06 魔法少女とストロング・シスター
犬飼京菜と小柴あかりの熱戦から三試合を置いて、第五試合が羽田真里亜とオリビア・トンプソンの一戦であった。
そちらも第一試合に負けない激戦である。鎖骨の骨折から復調した羽田真里亜は休養前と変わらぬ躍動感でステップを踏み、序盤から試合の主導権を握ってみせた。
しかし、オリビア・トンプソンもまた歴戦のトップファイターである。フルコンタクト空手の現役選手である彼女は誰よりも頑丈な肉体で相手の攻撃を受け止め、不屈の闘志で反撃し続けた。結果、第三ラウンドまで突入した際には、羽田真里亜のほうが大きくスタミナを削られ、ダメージも深いように見えた。
しかし、最後に意地を見せたのは、羽田真里亜のほうである。
オリビア・トンプソンの突進を真正面から受け止めた彼女は得意のスープレックスでダメージを与えるとともにグラウンド戦に移行して、チョークスリーパーによってタップを奪ってみせたのだ。
執念で勝利をもぎとった羽田真理亜は輝くような笑みを浮かべながら、黄褐色の頬に涙をこぼしていた。
彼女が試合場で涙を見せるというのは、花子の知る限り初めてのことである。きっと赤星弥生子や青田ナナが長期欠場に追い込まれていることで、胸に期するものがあったのだろう。花子はとても温かい気持ちで、彼女の涙と笑顔を見守ることができた。
そうして本選の第五試合まで終了したならば十五分間のインターバルをはさんで、バンタム級のイベントを告げるセレモニーだ。
ユーリ・ピーチ=ストームの長期欠場にともないバンタム級王座の返還が発表されると、客席には悲嘆まじりのどよめきがあげられた。
しかし、次回の大会で空位の王座を巡るミニトーナメントが開催されることが発表され、それにエントリーされた三名の選手がケージに入場すると、悲嘆の思いを振りきるように歓声があげられた。
小笠原朱鷺子、高橋道子、香田真央の三名が、ケージに立ち並ぶ。そして、小笠原朱鷺子のコメントが、観客たちにいっそうの歓声をあげさせたのだった。
『できれば実力でベルトを奪いたかったところだけど、それは桃園の復帰を待つしかないよね。アイツが元気に戻ってくるまで、アタシたちの誰かがベルトを預からせていただくよ』
ユーリ・ピーチ=ストームは、必ずいつか戻ってくる――新宿プレスマン道場の関係者は事あるごとにそういったコメントを発表していたが、それが外部の人間から語られたのはこれが初めてのことであったのだ。なおかつ、小笠原朱鷺子というのは人の心を動かすことのできる人間であったため、その心強い言葉が観客たちの胸を満たしたのだろうと思われた。
そんな一幕を経て、興行は後半戦に突入する。
第六試合は、グラップリング・ルールの一戦である。世界大会でベスト8まで食い込んだ新鋭の柔術選手を、ストロー級の黄金世代である亜藤要が迎え撃つことになったのだ。
この近年の亜藤要は、まったく勝ち星に恵まれていない。しかし、相手がメイ・キャドバリーやベリーニャ・ジルベルトや灰原久子などであったのだから、それも致し方のないことであろう。そうして《アトミック・ガールズ》に呼ばれる機会が少なくなった彼女は、憂さを晴らすようにグラップリングの大会を荒らしまくってひそかな話題を呼んでいたのだった。
その次の出番である花子は、入場口でウォームアップをしながら試合の終わりを待つ。
やがて扉の向こう側から歓声が響きわたると、覗き見をしたトレーナーのひとりが笑顔で戻ってきた。
「どうやら亜藤さんが意地を見せたみたいだ。俺たちとしても、喜ぶべきだろうな」
亜藤要も、花子にとっては突き崩すことのできなかったトップファイターのひとりであるのだ。彼女はその頑丈さで花子の打撃技を押し返し、グラウンド戦のポジション争いでも素晴らしい粘りを見せて、毎回判定勝利をもぎ取っていたのだった。
「要ちゃんのレスリング能力は、一流だわからね。わたいでも仕留めきれなかったのに、ぽっと出の選手に仕留められるわけがないんだわよ」
「ああ。次の対戦が、楽しみなところだな。だけどまずは、目前の試合だ」
トレーナーに念を押されるまでもなく、花子は武中清美との対戦に集中していた。
ウォームアップを完了させた花子は、壁に立てかけていた魔法のステッキをつかみ取る。その頃に、敗北を喫した気鋭の新人選手が戻ってきた。
どうやら絞め技で落とされてしまったらしく、セコンドに肩を借りている。もとより柔術の出身である花子は、彼女に期待をかけていたのだが――彼女がこの先、MMAの世界に踏み込んでくるかは不明であった。
(もしもあなたがこちらの世界に来てくれるのなら、心から歓迎するわ。よく考えて、自分の進むべき道を選んでね)
そうして花子は、すみやかに頭を切り替えた。
花子が扉の前に立ちはだかると、さっそく名前がアナウンスされる。
『青コーナーより、まじかる☆まりりん選手の入場です!』
花子は大きく息を吐いてから、いざ花道へと足を踏み出した。
