04 初防衛戦
そうして、真実の出番が巡ってきた。
本日のセミファイナル、女子フライ級のタイトルマッチである。
対戦相手は、ラウラ・ミキモト。猪狩に連敗したことでベルトを失い、階級を変更して、たったの一戦でタイトルマッチにまでこぎつけた、若手の実力選手だ。
運営陣のその扱いに、思惑が透けていた。ラウラというのは外様の選手であり、真実はいちおうフィスト・ジム系列の所属であったが――もともと人気選手であったラウラと、『アクセル・ロード』で多少ばかりは名の売れた真実で、どちらが勝っても損はないという思惑であるのだ。
まあ、運営陣の思惑などは、選手にとって副次的なものである。
真実としては、初めての防衛戦に死力を尽くすのみであった。
『赤コーナーより、多賀崎真実選手の入場です!』
そんなアナウンスに導かれて、真実は花道に足を踏み出す。
そうすると、予想以上の熱気と歓声が五体をくるんできた。
もちろん猪狩と比べれば、ささやかなものである。
しかし、真実がかつてこれほどの歓声を浴びた記憶はなかった。先月の《アトミック・ガールズ》でもそれなり以上の歓声をいただいていたが、中堅選手を相手にした調整試合であったし、べつだん注目はされていなかったのだ。
今回も、猪狩に比べれば注目度は低いはずである。
しかしそれでも、真実は《フィスト》の王者であり――これが初めての防衛戦であるのだ。『アクセル・ロード』で優勝候補の一角を崩した真実の実力はどれほどのものであるのかと、目を光らせている人間も少なくはないはずであった。
(ここで負けたら、沖さんにも顔向けできないしな)
そんな思いが、心の片隅によぎっていく。
しかし、それも本質ではなかった。猪狩や桃園に追いつきたいだとか、格闘技界を盛り上げたいだとか、そんな思いも真実という人間を形成する大きな要素のひとつであったが――試合においては、そんな思いも雑念にしかならなかった。
(いま考えることは、ただひとつ……試合に勝つことだけだ)
そうして花道を踏み越えた真実は、脱ぎ捨てたウェアを灰原に手渡した。
それを受け取った灰原は、自身が試合を行うかのように力強く笑っている。
「頑張ってね、マコっちゃん! ラウラなんて、マコっちゃんの相手じゃないよ!」
「ああ」と応じつつ、真実は右拳を差し出した。
それを無視して、灰原は正面から抱きついてくる。真実は苦笑を浮かべつつ、空振りした右手で盟友の背中を叩いてみせた。
「まあ、気楽にやれや。地力じゃ負けてねえからよ」
「ああ。去年のアメリカ女より手ごわいってことはねえだろうさ」
コーチとサブトレーナーは、不敵な笑顔である。
その手からマウスピースを受け取った真実は、ボディチェックを完了させてケージインした。
挑戦者であるラウラは、すでにそちらで真実を待ち受けている。
その端整な顔に浮かぶのも、やはりふてぶてしい笑みだ。動画チャンネルの人気者であるという彼女は、強気のキャラクターで売っていた。
そうして両名がケージインしたならば、コミッショナーのタイトルマッチ宣言と国歌清聴だ。
真実はきわめて厳粛な心持ちで、それらの儀式にひたることができた。
『第九試合、セミファイナル! 女子フライ級タイトルマッチ、五分三ラウンドを開始いたします!』
やがてリングアナウンサーが、あらためて声を張り上げた。
『青コーナー、挑戦者! 百六十四センチ、五十五・九キログラム、トゥッカーノ柔術道場所属! 女子ストロー級前王者……ラウラ、ミキモト!』
ラウラは観客を煽るように、長い両腕をそよがせる。
彼女は自らの意思でヒール役を演じており、今回も自身の動画チャンネルで真実のことをさんざんこきおろしていたようだが、べつだんブーイングなどは浴びていなかった。真実自身に、人気と知名度が足りていないのだ。
『赤コーナー、王者! 百六十一センチ、五十六キログラム、四ッ谷ライオット所属! 女子フライ級第四代王者……多賀崎、真実!』
真実は、軽く右腕を上げてみせる。
歓声のほどは、ラウラと同等だ。それでも真実にとっては、過去最大の賑やかさであった。
そんな大歓声の中、レフェリーのもとでラウラと向かい合う。
ラウラは下の階級から上がってきた身であるが、身長は真実よりまさっている。父親がブラジル人であるためか、手足が長くてしなやかな身体つきだ。リーチやコンパスは、身長以上の差があった。
金色に染めた髪をひっつめており、肌は自然な小麦色をしている。階級を上げてからこれで二戦目であったが、全身に無理なく筋肉が上乗せされており、コンディションも万全であるように見えた。
柔術道場の所属である彼女は生粋のグラップラーであるが、立ち技においてもインファイトとアウトスタイルを器用に使いこなす力量を有している。ストロー級であった時代は、この背丈とリーチがいっそう強力な武器であったのだろう。猪狩との連戦ではまるでいいところのなかった彼女であるが、その実力は本物であるはずであった。
