インターバル

変貌

《フィスト》二月大会の翌日――二月の第三月曜日である。

 その日も瓜子は意気揚々と、山科医院を目指していた。


 試合の翌日である本日は撮影の仕事も入っていなかったし、ノーダメージであったためメディカルチェックを行う必要もない。そして、朋友たる多賀崎選手とレオポン選手も無事に勝利を収めたため、瓜子の足取りはいっそう軽かった。


(しかも、あたしも多賀崎選手もノーダメージの秒殺KOだもんな。ユーリさんは、どれだけ喜んでくれるだろう)


 そんな風に考えると、瓜子の胸はいっそう温かくなっていく。

 駅から病院まで向かうタクシーの車内では、ひとりでにやにやと笑ってしまわないように気を張らなくてはならない始末であった。


 そうして山科医院に到着したならば、お馴染みの女子事務員に来意を告げる。

 すると、普段とは異なる返事が返されてきた。


「桃園さんは、リハビリ室です。ちょっと今日は、歩行のリハビリが長引いているようですね」


「あ、そうなんすか。そうしたら……自分は、どうするべきでしょう?」


「よろしければ、リハビリ室のほうにどうぞ。院長先生からも、許可はいただいておりますので」


 無機的な面持ちである女子事務員に頭を下げて、瓜子はリハビリ室に向かうことにした。

 瓜子は毎回来院する時間を告げており、検査やリハビリの現場に行き当たることもなかったのだ。ユーリがリハビリに励んでいる姿を想像するだけで、瓜子は胸が詰まってしまった。


(ユーリさんが怪我をしてから、もうすぐ三ヶ月だもんな。ユーリさんの頑張りが、早く報われるといいんだけど……)


 ユーリは骨折も靭帯損傷も恐るべきスピードで回復しているという話であったが、通常であってもすでに自力で歩ける時期であろう。しかしユーリは体重が戻らず、筋力がいちじるしく低下していたため、いまだに車椅子のお世話になっているのだ。


 ファイターとしてあれだけの活躍を見せていたユーリが、歩くことすらままならないのである。それでもきちんと回復すれば、またファイターとして復帰できるだろうという言葉はいただいていたものの――ユーリの気持ちを思うと、胸が痛んでならなかった。


(骨折のほうも完治したら、筋肉のほうに栄養が回るのかな……とにかく、ユーリさんが気落ちしないように、めいっぱい励ましてあげないと)


 そうして瓜子は沈みそうになる気持ちを力ずくで持ち上げて、リハビリ室を目指した。

 本日も、山科医院は閑散としている。瓜子もすでに二ヶ月以上は来院している身であったが、ユーリ以外の患者を見かけたことは数えるほどしかなかった。これで経営のほうは大丈夫であるのかと、いささかならず心配になるところであった。


 案内図によると、リハビリ室は一階の端に存在する。

 瓜子がそちらに足を向けると、大きな両開きの扉が待ちかまえていた。

 勝手に入室していいものかと、瓜子がおそるおそるそちらの扉をスライドさせると――白衣を纏った小さな背中が見えた。見間違えようもなく、山科院長その人である。


「あの、失礼します。事務員さんに、こちらに向かうように言われたんすけど……」


「やあやあ、お疲れ様。どうぞ遠慮なく入っておくれよ」


 こちらを振り返った山科院長は、いつも通りの柔和な笑顔である。

 瓜子はほっと息をつきながら入室し――そしてすぐさま、息を呑むことになった。リハビリ室はがらんとしていて見通しがよかったので、ユーリの姿も丸見えであったのだ。


 ユーリは看護師に付き添われながら、歩行のリハビリに励んでいた。

 床に敷かれた細長いマットの左右に、腰の高さで手すりが設えられている。それで体重を支えながら、ユーリはよろよろと力なく歩を進めていた。


 ユーリは痩せてしまっただけで、背丈に変わりはないはずであるのに――とても小さく見えてしまう。ひさびさにユーリが立った姿を見た瓜子は、それだけで涙ぐんでしまいそうだった。


 ユーリは痩せ細った身体に、ベージュ色の病院着を纏っている。さらには、白いヘッドガードをかぶり、手足の関節には分厚いサポーターを装着していた。

 ヘッドガードは転倒の際に頭を守る用心で、サポーターは弱った関節を保護するための処置であるのだろう。靭帯損傷は完治していても、靭帯そのものが衰弱してしまっているのだ。


