02 《フィスト》二月大会

「あ、灰原選手に多賀崎選手、どうもお疲れ様です」


 約束の時間に新宿プレスマン道場の駐車場まで出向くと、猪狩が笑顔で出迎えてくれた。

 巨大なワゴン車の周囲には、見慣れた面々が居揃っている。コーチの立松、サブトレーナーの柳原、そしてメイという顔ぶれである。本日は、これが猪狩のセコンド陣であるようであった。


「出稽古でさんざんお世話になってるのに、試合当日まですみません。今日はどうぞよろしくお願いします」


 真実が立松に頭を下げると、「いいさいいさ」と笑顔が返ってきた。


「今日は猪狩しか出場しないから、座席にゆとりがあるんだよ。これが去年なら、ヤナと二人旅だったしな」


「ええ。俺も猪狩と一緒に会場まで向かうのは、これでようやく二回目ですからね」


 柳原も、気さくに笑っている。隠しようもない熱情をあらわにしながら、それでもリラックスした雰囲気であった。


「それじゃあ、出発するか。みんな、適当に乗ってくれ」


 運転席には立松、助手席には柳原が収まる。真実は灰原とともに三列目のシートを拝借し、猪狩とメイが二列目に並んだ。


「猪狩は大晦日の《JUFリターンズ》から、ようやく俺らを頼るようになったんだよ。桃園さんが渡米して半年近くも経ってから、ようやく交通費を惜しむようになったんだとさ」


 軽快にハンドルを切りながら、立松がそのように言いたてる。すると、灰原が「あはは!」と笑った。


「立松っつぁんコーチ、すっごく嬉しそー! コーチはほんっと、うり坊のこと大好きだよねー!」


「おいおい、誤解を招くようなことを言わないでくれよ。俺はともかく、このちんちくりんだって今や大スターの端くれなんだからな」


「やだなぁ。ちんちくりんなのは確かですけど、大スター呼ばわりは勘弁してくださいよ」


 猪狩は照れ臭そうに、反論する。真実の位置からは表情も確認できないが、さぞかし魅力的な顔をしているのだろう。相変わらず、緊張感とは無縁であるようであった。


「それにしても、たいていのジムでは選手を送迎するもんだよな。うちもこれまで猪狩たちをほったらかしにしてたんで言えた義理じゃないが、四ッ谷ライオットさんにそういう風習はないのかい?」


「ええ。うちには専用の車両とかないんですよ。フィスト・ジムの系列でも、指折りの弱小ジムですからね」


「そーそー! 男連中も、ぱっとしないしねー! このマコっちゃんが、四ッ谷ライオットで初めてのチャンピオン様ってわけさー! それで、来月にはあたしも――おっとっと、なんでもありませーん!」


「はは。ようやく灰原さんも、自力で踏み止まれるようになったか。ほんのひと月ていどで、大人になったじゃねえか」


「うん! 来月の試合は、恨みっこなしねー! 今日だって、めいっぱい応援させてもらうよー!」


 来月にタイトルマッチを行う灰原と猪狩が、同じ車に揺られているのである。これもなかなか他の場所ではお目にかかれない光景であるはずだった。


「それにしても、多賀崎さんはタイトルマッチだってのに、ずいぶん急なオファーだったよな。もっと早くに対戦相手が決まってりゃあ、俺たちもラウラ対策でお力になれたのによ」


「ええ。たぶん《フィスト》の運営陣も、大晦日の試合で女子部門を盛り上げていこうって方針になったんでしょう。いかにも泥縄ですけど、あたしとしては感謝するばかりですよ」


「んー? ドロナワって、どーゆー意味? あたしにもわかる言葉で喋ってよ!」


「泥棒を捕まえてから縄の準備をするっていう、ありがたい格言さ。猪狩だって、年が明けてからのオファーだったんだろ?」


「はい。海外の選手を招聘する目処が立ったんで、よろしく頼むって感じだったみたいです。自分としても、ありがたい限りっすね」


 猪狩はシートの上でのびあがり、魅力的な笑みをたたえた横顔を真実たちに見せてくる。《アトミック・ガールズ》の一月大会に出場できなかった彼女は、本当に嬉しそうだった。


「今は《フィスト》のアトム級とバンタム級の王者が長期欠場中だから、ストロー級とフライ級の王者を引っ張り出したってわけだな。俺としては、来月のタイトルマッチに集中させたかったんだが……このイノシシ娘には、どうしても手綱をつけられなくってよ」


「あはは! うり坊だったら、大丈夫さー! でも、万が一にもあたしとのタイトルマッチが延期になっちゃったら、おしおきだからねー!」


「押忍。ひと月もあれば、問題ありません。ベストコンディションで、灰原選手を迎え撃ってみせますよ」


 真実と灰原は先月の一月大会を目処に出稽古を取りやめていたが、以前と変わらぬ和やかな空気である。

 そこで楽しからぬ話題を持ち出したのは、柳原であった。


「ところで、長期欠場と言えば……桃園さんには、例の話を伝えたのか?」


「……それは、王座の返還についてですよね? はい。それが決定した翌日には、もうお伝えしましたよ」


 猪狩の返答に、柳原は「そうか」と息をつく。


「まあ、下手したら一年がかりの欠場になるんだから、王座の返還はしかたない話だけど……桃園さんは、落ち込んでなかったか?」


「ええ。またゼロから頑張るって、笑ってました。……見てるこっちは、泣いちゃいそうでしたけどね」


「桃園さんなら、大丈夫だよ」と、立松が力強い声で割り込んだ。


「きっと返還された王座は小笠原さんあたりが手にすることになるんだろうが、誰が相手でも桃園さんだったら豪快に奪い返すさ。……あるいは、フライ級に階級を戻して、沙羅選手に挑戦かな」


「いやいや! その頃には、マコっちゃんが二冠王になってる予定だから! そう簡単に、ベルトは渡さないよー!」


「馬鹿。そういう発言を、わきまえろっての」


 真実は慌てて灰原の頭を引っぱたいたが、立松は気を悪くした様子もなく笑い声を響かせた。


「いいじゃねえか。誰だって、それぐらいの気概で試合に向き合ってるんだろうからな。角を突き合わせるのは、ケージの上だけで十分さ」


「はい。あたしも桃園と対戦できる日を心待ちにしています」


 そんな風に答えてから、真実は前列の猪狩に呼びかけた。


「ところで、桃園の様子はどうだった? いちおう今日も変わりはないって、サキ経由で連絡をもらってるけど」


「はい。容態は安定しています。ただ、なかなか筋肉が戻らなくて……歩行のリハビリが、ちょっと停滞気味みたいです」


「歩くのに、リハビリが必要になっちゃうんだもんねー! でも、怪我のほうは全快したんでしょ?」


「ええ。膝と肩の靭帯に関しては、もう全快と言っていい状態みたいですね。頭と右腕の骨折に関しても、ものすごい勢いで回復してるそうですよ」


「だったら、きっと大丈夫さ! あたしも早く、お見舞いに行きたいなー!」


「はい。ユーリさんも、みなさんにお会いしたいって言ってますよ」


 と、瓜子は再び横顔を覗かせた。

 そこにとてもやわらかい微笑がたたえられていたため、真実はひそかに安堵の息をつく。真実も桃園の身を案じているが、猪狩はそれとも比較にならない勢いで心を痛めているはずであった。


 桃園が大きな負傷をしてから、間もなく三ヶ月――埼玉の病院に転院してからも、二ヶ月ぐらいが経過している。それで現在の状態は、通常よりも順調であるのかそうでないのか、真実には今ひとつ判然としないのであった。


(それでもまあ、選手活動の復帰も不可能じゃないっていう話なんだから……あたしらは、黙って見守るしかないんだろうな)


 もっとも苦しいのは本人であり、それに次ぐのは猪狩であるのだ。ならば、真実が泣き言を言うわけにはいかなかった。


                  ◇


 しばらくして、ワゴン車は試合会場に到着する。

 先月の《アトミック・ガールズ》と同じく、試合会場は『ミュゼ有明』である。ワゴン車から飛び降りた灰原は、「うーん!」と大きくのびをした。


「今日もこの会場かー! あれからひと月たってるけど、駅前の巨大ポスターはまだ残ってるのかなー?」


「お、思い出させないでくださいよ。あんなの、とっくに撤去されてるに決まってます」


 猪狩は顔を真っ赤にして、灰原をにらみつける。しかしどのような顔をしても、おおよそは可愛らしくなってしまう猪狩であった。

 セコンド陣は必要な物資を運び出し、真実と灰原は持参した手荷物を肩に抱える。四ッ谷ライオットに専用車は存在しなかったが、必要な荷物はコーチのひとりが自前の車で運んでくれるのだ。それだけで、真実にはありがたい限りであった。


「よし。それじゃあ、出陣だ。今日も男連中の縄張りだが、悶着を起こさないようにな」


 立松の号令のもと、六名は関係者用の出入り口を目指す。

《フィスト》においては、男子選手の試合がメインであるのだ。本日も女子選手の試合は、真実と猪狩の二試合のみとなる。ただし、真実のタイトルマッチはセミファイナル、猪狩の試合は第七試合と、なかなかの厚遇であった。


「うり坊の今日のお相手は、スウェーデンの選手だったっけー? 遠路はるばるお疲れ様って感じだねー!」


「はい。ただ、現在はタイに滞在しながら、シンガポールの興行に出場してるらしいっすよ。タイはムエタイの本場なんで、色んな国の選手が集まるみたいっすね」


「おー! シンガポールっていったら、『アクセル・ロード』の連中と一緒じゃん! あいつらなんかと同じ興行に出てたってこと?」


「ええ。シンガポールでは、メジャー興行が一本化されてるらしいっすからね」


「すげーすげー! だったら、うり坊はなおさら負けらんないね! マコっちゃんやピンク頭はもちろん、ミミーとか青鬼とかだってシンガポールの連中に勝ってるんだからさ!」


「はい。自分もみなさんの後に続くつもりっすよ」


 猪狩は、あどけない顔で笑う。

 ただその瞳には、眩しいぐらいの熱情がみなぎっていた。


 そうして控え室まで出向いてみると、また見慣れた面々がたたずんでいる。

 その姿に、灰原が「おー!」と声を張り上げた。


「ハルキくん、おひさー! ついに、タイトルマッチだねー! ま、去年ご一緒したときも、タイトルマッチだったけどさ!」


「押忍。つくづくみんなとご縁があるみたいッスね」


 小麦色の肌でライオンのたてがみめいた髪をした青年が、健康的な白い歯をこぼす。赤星道場の男子門下生、レオポン=ハルキこと辻晴輝つじ はるきである。

 昨年の五月、真実と猪狩がそれぞれのタイトルマッチに臨む際、彼も環太平洋王座に挑んでいた。そして真実が渡米中も、猪狩は彼と同じ日の興行に出場することになったという話であったのだった。


「瓜子ちゃんなんか、三戦連続でご合席だもんな。これはもう、いっそただならぬ関係になっちまえっていう神様のお導きなんじゃねえか?」


「へえ。サイトー選手の代わりに、尻を蹴っ飛ばしてほしいんすか?」


 猪狩がにこやかな面持ちで応じると、辻晴輝もいっそう愉快そうに笑った。

 なんとなく、ちょっと不思議な雰囲気である。この二人が顔をあわせると、いつもこういった空気が生まれるのだ。ただそれは、決して嫌な雰囲気ではなく――なんだか、普段はなかなか会えない兄妹が再会したかのような、温かい空気感であるのだった。


「おう、プレスマンのご一行も到着したか! 今日も一日、よろしくな!」


 と、赤ら顔の大男、赤鬼こと大江山軍造もずかずかと近づいてくる。それに続くのは青鬼こと青田何某と、ようやく鎖骨の骨折から復調したマリアであった。彼女とは、先々週の《G・フォース》の打ち上げでも顔をあわせていた。


「あ……今日も弥生子さんはいらっしゃらないんですね。レオポン選手の、大事なタイトルマッチなのに……」


 たちまち猪狩が眉を下げると、大江山軍造は豪快に笑った。


「俺と青田がそろってりゃあ、何の不足もねえだろうさ! 師範もとっくにギプスは取れたんだが、あちこち歩き回るのは骨に響くんでな!」


「ええ……本当にその節は――」


「おっと! お詫びの言葉は、もうなしだ! 師範や俺たちだってどれだけ相手を痛めつけても、頭を下げたことなんてねえからよ!」


 大江山軍造は赤鬼そのものの顔で笑いながら、猪狩のほっそりとした肩をどやしつけた。


「立松も、しっかり指導しておけよ! 選手連中は誰だって、死ぬ覚悟でリングに上がってるんだからよ!」


「猪狩は弥生子ちゃんと親密な仲だから、申し訳ない気持ちが先に立っちまうんだろうよ。あのヘンクツな嬢ちゃんにオトモダチができたんだから、めでたい話じゃねえか」


「違いねえ! あのカタブツの師範が、猪狩さんにはメロメロだからなぁ!」


 大江山軍造はガハハと笑い、猪狩は困ったような照れ臭そうな顔で口もとをほころばせる。控え室の人々は眉をひそめてこちらの騒ぎをうかがっていたが、そんなこともおかまいなしであった。


「とにかく、レオポンくんもついに世界王座に挑戦か。いよいよ正念場だな」


「なぁに、こいつだったらやってくれるさ! そうしたら、桃園さんをぶっ壊してくれた《アクセル・ファイト》に殴り込みだ!」


「そんなもんは、桃園さんが自分でケリをつけてくれるよ。お前さんにも、指導が必要だな」


「悪い悪い! まあとにかく、そっちも頑張ってくれや! 多賀崎さんも、ベルトを守れるように踏ん張ってな!」


「ええ。死ぬ気で守ってみせますよ」


 真実がそのように答えたとき、背後から荷物を抱えた四ッ谷ライオットのセコンド陣が現れた。それに気づいた灰原が、「あれー?」と声をあげる。


「コーチたちは、いま着いたの? 珍しく、遅かったじゃん」


「ああ。思ったより、道が混んでてよ。どうやら事故渋滞だったみたいだわ」


「もー! マコっちゃんの防衛戦だってのに、頼りないなー! もっとしっかりサポートしてよねー!」


「わかってるって。まあ、まかせておけよ」


 コーチもサブコーチも、へらへら笑っている。四ッ谷ライオットというのはガラの悪さで知られるジムであり、このコーチ陣も喧嘩屋あがりであるのだ。

 しかし、格闘技に向ける情熱に嘘はない。真面目くさった姿を見せようとしないのは、奥ゆかしさの表れなのである。真実もすでに八年ぐらいはこちらのジムのお世話になっているので、今さらそれを見誤ることはなかった。


 かくして役者は顔をそろえて、本日の大勝負に挑むことに相成ったのだった。

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