08 アトム級王座統一戦
花子が見守るモニターの中で、清水雅の入場が開始された。
客席には、もちろん歓声が吹き荒れている。もともと彼女は人気者であったし、御堂美香と多賀崎真実の一戦がこれ以上もなく観客たちをヒートアップさせていたのだ。
ただし、世間ではサキが断然有利であると囁かれている。サキは長期欠場から復帰して以来、武芸の達人めいた強さを発揮していたし――さらに、犬飼京菜や小柴あかりとの一戦では、かつてなかったほどの闘志をほとばしらせていたのだ。いまだに左膝には小さからぬ不安を抱えつつ、サキは欠場前よりも強さを増したものと目されていた。
いっぽう清水雅もまぎれもない実力者であるが、犬飼京菜との一戦で肋骨を折られた彼女はその後も試合のオファーを断り続けて、これが一年と四ヶ月ぶりの試合であるのだ。
そしてやっぱり取り沙汰されるのは、彼女の年齢についてである。
彼女は年齢を公表していなかったが、《アトミック・ガールズ》のスターティングメンバーであるのだから、三十代の半ばに達していることは明白であったし――そして花子は、彼女が今年で三十七歳になるという事実を知っていた。
(でも、たった二歳しか変わらないわたしだって、今こそが全盛期であるのよ。雅さんだって、きっとそんな下馬評はくつがえしてくれるわ)
そんな花子の期待に応えるかのように、今日も清水雅は美しく、妖艶であった。外見からは、年齢を推し量ることも難しい。世間では桃園由宇莉こそが格闘技界随一の美女であるという評判であったが、花子にとっては今でも彼女がナンバーワンであった。
ボディチェック係の前でホワイトとグリーンのウェアを脱ぎ捨てると、同じカラーリングの試合衣装があらわにされる。そこからのびるしなやかな手足は、試合衣装よりも白く感じられた。
どこにも老いなど感じられない、端麗なる姿である。
ボディチェックを完了させた清水雅は、和服でも纏っているような足取りでケージに上がった。
そうして赤コーナー陣営からは、プレスマン道場の一団が入場してくる。
サキを先頭に、ジョン・スミス、柳原駿介、邑崎愛音という顔ぶれだ。やはり寝技も巧みな清水雅が相手であるということで、レスリングを得意にする柳原駿介がセコンドに迎えられたようであった。
(まあ、それを言ったら立松さんこそが適任なのでしょうけれど……あちらは、瓜子さんにご執心だものね)
サキもまた清水雅に負けないほどしなやかな体躯をあらわにして、ケージに上がっていく。
しかるのちに、コミッショナーからタイトルマッチの宣言がされて、二本のベルトが客席に大きく掲げられた。
《カノン A.G》の騒乱で勝ち取った清水雅の正規王座と、その留守に獲得したサキの暫定王座――それが統一される一戦であるのだ。タイトルマッチの形式に変わりはないので、その後には国歌清聴の時間が設けられた。
『ご清聴ありがとうございました。それでは、ご着席ください。……これより、本日のセミファイナル! アトム級王座統一戦、四十八キロ以下契約、五分三ラウンドを開始いたします!』
リングアナウンサーの宣言に、いっそうの歓声が吹き荒れる。
それをかきわけるようにして、リングアナウンサーはさらなる声を張り上げた。
『青コーナー。百六十一センチ。四十七・八キログラム。フリー。第六代アトム級王者……雅!』
清水雅は腕を上げるでもなく、頭を下げるでもなく、ただねっとりと微笑むことで歓声に応じた。
『赤コーナー。百六十二センチ。四十七・九キログラム。新宿プレスマン道場所属。アトム級暫定王者……サキ!』
サキもまた、ふてぶてしく棒立ちだ。
ただその歓声は、清水雅を凌駕している。やはりこの場に集まった人々も、サキのほうにこそ大きな期待をかけているのだった。
そうして両者は、レフェリーのもとで向かい合う。
背丈は一センチしか変わらないし、手足の長いしなやかなプロポーションもよく似通っている。しかし、似ているのはシルエットだけで、それ以外は対極的な両名であった。
清水雅はいまだ妖艶なる笑顔であるが、その身には青白い情念の炎が燃えさかっているかのようである。触れたら指先が凍てつきそうな、氷のごとき炎の気迫であるのだ。それがまた、いっそう彼女を妖しく美しく見せていた。
いっぽうサキは、仏頂面で立ち尽くしている。彼女はいつでも面倒くさげなたたずまいであり、この段に至っても気迫のひとつもこぼさないのだ。ずいぶん長くのびた髪も適当にくくっただけで、そこからこぼれた前髪が彼女の引き締まった顔を半分がた隠してしまっていた。
