03 静謐な夜
午後の時間をまるまる使って各種の雑務を片付けた花子は、午後の七時に最後の目的地に向かった。
場所は赤坂、知る人ぞ知る割烹料理の名店である。この場所で待ち合わせをしているのは、古きからの盟友たる清水雅に他ならなかった。
「おひさしぶりやねぇ、花子ちゃん。元気そうで何よりやわぁ」
清水雅は、個室の座卓でひとりのんびりとくつろいでいた。
本日は、ぬばたまの髪をざっくりとしたアップにまとめており、白いうなじに垂れた後れ毛がめっぽう色っぽい。睫毛の長い切れ長の目に、細くて筋の通った鼻梁に、メイクをしていなくても真っ赤な唇に、ひんやりと冷たそうな青白い肌――数ヶ月ぶりに相対する清水雅は、相変わらず妖艶で美しかった。
そのしなやかな体躯に纏っているのは、彼女にしてはカジュアルな黒いニットのトップスと同色のスキニーパンツだ。ただ、襟ぐりがざっくりと開いており、そこから覗く白い肌と鎖骨のラインが艶めかしい。彼女は花子よりも二歳年長であったが、人の生き血でもすすっているかのような美麗さと若々しさを保持していた。
「あかりちゃんも、相変わらずの可愛らしさやねぇ。遠慮はいらへんさかい、ゆっくりくつろいでなぁ」
「は、はい。わたしみたいな部外者がのこのこついてきちゃって、どうも申し訳ありません。決してお二人のお邪魔はしませんので……」
「部外者やなんて、そないなさびしいこと言わへんでほしなぁ。花子ちゃんのお弟子はんなら、うちにとってもお弟子同然やでぇ」
そんな風に語りながら、清水雅は咽喉の奥でくつくつと笑った。
「そやけどその論法でいくと、うちもあかりちゃんを好きに扱うてええいうことやろかぁ? なんやら、血ぃたぎってきたわぁ」
「清純なあかりんをからかうんじゃないだわよ。雅ちゃんも、ご機嫌そうで何よりだわね」
花子は小柴あかりをうながして、清水雅の対面に腰を落ち着けた。
すると、それを待ちかまえていたかのように障子戸が開かれる。運ばれてきたのは、冷たいほうじ茶と先付の酢の物であった。
「どうせ花子ちゃんたちは飲まへんのやろ? こっちは勝手にやらしてもらうわぁ」
「雅ちゃんは、飲んでるんだわよ? 試合前に、珍しいことだわね」
「そやさかい、飲みおさめや。明日から六日間は、楽しい楽しい追い込み稽古やさかいねぇ」
彼女は対外的なキャラクター作りのために、過剰な京都弁を駆使している。それがこういう日常にまで及んでいるのは、キャラ作りを徹底しているためであるのか、花子までをも対外的な存在と見なしているためであるのか――それは、十数年来のつきあいである花子にとっても謎のままであった。
(何せ、雅さんは秘密主義だものね)
それでも花子は、彼女のことを信頼している。プライベートの友人ではなく、同じものを守るために戦っている盟友として、最大限の信頼と敬愛を抱いているのだ。ある意味では、彼女こそが花子にとってもっとも近しい存在であった。
「それにしても、試合の一週間前に前乗りしてくるなんて、珍しいだわね。それだけ気合が入ってるんだわよ?」
酢の加減が素晴らしいなますの切り身をついばみながら、花子はそのように問うてみる。
すると、清水雅は人を食った面持ちで「ははん」と鼻を鳴らした。
「そらまあ、一年以上ぶりの試合なんやさかい、気合は上々やけどなぁ。サキちゃんのあえぐ姿を想像するだけで、テンションあがってまうわぁ」
「最近のサキは、油断がならないんだわよ。雅ちゃんには、なんとしてでも王座を守ってほしいんだわよ」
「くふふ。プレスマンにベルトを独占されるのんは、おもんないさかいねぇ。……あ、そやけど、あの物体のベルトはようやく返還されるんやんなぁ?」
「そうだわね。まあ、バンタム級のベルトは、きっと朱鷺子ちゃんのものなんだわよ。道子ちゃんや真央ちゃんがどれだけ食い下がれるかだわね」
「朱鷺子ちゃんのライバルとしては、いまひとつ頼りあらへん顔ぶれやねぇ。やっぱし朱鷺子ちゃんは、海外進出にご執心なんやろかぁ?」