 そんな常ならぬ姿をしたユーリが、ぽたぽたと汗のしずくを垂らしながら、懸命に歩いている。

 瓜子は横からその姿を見守っている格好であったので、ユーリの身がどれだけ薄っぺらくなってしまったかも瞭然であった。


 あれほど肉感的であったユーリの肢体が、子供のように細くなってしまっている。

 ユーリの体重は、いまだ四十キロ未満であるのだ。そうして背中を屈めているために、本当に瓜子よりも小さく見えてしまうほどであった。


 だが――ヘッドガードの陰に覗くユーリの白い顔に、悲嘆の色はない。

 苦しそうに眉をひそめて、しとどに汗を垂らしながら、その瞳だけは強く明るく輝いていた。


 これほどの苦境に陥っても、ユーリは希望を捨てることなく、ファイターとしての復帰を目指しているのだ。

 瓜子は目もとからあふれたものをハンカチでぬぐってから、山科院長に向きなおった。


「あの、自分は近づかないほうがいいですか?」


「うーん……僕も今、それを思案していたのだよ。とにかく猪狩さんというのは、桃園さんにとっての刺激物であるからね。その刺激がどのように作用するかは、よくよく見極めなければならないんだ」


 そんな風に語りながら、山科院長はにこりと微笑んだ。


「だけどまあ、そろそろリハビリにも本腰を入れないといけない時期であるからね。ここはひとつ、いい作用が働くように祈るとしよう。桃園さんがあちらの端まで到着したら、近づいてみようか」


 瓜子は存分に気を張りながら、「はい」と応じてみせた。

 ユーリはひたすら正面だけを見つめているので、まだ瓜子の存在には気づいていない。そうして亀と同程度のスピードで、ようようマットの端まで到達した。


「桃園さん、お疲れ様。ここでひとまず、休憩にしようか」


 山科院長がそのように声をあげながら、ユーリのほうに近づいていく。

 瓜子もその隣に並んだが、ユーリはひゅうひゅうと息を切らして、こちらを振り返る余力もない様子である。手すりをつかんだ細い両腕は、ぷるぷると震えてしまっていた。


「大丈夫かい? 今日は一度も転倒しなかったね。わずかずつでも回復しているので、決して焦ってはいけないよ。君、車椅子の準備をしてくれたまえ」


 看護師が「はい」と車椅子のほうに向きなおるのと同時に、ユーリがこちらを振り返った。

 その顔に、ぱあっと幸福そうな表情が広がり――そして、両膝が力なく砕けた。


 そんな事態を予期していた瓜子は、すぐさま飛び出してユーリの身を支えてみせる。

 ユーリは手すりごしに、瓜子の身を抱きすくめてきた。

 瓜子もまた、壊れ物でも扱うような心地でユーリの身を抱きすくめる。瓜子がユーリを抱きしめるのは、大晦日の夜以来であったが――そのときと変わらず、ユーリの身は子供のように華奢であった。


「うり坊ちゃんだぁ……こんなサプライズは、予期していなかったのです……」


「はい、すみません。リハビリのお邪魔をしちゃいましたね」


 瓜子は必死に涙をこらえながら、ユーリの耳に囁きかける。

 ユーリはヘッドガードに包まれた頭を、瓜子の胸もとにぐりぐりと押しつけてきた。


「すみません、猪狩さん。十分に注意していたつもりなんですが……」


 看護師が申し訳なさそうに眉を下げながら、ユーリのもとまで車椅子を押し込んだ。


「さあ、どうぞ。しっかり支えていますので、ゆっくり腰を下ろしてください」


「うにゅう……うり坊ちゃんから身を離すのは、ダンチョーの思いであるのです……」


「あはは。でも、こうしていると余計に体力を削られちゃうかもしれませんからね」


 瓜子が無理やり笑ってみせると、ユーリは「うみゅみゅ……」とおかしな声をもらした。


「でも……こうしてうり坊ちゃんにひしと取りすがっていても、悪寒がやってこないのです……これはユーリの肉体が、お稽古中であるというニンシキにあるのでせうか……?」


「そうなんですか? でも、とりあえずいったん座りましょうね」


「うにゃあ……ユーリにとっては大ごとなのに、うり坊ちゃんはつれないのです……」


 甘えた声でそんな風に語りながら、ユーリはそろそろと車椅子に腰を下ろした。

 そうして幸福そうな面持ちをしながらも、ぐったりと背中をもたれる。もとよりユーリは、リハビリで力を使い果たしていたのだった。


「うみゅう……やっぱり幸福な心地で、悪寒は感じないのですけれども……ただ、心臓が大暴れなのです……」


「ふむ。猪狩さんとの過度な接触は、ちょっと刺激が強すぎるのかな。リハビリはここまでにして、ひと通りの検査をしておこうか」


「はにゃにゃ……あにょう、その検査のお時間は面会のお時間にふくまれてしまうのでしょうか……?」


 ユーリが不安げに問いかけると、山科院長はとびきりやわらかい笑顔を返した。


「もちろんそれは、除外しておくよ。検査を終えて病室に戻ってから、カウントを始めることにしよう。桃園さんには心を安らかに保ってもらわないと、検査でも正確な数値を出せないだろうからね」