「両選手、クリーンなファイトを心がけて!」
歓声に負けない声を張り上げて、レフェリーはグローブタッチをうながしてくる。
真実が両手を差し出すと、ラウラは平手でそれを引っぱたいてきた。
そうして真実がフェンス際まで引き下がると、灰原が元気に呼びかけてくる。
「マコっちゃん、頑張ってねー! うり坊を見習って、秒殺を狙っちゃえー!」
つくづく、遠慮のない物言いである。
真実は苦笑を浮かべそうになる口もとを引き締めつつ、軽く右拳をあげて不謹慎な声援に応じてみせた。
やがて、試合開始のゴングが鳴らされる。
《フィスト》はケージの試合場になっても、ホーンやブザーではなくゴングを使用しているのだ。ひさびさに聞くその澄みわたった音色が、真実の心をさらに鋭く引き締めてくれた。
真実はクラウチングのスタイルで、ケージの中央へと進み出る。
いっぽうラウラはアップライトのスタイルで、軽やかにステップを踏んでいた。
何だかあまり、力感を感じさせない挙動である。
その肉体はしっかりパンプアップされているのだが、一階級下の相手と対峙しているような心地だ。
いや――たとえ階級が下でも、もっと力強い選手は多い。灰原や鞠山花子、猪狩やメイなど、真実が懇意にしている相手だけでも、すぐさまそれだけの名前を挙げることができた。
(しかもあたしは、一階級上のロレッタともやりあったんだ。あんたなんかに、力負けはしないよ)
真実は大きく踏み込んで、いきなりの右フックを振るってみせた。
相手は軽妙なるステップで、それを回避する。
だけどやっぱり、迫力を感じない。ラウラは前回の試合でも見事なアウトスタイルを披露していたが、真実はそれ以上の名手たちとスパーを重ねてきたのだ。
(まあ、プレスマンの出稽古はもうひと月もご無沙汰だけど……サキや邑崎の厄介さは、この身に叩き込まれてるよ)
それに真実は昨年から、自身もアウトスタイルを学んでいた身であったのだ。
それで真実は、理解を深めたつもりであった。自らもアウトスタイルを学ぶことで、アウトスタイルの崩し方が身についたような心地であったのだ。
その感覚に従って、真実もステップを踏んでみせた。
鞠山花子直伝の、大股のステップである。たとえ相手のほうがコンパスでまさっていても、歩幅と勢いでは負けていないはずであった。
ラウラはいくぶんやりにくそうに、さらに距離を取ろうとする。
その挙動にさらなる力を得て、真実は再び大きく踏み込んだ。
とたんに、長い左足で前蹴りが飛ばされてくる。
先の試合の猪狩を見習い、真実はアウトサイドに踏み込むことでその攻撃を回避してみせた。
その踏み込みで、自分の攻撃の射程圏内に入っている。
真実が左のショートフックを放つと、ラウラはすかさず頭部を守った。
真実の攻撃は、しっかりブロックされてしまう。
だが――その一撃で、ラウラは上体を泳がせた。すでに蹴り足は戻していたのに、重心の安定が間に合っていないのだ。それもまた、真実の周囲ではありえない稚拙さであった。
真実と稽古をともにする女子選手であれば、そのように不甲斐ない姿を見せることはない。
灰原も猪狩も、サキもメイも邑崎も、小笠原も小柴も、高橋も鞠山も――ここ最近はご無沙汰であるが、オリビアや赤星道場の面々にも、このような隙を見せる人間は皆無であった。
そんな思いを一瞬でよぎらせながら、真実は右足を振り上げた。
普段であれば、序盤から蹴り技を使ったりはしない。それは、蹴り技を出せるようなタイミングをつかめないためだ。しかし、今のこのタイミングであれば、拳よりも蹴りのほうが有効であるはずであった。
ラウラはまだ、しっかりと頭部をガードしている。
その無防備なボディに、真実は渾身の右ミドルを叩きつけてみせた。
ラウラは長身を折って、くの字になる。
その横っ面に、真実は左フックを叩きつけた。
ラウラは、前のめりに倒れ伏す。
それで真実は、グラウンド戦に入ろうと足を踏み出しかけたが――レフェリーの逞しい腕で、さえぎられてしまった。
真実はまさかと思いながら、レフェリーのほうを振り返る。
レフェリーは厳粛なる面持ちで、頭上に上げた両腕を交差させた。
試合終了のゴングが乱打され、歓声が爆発する。
『一ラウンド、三十六秒! 左フックにより、多賀崎真実選手のKO勝利です!』
真実は半ば呆然と、そんなアナウンスを聞くことになった。
かつてはストライカーと呼ばれながら、立ち技の勝負で勝てたことがなく――それでレスリングに磨きをかけてからは、おおよそ判定勝負までもつれこむことになった。そんな真実にとって、KO勝利というのは人生で二度目の体験であり、秒殺というのは初めての体験であったのだった。
レフェリーに右腕を掲げられて、腰にチャンピオンベルトを巻かれても、真実はなかなか思考がまとまらない。