「朱鷺子ちゃんの背丈とウェイトだと、国内でライバルを見つけるほうが難しいからだわね。朱鷺子ちゃんが活躍するには海外進出か、あるいは大怪獣ジュニアを真似るぐらいしかないだわよ」
「難儀なこっちゃねぇ。まあ、うちはのんびり見守らせてもらうわぁ」
やはり話題となるのは、格闘技業界の今後についてである。花子としては彼女がどのような手管で美容を保っているのか気にかかってならないが、彼女はそういう庶民的な話題を何より忌み嫌っているのだった。
「そういうたら、あかりちゃんはあの犬っころとやりあうんやんなぁ? そっちも正念場やねぇ」
「あ、はい。世間でも、犬飼さんが圧倒的に有利だっていう評価みたいですけど……わたしはわたしなりに、勝利を目指すつもりです」
小柴あかりは恐縮しながらも、瞳に情熱をみなぎらせる。その姿に、清水雅はまた「くふふ」と妖しく笑った。
「あかりちゃんも、気合入っとるねぇ。うちより早いラウンドで仕留めることできたら、ご褒美をあげたるわぁ。新参のドッグ・ジムに、そうそうでかい顔はさせられへんさかいねぇ」
派閥争いと縁のない小柴あかりは、「はあ……」と頼りなげな声を返すばかりである。
しかし、そうまで恐縮する必要はない。こんな発言は、しょせんトラッシュトークの一環であるのだ。むしろ彼女は犬飼京菜のことを気に入っているのだろうと、花子は踏んでいた。
(雅さんは、屈折したお人がお好みだものね。そういう相手にこそ意地悪な発言をしてしまうというのは……まったく、業の深いことだわ)
そうして言葉を重ねている間に、煮物椀、造り、焼き物と料理が進められていく。さすが清水雅がごひいきにしている店だけあっても、いずれも見事な手並みであった。
「そういえば、雅ちゃんはどこで稽古に励むんだわよ? 古巣のバイソンMMAを頼るんだわよ?」
「あないな連中とはとうに手ぇ切ったし、そもそもロクなスパーリングパートナーもいいひんやんかぁ? あないな連中を相手にしとったら、こっちの腕がなまってまうわぁ」
「それじゃあ、どこのジムを頼るんだわよ? よかったら、我が天覇ZEROでお迎えするんだわよ?」
「そらぁ親切にありがとさぁん。そやけど稽古の相手には困ってへんさかい、心配はご無用やでぇ」
斯様にして、彼女は秘密主義なのである。
しかし、上京した際にはいつもこうして花子に声をかけてくる。それだけで、花子としては少なからず誇らしい気分であるのだった。
(なんだか、ツンデレの究極系みたいなお人よね。……まあ、デレる姿なんて、これっぽっちも見せてくれないけれど)
清水雅は、孤高の存在だ。彼女は《カノン A.G》の騒動で所属ジムのパイソンMMA・ウエストを脱退してしまったが、その前から誰も頼らない気質であった。必要な際には専門のトレーナーを雇用して、稽古をつけていたようであるのだ。そして、そんな費用をどこから捻出しているのかも、決して明かそうとしなかった。
(まあ、実家は老舗の呉服問屋だっていう話だから、経済的には困っていないんでしょうけれど……そんな家系で格闘技に取り組むなんて、やっぱり変人の部類よね)
なおかつ、そういう素性も彼女の口から語られたわけではなく、美人ファイターとして名を売っていた時代に、週刊誌にすっぱ抜かれたのである。実家の家族は彼女の奔放な生きざまにほとほと手を焼いている、などと書きたてられていたものであるが――それについても、本人はノーコメントであった。
「それより、花子ちゃんのほうはいけるん? 相手は外様のぺえぺえなんやろ? それに負けたら、また『中堅の壁』に逆戻りなんちゃうん?」
「こっちも、心配はご無用だわよ。確かにあの武中キヨって娘っ子は、なかなかスジがいいようだわけど……わたいとやりあうには、三年早いだわね」
「十年ちゃうくて、三年かいな。まあ、十年も待っとったら、花子ちゃんがよぼよぼになってまうもんなぁ」
「ふふん。二十二歳もお姉さんの雅ちゃんに年齢でどうこう言われたくないんだわよ」
「二十二歳て何やねん。サバ読むのも大概にしときやぁ。……ほら、あかりちゃんが哀れな年寄り連中に冷ややかな目ぇ向けてるやんかぁ」
「と、年寄りだなんて、とんでもありません。鞠山さんのことも雅さんのことも、わたしは尊敬していますので……」
「いわゆる敬老の精神いうやつやねぇ。いつかあかりちゃんとやりあう日も楽しみやわぁ」
そんな具合に、会食の時間は和やかに過ぎ去っていった。
箸休めから八寸、炊き合わせと、料理も着々と進んでいく。三名ともにウェイト調整の期間であるため、炊き込みご飯は申し訳ていどの分量であった。
「ところで……花子ちゃんは、瓜子ちゃんとも仲良うしてるん?」
食事の場も終盤に至って、清水雅はようやくそんな話題を切り出してきた。
「うり坊とは、一月の試合会場で会ったきりだわね。前にも話したと思うだわけど、プレスマン道場まで出向いてるのはあかりんや朱鷺子ちゃんだわよ」
「ふうん。やっぱしおんなじ階級の相手には、そうそう手の内を明かせへんってことかいな?」
「それもあるだわね。だけどそもそも、わたいは天覇ZEROの稽古だけで充足してるんだわよ。余所の選手と稽古に明け暮れるのは、合宿稽古だけで十分という判断だわね」
「なるほどなぁ。ま、おんなじ階級にあないな怪物が出現したら、花子ちゃんも戦々恐々やねぇ」
「ふん。ライバル不足の朱鷺子ちゃんに比べれば、楽しいもんだわよ。まあ、ピンク頭さえ復帰したら、朱鷺子ちゃんも苦労の種には困らないだわね」
「へえ。花子ちゃんも、ついにあの物体を仲間と認めたんかいな?」
「アレを仲間呼ばわりするのは、いささかならず気が引けるだわね。同じ陣営についた傭兵部隊みたいなもんだわよ」
そんな風に答えてから、花子は清水雅の表情を検分した。
「そういう雅ちゃんこそ、うり坊やピンク頭をどう評価してるんだわよ? たまには率直な意見を聞かせてほしいんだわよ」
「ははん。うちの王座にちょっかい出したんはサキちゃんやし、瓜子ちゃんとあの物体はサキちゃんの同門やろ? そないしたら、まぎれものう敵陣営ってことやねぇ」
「それは来週の試合までの話なんだわよ。うり坊やピンク頭は、そんな枠で語れる存在じゃないんだわよ」
しどけなく頬杖をついた清水雅は、妖艶なる流し目で花子を見やってきた。
「どないしたん? うちが瓜子ちゃんらをどないな風に思ても、花子ちゃんには関係あらへんやろ?」
「雅ちゃんは、大事な戦友なんだわよ。雅ちゃんがうり坊たちをどう思っているかは、わたいにとってもそれなりの重要事項なんだわよ」
「ふうん」と、清水雅は真っ赤な唇の端をあげた。
しかし、いつもの毒蛇めいた微笑みではない。もっと体温の感じられる、人間らしい微笑みであった。
「そやけど、うちの心情なんて花子ちゃんと似たり寄ったりなんとちゃうかなぁ。そないなおもんない話を口にするのんはうちの流儀とちゃうんで、勘弁させてもらおかぁ」
「……なるほどだわよ。だったらわたいも、さっきの質問を取り消すだわよ」
「なんや、えらいあっさり引き下がるやん」
「ふふん。雅ちゃんが珍しい笑顔を見せてくれたから、わたいもひとまず満足なんだわよ」
「なんや、いけ好かへんわぁ。代わりにあかりちゃんをいじめたろかなぁ」
「な、なんでわたしを!?」
「お師匠の始末をつけるんが、お弟子の役割やろぉ? 悪いお師匠を持ったもんやねぇ」
小柴あかりには気の毒であったが、花子は何だか満ち足りた気持ちであった。
やはり冷酷無比で知られる清水雅でも、猪狩瓜子や桃園由宇莉の存在を適当に受け流すことはできないのだ。それが知れただけでも、この日の会食に参じた甲斐があったというものであった。
(やっぱり雅さんは、わたしに似たところがあるのよね。雅さんが現役で頑張ってくれているのは、心強い限りだわ)
そうして卓には、桜餅と抹茶が供されて――花子の多忙な一日も、しめやかに締めくくられることに相成ったのだった。
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