかりやすい人間であった。久子たちとは距離を取って、いつもよそゆきの顔をしていたのだ。ユーリが気兼ねなく語らえるのは、瓜子とサキの二人だけであった。
しかしそれから、二年ほどの時間が過ぎて――ユーリは、変わった。久子たちの顔色をうかがって、おっかなびっくり接してくるようになったのだ。それはまるで、図体ばかりが大きくて気弱なゴールデンリトリバーのごとき姿であった。
自分なんかが受け入れられるだろうか、余計な真似をして嫌われたりはしないだろうか――そんな風に危ぶみながら、おずおずとこちらを見ているような風情であったのだ。それがまた、久子の複雑な心境に拍車をかけたのだった。
残念ながら、久子には感情の細やかな機微というものがわからない。好きなものは好き、嫌いなものは嫌いと、何でもそのように割り切ってきたのだ。
よって、ユーリのような存在は、たいそう扱いづらい。可愛らしく思える部分はあるし、腹立たしく思える部分もあるし――どうにも、感情を持て余してしまうのだ。
だから久子は、瓜子を羨ましいと思うことさえあった。
何の気兼ねもなくユーリと仲良くなれたら、どれだけ楽しい心地であるかと――そんな思いまで抱くことになってしまったのだ。そんな久子の心をなだめてくれるのは、やはり真実の存在に他ならなかった。
(もしもマコっちゃんがいなかったら、あたしはうり坊とも仲良くなれなかったかもなー。ほんっと、あたしみたいなひねくれもんと仲良くしてくれて、マコっちゃんには感謝だよ)
真実の逞しい肩に頬ずりをしたくて、久子は身体がうずうずとしてしまった。
そんなタイミングで、メイク係の女性が「よし」と声をあげる。
「セット完了です。それでは、スタジオのほうにどうぞ。先生がたが、首を長くして待っているでしょうからね」
「はーい! ありがとうございまーす!」
久子はパイプ椅子から立ち上がり、前を合わせていないガウンをひるがえして真実のもとに駆けつけた。そうしてせっかくのメイクが崩れないように気をつけながらその逞しい肩に頬ずりをすると、「なんだよ」と苦笑を返される。
「発情期の犬じゃあるまいし、何をそんなにさかってるのさ?」
「もうちょっと言い方ってもんがあるでしょー! マコっちゃんの、女ったらし!」
そうして久子は真実の腕を抱え込みながら、撮影スタジオに向かうことになった。
ガウン姿で可愛らしくメイクをされた瓜子は、とぼとぼと後をついてくる。髪をセットされていなければ、そちらの頭にも頬ずりをしたいところであった。
「ああ、やっと来たわね。それじゃあ、さっさと始めるわよ」
そちらでは、トシ先生が険悪にも見える形相で待ちかまえている。いざ撮影の仕事となると、彼は気合があふれまくってしまうのだ。初対面の際には辟易させられたものであるが、今では久子も手慣れたものであった。
「こっちも準備は万端だよー! さあさあ、うり坊も自慢のお肌をゴカイチョーしなってばー!」
「ちょ、ちょっと! 引っ張らないでください!」
往生際の悪い瓜子の身から、久子がガウンをひっぺがした。
その下から現れたのは――純白のビキニに包まれた、至高の肢体である。
「うーん……やっぱうり坊って、妙ちくりんな色気がむんむんだよなー。こんな幼児体型なのに、なんでこんなに色っぽいんだろー!」
「い、色気なんて、ありませんってば!」
瓜子は本気で恥ずかしそうに、身をよじっている。しかしそれでは、余計に色気が増すばかりであった。
瓜子はちまちましているし、胸も尻もささやかなボリュームだ。もちろんしっかり鍛えているので、全身のラインは美しく整っているが――本来であれば、色気などとは無縁なプロポーションであろう。手足の長さも平均的であるし、際立って小顔なわけでもないし、何も特筆する点は見当たらなかった。
しかし、それでいて、彼女はすべてが完璧であった。細くも太くもない手足やボディが、これ以上もなく正しいラインを描いているように思えてしまうのだ。そしてそれは、派手さはないのにやたらと可愛らしく見える顔についても同様であった。
(うり坊は幼児体型だから、女ウケもいいって話だったけど……こんなの逆に、絶対マネできないんじゃないかなぁ)
久子がそのように考え込んでいると、瓜子はいっそう激しく身をよじった。
「そ、そんなじっくり見ないでくださいってば! 今日は灰原選手だって、撮影される側なんすよ?」
「あー、そうだったね! トシ先生、あたしとうり坊、どっちが可愛い?」
「まさしく、瓜子ちゃんがチャンピオンで久子ちゃんが果敢なチャレンジャーっていう趣ね。これは、いい画が撮れるわよ」
そうして、撮影の仕事が開始された。
瓜子と二人でさまざまなポーズを取らされて、次々とシャッターを切られていく。何百枚という写真を撮ってその中から厳選するというのが、トシ先生の流儀であったのだ。他のカメラマンを知らない久子には、それが一般的なやり方なのかどうかも判然としなかった。
しまいには瓜子が持参したチャンピオンベルトまで持ち出されて、撮影の小道具にされてしまう。瓜子はとても不本意そうな面持ちであったが、久子としては胸が躍るばかりであった。
久子と瓜子は二週間と少しの後に、このベルトをかけて対戦する。その会場で、本日の写真がポスターやらクリアファイルやらとして販売されるのだ。真実は無節操と評していたが、久子としては愉快な心地であった。
そうして三十分ごとに、久子と瓜子はお召し替えを命じられる。カラーリングの異なるビキニや、試合衣装なども持ち出されて、すべての撮影が終了したのはおよそ三時間後であった。