「ありがとうございましゅ……」と、ユーリもまた幸福そうに微笑んだ。

 その姿に、瓜子はまだ涙ぐんでしまう。それは、ジャンパーの袖でぬぐうことにした。


「それじゃあ、検査室に向かおうか。君、準備をよろしくね」


「はい」とうなずいた看護師が、細やかな手つきでユーリの手足のサポーターを外し始める。

 そしてその指先が首もとにのばされたとき、ユーリが「むにゃあ……」と声をあげた。


「あ、あにょう……うり坊ちゃんにこの姿をお見せするのは、まだココロの準備ができていないのですが……」


 看護師は「え?」と目を丸くした。


「この姿って……もしかして桃園さんは、病室でもいっさい帽子を外していなかったのですか?」


 ユーリはいつも耳あてつきのニット帽で、頭を隠しているのだ。最近になって包帯は外されたようだが、手術の際に髪を丸刈りにしてしまったため、それを隠したいのだろうと思われた。


「だったら自分は、後ろを向いてましょうか。……あれ? だけど、頭の手術をしてから、もうすぐ三ヶ月ですよね。それならけっこう、髪も生えそろってきたんじゃないっすか?」


「はいぃ……それはその通りなのですけれども……」


 と、ユーリは細い身体をもじもじと揺すった。

 その姿に、山科院長は「ふむ」と微笑む。


「それは僕も初耳だったね。でも、これだけ親身になってくれている猪狩さんに隠し事をする必要はないんじゃないのかな?」


「でもでも……うり坊ちゃんに嫌われてしまったら、ユーリは生きていけぬ身でありますし……」


「何があっても、猪狩さんが桃園さんを嫌うことなんてありえないだろう。……と、僕はそんな風に考えているんだけど、どうだろうね?」


「ええ、もちろんです。外見なんて、どうでもいいじゃないっすか」


 瓜子が力を込めて答えると、ユーリは「あうう……」とヘッドガードに包まれた頭を抱え込んでしまう。それを見守る山科院長は、とても優しげな眼差しであった。


「メンタルケアは専門外だけれども、君が猪狩さんに隠し事を持つというのは精神衛生上よろしくないように思うよ。ここは勇気を出して、すべてをさらけ出すべきじゃないかな?」


「か、隠し事をしているつもりはにゃいのですが……」


「でも、僕たちが知っていることを猪狩さんが知らないだなんて、あまり健全なことではないだろう。それこそ、猪狩さんが嫉妬しちゃうんじゃないかな?」


「うにゃあ……院長先生は、仏のお顔をした悪鬼であられるのです……」


 ユーリはくにゃくにゃになりながら、瓜子の顔をおずおずと見上げている。

 瓜子は引き締めていた心を解いて、ユーリに笑いかけてみせた。


「嫉妬したりはしませんし、ユーリさんがどうしてもって言うなら、そのお気持ちを尊重します。どうかユーリさんの望む通りにしてください」


「うにゅにゅ……うり坊ちゃんは、天使のお顔をした悪鬼であられるのです……」


「ええ? いくら何でも、悪鬼よばわりはひどくないっすか? それはさすがに、心外です」


 瓜子が思わず口をとがらせると、ユーリは「うみゃあ……」とうなだれた。


「そのすねたお顔も、恐ろしいばかりのかわゆらしさであるのです……わかり申した。ユーリも、観念したのです……」


「いいっすよ。見せたくないなら、好きにしてください」


「うわぁん、見せるよぅ見せるよぅ……でもでも、笑ったりしないでね……?」


 ユーリに目配せを受けた看護師が、顎の下のベルトに指先をかけた。

 そちらのマジックテープが外されて、ヘッドガードに手がかけられる。

 そうして、ヘッドガードが外されると――思いも寄らない姿が、瓜子の眼前にさらされた。


 髪の長さは、三センチていどである。手術から三ヶ月ていどであるのだから、まあ順当な長さであろう。

 なおかつ、額の生え際には横一文字に十センチていどの傷痕が残されている。頭蓋骨の陥没骨折を治療するための、手術痕である。


 しかし、何より瓜子を驚嘆させたのは、その短い髪の色合いであった。

 汗でしんなりと湿ったユーリの髪は、雪のような純白であったのである。


「ね……? ユーリのような若輩者が、偉そうに真っ白な頭をしてしまって……恐縮の限りであるのです……」


 ユーリは心から恥ずかしそうに、もじもじとしている。

 しかし瓜子は、なかなか言葉を返すことができなかった。


 窓からの日差しで白銀に輝くユーリの髪は、それと同じぐらい真っ白な肌と相まって――それこそ雪の精霊のように美しく、瓜子を陶然とさせてやまなかったのだった。

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