ACT.6 The third new year's eve

01 入場

 涙と笑顔に彩られた祝勝会および忘年会から、一週間後――ついに、大晦日がやってきた。

 十二月三十一日。《JUFリターンズ》の大会当日である。


 その日は珍しく、瓜子もセコンド陣とともにワゴン車で会場に乗りつけることになった。大晦日では電車がどれだけ混み合うかも予測できなかったし、タクシーで向かうにはいささか遠距離であったので、瓜子のほうから同乗をお願いすることになったのだ。


 本日の会場は、さいたま新都心に存在する『ティップボール・アリーナ』である。

 かつては格闘技の聖地と呼ばれた会場であり、去年の《アクセル・ジャパン》もこちらで開催されていた。収容人数は三万六千名、立見席まで設置すればさらにもう一万名も増員できるという、まぎれもない大会場である。格闘技ブームの全盛期には、《JUF》やキック団体の《トップ・ワン》などがこの規模の会場を満員に埋めていたのだった。


「しかし、今日の集客は一万人ていどらしいな。もちろんそれでも、大した数字なんだが……全盛期を知る身としては、やっぱり物寂しいもんだよ」


 ワゴン車の運転に勤しみながら、立松はそのように語っていた。


「去年の『アクセル・ジャパン』も、たしか集客は一万人ていどだったっすよね。それが今の日本の上限ってことなんでしょうか」


「ま、そういうことなんだろう。そいつを引きあげていくのが、今の選手の役割ってこった」


「押忍。ひとりでも多くの人を満足させられるように、頑張ります」


 後部座席におさまった瓜子は、掛け値なしの熱意を込めてそのように答えてみせた。

 本日のセコンド陣は、立松、ジョン、柳原という、MMA部門の選りすぐりである。もちろん瓜子は誰がセコンドでも滞りなく試合に集中する所存であったが、この顔ぶれにはコーチ陣の意気込みを感じてやまなかった。


 また、本日は友人知人が来場する予定もない。《JUFリターンズ》というのはチケット代が割高であったし、「どうせだったら、テレビで観てみたい!」という意見も多かったのだ。ただし、メイの部屋にはまた灰原選手や多賀崎選手、高橋選手や蝉川日和などが押しかけて、そのまま年明けを迎える予定であるとのことであった。


 それに、『ワンド・ペイジ』や『ベイビー・アピール』は、別の場所で自分たちの役割を果たす予定になっている。『トライ・アングル』が去年出場したロックフェス、『Sunset&Dawn』にそれぞれ出演するのだ。今回は主催者の側に大晦日の出演を願われて、どうしても断ることができなかったのだという話であった。


「どうせだったら、客席で瓜子ちゃんの勇姿を見届けたかったよー! でも、控え室のテレビでばっちり観戦するから、頑張ってな! ……だそうです」


 そのように伝えてくれたのは、千駄ヶ谷である。瓜子は『トライ・アングル』の面々と個人的な連絡手段を持っていなかったので、わざわざ口頭で伝えてくれたのだった。


「『アクセル・ロード』の影響で『トライ・アングル』の海外人気は日に日に高まっていますので、主催者の側もそれで『ワンド・ペイジ』および『ベイビー・アピール』を重用しようという心づもりになったのでしょう。来年には、『トライ・アングル』で出場させていただきたいものですね」


「はい。一年もあれば、きっとユーリさんも復帰しているはずです」


 瓜子は千駄ヶ谷とそんな言葉を交わすことで、いっそうの活力を授かることになったのだった。


 ちなみに瓜子は、試合の後に山科医院に駆けつける予定でいる。本来であれば大晦日は面会をお断りしているそうだが、山科院長が特別に許可を出してくれたのだ。


「ひとりぼっちで除夜の鐘を聞くというのは、どう考えたって精神衛生上よろしくないだろうからねぇ。大晦日だけは特別に、年を越すまで面会しておくれよ。桃園さんが就寝したら、猪狩さんも仮眠室で休めばいいさ」


 山科院長はのほほんとした笑顔で、そんな風に言ってくれていた。なおかつ、本日はユーリの病室にテレビを持ち込むことも許可してくれたのだ。是々柄は父親たる山科院長を疎んでいるようであったが、瓜子は今のところ感謝の念を抱く事態にしか至っていなかった。


 ともあれ――それで瓜子は心置きなく、試合に集中することができた。

 これまでの試合とは比較にならない規模の会場で、あの赤星弥生子と対戦できるのだ。これで奮起しない人間など、この世にそうそう存在しないはずであった。


「ま、弥生子ちゃんが相手じゃ対策もへったくれもないからな。今日は、自分のすべてをぶつけてこい。お前さんなら、それで満足のいく結果を出せるはずだ」


「押忍。死ぬ気で、勝ってみせますよ」


 瓜子はそんな言葉で、自分を鼓舞してみせた。

 実際のところ、自分にどれだけの勝ち目があるのかは見当もつかない。プレスマン道場においては、ユーリが対戦する際に赤星弥生子の対策を練りぬいていたが――瓜子は試合が決まったのが二週間前であったため、まったく時間が足りていなかったのだ。