「ま、こんなものね。素材としては、十分でしょ。二人とも、お疲れ様」
「お疲れさまー! 今日は今までより、ずいぶん念入りだったねー! こんなにたくさん撮って、使い道はあるの?」
「もちろんよ。三月と五月の二回分を、まとめて撮影っていう依頼だったんだからね。最初は七月までの三回分って話だったけど、そんな手ぬきはできないって突っぱねてやったのよ」
「へー! 三月と五月で、違うパターンのグッズが売られるんだー? それって、あたしのも?」
「アタシは、そう聞いてるわよ。三月の結果しだいでは久子ちゃんがチャンピオンになるんだから、どっちの新作も必要ってことなんじゃないの?」
トシ先生の何気ない言葉が、久子の胸を躍らせた。
もちろん久子も勝つつもりで、瓜子との試合に臨もうとしているのだが――その反面、自分がチャンピオンベルトを巻いている図は想像できていなかったのだ。久子はただ、瓜子と再び試合をできるというだけで舞い上がってしまっていたのだった。
「ところで、さっき小耳にはさんだんだけど……瓜子ちゃんと久子ちゃんは、お小遣いていどのギャランティで今日の仕事を引き受けたの?」
「あ、はい。これは興行の資金を確保するための仕事なんで……自分たちは、ボランティアみたいなもんです」
ガウンにくるまった瓜子がそのように答えると、トシ先生は「よくないわね」と眼鏡の奥の目を光らせた。
「瓜子ちゃんはもちろん、久子ちゃんだってかなり上質のモデルに仕上がってきたんだから、安売りしちゃ駄目よ。特に久子ちゃんは、肝に銘じておきなさい」
「えー? あたしはモデルでも何でもないんだから、関係なくない? 格闘技マガジンでの撮影だって、ギャラなんて申し訳ていどだったしさー」
「不健全なシステムね。どうしてそんなやり口がまかり通るのか、誰か説明してちょうだい」
久子と瓜子がそろって小首を傾げると、無言で控えていた真実が発言した。
「どうしてそんなやり口がまかり通るかって言えば、選手の側がオッケーしてるからでしょうね」
「どうしてそんな条件で、瓜子ちゃんたちはオッケーを出しちゃうのかしら?」
「それが格闘技業界を盛り上げるためだと、割り切っているんでしょう。実際、猪狩たちのおかげで《アトミック・ガールズ》は大いに盛り上がってますからね。あたしも心から、猪狩たちには感謝してますよ」
「うんうん! あたしなんかはたまーにの話だけど、うり坊はしょっちゅう引っ張り出されてるもんねー! しかもうり坊は恥ずかしさをこらえてのことなんだから、立派だと思うよー!」
久子もそのように言いたてると、トシ先生の鋭い眼差しが瓜子のほうに向けられた。
「瓜子ちゃん、いちおう確認しておくけど……格闘技関連でない仕事に関しては、きちんとギャランティをいただいているのよね?」
「あ、はい。今の自分は、それで生活してるわけですからね。ギャラの交渉に関しては、千駄ヶ谷さんがきっちりしてくれているはずです」
「ああ。あのお人だったら、信頼できるでしょうね。……それじゃあやっぱり問題なのは、久子ちゃんよ」
「だから、あたしはモデルでも何でもないんだから、関係なくない?」
「その意識の低さが、問題なのよ。……よかったら、モデルの仕事を紹介してあげましょうか?」
久子は、とっさに返事をすることができなかった。
「で、でも……あたしなんかに、そんな仕事を頼もうってお人はいないっしょ?」
「それはみんな、瓜子ちゃんに気を取られているからよ。例の格闘技マガジンとかいう雑誌だって大層な売れ行きだったって話なのに、みんな瓜子ちゃんとユーリちゃんにしか目が向いていないのでしょうね。まあ、沙羅ちゃんなんかはそれ以前からモデル活動をしていたから除外するとして……久子ちゃんや弥生子ちゃんだって、それに負けない逸材であるはずなのよ。そこのところをちょいとプッシュしてあげたら、あちこちの出版社がくいついてくるんじゃないかしら?」
「だ、だけど、ほら、あたしってこう見えて、そろそろアラサーとか言われるトシだし!」
「今どき三十代のグラビアなんて珍しくもないわよ。ていうか、十代のモデルにだって、久子ちゃんのスキンケアを見習わせたいぐらいよ」
あくまで真剣な眼差しで、トシ先生はそのように言い放った。
「アタシの紹介じゃ不安だって言うんなら、いっそ瓜子ちゃんのマネージャーさんのお世話になったら? 少なくとも、仲介料で赤字になることはないでしょうよ」
久子が困惑しながら瓜子のほうを振り返ると、そちらにはきょとんとした顔が待ちかまえていた。
「灰原選手がご希望でしたら、千駄ヶ谷さんに相談してみますけど……どうします?」
「ど、どうしますって……あたしなんかに、撮影の仕事が務まるの?」
「自分で務まるんですから、そこは心配いらないかと思います」
瓜子は自己評価が低いため、まったくあてにならない。
それで久子が真実のほうを振り返ると、そちらには苦笑を浮かべた顔が待っていた。
「そりゃああんたぐらい美人だったら、撮影の仕事ぐらい務まるだろうさ。でも……知らない業界はちょっとおっかないから、やるんだったらちゃんと千駄ヶ谷さんのお世話になってほしいかな」
久子の胸に、思わぬほどの熱情がわきかえった。
瓜子やユーリのように、自分の水着姿がさまざまな雑誌でお披露目される――そのように想像しただけで、久子は試合のオファーをもらったときと同じぐらいの昂りに見舞われたのだった。
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