熱気にあふれた歓声が、花子の五体を包み込んでくる。花子にとってはこの十数年間で何度となく味わわされてきた感覚であったが――この瞬間の昂揚が損なわれることは、いっさいなかった。
花子は裏方の仕事や人材の育成にも大きな意欲を抱いているが、そうであるからこそ自分の晴れ舞台をかけがえのないものだと思っていた。
裏方の仕事であれば、この先も長きにわたって楽しむことができる。しかし、格闘技にせよ歌の舞台にせよ、自分が主役を張れる時間には限りがあるのだ。そして、三十五歳を目前にした花子は、すでにファイター人生の秋口に差し掛かっているはずであった。
(でもまだ冬の時代とは言わせないわ。わたしはようやくトップファイターとして認められることができたのだから……もっともっと楽しんで、もっともっと楽しませてあげないとね)
そんな思いを込めながら、花子はバトン芸を披露してみせた。
こういった余興でも、花子は決して手を抜いたりはしない。花子の戦いは、入場の際から始まっているのだ。華麗にして豪快なる魔法少女として、観客たちにひとときの熱狂をもたらす。それが、花子の使命であるのだった。
花道を踏破した花子はひときわ高く放り上げたステッキをキャッチして、それをトレーナーに受け渡す。マウスピースは最初からくわえているし、コスチュームの上には何も着ていないため、そのままボディチェックに及んだ。
そうしてケージに上がったならば、赤コーナー側から武中清美が入場してくる。
そちらも、かなりの歓声を浴びていた。彼女はもともと《NEXT》のトップファイターの妹ということで注目を集めていたし、その前評判に恥ずるところのない戦績をあげていたのだ。そして何より、彼女の果敢なファイトスタイルが観客の心をつかんでいるのだろうと思われた。
(運営陣としては、彼女のような新進気鋭の選手をプッシュしたいのでしょうね)
だからこそ、彼女は赤コーナー陣営に割り振られたのだろう。清水雅も試合前にくさしていた通り、普通であれば長きのキャリアと実績を持つ花子が赤コーナーで彼女の挑戦を迎え撃つ立場であるのだ。
まあ、《アトミック・ガールズ》はそうまで陣営分けに頓着していない。しかし、花子と小柴あかりよりも、武中清美と犬飼京菜のほうが赤コーナーに相応しいと判じたことは、確かであるのだ。
(わたしが篠宮伊里亜さんを下したことを評価して、運営の人たちは猪狩さんのタイトルに挑戦させてくれた。まああれは、負傷欠場した成美さんの代役だったわけだけれど……運営の人たちにとっては、これで長年の功労者に対する恩義に報いたという心境なのでしょうね)
普通に考えれば、去年の一戦が花子にとって最初で最後のチャンスであったのだろう。
しかし花子は、普通の考えなど持ち合わせていない。この先も、目の前に立ちふさがる相手をすべてなぎ倒して、再度のタイトルマッチを目指す所存であった。
(まあ、わたしの本懐は真剣勝負とエンターテインメント性の幸福なる結実だけれど……だからこそ、確かな結果を残さないとね)
そんな思いを噛みしめながら、花子は対戦相手の入場を見守った。
武中清美は若き熱情をたぎらせながら、ケージに踏み入ってくる。彼女が花子をロートル扱いしていないことは、猪狩瓜子から聞き及んでいた。かつて彼女は打ち上げの場において、この階級のトップスリーは猪狩瓜子と灰原久子と鞠山花子であると言い放っていたそうであるのだ。
『第七試合! ストロー級、五十二キロ以下契約、五分三ラウンドを開始いたします!』
レトロなマジションのようないでたちをしたリングアナウンサーが、朗々たる声を響かせる。
『青コーナー。百四十八センチ。五十一・九キログラム。天覇ZERO所属……まじかる☆まりりん!』
花子はスカートめいた腰の装飾を両手の指先でつまんで、一礼してみせた。カーテシーと呼ばれる、西洋の伝統的な挨拶の作法だ。
熱い声援が、花子の胸を満たしてくれる。花子は半年ぶりの試合であったが、年末の人気投票ではまだベストテンに食い込んでいたし、世間の人気は落ちていないはずであった。
『赤コーナー。百五十八センチ。五十二キログラム。ビートルMMAラボ所属……武中、キヨ!』
武中清美は精悍なる面持ちで、右腕を振り上げる。
やはり彼女は、花子に負けないぐらいの歓声を集めていた。容姿に大きな個性を持たない彼女は、そのファイトスタイルと実績だけでこれほどの人気を獲得したのだ。それは尊敬に値する所業であるはずであった。
レフェリーのもとで向かい合うと、彼女の熱情がさらにひしひしと伝えられてくる。
花子は昂揚のあまり、ついつい口もとがほころんでしまいそうだった。
「両者、クリーンなファイトを心がけて」
レフェリーの言葉に応じて両手を差し出すと、武中清美は力強く拳を押し当ててきた。
花子は軽妙なるステップで、フェンス際まで引き下がる。膝にも腰にも、不調は見られない。もとより故障とは縁の薄い花子であるが、半年間の休養によってコンディションは万全以上であった。
試合開始のブザーが鳴らされて、武中清美は勢いよく前進してくる。
それを受け流すべく、花子はステップを踏んでみせた。
十数年をかけて育んできた、花子のステップワークである。しかし武中清美は臆するところなく、さらなる勢いで突進してきた。
(武中さんは、打たれ強い。たとえ攻撃をくらってでも前に出ようという意気込みなのかしら)
相手の覚悟を確かめるために、花子は遠慮なく右ローを射出した。
武中清美はぬかりなく左足を立ててチェックしつつ、お返しの右フックを振るってくる。十センチもの身長差があるため、花子も危うくヒットさせられるところであった。
(外連味のない、いい攻撃だわ。やっぱり、油断は禁物ね)
最近の彼女は《アトミック・ガールズ》の所属選手と親交を深めて、忘年会のパーティーにも招待されていた。しかし、こちらのジムや道場で出稽古などは行っていないため、『チーム・プレスマン』には含まれない。ただし、彼女の所属するビートルMMAラボは、男子の有望選手を数多く輩出しているのだった。
(言ってみれば、美香さんと同じようなものね。力のある男子選手との稽古が、彼女の力を育んできたのだわ)
しかしそれならば、御堂美香と同じ弱みを持っていても不思議はない。
それを確かめるために、花子はぐっと身を屈めてほとんどクラウンチングの体勢になりつつステップを踏んでみせた。
タックルを警戒してか、武中清美の足取りがいくぶん慎重になる。
それに――内心の動揺を示すように、構えた拳がわずかに揺らいだ。ただでさえ小さな花子が身を屈めたことで、いっそう的が小さくなったのだ。
男子選手と稽古を積んできた御堂美香は、自分より小柄な相手との対戦を苦手にしているのだ。ましてや、花子ほど小柄な選手は、どこのジムにもそうそう存在しないはずであった。
(いっぽうわたしは、自分よりも大きな相手とばかり稽古を積んできた身であるというわけね)
花子のジムにも二名の女子選手が在籍しているが、どちらもアマチュアの選手であり、花子と対等にスパーをできるだけの実力はない。よって、花子が相手取っているのもおおよそは男子選手であったのだ。もっとも、小柴あかりや小笠原朱鷺子、多賀崎真実や灰原久子など、昨今では数多くの女子選手を出稽古で迎えていたが――それらはいずれも、武中清美を上回る実力者であった。
(よかったら、あなたも出稽古にお迎えしたいところね)
花子は大股のステップで相手のアウトサイドに回り込み、大振りの右フックをヒットさせる。
それで相手の重心が揺らいだならば、すかさず両足タックルだ。花子はじっくりと時間をかけて試合を楽しむことを身上にしていたが――かといって、狙えるチャンスを狙わないのは真剣勝負の原則に反してしまうのだった。
(ごめんなさいね。今のわたしは、絶好調なの)
花子は相手の足をまたぎこして、マウントポジションに移行した。
武中清美はパウンドを警戒して頭部をガードしつつ、なんとか腰を跳ねあげようとする。しかし花子は拳半個分のスペースを空けることで彼女の動きを受け流し、同じポジションをキープしてみせた。
そして、大きく振りかぶった右拳を、相手のこめかみに叩きつける。
それでガードが左右に開いたならば、鼻づらを目掛けての鉄槌だ。土台、マウントポジションですべての攻撃をガードすることなど不可能なのである。
二発の攻撃で嫌気がさした武中清美は、両腕を突っ張って花子を押しのけようとする。
マウントポジションでそのように振る舞うのは危険であると、彼女もしっかり指導を受けていることだろう。しかし、実戦の場で攻撃をもらうと、誰もが心を乱してしまうものであるのだ。花子としては、鼻先に贈り物を献上されたような心地であった。
花子はつつしんで、相手の右腕を両手で抱え込む。
そしてひと息に体勢を入れ替えて、横合いに倒れ込んだ。のばした右腕は両足ではさみこみ、靭帯を引き千切ってしまわないように加減をしながら、腹で相手の肘を圧迫する。
それでも、激烈な痛みが走ったのだろう。武中清美は何を考える間もなく、花子の右足をタップした。
レフェリーに声をかけられるより早く相手の右腕を解放した花子は、後方転回して起き上がり、カーテシーの礼をしてみせた。
『一ラウンド、五十七秒! 腕ひしぎ十時固めにより、まじかる☆まりりん選手の一本勝ちです!』
花子は、秒殺というものを好まない。一分足らずで晴れ舞台から退いてしまうことなど、もったいなくてならないからだ。
だがやはり、真剣勝負で手を抜くことはできなかったし――鮮やかな秒殺勝利というものも、エンターテインメント性は十分であるはずであった。
(わたしは、今こそが全盛期であるのよ。運営陣のみなさん、それを理解した上で今後のマッチメイクをお願いしますわね)
そうして花子が四方にお辞儀をしていくと、これまで以上の歓声がふくれあがったのだった。
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