03 小さな怪物

《フィスト》というのは日本国内でもっとも長い歴史を持つMMA団体のひとつであるが、興行の進行そのものは《アトミック・ガールズ》と大きな違いはない。というよりも、《アトミック・ガールズ》を含む多くの団体が、《フィスト》を参考にして興行の形式を確立させたのだろう。さらに言うならば、《フィスト》自体もボクシングやキックボクシングといった歴史のある競技を参考にしているのかもしれなかった。


 ともあれ――《フィスト》であろうと《アトミック・ガールズ》であろうと、真実たちの為すべきことに変わりはない。ルールミーティングを終えたならばマットの確認とメディカルチェック、そして拳に巻くバンデージのチェックである。真実も猪狩も辻晴輝も、滞りなくそれらの作業を終えることができた。


「そういえば、瓜子ちゃんは去年のタイトルマッチで《フィスト》に出場するまで、アトミック以外の興行とは縁がなかったんだっけ?」


 辻晴輝が気安く呼びかけると、猪狩のほうも同じような面持ちで「押忍」と応じた。


「キックの時代には《G・フォース》だけじゃなく、《トップ・ワン》や武魂会のイベントなんかにも出場してましたけどね。MMAは、アトミック一本でした」


「そっか。女子連中はアトミック一本か、それ以外の興行にあちこち出るかっていう2パターンに分かれるみたいだな。うちのマリアやすみれなんかは、アトミックと《レッド・キング》の二本柱だけどさ」


「そうっすね。どうも昔は、ナワバリ意識みたいなのが強かったみたいです。おおよそは、パラス=アテナの運営方針が原因みたいっすけどね」


「ああ、アトミックに出るならこっちを優先しないと干してやるぞって空気が蔓延してたみたいだな。マリアなんかは《レッド・キング》が本番だって考えだったから、おかまいなしだったけどさ」


「そうですねー! でも、アトミックと《フィスト》を二本柱にしていた選手も多いんじゃないですかー? フィスト・ジムや天覇館の選手なんかは、アトミックよりも《フィスト》のほうが馴染み深いんでしょうしねー!」


 マリアも元気に言いたてると、辻晴輝は「なるほど」とうなずきながら真実に向きなおってきた。


「そういえば、多賀崎さんたちのジムもフィスト・ジムの系列だったッスよね。それじゃあお二人も、《フィスト》の常連だったんスか?」


「いや。《フィスト》に出てたのは、あたしだけだね。灰原はアトミック一本で、試合のオファーには困ってなかったからさ」


「うん! あたしのデビューは、アトミックのプレマッチだったしねー! やっぱ、バニーの衣装が運営陣のハートをがっちりつかんだんじゃないかなー!」


「ま、プロに上がったら連戦連敗の桃園状態だったけどね」


「うるさいやーい! あれは、テキセー体重を間違ってただけだってばー! コーチ連中が四十八キロまで絞れなんて言うから、調子が出なかっただけだもん!」


 灰原までもが加わると、いっそう騒がしくなってしまう。試合直前とは思えない賑やかさである。

 そんな中、猪狩があどけない笑顔で発言した。


「でも最近では《NEXT》の武中選手がアトミックの常連になってくれたりして、以前よりは垣根がなくなったように感じます。《カノン A.G》のゴタゴタで駒形さんが代表に就任したおかげなんでしょうね」


「うんうん。女子選手なんてただでさえ人数が少ないんだから、ナワバリ争いなんてしてる場合じゃねえよな。瓜子ちゃんも《フィスト》だけじゃなく、《NEXT》や《パルテノン》まで荒らしまくっちまえよ。それで名前を上げて、俺と一緒に北米を目指そうぜ」


「ええまあ、アトミックを二の次にしたくないんで、いろいろ難しい面もあるんすけど……自分も自分なりに頑張るつもりです」


 猪狩がいくぶん困ったような笑顔でそのように答えると、辻晴輝は「んー?」と身を乗り出した。


「なんかいきなり、歯切れが悪くなったな。もしかして、もう北米の団体からオファーをもらってるとか?」


「そ、そんなことないっすよ。なんでそんな風に思うんすか?」


「瓜子ちゃんは、みんな顔に出ちまうからな。ほらほら、正直に話して楽になっちまえよ」


「ほ、本当にそんなオファーはもらってませんよ。立松コーチ、なんとか言ってあげてください」


「ああ。そんなオファーは、もらっちゃいねえよ。……だけどお前、俺たちをすっとばして、おかしなオファーを受けちゃいねえだろうな?」


「コ、コーチまで何を言ってるんすか。そんな不義理な真似、するわけがないでしょう?」


 猪狩は子供のように、あたふたとしてしまっている。そして、そんな猪狩を取り囲む面々は、みんな楽しそうな笑顔だ。

 猪狩は何か、隠し事でもしているのかもしれない。しかし彼女が自分たちを裏切ることはないと、心から信じているのだろう。それは、真実も同じことであった。


(桃園に『アクセル・ロード』のオファーがあったときだって、数日ぐらいはあたしらに隠してたわけだもんな。然るべきときにきちんと打ち明けてくれれば、それで十分さ)


 そうして一行がやいやい騒いでいる間に、開会セレモニーの刻限となった。

 そこであらわにされたのは、猪狩の人気のほどである。先月の《アトミック・ガールズ》や先週の《G・フォース》では、セコンドの身でも凄まじい声援を送られていたのだ。選手として出場する本日などは、それをも上回る熱狂ぶりであったのだった。


 しかしそれも、当然の話であるのだろう。あの格闘技界の歴史に残るような一戦以来、猪狩はこれが初めての試合であったのだ。真実は灰原ほどネットニュースなどをチェックしていなかったが、それでも猪狩がどれだけ世間を賑わせているかは嫌というほど思い知らされていた。


 今日などはタイトルマッチでもなく、出順は七試合目であるのに、誰よりも大きな期待をかけられてしまっている。しかも自分の庭場ではなく、男子選手が主役である《フィスト》の興行においてその有り様であるのだ。もはや猪狩は男女の垣根さえ超えて、格闘技界の寵児とも言うべき存在に成り上がったのかもしれなかった。


(きっと桃園も大怪獣との試合が地上波で放送されてれば、これ以上の人気になってたんだろうな)


 ただし桃園はそのような恩恵に授かることもないままに、現在の猪狩と同程度の人気を博していた。あちらはあちらでモデル活動や音楽活動の恩恵があったのかもしれないが――要するに、猪狩も桃園も規格外であるということであった。


(だからこそ、あたしらも猪狩のやつを支えてやらないとな)


 そんな思いを噛みしめながら、真実は開会セレモニーを終えることになった。

 その後は自分たちの出番まで、ひたすらウォームアップだ。ただし、真実も猪狩も辻晴輝も出順が遅かったため、序盤ではまたたびたび控え室を騒がせる事態に相成った。


 猪狩も辻晴輝も、試合前の緊張感とは無縁なタイプなのである。

 そして真実も、以前よりはずいぶんリラックスできていた。『アクセル・ロード』における経験が、真実の神経を図太くしてくれたようであるのだ。北米の合宿所に引きこもり、あちらで放映されるテレビカメラの前で試合や稽古を行うことに比べれば、《フィスト》におけるタイトルマッチも日常の延長上にあるように感じられるほどであった。


(こんな呑気にしてていいのかって、ちょっと怖くなるぐらいだけど……先月だって、これでベストの動きができたもんな)


 それに、猪狩や桃園も、試合前にはこういう姿をさらしているのだ。その事実こそが、真実の心を何より安らがせてくれた。


 そうして、粛々と時間は過ぎていき――ついに、猪狩の出番である。

 その二試合後の出番である真実は入念にウォームアップしつつ、その試合だけは見届けることにした。猪狩の試合を肉眼で見届けておきたいという欲求を、どうしてもはねのけることができなかったのだ。


 赤星道場の面々もそれは同様であるらしく、ともに二階席の通路へと向かう。《アトミック・ガールズ》とは異なり、《フィスト》ではそのように振る舞うことが許されているのだ。ただし、本日は満員札止めであったため、二階席の最上段の後ろから試合場を見下ろすことになった。


「瓜子ちゃんの相手は、スウェーデンの選手だったっけか。まあ、日本やシンガポールで活動してるってことは、まだまだこれからの選手ってことなんだろうけど……それなら、なおさら負けられねえな」


「うり坊だったら、楽勝っしょ! マコっちゃんたちなんて、シンガポールのトップファイターにも勝ってるんだからねー!」


 辻晴輝も灰原も、猪狩が負けることなど夢想だにしていないようであった。

 真実はそれで、猪狩の分までプレッシャーを感じてしまう。きっと観客の大部分も、灰原たちと同じような心境であるのだ。赤星弥生子との一戦であれほど化け物じみた強さを見せた猪狩が、さして知名度もない選手に負けるわけがない――と、誰もがそのように考えているのである。


(そりゃあ確かに、《アクセル・ファイト》で活躍してるような世界級の選手とは、レベルが違うんだろうけど……それを言ったら、アトミックに呼ばれる外国人選手だって同じことじゃないか)


 かつてミドル級の絶対王者であったジジ・B=アブリケルや、《カノン A.G》の時代にも招聘されていたゾフィア・パチョレック、マーゴット・ハンソン――それらの選手も世界的には無名であったが、まぎれもなく強豪であった。それに、マーゴット・ハンソンなどは《カノン A.G》での試合を最後に、《アクセル・ファイト》と正式契約を結ぶことになったのだ。それに勝利した御堂美香が『アクセル・ロード』で敗退したことを思えば、肩書きだけですべてを測ることはできないはずであった。


 さらに言うならば、猪狩自身も世界的にはまだ無名の選手である。

 日本というちっぽけな島国にこれだけの選手が誕生したのだから、世界にどれほど未知なる強豪がひそんでいるかもわからない。本日彼女と対戦するスウェーデンの選手が、そのひとりでないという保証はないはずであった。


 そうして大歓声が吹き荒れる中、両選手が入場する。

 猪狩が花道に現れた瞬間には、それこそ会場の屋根が落ちるのではないかと心配になるほどの大歓声が渦を巻いた。


 二階席から見下ろす猪狩の姿は、とても小さい。

 あんな小さな身体の、どこにあれほどのエネルギーが秘められているのか――猪狩はひときわちまちまとした体格をしているので、余計そのように思えてしまった。


 猪狩はよどみのない足取りで花道を踏み越えて、ボディチェック係の前でウェアとシューズを脱ぎ捨てた。

 そのウェアも試合衣装も、《アトミック・ガールズ》の公式グッズだ。本日も真実と猪狩は打ち合わせをするまでもなく、それらの衣装を持参していた。


 ウェアを脱いでいっそう小さくなった猪狩は、落ち着いた足取りでケージに踏み入っていく。

 それを迎える対戦相手は、猪狩よりも頭半分ほど大きい。そして外国人選手ならではの厚みと逞しさを有している。下手をしたら、真実よりも大きな図体であるのかもしれなかった。


「頑張れ、うりぼー! あたし以外の相手に負けたりしたら、承知しないよー!」


 灰原が、観客たちと一緒になって声援を送る。

 そんな中、試合開始のゴングが鳴らされた。


 猪狩は、慎重に進み出る。

 いっぽう対戦相手は力強いステップで、一気に猪狩の目の前まで躍り出た。


 遠い距離から、長い足で、前蹴りが繰り出される。

 アウトサイドに踏み込むことでその攻撃を回避した猪狩が、小気味のいい左ジャブを顔面に当てた。


 さらに、右のボディから左フックにまで繋げると、相手選手は慌ただしく後方に逃げようとする。猪狩の拳の硬さに、辟易したのだろう。どれだけ頑丈な肉体を有していても、猪狩の拳は痛くてたまらないはずであるのだ。


 その痛みに心を乱してしまったのか、相手選手は真っ直ぐ下がってしまっている。

 鋭い踏み込みを持つ猪狩は、容赦なく追撃した。


 遠ざかろうとする相手に右ストレートをヒットさせ、さらに、左ミドルを叩き込む。その蹴りでスイッチしたならば、右ジャブを二連発に、左フックだ。それらのすべてが、的確に相手を痛めつけた。


 いきなりのラッシュをくらった相手選手は、フェンスに背中をつけて動きを止めてしまう。

 猪狩はその懐にもぐりこみ、さらなる攻撃を叩き込んだ。

 相手も泡をくって反撃してくるが、それらはすべてダッキングとウィ-ビングで回避する。そうして相手の拳は一発もくらわないまま、猪狩は左右のフックとレバーブロー、右ローとショートアッパーをクリーンヒットさせた。『ガトリング・ラッシュ』の異名に相応しい、猛烈なコンビネーションである。


 相手はフェンスに背中をこすりながら、横合いに逃げようとする。

 猪狩はそれよりも俊敏にステップを踏み、強烈な左フックで相手の逃走を阻んだ。

 さらに右のボディから、再びの左フック、相手が力なく頭を下げたら右肘を叩き込み――最後のとどめは、フルスイングの左アッパーであった。


 レフェリーが割って入ろうとする前に、猪狩は自ら後方に下がる。

 それで空いたスペースに相手は膝をつき、そのまま前のめりに倒れ込んだ。


 試合終了のゴングが鳴り響き、さらなる歓声が爆発する。

 そんな中、真実は天井を振り仰ぐことになった。


(なんだよ、もう……心配のし甲斐がないやつだなぁ)


 結果は一ラウンド、四十八秒、秒殺のKO勝利である。

 それも、一発の攻撃もくらわないノーダメージの完全勝利だ。

 真実の隣では、灰原が「やったやったー!」とはしゃいでいた。


「……あんた、はしゃいでいられるのかい? 来月には、あんたがあの怪物を相手取るんだよ?」


 真実がそのように呼びかけると、灰原は心から楽しそうに白い歯をこぼした。


「だから、面白いんじゃん! そんなことより、次はマコっちゃんの番だよー!」


「はいはい。せいぜい頑張らせていただくよ」


 そんな風に答えながら、真実は体内に熱い激情が巡るのを感じた。

 猪狩はもはや、あのような高みにまで到達してしまったのだ。猪狩と同じ道を進みたいと願うならば――凡人たる真実は、体内に存在する力を最後の一滴までしぼり尽くさなければならないはずであった。

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