しかし、それこそが彼女の恐ろしさであるのだろう。彼女はこのような自然体で、これまでに数えきれないほどのKOの山を築いてきたのだ。そういう意味では、長期欠場の前から武芸の達人めいた一面がそなわっていたのかもしれなかった。
(なんだか……流浪の剣士と蛇神の対決みたいな構図よね)
清水雅もサキも、花子のイマジネーションを刺激してやまない存在である。敬愛に値するファイターは数多くとも、これほど花子の感性を揺さぶる選手は他にそうそう存在しなかった。
(サキさんは、王者に相応しい器なのでしょう。でも……勝ってちょうだいね、雅さん)
レフェリーがグローブタッチをうながしても、両者は当然のように微動だにしない。そしてそのまま、フェンス際まで下がることになった。
息を詰める花子の前で、試合開始のブザーが鳴らされる。
それと同時に、清水雅がしゅるしゅると前進した。
まさしく、鎌首をもたげた大蛇のごとき挙動だ。そして、毒の牙のごときミドルキックが繰り出された。
半身に構えたサキは、マットをすべるようなステップワークでそれを回避する。
すると、清水雅は牽制の左ジャブを二発放ってから、今度は右のハイキックを射出した。
それも回避されたならば、膝を狙って関節蹴りを繰り出し、すかされた蹴り足を前に下ろして、革鞭のごとき右ストレートだ。
清水雅のいきなりの猛攻に、客席はわきかえっている。
しかし、花子は気が気でなかった。カウンターの名手であるサキに対しては、もっと慎重に振る舞うべきであるのだ。
(いったいどうしてしまったの、雅さん? もちろん何らかの勝算があってのことなのでしょうけれど……それはあまりに、無謀に思えてしまうわ!)
花子の心配も知らぬげに、清水雅はさらにたたみかけていく。
幼少の頃より鍛え抜いたという、空手仕込みの苛烈な打撃技である。その恐ろしさは、花子も十分にわきまえているつもりであったが――しかし今は、懸念のほうが上回ってしまった。
サキはするするとマットの上を移動して、いずれの攻撃も見事に回避している。清水雅の攻撃はいつも以上に鋭かったが、しかしサキの身に触れることもできていなかった。
サキはおそらく、一撃必殺のカウンターを狙っているのだろう。
その恐るべき攻撃がいつ放たれるのか。清水雅が攻撃をふるうごとに、花子は寿命の縮む思いであった。
あっという間に、一分ほどの時間が経過する。
このように絶え間なく攻撃を出していたら、スタミナの消耗も甚大であるはずだが――清水雅はいっさい手をゆるめることなく、長い手足で攻撃をふるい続けた。
それからさらに三十秒ほどが経過したところで、ついにサキが動く。
繰り出されたのは、槍のごときサイドキックだ。清水雅の連続攻撃の繋ぎ目を狙った、ぞっとするほどの絶妙なタイミングであった。
清水雅も驚くべき反応速度で身をよじったが、かわしきれずに左脇腹をえぐられる。
そして――何の痛みも感じていないかのように、大きく踏み込んだ。
鋭い左の正拳突きが、サキの顔面にのばされる。
まだ重心の安定していないサキは、首をひねってその攻撃を回避した。
その右の膝裏に、清水雅の指先がのばされる。
サキは右足を引きながら、そのままサイドに回り込もうとした。
しかし、清水雅も執拗に追いすがる。空振りした左手も下方にのばして、サキの両足を絡め取ろうとした。
これもまた、サキが相手では無謀な試みだ。
サキは胸もとに掲げていた右拳で清水雅の顔を叩き、さらに左膝を振り上げた。
鋭い膝蹴りが、清水雅の腹をえぐる。
清水雅は、たまらず身体をくの字にした。
そして――そのまま両腕で、サキの左膝を抱え込んだ。
故障を抱えた左膝をとらえられながら、サキは焦る様子のひとつも見せず、清水雅のこめかみに右肘を叩き込む。
その一撃で、わずかばかりに血のしずくが散った。
しかし清水雅は、それでもサキの左膝を離そうとはせず――そのまま執念で、相手の右足を刈ってみせたのだった。
さすがのサキも逃げきれず、マットに尻もちをつく。
しかし、まだ背中はつけていない。テイクダウンを奪うには、もうワンアクションだ。
清水雅はサキの左膝を抱えたままのしかかり、頭で頭を抑えつけた。
サキは煩わしげに首を振ってから、空いていた右足で清水雅の左足を蹴り飛ばす。
膝を正面から狙った、危険な蹴りだ。清水雅は力なく膝をつきながら、強引に覆いかぶさろうとした。
左膝を抱えられているため、サキも立ち上がることはできない。
サキは舌打ちでもこらえているような面持ちで、さらに右肘を清水雅のこめかみに叩きつけた。
新たな鮮血が、マットにまで滴り落ちる。
それを意に介した様子もなく、清水雅は片膝をついた状態でぐいぐいと覆いかぶさろうとした。
サキはマットについた左手でバランスを取りつつ、後方へとずっていく。フェンスに背中をつけてしまえば、簡単に立ち上がれるはずであった。
すると、清水雅は右手をのばしてサキの左手首を拘束した。
バランスを保つため、サキは右手をマットに着く。そのタイミングで、清水雅は左手を引きながらサキの上にのしかかった。
花子の目から見ても、申し分のない崩しとタイミングである。
だが――サキはあらがうのをやめて、自ら後方に倒れ込んだ。そして、片腕となってわずかに拘束のゆるんだ左膝で、清水雅の身体を上空に持ち上げる。不格好だが、巴投げの要領だ。
結果、清水雅はサキの頭上を通りこして、頭からマットに落ちることになった。
サキは全身をのたうって清水雅の拘束から逃れ、右足を軸にして素早く立ち上がる。
いっぽう清水雅は口もとにまで滴る自らの血を舐めながら、ゆらりと立ち上がった。
そこでレフェリーが『タイムストップ!』と声をあげて、リングドクターを招集した。清水雅の流血のチェックである。
切れてしまったのは髪の内側であるようで、モニター越しでは傷口の具合もうかがえない。リングドクターはしばし難しげな顔をしていたが、やがてレフェリーにうなずきかけてからケージを下りていった。
『試合を再開いたします!』というリングアナウンサーの宣言に、また歓声がわきおこる。
すると、清水雅が性懲りもなく打撃技を仕掛けた。
強引な組み技もしのがれて、頭に傷まで負ったというのに、まだ戦法を変えようとしないのだ。
腹黒いほどに計算高い清水雅としては、考えられない行動である。その裏には、必ず何らかの思惑が存在するはずであった。
(それがどういう思惑であるのかは、まるで想像がつかないけれど……でも、それが勝利をつかむための作戦だということだけは、確かだわ)
花子はそのように信じて、朋友の勇躍を見守った。
まったくスタミナを失った様子もなく――そして、スタミナの欠乏を恐れる様子もなく、清水雅は苛烈なコンビネーションを見せている。
そしてこのたびは、その合間にテイクダウンのフェイントも織り込んでいた。第一試合の犬飼京菜よりも、さらに熟練の技である。
さしものサキも、なかなか反撃することができない。
しかしその顔は沈着そのもので、マットをすべるような足運びは優美に感じられるほどであった。
清水雅が激しく動くと、また髪の隙間から血が滴ってくる。
それを真っ赤な舌で舐め取りながら、清水雅は執拗に攻撃し続けた。
気づけば、ラウンド終了まで残り一分である。
すると――サキがふいに、足を止めた。
清水雅の右フックが顔面に飛ばされても、その場から動こうとしない。その攻撃は、首をねじることで回避した。
サキが足を止めたため、両者の距離が詰まっている。
そして、右フックを回避された清水雅は、そのままサキにつかみかかろうとした。
その下顎に、サキの右拳が突き刺さる。
いつも胸もとに掲げられているサキの右拳が、ショートアッパーを繰り出したのだ。
その衝撃で、清水雅は後方にたたらを踏む。
そうして生まれたスペースに、サキの左足が振り上げられた。
そのふくらはぎに刻まれた燕のタトゥーが、天高く舞い上がる。
清水雅はスウェーバックで回避しようとしたが半瞬だけ間に合わず、右のこめかみを浅く削られた。
そうしてさらに高く舞い上がった燕が、楕円の軌跡を描いて敵の頭上に舞い降りる。
強烈なかかと落としが、清水雅の側頭部に炸裂した。
サキの一番の必殺技、燕返しである。
清水雅は、ふわりと横合いに倒れ込む。
それはまるで、演舞のように美麗な挙動であった。
だが、しどけなく横たわった清水雅は、ぴくりとも動かない。
かつてサキの燕返しをクリーンヒットされて、立ち上がった選手はいないのだ。
レフェリーは厳粛なる面持ちで、両腕を頭上で交差させた。
『一ラウンド、四分三十五秒! スワロウ・フライト・リバーサルにより、サキ選手のKO勝利です!』
花子は半ば呆然と、そんなアナウンスを聞くことになった。
清水雅が、あえなく負けてしまったのだ。
もちろんサキは強敵であるので、勝てる見込みは五分と見ていたが――しかし、このような試合内容は予想できるわけもなかった。
(何かの作戦が失敗してしまったの? こんなの……こんなの、雅さんらしくない!)
控え室も、妙に静まりかえっている。
清水雅が常ならぬ姿を見せていたことは明白であったし――それに、古きからの盟友である花子の心情を気づかってくれているのだろう。すぐ隣のパイプ椅子に座した小柴あかりや多賀崎真実も、なかなか声をあげられない様子であった。
いっぽうモニター上では大歓声が吹き荒れる中、サキのほっそりとした腰にチャンピオンベルトが巻かれている。
画面の端ではようやく半身を起こした清水雅が、リングドクターに止血の措置を施されていた。
『サキ選手! ついに王座を統一しましたね! 今の心境をお聞かせ願います!』
レトロなマジションのような姿をしたリングアナウンサーが、サキの口もとにハンドマイクを突きつける。サキは普段通り、『うるせーなー』と眉をひそめた。
『アタシのことは、放っておけよ。おめーもいい加減に学ばねーなー』
『これがわたくしの、崇高なる職務ですので! 雅選手は序盤から凄まじい猛攻でしたが、サキ選手はどのようにお感じでしたか?』
『だから、うるせーってんだよ。そんなもん、見た通りのまんまだろ』
見た通りのまま――その言葉が、ほんの少しだけ花子の心を救ってくれた。
サキはまったくのノーダメージであろうが、しかし決して易々と勝利を収めたわけではない。清水雅は文字通り死力を尽くして攻撃を出していたのだから、サキもまた一瞬の油断も許されなかったのだろうと思われた。
(でも、雅さんだったらもっと上手い作戦を立てられたでしょうに……今日はいったい、どういう作戦だったの?)
花子がそのように思案したとき、清水雅がのろのろと身を起こした。
そして、リングドクターの手をうるさそうにはねのけて、サキのもとにしずしずと歩み寄る。それに気づいたサキが、前髪の隙間から清水雅をにらみつけた。
『なんだ、生きてたのかよ。しぶてー毒蛇ババアだなー』
『くふふ。それがうちの身上やからねぇ。そやけど、今日は完敗やったわぁ』
リングアナウンサーがすかさずマイクを移動させて、清水雅のコメントも拾ってみせた。
清水雅は妖艶に微笑みながら、両手のグローブを外している。すでにテーピングはほどかれていたので、青いグローブはすみやかに外された。
『ほなこら、サキちゃんに贈らせてもらうわ。この先も、あんじょうお気張りやぁ』
『あん? そんな小きたねーグローブなんざ、いらねーよ。そもそもそいつは、貸し出し品だろーがよ』
『サキちゃんも、意外ににぶちんやねぇ。これからは、サキちゃんがうちの分まで《アトミック・ガールズ》を盛り立てていけっちゅうことやろぉ?』
そのコメントに、花子は息を呑むことになった。
そして次の瞬間には、さらなる驚愕に見舞われることになった。サキの手もとにグローブを押しつけた清水雅が、サキの顔を両手でしゅるりとはさみこみ――そして、その唇に濃厚なる接吻をほどこしたのである。
サキは数秒ほど硬直してから、その手のグローブで清水雅を殴りつけようとした。
しかし清水雅は、軽やかなステップワークでそれを回避する。その白皙には、相変わらず妖艶な微笑がたたえられていた。
『ほな、うちはこれでおいとまさせていただくわぁ。客席の皆々様も、これまでご愛顧ありがとさぁん』
『待て、てめー! 今度こそ蹴り殺してやらー!』
『み、雅選手、お待ちください! まさかさっきのお言葉は、引退宣言なのでしょうか!?』
ケージの内部も客席も、大変な騒ぎである。
しかし清水雅は何も答えぬまま、ひらひらと手を振ってケージを下りてしまう。そこまで見届けたところで、花子は猛然と身を起こした。
「ま、鞠山さん、今のって……?」
「さっぱりわけがわからないだわよ! わたいが直接、問い質してくるだわよ!」
花子は、控え室を飛び出した。
そうして入場口の裏手にまで駆けつけると、四ッ谷ライオットの陣営がきょとんとしている。ウェアを脱いでバニーガールのごとき試合衣装をさらした灰原久子が、小首を傾げながら花子に呼びかけてきた。
「ねえねえ、あっちで何かあったのー? 試合中に負けないぐらいの騒ぎになってるみたいだけど!」
「……大した話じゃないんだわよ。あんたは、タイトルマッチに集中するだわよ」
「あっそー。ま、あたしは雅ねーさんとそんなにつきあいがあるわけじゃないし、励まし役はあんたに任せるよ」
灰原久子は、にっと白い歯をこぼす。
そのタイミングで扉が開かれて、清水雅が姿を現した。
清水雅は素知らぬ顔で四ッ谷ライオットの陣営のかたわらを通りすぎ、向かいの壁際にもたれて座り込む。それから、荷物を抱えた二名のセコンドが追従してきた。
「あんたがたも、お疲れさぁん。あとの面倒は花子ちゃんに見てもらうさかい、先に戻っててやぁ」
二名のセコンドは無言でうなずき、控え室に立ち去っていく。
それから間もなく『バニーQ』の名がコールされたため、花子は盟友と二人きりになることができた。
「……それじゃあ、説明を願うだわよ」
花子は惑乱する心をなだめながら、清水雅の鼻先に膝をついた。
清水雅は、どこか茫洋とした面持ちで微笑んでいる。先刻までは気丈に振る舞っていたが、おそらく頭部へのダメージが深いのだ。
「説明もなんも、さっき語った通りやねぇ。花子ちゃんも、お疲れさぁん」
「……それじゃあ本当に、引退するつもりなんだわよ?」
「せやせや。これでおしまい。ジ・エンド。みなさん、お元気でぇてなもんや」
切れ長の目をかすませながら、清水雅はぼんやりと微笑んだ。
「花子ちゃんも、もう察しとるやろぉ? 身体のほうが、もう限界なんよ。膝も腰も言うこと聞かへんし、最近は指まで痺れてきてもうてなぁ。……主治医にもドクターストップかけられてもうたから、一ラウンドで決着つかへんかったらリタイアするいう約束で、無理くりケージに立たせてもろたんよ」
「だから……あんなに強引な作戦だったんだわね?」
「強引やったやろか? うちとしては、これまでに積み上げてきたもんをぜぇんぶ振り絞ったつもりなんやけどなぁ」
脳震盪を起こしているのか、清水雅はその口調も少したどたどしかった。
「ま、おかげさんで思い残すことはあらへんわ。麻酔でも打てたら、もっとベストの動きができたんやろけど……メディカルチェックでバレてもうたら、せっかくの引退試合が台無しやしねぇ」
「……こんなの、あまりに不意打ちだわよ」
「しゃあないやん。湿っぽいのは、うちの流儀やないさかい。そやから、サキちゃんの唇を犠牲にして、ひと騒ぎ起こしたわけやねぇ」
そう言って、清水雅はぼんやりとした視線を花子に向けてきた。
「そやけどやっぱし、花子ちゃんの気ぃはまぎれへんかったかぁ。花子ちゃんをひとりぼっちにしてまうのが、唯一の気がかりやったんやけど……花子ちゃんは、新しいお仲間たちと末永う頑張ってなぁ」
「そんなの、言われるまでもないだわよ」
そんな風に応じながら、花子は清水雅のしなやかな肢体を抱きすくめてみせた。
「でもわたいにとって、雅ちゃんは雅ちゃんなんだわよ。たとえ引退したって、それは変わらないんだわよ」
「くふふ。そない言うても、うちらの架け橋は《アトミック・ガールズ》やったやん?」
「そうだわね。雅ちゃんが引退するなら、もう戦友は卒業だわよ。これからは、普通のお友達なんだから……もうちょっとは、普段から本音をさらけ出してほしいんだわよ」
「普通のお友達て……そないなもん、うちの人生には存在せえへんさかいなぁ」
「だったらわたいが、最初のお友達なんだわよ」
そのように語りながら、花子はどうしようもなく涙をこぼしてしまった。
そして背後の扉の向こうからは、凄まじいばかりの歓声が爆発する。
猪狩瓜子と灰原久子のタイトルマッチが開始されたのだろう。
しかし、今の花子にとって重要なのは、その試合を見届けることよりも友に寄り添うことであった。試合は後から映像で見返すこともできるが――今のこの大事な瞬間は、二度とやってこないのだ。
そうして花子は、またひとり大切な戦友を失い――そして、新たな友を得ることになったのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます