02 思わぬ申し出(下)

 重苦しい静寂がたちこめる中――赤星弥生子が「そういうことなんだ」と低くつぶやいた。

 それでようやく我に返った瓜子は、大慌てで赤星弥生子に詰め寄ることになってしまった。


「そ、そういうことなんだって、どういうことっすか? 弥生子さんは、外部の興行にご興味がないんでしょう? それでしかも、対戦相手が自分だなんて……自分には、さっぱり理解が追いつかないっすよ!」


「うん。やっぱり驚かせてしまったね」


「お、驚かないわけないじゃないっすか! どうして弥生子さんが、《JUFリターンズ》に出場するんです? それに、自分と対戦ってのは、どういうお話なんです? 自分と弥生子さんは、二階級も違うじゃないっすか!」


「それを説明するために、お邪魔したんだよ。まずは私の話を聞いてもらえるかな?」


 赤星弥生子はきわめて張り詰めた面持ちであるが、あくまで沈着なたたずまいだ。それで瓜子も、ようやく少しだけ心をなだめることができたのだが――それも、一瞬のことであった。


「まず最初に……これは、私の側から《JUFリターンズ》の運営陣に持ちかけた話となる。それで向こうが乗り気になって、私の逆オファーを了承してくれたのだよ」


「ええ? そ、それはどういうことなんすか?」


「落ち着けよ」と、ついに立松が瓜子をたしなめてきた。


「まずは、話を聞こうじゃねえか。じゃねえと、こっちも文句のつけようがないからな」


「はい。順を追って説明しますと……まず、私は多少ながら《JUFリターンズ》の運営陣にコネクションを有していました。数年前までは、あちらからしきりにオファーを受けていた立場であったため、自然にご縁が紡がれたわけです」


「ふん。初っ端から、意外な話を聞かされるもんだ。ま、《JUF》と《JUFリターンズ》はまったくの別物だから、お前さんも眉を吊り上げる筋合いはないってことか」


「ええ。反社会的勢力との癒着が露見した時点で、かつての運営陣は一掃されていますからね。それであちらには、私に対して小さからぬ関心を寄せている方々もおられたため……私も情報収集の一環として、おつきあいをさせていただいていたんです」


「……それで?」


「それで私は、ひとつの情報を入手することになりました。これは部外秘の情報となりますので、いちおう口外法度ということでお願いします」


 そうして赤星弥生子は、また驚くべきことを口にした。


「もともと猪狩さんは、大晦日の興行に出場するようにオファーを受けていましたね? ですが、対戦相手が練習中に怪我を負ったため、マッチメイクが宙ぶらりんとなった。そこであちらのブッキングマネージャーは、代理の対戦相手を探していたようですが……あまり熱意は有していなかったそうです」


「それはあちらさんの口ぶりで、勘付いてたよ。最初にオファーをよこしたときとは、まるきり態度が違ってたからな。どうせ《アクセル・ファイト》の結果で、うちの道場に対する興味が薄れたってんだろ?」


「はい。現在の桃園さんには賛否両論の風評がつきまとっているため、そういう面もあったようです。何せ現在の《JUFリターンズ》は、《アクセル・ファイト》の下部組織であるわけですからね。あの決勝戦において桃園さんの勝利を認めず、無効試合という裁定を下したため、《アクセル・ファイト》の運営陣も小さからぬ非難を受けていたようですので、余計に及び腰になってしまったのでしょう」


 それはまあ、かろうじて想定の範囲内である。しかし瓜子は運営陣の思惑というものを重んじていないスタンスであるため、とにかく目の前の試合をやりとげるだけだと奮起していたのだ。


「よって、先週の段階でも、猪狩さんの対戦相手は候補すら挙がっていませんでした。そして、このままマッチメイクをあきらめようという方向に傾きかけていたようです」


「ほう……それで、お前さんが名乗りをあげたってわけかい?」


「はい。猪狩さんと対戦できるならば、私が出場を願いたい。……そのように打診したところ、二つ返事で了承をいただけました」


 ここでようやく、前提条件が整ったわけであった。


「け、経緯はわかりましたよ。でも、どうしてそこで、弥生子さんが名乗りをあげることになったんですか? いつだったか、弥生子さんは自分と対戦する気はないって仰っていましたよね?」


「うん。私は自分より小柄な相手との対戦に慣れていないし、二階級も下の相手に敗北したならば、赤星道場の看板に傷がつきかねない。たしか、そのように語ったと思う」


「そ、そうです。それなのに、どうして……」


「私はこう見えて、計算高い人間なんだよ。私は赤星道場を守ることを第一の目的にしているから、常にリスクとメリットの度合いをはかっているんだ。だからこの際は、リスクより大きなメリットを見込めると判じたということだね」


 冗談を言っている様子もなく、赤星弥生子はそのように語った。


「まずは、猪狩さんに敗北するリスクに関してだが……それについては、《JUFリターンズ》からも了承をもらっている。このたびの対戦は、フライ級のリミットでお願いしたいと申し出たんだ」


「フライ級? 自分はナチュラルウェイトで、弥生子さんだけが減量するっていうことですか?」


「そう。私の平常体重は六十二キロなので、六キロは落とすことになる。しかも試合までは二週間を切っているので、決して楽ではない減量に臨むことになるだろう。……そういうハンデを負うことで、私は敗北した際に浴びる汚名のリスクを軽減させたわけだね」


「それじゃあ、弥生子さんは……自分に負けるつもりで試合をするっていうことですか?」


 瓜子の言葉に、赤星弥生子は形のいい眉をきゅっとひそめた。


「猪狩さん。私は……君に対して、小さからぬ好意を抱いている」


「え? な、なんのお話ですか?」


「そんな私でも、今の発言には苛立ちを覚えることになった。もし気を張っていなかったら、苛立つのではなく悲しい心地になっていたのかな」


 と――赤星弥生子は、鋭い刃のような微笑みをたたえた。


「ともあれ、今の発言を取り消してもらいたい。私は誰が相手でも、たとえどのような条件でも、負けるつもりで試合に挑むことなどない。私はもちろん全力で、勝利を目指そうと考えているよ」


「……そうですか。それじゃあ、さっきの発言は取り消します。でもまだ納得がいきません。どうして弥生子さんが、そうまでして自分との試合に名乗りをあげたんすか?」


「それはさっきも言った通り、リスクよりも大きなメリットがあると考えたためだ。説明が冗長になりそうなので、一点ずつ簡単に説明していこうか」


 精悍な無表情に戻りつつ、赤星弥生子はそのように言いつのった。


「まず、ひとつ目。私は《アトミック・ガールズ》との合同イベントによって、外部の興行に参加する意義を見出した。あのイベント以来、《レッド・キング》の興行は毎回チケットが売り切れて、ついに会場の規模を大きくする事態に至ったほどだからね。まあ、あくまで千名ていどのささやかな集客だが……それでも、大きな進展であることに疑いはない。年に一度は外部の興行に出場して、赤星道場と《レッド・キング》の名を上げる。私は今後、そういった方針で活動していこうと決めていたんだ」


「はい。それは以前にもお聞きしました。でも、どうして《JUFリターンズ》に――」


「現在の《アトミック・ガールズ》に出場するのは得策でないと考えたためだよ。こちらはナナやマリアが療養中の身だし、そうでなくても現在の《アトミック・ガールズ》には私に相応しい対戦相手が見当たらない。多賀崎さんや沙羅選手というのはあまりに時期尚早だと思えるし、小笠原さんに関しては――いささかならず、時期が悪い。彼女は長期欠場を乗り越えて復帰して、バンタム級にウェイトを落とそうとしているさなかなんだろう? そんな状況で私と対戦するのは、小笠原さんにとっても《アトミック・ガールズ》にとってもリスクが高すぎるはずだ」


 夏の合宿稽古において、赤星弥生子は小笠原選手とのスパーで同等以上の力量を見せている。古武術スタイルと大怪獣タイムを温存して、その結果であるのだ。もちろん勝負に絶対はないものの、小笠原選手が不利であることに間違いはないだろうし――ここで赤星弥生子に敗北したならば、オルガ選手との名勝負もかすんでしまうかもしれない。しかも赤星弥生子は年に一度しか外部の興行に出場しないと言い切っているため、リベンジの機会もなかなか得られないのだ。


「そこで二つ目のメリットとなるのは、猪狩さんのネームバリューだ。《アトミック・ガールズ》の新たな主役となりおおせた猪狩さんと裏番長なる俗称を授かった私が対戦すれば、大変な話題を呼ぶことができるだろう。それこそ、私と桃園さんが対戦したときのようにね。そしてそれが《JUFリターンズ》の舞台で、大晦日に地上波で生中継されるとなれば……反響の度合いも、予測し難いほどだろう」


「ふん。お前さんが出場するだけで、反響の度合いに不足はねえだろうけどな」


「ええ。たとえ運営陣が総入れ替えされたとしても、《JUFリターンズ》は《JUF》の後継団体です。赤星道場と《JUF》の因縁を前面に押し出せば、大層な話題を呼ぶことでしょうね。兄の裏切りで没落した赤星道場の残党が、復讐を果たすために乗り込んできた――きっと《JUFリターンズ》の運営陣は、そういった謳い文句で興行を盛り上げようと画策することでしょう」


「や、弥生子さんは、そんな扱いに我慢できるんすか?」


「我慢も何も、おおよそは事実だからね。これはかつて《JUF》の舞台で結果を出せなかった青田コーチのリベンジでもあるんだ。ひいては、犬飼拓哉さんのリベンジでもあるつもりだが……まあ、そんな話を犬飼京菜さんに聞かれたら、尻を蹴り飛ばされそうなところだね」


 にこりともしないまま、赤星弥生子はそのように言い放った。


「ともあれ、今の猪狩さんはかつての桃園さんに負けないほどの人気とネームバリューを獲得している。私が無理な減量というハンデを負いながら勝利できれば、それは大きな功名となるだろう。そして、第三のメリットは――」


「ふん。まだ何か、御託を並べるつもりかい?」


「ええ。それと同様に、猪狩さんが私に勝利することができれば――これまで桃園さんにしか敗北していない赤星弥生子に勝利することができれば、桃園さんと同様に日本で一番の実力者という功名を得られるはずです。たとえ私が減量で苦しんだとしても、猪狩さんは本来よりも重い階級に挑むわけですからね。きっと当日は、リミットに届かないウェイトで臨むことになるのでしょうし……日本人というのは白黒テレビの時代から、小さな人間が大きな人間に打ち勝つことに大きなロマンを見出すものであるはずです。つまりこの試合は、私が勝とうと猪狩さんが勝とうと、おたがいに遜色のない功名を得られるということです」


 赤星弥生子のそんな言葉に、瓜子は息を呑むことになった。

 しかし赤星弥生子は、かまわずに言葉を重ねていく。


「そして、第四のメリットは――私が風評に違わぬ実力を見せることができれば、桃園さんの強さを証明することにもなるでしょう。何せ彼女は、私に勝利したことがあるただひとりの人間であるのですからね。桃園さんが『アクセル・ロード』の決勝戦まで勝ち抜いたのは、決して運や偶然の産物ではない。彼女こそが正真正銘のモンスターなのだ、と……日本中の人間に知らしめることができるはずです」


「……それがお前さんの言う、メリットか」


「まだありますよ。最後の、第五のメリットです。……私と猪狩さんが対戦すれば、誰でも胸を躍らせることになるでしょう。それは、《アクセル・ファイト》の顛末で沈滞しかけている女子格闘技界に、新たな活力を生み出せるはずです。そんな結果を得られるように、私は死力を尽くすつもりです」


 そうして赤星弥生子は、日本刀の切っ先めいた眼光で瓜子を見つめてきた。


「以上の観点から、私は猪狩さんとの対戦を望んだ。できれば、このオファーを受けてもらいたい」


「……そんな風に言われたら、こっちもお断りできないじゃないっすか」


 瓜子は全身の気力をかき集めて、そのように答えてみせた。


「わかりました。お手合わせを願います。でも……自分だって、負けるつもりはありませんよ」


「そうでなくては、対戦する甲斐がない。私たちが不甲斐ない試合を見せれば……おたがいに、これまで築きあげてきたものを失う結果になるだろう」


「そんな事態には、絶対にさせません。自分は死力を尽くして、弥生子さんに勝ってみせます。余計な御託を並べなくったって、自分は……弥生子さんと対戦するって考えただけで、心臓がとんでもなく大暴れしちゃってるんですからね」


 赤星弥生子は青白い雷光のごときオーラを纏い、刃物のような眼光をひらめかせながら――「ありがとう」と、やわらかく微笑んだ。

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