そして、そんな真実に灰原が横合いから抱きついてきたのだった。
「もー! まさか本当に、秒殺KOしちゃうなんてね! マコっちゃん、かっちょよすぎるよー!」
灰原は、満面の笑みである。
そうして真実の顔をじっと見つめたのち、くすくすと忍び笑いをもらした。
「どーしたの、マコっちゃん? なんか、すっごく不安そうなお顔だけど!」
「ああ、いや……ちょっと実感がわかないっていうか……あたし、本当に勝ったのかい?」
「あったりまえじゃん! ラウラだって、へらず口を叩く力もないみたいだしねー!」
灰原の視線を追うと、ラウラはまだマットに横たわったままで、頭を氷嚢で冷やされながらリングドクターに面倒を見られていた。
客席には、まだ歓声が渦を巻いている。先月の《アトミック・ガールズ》よりも集客でまさっているためか、タイトルマッチであったためか、秒殺のKO決着であったためか――とにかく、真実がこれまでに味わったことのないような大歓声であった。
「もー、マコっちゃん、だいすき! いっそ性転換して、あたしの旦那さんになってよー!」
灰原はにこにこと笑いながら、真実の腕を抱きすくめてくる。
そちらをぼんやりと振り返りながら、真実は心のままに笑ってみせた。
「中身はあんたのほうが、よっぽど男っぽいだろ。……ていうか、どこかの外国だったら同性でも結婚できるんじゃないのかね」
「え? あ、いや、そんなマジで取られると、リアクションに困っちゃうんだけど!」
「冗談だよ。何を赤くなってるのさ」
「なんだよー!」と灰原は真っ赤になりながら、いっそうの怪力で真実の腕を締めあげてくる。
ともあれ――真実は、勝利できたのだ。
それも、あの猪狩よりも短い秒数である。
もちろん、それだけのことで猪狩に追いついたなどとは、とうてい言えないところであるが――しかしこれなら、胸を張って控え室に戻れるはずであった。
(なんていうか……少しだけ、猪狩や桃園の気持ちがわかったような気がするよ)
真実がこれほどの実力を身につけることができたのは、もちろん懇意にしている面々のおかげである。灰原、猪狩、桃園、サキ、邑崎、メイ――小笠原、小柴、鞠山、オリビア、高橋――赤星弥生子、青田ナナ、大江山すみれ、マリア――ざっと数えあげるだけでも、それだけの実力者が真実に稽古をつけてくれたのだ。
そして同時に、それらの面々もレベルアップを果たしている。去年あたりに『チーム・プレスマン』などと騒がれていたメンバーは、のきなみ確かな結果を出していたのだ。赤星道場の面々などは夏の合宿でお世話になったぐらいであるが、こちらの活躍に触発された部分も大きいのだろうと思われた。
そうして真実は昨年度、数々の試合で勝利をあげることができて――最後に、青田ナナに敗北することになったのだ。
青田ナナは、強かった。その少し前に対戦したオリビアも、強かった。沖一美も弱いことはなかったが、強いというよりはしぶといという印象であった。
猪狩や桃園と関わった人間は、のきなみ強くなっている。
よって、猪狩や桃園と関わっていない人間との間に、小さからぬ実力差が生まれたのだ。それが去年、真実と猪狩がそれぞれ沖一美とラウラに連勝して《フィスト》の王者となった理由であり――また、猪狩や桃園と関わりの薄い沖一美と鬼沢いつきだけが『アクセル・ロード』の一回戦目で敗退した理由なのではないだろうか。
(トップを走る猪狩を支えたいなんて考えは、甘かった。あたしたちは、もうとっくにトップ集団の一員だったんだ)
強い人間には、大きな責任が発生する。猪狩や桃園や赤星弥生子は、真実たちよりも遥かに大きな責任を背負っているのだろう。
しかし真実たちの双肩にも、それに次ぐぐらいの責任が負わされている。昨年の五月に《フィスト》の王者になって、秋口には『アクセル・ロード』に招聘されていたというのに、真実はまだその事実をまったく把握しきれていなかったのかもしれなかった。
(あたしはつくづく、脇役体質なんだろうな。まったく、情けないこった)
そんな真実を叱咤激励するかのように、大歓声が渦を巻いている。
灰原に腕を抱かれて、腰にチャンピオンベルトを巻きながら、真実はあらためて武者震いすることになった。
来月には、御堂美香との対戦が控えている。
彼女は合宿稽古でしか真実たちに関わっていなかったが、大きく実力を上げた人間のひとりだ。その底力は、『アクセル・ロード』の稽古場で実感させられていた。
彼女の実力は、ラウラを大きく上回っている。
ならば、きっと――今日よりも、遥かに見ごたえのある試合を見せることができるだろう。
そんな風に考えると、真実の胸中には得も言われぬ熱情がわきたってやまなかったのだった。
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