02 開会
赤星道場の面々と挨拶を交わしたのちは、粛々と試合前の段取りが進められていった。
まずは今大会の運営代表者の挨拶に始まり、ルール・ミーティングとマットの確認、メディカルチェックとバンデージのチェック――最初の挨拶を除けば、瓜子にとっても馴染みの深い前準備だ。
ただ一点異なるのは、それらの開始時刻であった。普段であれば午後の三時ぐらいから行われるところであったが、本日は午後の一時という早い時間に設定されていたのだ。それはすなわち、本日の大会が普段よりも二時間ほど早くから開始されるという事実を示していた。
「テレビ放映の開始は、午後の七時からだからな。それまでに、前半の七試合を終わらせようっていうタイムスケジュールなんだよ。昔っから、生放送の試合中継ってのは色々と手間がかかるもんなんだ」
立松は、そんな風に語っていた。
ちなみにテレビの放送時間は、午後の十時までたっぷり三時間も取られている。それだけゆとりがあれば確実に五試合は放映できるので、余った時間には前半の七試合の録画映像やハイライトシーンなどが流されるのだ。そういった手順に関しては、瓜子も視聴者の立場からわきまえていた。
《JUFリターンズ》は、一昨年から三年連続で大晦日の生放送を決行している。去年も一昨年も、瓜子はユーリとともにそれらの放送を視聴していた。
一昨年などはユーリにもオファーがかけられていたが、ベリーニャ選手との対戦で右肘を痛めてしまったので欠場することになった。また、メイと対戦する予定であったベリーニャ選手も、試合当日のメディカルチェックで肋骨の骨折が判明して急遽辞退することになったのだ。
そして去年は《カノン A.G》の影響で、ユーリにオファーがかけられることもなかった。それどころか、女子選手の試合がひとつも存在せず、瓜子たちとしてはずいぶん物足りない内容になってしまっていた。
(ただ……あたしはもともと、《JUF》にも《JUFリターンズ》にも関心が薄いんだよな)
その最たる理由は、やはり女子選手の試合が少ないことであろう。《JUF》の時代などはまだまだ女子選手も未成熟であったし、《JUFリターンズ》として再開されてからも女子選手の試合はせいぜい一、二試合であったのだ。
そして、その数少ない女子選手の試合でも、瓜子の胸を高鳴らせる機会はなかった。何せこれまで、大晦日の大舞台では《アトミック・ガールズ》の所属選手にオファーがかけられたことは一度してなかったのだ。その初めてのチャンスが一昨年のユーリに対するオファーであり、その代理として出場した沙羅選手は海外の見知らぬ選手を相手に秒殺KOを決めていたのだった。
察するに、《JUFリターンズ》の運営陣は《アトミック・ガールズ》の選手陣に興味が薄かったのだろう。当時の《アトミック・ガールズ》は時代遅れのルールをなかなか改めないという理由で、全般的に評価が低かったのだ。そんな中、ユーリに初めてのオファーがかけられたのは、単にユーリ個人のネームバリューが評価された結果なのだろうと思われた。
そうして去年は《カノン A.G》の騒ぎもあっていっそう敬遠されることになり、そして本年――ついに、瓜子にオファーがかけられたのである。
《カノン A.G》の唯一の功績で、《アトミック・ガールズ》はルールを改正することになった。それでようやく業界関係者から注目され、その流れで『アクセル・ロード』にも抜擢されたわけである。瓜子の《JUFリターンズ》出場も、ユーリたちの『アクセル・ロード』出場も、ひとえに《アトミック・ガールズ》がルール改正に踏み切った恩恵であるはずであった。
しかし――『アクセル・ロード』は、あのような結果に終わってしまった。ユーリを筆頭に、日本人選手九名のうち五名までもが重傷を負って長期欠場および引退にまで追い込まれることになったのだ。それを理由に、「日本人女子選手のレベルは低い」だの「MMAは危険すぎる」だのという声があげられていることを、瓜子は人づてに聞かされていた。
(だけどそんなのは、こじつけの暴論だよ)
『アクセル・ロード』で重傷を負ったのは、ユーリ、青田ナナ、マリア選手、魅々香選手、宇留間選手の五名となる。つまり、宇留間選手と対戦した三名と、宇留間選手自身と、そして古傷を抱えていた魅々香選手という顔ぶれであったのだ。その中で、もっとも軽傷であったのは魅々香選手であったのだから――危険なのはMMAという競技ではなく、MMAをまともに稽古していなかった宇留間選手の存在であるはずであった。
また、宇留間選手を除外しても、日本陣営はシンガポール陣営に勝ち越している。一回戦目には八名中の六名が勝利して、二回戦目にはシンガポール陣営が全滅となったのだ。これで日本の女子選手のレベルが低いなどとは、絶対に言えないはずであった。
しかしそれでもなお、悪評というものはなかなか消えない。事実よりも話題性を重んじる人間が、今もなお声高にMMA業界や女子選手の批判に励んでいるのだ。サキいわく、「注目度の高い人間や業界がずっこけると、こぞって叩きたがる馬鹿どもが多いんだよ」とのことである。
「だから、おめーなんざは虎視眈々と狙われてる筆頭だろーな。今のおめーは、あの乳牛に負けねーぐらい注目されてるんだからよ」
サキは、そんな言葉で瓜子を鼓舞してくれたのだった。
(だったらあたしが試合内容で、世間の馬鹿どもを見返してやるさ)
ユーリと名勝負を演じた赤星弥生子と、ユーリの後輩にあたる瓜子――この組み合わせで最高の試合を見せることができれば、ユーリやそれ以外の女子選手やMMAそのものに向けられるいわれなき批判を、少しは緩和させることができるかもしれない。瓜子は赤星弥生子との対戦に集中しながら、そんな思いが渦巻くことも決して否定できなかった。そして赤星弥生子も、そんな思いでもって瓜子との対戦を表明してくれたわけであった。
「……よし。こっちも敵さんに劣らず、コンディションはばっちりみたいだな」
控え室にて、瓜子の攻撃をキックミットで受けてくれていた立松が、不敵な笑顔でそのように言いたてた。
「最初の暖気は、こんなもんで十分だろう。まだまだ出番まで何時間もあるんだから、じっくり仕上げていくぞ。とりあえず水分を取って、身体を冷やさないようにな」
瓜子は「押忍」と応じつつ、トレーニングウェアの上にベンチコートを羽織った。
拳にはすでにバンデージを巻いており、合格のサインももらっている。もうしばらくすれば、開会セレモニーが開始されるのだ。瓜子の出番は、それから九試合目であった。
立松やジョンは普段通りのたたずまいだが、柳原は熱情をあらわにしている。《JUFリターンズ》というのは国内で一番の大舞台であるから、柳原も意気込んでいるのだろう。去年の《アクセル・ジャパン》においても、柳原はずっと発奮していたのだった。
「……大晦日なのにセコンドをお頼みしちゃって、申し訳ありません。普段はどうやって大晦日を過ごしてるんです?」
瓜子がそのように呼びかけると、柳原は「なに?」と目を剥いた。
「いきなり何を言ってるんだよ。今はそんな無駄話をしてる場合じゃないだろう?」
「そうっすか。場違いだったんなら、すみません」
瓜子は頭を下げようとしたが、その前に立松が柳原の頭を引っぱたいた。
「お前さんがあまりに入れ込んでるもんだから、そいつを和ませようとしてるんだろうがよ。セコンドが選手に気を使わせてどうすんだ」
「え? あ、いや、俺は冷静なつもりですけど……」
「だったら、雑談ぐらいつきあってやれや。だいたいうちの娘どもは、試合前でもへらへらしてるのが身上だろうがよ。変に気張っても、調子を乱すだけだろうさ」
柳原は頭をかきながら、瓜子に苦笑を向けてきた。
「確かに猪狩は、いつも通りだよな。それでいて、しっかり集中できてるみたいだし……さすが、《JUFリターンズ》に抜擢されるだけはあるよ」
「いえいえ。自分は能天気なだけっすよ」
「それでも猪狩は、さんざん結果を出してきたからな。桃園さんが派手なもんで、その影に隠れがちだったんだろうけど……お前も十分、大物だと思うよ」
そうして瓜子たちが和やかに語らっていると、控え室のドアが外から叩かれた。
