07 不屈の努力家と豪腕のオールラウンダー

 花子が大歓声をあびながら花道を戻っていくと、その最果てに多賀崎真実の笑顔が待ち受けていた。


「鞠山さん、お疲れ様。今日は、貫禄勝ちだったね。秒殺勝利とは、恐れ入ったよ」


「ふふん。ウサ公に連敗した相手なら、相応の結果だわね。真実も、ベストファイトを期待してるだわよ」


「ああ。相手が御堂さんなら、どう転んだって楽しい試合になるはずさ」


 多賀崎真実こそ、以前より遥かに貫禄がついていた。きっと北米での経験が、彼女をひと回り成長させたのだ。

 しかしそれは、御堂美香も同じことである。あちらは出稽古をつつしんでいる身であったため、ここ最近の成長具合は不明であったが――しかし、『アクセル・ロード』を負傷リタイアしたという無念の思いが、彼女にいっそうの力を与えたはずであった。


(どちらが勝っても、恨みっこなしね。わたしも心して見守らせていただくわ)


 そうして花子が控え室を目指そうとすると、廊下の向こうから清水雅がしゃなりしゃなりと近づいてきた。

 花子は多賀崎真実に別れを告げて、自分からも近づいていく。あまり汗をかかない体質である清水雅は、入念なウォームアップの直後でも涼しい顔をしていた。


「花子ちゃんは、圧勝やったねぇ。三年どころか、十年早かったんちゃう?」


「あの娘っ子なら、三年ていどで確かな力をつけるだろうだわよ。それよりも、雅ちゃんは自分の試合に集中するだわよ」


「くふふ。そないに気張るのは、うちの流儀ちゃうわぁ。そしたらねぇ」


 清水雅は白魚のごとき指先をそよがせながら、扉のほうに向かっていく。

 そのなよかな背中をしばし見送ってから、花子は控え室を目指すことにした。


 控え室には、悲喜こもごもの空気が満ちている。本日の青コーナー陣営は白黒半々の戦績であったのだ。

 そんな中、脳震盪から回復した小柴あかりが涙で顔をぐしゃぐしゃにしながらつかみかかってくる。珍しくも、その腕が花子を抱擁してきた。


「鞠山さん、素晴らしい勝利でした! 鞠山さんは……本当にすごいです!」


「あらあらだわよ。今日はひときわ感激屋さんだわね」


 花子はどうしようもなく微笑みを誘発されながら、小柴あかりの背中を優しく叩いてあげた。

 彼女はずっと、花子が半年間も放置されていたことに遺憾の意を示していたのだ。すでに大ベテランの域である花子にとって、半年間というのがどれだけ大切な時間か――と、花子の分まで歯噛みすることになってしまったのだろう。


(わたしのファイター人生はまだまだ長いのだから、半年間ぐらいはどうってことないのよ。試合の期間が開いたら開いたで、こうしてコンディションを万全にすることもできるのだからね)


 そんな思いを込めて、花子は小柴あかりの髪を撫でてあげた。

 小柴あかりの肩越しには、羽田真里亜の笑顔も見える。そちらと視線がぶつかると、元気いっぱいの声が投げかけられてきた。


「まりりんさん、おめでとうございます! お見事な秒殺勝利でしたね! 寝技のスパーでいいようにあしらわれた記憶が蘇っちゃいました! 今年も是非、合宿稽古に参加してくださいね!」


「今から夏の相談とは、気が早いことだわね。まあ、考えておくだわよ」


 そうしてようやく小柴あかりが抱擁から解放してくれたので、花子はパイプ椅子に腰を落ち着けようとした。

 とたんに今度は、灰原久子の声が投げつけられてくる。


「あー、ちょっと! そこに座ったら、あたしが見えないでしょ! ちょっとは気を使ってよねー!」


「やかましいだわね。そっちこそ、自分のウォームアップに集中するんだわよ」


「マコっちゃんの試合を見逃したら、集中もへったくれもないっしょ! いーから、さっさとどいてってば!」


 花子は苦笑を浮かべつつ、パイプ椅子の位置をずらすことにした。

 モニターでは、すでに赤コーナー陣営である御堂美香が入場を始めている。その彫りの深い顔には、冷血の爬虫類めいた気迫がみなぎっていた。


 しかし、彼女が誰より優しい気性をしていることを、花子は知っている。彼女は優しすぎるがゆえに、試合においては人一倍気を張ってしまうのだ。自分が傷つくことよりも、相手を傷つけてしまうことに怯んでしまい、そんな弱気を全力でねじ伏せようとしているのだった。


『第八試合! フライ級、五十六キロ以下契約! 五分三ラウンドを開始いたします!』


 やがて御堂美香がケージに足を踏み入れると、リングアナウンサーが美声を響かせた。


『青コーナー。百六十一センチ。五十五・九キログラム。四ッ谷ライオット所属。《フィスト》フライ級第四代王者……多賀崎、真実!』


 多賀崎真実もまた、気迫のみなぎるいい表情である。

 そして、先月の《フィスト》でタイトル防衛に成功した彼女には、惜しみない大歓声が送られていた。


『赤コーナー。百六十五センチ。五十五・九キログラム。天覇館東京本部所属……魅々香!』


 御堂美香は固く強張った無表情で、小さく一礼する。

 そちらの歓声は、多賀崎真実に比べるとやや控えめであった。のぼり調子である多賀崎真実と異なり、ここ近年の彼女は大事な場面で勝ち星を逃して、栄光をつかみ損ねていたのだった。


 だが――それはここ近年に限ったことではないのかもしれない。彼女は長きにわたってこの階級のナンバーツーという立場であったし、ナンバーワンの沖一美ともども海外の強豪たるジジ・B=アブリケルの君臨を許していたのだ。

 なおかつ、《アトミック・ガールズ》で結果を出せなかった沖一美も、去年までは《フィスト》の王者であった。そう考えると、御堂美香こそがもっとも栄光から近くて遠い立場であったのかもしれなかった。


 もちろんこの階級には、御堂美香よりも結果を出せていない選手が多数存在する。しかし、まぎれもないトップファイターでありながら、常に引き立て役の座に甘んじるというのは――きっと、他とは異なる無念の思いが募るところだろう。


(でも、トップスリーに一歩及ばない四番手という扱いだった真実さんも、それは同じことだわ。そんな不幸合戦をしても始まらないのだから……選手は、試合で結果を見せるしかないのよ)


 そんな思いを心に宿しつつ、花子は両名が対峙するさまを見守った。

 厳しく引き締まった面持ちをした多賀崎真実と緊迫のあまりすべての感情が消えている御堂美香が、レフェリーのもとで相対している。

 華やかな容姿の選手が増えてきた《アトミック・ガールズ》において、格段に雄々しい風貌をした両名である。しかし、花子の美意識に則れば、彼女たちはどちらも美しかった。その質実にして清廉なる精神の輝きが、彼女たちのごつごつとした顔を美しく彩っているのだ。そしてさらに、彼女たちの育んできたMMAファイターとしての力感が、その美しさに拍車をかけているのだった。


 しっかりと拳を合わせた両者は、相手の姿を見据えたままそれぞれのコーナーに下がっていく。

 そして、試合開始のブザーが鳴らされた。


 最初に勢いよく前進したのは、御堂美香だ。彼女はひときわ発達した上半身を屈めて、クラウチングのスタイルで力強く前進した。

 いっぽう多賀崎真実は、試合開始と同時に大きくステップを踏む。花子が手ずから伝授した、アウトスタイルのステップである。体格が異なるために花子とはいささか異なる趣であったが、それがまた彼女に独自にステップワークをもたらしたのだった。


 しかし、御堂美香は意外がる様子も見せずに、粛々と追いかける。

 両名は北米の合宿所で稽古をともにしており、多賀崎真実はその場でもステップワークの稽古を積んでいたはずであるのだ。急ごしらえのステップワークにはさらなる磨きをかける必要があったし、そうでなくとも彼女はそういう場で手の内を隠せるような性格ではなかったのだった。


 かつて『アクセル・ロード』の試合でも披露された多賀崎真実の豪快なステップワークに、観客たちはいっそうの熱気を渦巻かせている。

 そんな中、大きく踏み込んだ御堂美香が右フックを繰り出した。

 多賀崎真実はそれを左腕でガードしつつ、さらに距離を取るべくステップを踏む。

 しかし、それよりも早く動いた御堂美香が、今度は左フックを射出した。

 その攻撃も、多賀崎真実は右腕でブロックする。どちらも防御には成功したが、間合いを外すこともカウンターを出すこともできていなかった。


 御堂美香は身長でまさっている上に、人並み外れてリーチが長いのだ。ただ腕が長いばかりでなく、肩幅までもが秀でているため、多賀崎真実とのリーチ差は十センチ以上にも及ぶのではないかと思われた。


 そして、その頑強なる上半身から繰り出される御堂美香のパンチは、重い。もちろんパンチには下半身の強さも重要であろうが、柔術の稽古を積んできた御堂美香はそちらの面でも隙がなかった。彼女はその豪腕でもって数々のKO勝利を築いてきたのである。


 一昨年の《カノン A.G》にまつわる騒ぎでは、長年の厚き壁であったジジ・B=アブリケルと、さらにはのちに《アクセル・ファイト》と正式契約を結んだマーゴット・ハンソンをも下している。彼女はそれだけの実績を重ねながら、タイトルをかけた鴨之橋沙羅との一戦で敗れてしまったのだった。

 なおかつ、その試合で肘の靭帯を損傷して長期欠場を余儀なくされ――試合勘を取り戻せないまま、『アクセル・ロード』に招聘された。それでも何とか一回戦目は勝ち抜いてみせたが、そこでまた肘の故障が再発し、涙のリタイアとなったのだ。


 さらにその前までさかのぼると、彼女は四大タイトルマッチのトーナメント戦で鴨之橋沙羅を下しながら、決勝戦で桃園由宇莉に敗れることになった。

 あと一歩――いつも、あと一歩であるのだ。


 御堂美香も、それほど若い世代ではない。今年には、たしか二十九歳になるはずである。それでこうまで故障が続けば、引退を視野に入れたこともなくはないはずであった。

 しかし、そんな思いを振りきるように、彼女は豪腕をふるっている。

 その圧力に後れを取った多賀崎真実は、ついにフェンス際まで押し込まれることになった。


「わーっ、バカバカ! さっさと逃げなってば!」


 花子の背後から、灰原久子のわめき声が聞こえてくる。

 多賀崎真実はダッキングで御堂美香の右フックを回避すると、そのまま腕を突き出してニータップのアクションを見せた。

 バランスを崩しかけた御堂美香は、自ら引き下がる。

 すると、多賀崎真実は足を使うのをやめて、じりじりと前進した。


 御堂美香は、アウトスタイルの対策を磨きぬいている――そのように判断したのだろう。

 そして、多賀崎真実もまた本来はインファイターであるのだ。彼女は至近距離で果敢に打ち合いながら、最終的に組み合いまで持ち込むのが本領であった。さらには赤星弥生子の指導でインファイトに磨きをかけ、この一年ほどで二度のKO勝利を収めてみせたのだ。


 すると――御堂美香が、思わぬ動きを見せた。

 足を使って、多賀崎真実の周囲を回り始めたのだ。


 彼女はかつてキックの試合にも挑んでいたが、その際にもアウトスタイルなどを使うことはなかった。彼女は愚直な気性でもあったため、インファイトのほうが適性があったのだ。

 そんな御堂美香が、足を使って多賀崎真実を翻弄する。そして、遠い距離から放たれた左ジャブが、多賀崎真実の右頬を叩いた。


 奇策ではない。明らかに長きの修練を積んだ動きである。

『アクセル・ロード』の敗退から、はや五ヶ月――肘を痛めていた彼女は、その期間にステップワークを磨いていたのかもしれなかった。


 しかし、多賀崎真実もまた、今では非凡なるファイターである。

 御堂美香が足を使うや否や、彼女もまた力強いステップを踏み始めた。


 両名がおたがいに足を使いながら、攻撃の隙を突こうとする。かつてのサキと犬飼京菜の一戦に比べると、それはあまりに重い動きに見えてしまったが――その分、力感は比較にもならなかった。


 この意外な展開に、客席はわきかえっている。

 そうして両名は残り時間のすべてをステップワークと牽制の攻撃に注ぎ込み――そのままラウンド終了を迎えることに相成ったのだった。


「よーしよし! ちょっとピンチな場面はあったけど、うまくしのいだよね!」


「ああ。だけど、ずっと後手に回されちまったからな。たぶん、ポイントは取られちまっただろう」


「ポイントなんて、関係ないさ! マコっちゃんは、KOか一本を決めてくれるだろうからね!」


 四ッ谷ライオットの陣営は、そのように評している。

 しかし花子は、それとは異なる次元で感慨を噛みしめていた。


(素晴らしい試合だわ。美香さんも真実さんも、すごい勢いで成長している……あなたたちなら、きっと沙羅さんからベルトを奪えるわ)


 この試合は、鴨之橋沙羅の持つフライ級王座の挑戦権が懸けられているのだろうと囁かれているのだ。花子はもうこの時点で、どちらにも挑戦権を授与してほしいぐらいの心情であった。


 そんな中、第二ラウンドが開始される。

 セコンドからの指示であるのか、両者はどちらも足を使おうとせず、真っ向から接近した。そして、気迫に満ちみちた打撃戦だ。


 リーチで有利な御堂美香が、左右のフックを振り回す。

 それをかいくぐった多賀崎真実は、ジャブやストレートの真っ直ぐな攻撃で対抗した。プレスマン道場にも通うようになって以来、彼女はそういう攻撃を自分のものにしていたのだ。


 おたがいに相手の攻撃をガードして、クリーンヒットは許さない。

 しかしどちらも迫力のある攻撃であったため、ブロックする両腕にもダメージが溜まっていくことだろう。それに、クリーンヒットでなくとも顔や腹にも攻撃は当たっている。これは熾烈な消耗戦でもあった。


 おたがいが、いいリズムで攻撃を出している。

 しかし、そういう場で新たな手を打てる人間こそが、試合の主導権を握ることができるのだ。

 そこで新たな動きを見せたのは――多賀崎真実のほうであった。相手の右フックをウィービングで回避した彼女は、再びのニータップで今度こそテイクダウンを奪ってみせたのだった。


「よーしよし! 得意の塩漬けから、一本まで狙っちゃえー!」


 灰原久子はそのようにわめいていたが、御堂美香は寝技も巧みである。寝技の総合力で言えば、柔術で茶帯を持つ彼女のほうが上回っているはずであった。

 ただし、多賀崎真実は柔術よりもレスリングの技術を磨き抜いている。

 さらに彼女はこの二年ほど、プレスマン道場で桃園由宇莉を相手取っていたのだ。それで彼女がどれだけの成長を果たしたかは、花子も身をもって思い知らされていた。


(かくいうわたしだって、真実さんを出稽古で迎えていたのだからね。彼女のレスリング能力は……きっと、美香さん以上だわ)


 そんな花子の評価を裏付けるように、多賀崎真実は有利にグラウンド戦を進めていた。

 御堂美香も果敢にエスケープのアクションを仕掛けているが、それをパワーとテクニックの両面で抑えつけている。彼女もサブミッションを仕掛けるまでには至っていなかったが、その代わりに何発かのパウンドをヒットさせた。


 そうして大きな進展はないまま、第二ラウンドも終了である。

 両名はバケツの水をかぶったような姿で、それぞれの椅子に腰を下ろした。


 第一ラウンドはアウトスタイル合戦で足を使いまくり、第二ラウンドは三分近くも寝技の攻防に費やしたのだ。ずっと不利なポジションであった御堂美香はもちろん、柔術の熟練者を相手にポジションキープを死守した多賀崎真実も相応にスタミナを削られているはずであった。


 これで一ラウンドずつポイントを分け合ったので、勝負は次のラウンドであろう。

 最終ラウンドを制した者が、勝利をつかみとるのだ。花子は否応なく昂揚していたし、いつしか灰原久子たちも静かになっていた。


 そうして第三ラウンドが開始され――御堂美香が、再びアウトスタイルのステップワークを見せた。

 疲労の極にある最終ラウンドで足を使うというのは、大変な精神力だ。

 しかしそれは、諸刃の剣であろう。もしもこれで優勢を取れなかったら、無駄にスタミナを削られてしまうのだ。花子は息を詰めて、去就を見守ることになった。


 多賀崎真実は慌てる素振りも見せず、じわじわと距離を詰めていく。

 遠い距離から放たれるジャブやフックは、的確にブロックした。そして、自らも遠い距離から関節蹴りやローキックを放つ。受け身に回れば判定で不利になると判じているのだ。どれだけ疲れていても、多賀崎真実は沈着であった。


 いっぽうステップワークにいそしむ御堂美香は、じょじょに足取りが鈍っていく。

 彼女は五ヶ月ぶりの試合であるし、このステップワークもまだ新しい技術であるのだ。新しい技術を実戦で使うには緊張感がともなうため、それがいっそうスタミナに影響を及ぼすはずであった。


 そうして御堂美香の動きが鈍ると、攻撃の数に差が出てくる。

 多賀崎真実は足もとへの攻撃に前蹴りも織り込み、さらなるプレッシャーをかけてみせた。

 その前蹴りが腹にヒットすると、御堂美香の動きががくんと落ちる。

 その間隙を突いて、多賀崎真実が組みついた。


 タックルではなく、立った状態での組みつきだ。そうして相手の首裏を抱え込んだ多賀崎真実は、左右の膝蹴りを脇腹に撃ち込んだ。

 首相撲からの膝蹴りも、彼女がプレスマン道場で習得した技術である。

 やはり彼女は、攻撃の幅が格段に広がっている。二年前とは、もはや別人であった。


 疲れているところに膝蹴りをもらった御堂美香は、相手の拘束を振りほどくこともかなわず、がっしりとした肩を大きく上下させている。

 そして、多賀崎真実が何度目かの膝蹴りを出そうと足を上げかけた瞬間――御堂美香はぐっと前進して、相手の股に右足を差し込んだ。


 軸足を駆られた多賀崎真実は、呆気なく背中から倒れ込んでしまう。

 柔道で言う、大内刈である。天覇館というのはもともと空手と柔道の融合を目指した流派であるため、東京本部においては柔道技の習得にも意欲的であるのだ。


 グラウンドで上になった御堂美香はスタミナ回復を目論むこともなく、強烈なパウンドの雨を降らせる。

 それを懸命にガードしながら、多賀崎真実は腰を切った。かろうじてハーフガードの状態であったため、彼女であれば逆転や脱出の目もあるはずであった。


 御堂美香はポジションキープに重きを置かず、ひたすらパウンドをふるい続ける。もともと逞しい両腕に縄のような筋肉が盛り上がり、その攻撃の苛烈さを物語っていた。


「がんばれー! 最後まであきらめるな!」


 灰原久子が、ひさしぶりに声を張り上げる。

 多賀崎真実はパウンドの勢いで重心が揺らいだ隙を突いて、腰を切り、なんとか立ち上がってみせた。


 両名はどちらも大きく息を乱しながら、あらためて相対する。

 残り時間は、二分足らずだ。今の攻防で、ポイントは御堂美香に傾いたことだろう。


 それでも多賀崎真実は逸ることなく、慎重に間合いを測ろうとする。

 そこに御堂美香が、大きく踏み込んだ。

 右の拳を振りかぶりつつ、左手は相手の足もとにのばされている。右フックをフェイントにした、片足タックルだ。


 しかし、左手をのばすのが早すぎる。上体も前屈みになりすぎであるし、これではフェイントにかかることもないだろう。多賀崎真実は冷静に頭部をガードしつつ、左足を引いて片足タックルから逃げようとした。


 その左膝をかすめるような勢いで、御堂美香の左拳が上空にのびあがっていく。

 相手の膝裏をつかもうとした左手が、地を這うようにして多賀崎真実の顔面を目指したのだ。


 右フックは、左腕でブロックされる。

 その右拳が引かれるより早く、左拳が多賀崎真実の下顎を撃ち抜いた。

 両方の拳でほとんど同時に攻撃をふるうという、きわめて奇異なる光景だ。

 それでも威力は十分であったようで、多賀崎真実はぐらりと後方に倒れかかる。


 その首裏を、御堂美香の両手が抱え込んだ。

 同時に出した拳を引かず、そのまま首相撲に持ち込んだのだ。

 そして御堂美香は、右膝を振り上げた。

 腕に比べると長さの足りない足が、凄まじい勢いで上昇する。その鋭角に曲げられた膝は、多賀崎真実の下顎に突き刺さった。


 多賀崎真実は、腰からマットに崩れ落ちる。

 御堂美香がそれを押し倒そうとすると、レフェリーが割って入った。


 試合終了のブザーが、断続的に鳴らされる。

 怒号のような歓声の中、多賀崎真実は力なく突っ伏した。レフェリーの判断は、決して間違っていなかったのだ。


『三ラウンド、三分二十二秒! ニーキックにより、魅々香選手のKO勝利です!』


 控え室には、感嘆のざわめきが広がった。

 そんな中、「おいおい」という男性の声が響きわたる。


「そんなざまで、大丈夫かよ? お前の本番は、これからなんだぞ」


「だいじょーぶだよ! 余計に気合が入ったぐらいさ!」


 花子はモニター上の御堂美香に拍手を送ってから、背後を振り返った。

 予想した通り、灰原久子がぽたぽたと涙を流している。

 しかし、その端整な顔に浮かべられているのは勇ましい笑みであり――その肉感的な肢体には、これまで以上の闘志がみなぎっていた。


「負けちゃったのは残念だけど、今日はミミーがすごすぎただけさ! マコっちゃんだったら、すぐにリベンジしてくれるよ!」


「その意気だ。それじゃあ、出陣といくか」


 四ッ谷ライオットの陣営は、力強い足取りで控え室を後にする。

 花子は満足の吐息をついてから、モニターに向きなおった。


 多賀崎真実も意識までは失っていなかったらしく、マットの上であぐらをかいている。そして、レフェリーの腕を振り払った御堂美香が、その正面にひざまずいた。


 歓声が凄まじいので、両名の声がカメラのマイクで拾われることはなかったが――御堂美香は泣き顔であり、多賀崎真実は笑顔であった。

 そんな両名に、花子はあらためて拍手を送る。


 最初から最後まで、素晴らしい内容の試合だった。

 花子が想定していた通り、どちらも大きな糧を得たことだろう。辛勝した御堂美香も、惜敗した多賀崎真実も――次回には、もっと素晴らしい試合を見せてくれるはずであった。


(あなたたちと同じ時代を生きることができて、光栄だわ。これからも、一緒に頑張っていきましょうね)


 そうして御堂美香と多賀崎真実の一戦は、熱狂の中で終わりを告げ――ついに、清水雅とサキによるアトム級の王座統一戦が開始されるのだった

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