 それに、そもそも瓜子とユーリでは体格もファイトスタイルも異なるのだから、同じ人間を相手取るとしてもまったく異なる対策案が必要になるだろう。そんなものを練りぬく時間はなかったし、試合の二週間前となればもう調整期間であるのだ。瓜子にできるのは、試合の当日に向けて最高のコンディションを整えることのみであった。


(まあ、弥生子さんは無理な減量で調子を崩してる可能性もあるけど……相手の体調不良に期待をかけるなんて、そんな恥ずかしい話はないもんな)


 瓜子は昨日、赤星弥生子と対面している。《JUFリターンズ》は大々的な公開計量を実施していたため、その場で向かい合うことになったのだ。

 二週間ぶりに見る赤星弥生子は、見違えるほど痩せていた。彼女はわずか二週間で、六キロものウェイトを落としてみせたのだ。赤星弥生子の端整な顔はげっそりと頬がこけ、落ちくぼんだ目などは病人さながらであった。


 しかし瓜子は、まったく油断する気にもならなかった。そのように痩せこけてもなお、赤星弥生子の気迫には寸分の変わりもなかったのだ。むしろ、病人のように痩せたからこそ、昨日の赤星弥生子には鬼気迫る威圧感が加えられていたのだった。


「ヤヨイコのイチバンコワいところは、ココロのツヨさだからねー。コンディションがワルいならワルいで、ヨケイにコワさがマすんじゃないかなー」


 ジョンはそのように語っていたし、瓜子もまったくの同感であった。だから瓜子は赤星弥生子に対戦できるという喜びをいっさい損なわないまま、今日という日を迎えることがかなったのだった。


 やがてワゴン車は、会場の地下駐車場に到着する。

 瓜子にとっては、一年半ぶりの『ティップボール・アリーナ』だ。ユーリの入院している山科医院までは、電車とタクシーで四十分ていどという位置関係であった。


「よし、出陣だ」


 コーチ陣は、それぞれ荷物を背負っていく。キックミットなども自前であるため、なかなかの大荷物であるのだ。そして、着替えの詰まった瓜子のバッグは、柳原が運んでくれた。

 セコンド陣が全員男性というのは、ちょっと珍しい話であろう。しかも本日、女子選手の試合は瓜子と赤星弥生子の一戦のみであるのだ。もしかしたら、プレスマン道場と赤星道場の関係者以外に、女性の関係者はひとりとして存在しないのかもしれなかった。


 しかし、そんな話も些末なことである。サキやサイトーや愛音たちはそれぞれの居場所で瓜子の試合を見届けてくれるのだから、瓜子が心細く思ういわれはなかった。


(それに……ユーリさんなんて、ずっと看護師さんとふたりきりなんだからな)


 関係者用の入り口を目指しながら、瓜子は左手首のリストバンドをぎゅっと握った。


 守衛に身分証を提示して会場内に足を踏み入れると、広々とした通路がのびている。やはり会場が大きいと、通路の規模まで変わってくるのだ。案内表示に従って進んでいくと、やがて『猪狩瓜子選手』という張り紙を張られたドアに行き着いた。


「え? 今日の控え室って、個室なんすか?」


「そりゃあそうだろう。とりわけお前さんは、メインカードの出場選手なんだからな」


 本日は、全部で十二の試合が行われる。ただし、地上波で生放送されるのは、後半の五試合のみであるのだ。そして瓜子と赤星弥生子の一戦は、第九試合に設定されていたのだった。


「生放送の出順としては、二試合目ってこったな。まあどんな順番でも、メインを食う気持ちで挑むだけだ」


 立松を先頭に、控え室へと入室する。広さは八帖ていどで、ベンチシートと運動用のマット、それにちょっとしたテーブルぐらいの調度であったが、部屋の奥にはトイレやシャワールームまで完備されていた。


「上等上等。これなら着替えでも裸踊りでもし放題だな。……まだ時間にはゆとりがあるが、どうする? しばらくここで休んでおくか?」


「いえ。できれば、試合場を確認しておきたいです」


「それじゃあ、とっとと移動するか。身体を冷やさないように、上着は着込んでおけよ」


 瓜子はひさびさにベンチコートを着込んでおり、その下はすでに《アトミック・ガールズ》公式のウェアと試合衣装であった。また男子選手だらけで着替えをするのに手間がかかるかと考えての処置であったのだが――そんな思惑は、完全な空振りであるようだった。


「そういえば、立松コーチや柳原さんは、去年の『アクセル・ジャパン』でこの会場に来てたんですもんね」


「ああ。だけどジョンだって、ここは古巣だろ?」


「うん。ウヅキのセコンドで、ナンカイかキてるねー。ずいぶんヒサしぶりだから、ナツカしいよー」


《JUF》の全盛期、新宿プレスマン道場はまだ名もなき秘密のジムであり、そこで卯月選手はレム・プレスマンとともにトレーニングに励んでいた。そしてそこには、篠江会長や立松やジョンも居揃っていたわけである。ただし、当時のジョンはまだ現役の選手であったため、そちらの道場を本拠にしながら故郷のオランダやさまざまな地で試合を行っていたのだという話であった。


「やっぱり自分は卯月選手の後継者的な扱いで、外敵の弥生子さんを迎え撃つって構図にされちゃってるみたいっすね。自分は卯月選手より弥生子さんと親しくさせていただいてるんで、複雑な心境です」


「ふん。そんな御託は、聞き流しときゃいいさ。重要なのは、試合の中身だろ」


「押忍。自分もそこまで気にかけているわけじゃありません。どんな前評判も、試合の内容で吹き飛ばしてみせますよ」


「今日のお前さんは、威勢がいいな。それはけっこうな話だが、空回りしないように――」


 そんな風に言いかけて、立松はにやりと笑った。


「いや、そんな心配はいらねえな。ここ最近で、一番の面がまえだよ」


「そうっすか。まあ、気合は十分ですからね」


 そうして試合場に辿り着くと――かつてないほど広大な客席が、瓜子の胸をいっそう高鳴らせた。

 去年には客としてこの場に入場していたが、関係者しか存在しないこの時間ではまったく様相が異なるものである。三万六千人を収容できる客席が、無人であるのだ。これほど広大な空間に数十名ていどの人間しか居座っていないというのは、一種異様に思えるほどであった。


 そんな広大なる空間の中央にはケージの舞台が設置されて、照明のチェックが行われている。また、試合場の周囲ではパイプ椅子の設置が進められており、そういった光景は見慣れたものであるのだが――やはり、無人の客席によってまったく異なる趣であるように思えてならなかった。


「ひとつだけ忠告しておくか。一万規模の歓声ってやつは、迫力が違うからな。度肝を抜かれて調子を崩さないように、気を引き締めておけよ」


「押忍。開会セレモニーで、免疫をつけさせてもらいます」


 そんな言葉を交わしながら、瓜子たちは中央のケージに近づいていった。

 まだケージに足を踏み入れる許可は出ていないようで、出場選手とその関係者はフェンスの外で言葉を交わしたりストレッチに励んだりしている。リラックスしている人間もいれば、思い詰めた顔をしている人間もおり――そんなさまも、普段通りと言えば普段通りであった。


「みなさん、お疲れ様です。今日はよろしくお願いします」


 と、横合いから赤星弥生子の声が聞こえてきた。

 きちんと試合前に挨拶をしてくれるのだなと、瓜子は嬉しく思いながらそちらを振り返り――そして、息を呑むことになった。


 赤星弥生子は、真っ赤なトレーニングウェアの姿である。

 その引き締まった身体は、青白い雷光めいたオーラと気迫にあふれかえっており――そしてその顔は、若武者のように凛然としていた。


「ほう。リカバリーも、ばっちりみたいだな」


 立松が不敵な笑いを含んだ声で言いたてると、赤星弥生子は落ち着いた声で「ええ」と応じた。


「これだけの減量に臨むのは人生で初めてのことでしたが、無事にやりとげることがかないました。こちらには、優秀なメディカルトレーナーもいますので」


 格好のいいショートヘアーに、鋭く涼やかな切れ長の目、高くて筋の通った鼻梁に、薄くて形のいい唇――瓜子がよく見知っている、赤星弥生子の凛々しい顔である。昨日の計量ではあれだけやつれていた顔が、本来の端整さと力強さを完全に取り戻していた。


「これなら万全の態勢で、試合を行うことができるでしょう。猪狩さん、どうぞよろしくお願いします」


「……はい。こちらこそ、よろしくお願いします」


 赤星弥生子の左右に控えるのは、大江山軍造に六丸に是々柄――ユーリと試合を行った際と、同じ顔ぶれである。基本のMMAは大江山軍造、古武術スタイルに関しては六丸、そしてインターバル間の体調管理には是々柄と、これが赤星弥生子にとって最善のセコンド陣であるのだ。


 そして赤星弥生子本人も、ベストの状態でそこに立っている。

 きっとウェイトは一日で、もとの数値にリカバリーしたのだろう。それを疑う余地がないほどに、赤星弥生子は瓜子が知る通りの力感と気迫をみなぎらせていた。


 あのユーリをあれだけ苦しめた大怪獣ジュニアと、瓜子はこの日に対戦するのだ。

 あらためて、その事実を実感することになった瓜子は――かつてないほどに血を躍らせることに相成ったのだった。

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