「間もなく開会セレモニーですので、入場口に待機をお願いします。入場口まで同行できる付添人は、一名までです」
「よっしゃ。大歓声の洗礼だな」
当然のように、付き添ってくれたのは立松であった。
入場口の裏手にまで出向くと、十一名の男子選手とそのセコンドたちが密集している。その中から「やあやあ」と笑いかけてきたのは、深見塾の塾長たる深見氏であった。本日は、そちらの門下生も出場するのだ。
「いよいよイベントの開始ですね。この瞬間は、どうしても現役時代を思い出してしまいますよ」
「ああ。俺なんざはあの頃から裏方だったが、そちらさんはスポットを浴びてた身だもんな」
深見氏は、《JUF》の看板選手のひとりであったのだ。ただし彼は中量級であったため、《JUF》の四天王とは最軽量のジョアン選手としか対戦経験がなかった。当時は柔道vs柔術というお題目で、たいそう世間を賑やかしていたようであるのだ。
「卯月くんは、解説席でしたっけ? 『アクセル・ロード』のコーチ役といい、彼もようやく自分以外の選手や業界の行く末なんかに目が向き始めたのでしょうかね」
「どうやら、そういうことらしいな。面と向かって喋っても、あいつの内心はちっともわからねえけどよ」
「あはは。対戦相手としては、怖いタイプですね」
深見氏は気さくに笑いつつ、瓜子に目を向けてきた。
「この後はなかなか言葉を交わすチャンスもないでしょうから、今の内に激励させていただきます。今日は頑張ってくださいね、猪狩選手」
「押忍、ありがとうございます。全身全霊で、結果を出すつもりです」
「うん、いい気合だね。……君だったら、今日のMVPを狙えると思いますよ」
そんな名目は、必要ない。ただし、今日の興行で最高の試合を目指すのだという意気込みに変わりはなかった。
やがて壁ごしに派手なBGMが鳴り響き、歓声が爆発する。
瓜子は羽織っていたベンチコートを立松に預けて、選手の行列に並ぶことにした。
背丈の足りていない瓜子は、頭ひとつ分も大きな男子選手に前後をはさまれてしまう。しかし、今さらそのようなことで気後れすることもなかった。瓜子はこれから数時間後、彼らとそう背丈の変わらない赤星弥生子と相対するのだった。
リングアナウンサーの呼び声に従って、選手たちはひとりずつ扉の向こうに消えていく。
その十八番目に名前を呼ばれた瓜子は、いざ花道へと足を踏み出し――そして、息を呑むことになった。
カラフルなスポットと大歓声が、会場内に渦を巻いている。
一万人からの観客があげる、怒号のような歓声である。その勢いは、確かに普段の興行と比べ物にならなかった。
瓜子はひとつ礼をしてから、スポットに照らされる花道を突き進む。その間も、光と音の奔流が瓜子の心身を翻弄した。
これはまるで――格闘技の興行というよりも、『トライ・アングル』で体感したライブのようであった。そういえば、瓜子は『トライ・アングル』のスタッフとして大きなイベントに関わるたびに、(格闘技でもこれぐらいのお客を呼べたらなぁ)と夢想していたのだ。
その夢想が今、現実と化している。
そして、これは――ユーリがラスベガスで味わったのと、同じ感覚であるはずであった。ユーリと宇留間選手の一戦が行われた《アクセル・ファイト》の興行も、集客は一万名ていどであったのだ。
(これでまた、ユーリさんに一歩近づけたのかな)
そんな風に考えると、瓜子の体内に新たな熱情が吹き荒れた。
だが、ユーリの背中を追いかけるだけでは足りない。ユーリの存在を追い抜くぐらいの意気込みでなければ、ユーリの帰る場所を守ることはできないのだ。瓜子は、そのような決意を胸に秘めていた。
(それでユーリさんが復帰したら、どうせスキップまじりに追い越していくんだろうしな)
そんな想念に胸を弾ませながら、瓜子はケージの周囲に立ち並び――そうしてついに、本年最後にして最大のイベントが開始されたのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます