ACT.5 大決戦の前に
01 思わぬ申し出(上)
「猪狩さん! おはようございます!」
瓜子が道場の入り口をくぐるなり、元気な挨拶の言葉をぶつけられてきた。
声の主は、蝉川日和である。彼女は満面の笑みであり、そしてその顔には死闘の痕がまざまざと刻みつけられていた。
「押忍。おはようございます。……あらためまして、全国大会の優勝とプロ昇格、おめでとうございます」
「あ、いや、決してお祝いのお言葉をせがんだつもりではないんスけど! で、でも、ありがとうございます!」
蝉川日和は、腰が直角になるぐらい頭を下げてくる。彼女は二日前の日曜日に《G・フォース》のアマ大会にて優勝を果たし、ついにプロ昇格を実現させてみせたのだった。
「せっかくの晴れ姿を観にいけなくて、どうもすみませんでした。ああいう大会は、ちょっと時間が読めないもんで……」
「そ、そんなのいいんスよ! 猪狩さんが観にきてたら、キンチョーで負けてたかもしれませんし!」
「ええ? それはそれで、ちょっと複雑な気分なんですけど……」
「あ、いや、気分を害しちゃったんなら、ごめんなさい! あたし、頭が足りてないんスよー!」
頭が足りていないというよりは、まだ二日前の喜びに浮かれているのだろう。さすがに昨日は彼女も稽古を休んでいたため、瓜子もようやく肉声でお祝いの言葉を届けられたわけであった。
本日は、十二月の第三火曜日――ユーリが帰国してから、ちょうど一週間となる。瓜子はそちらのお見舞いの兼ね合いで、蝉川日和の勇姿を見届けることがかなわなかったのだった。
「でも本当に、おめでとうございます。女子MMA部門のメンバーは、誰も観戦に行けなかったんすよね? それじゃあ今度、こっちのメンバーで祝勝会でもしましょうよ。よかったら、自分が企画しますんで」
「えっ! だ、だけど、猪狩さんは大晦日に大一番を控えてる身じゃないッスか! あたしなんかのために、無理をしないでほしいッス!」
「まったく無理なんてしてませんよ。自分はもう調整期間なんで、日曜日だったらユーリさんのお見舞いぐらいしかやることはありませんし……そもそも大晦日の《JUFリターンズ》は、いまだに対戦相手が未定のままですからね」
「はあ、そうッスか……でも、ユーリさん抜きで祝勝会っていうのは……なんか、申し訳ない心地ッス」
蝉川日和は、いまだユーリと対面したことがない。しかし、ユーリや周囲の人間を、これほど慮ってくれているのだ。その事実が、瓜子の口もとをほころばせた。
「お気遣いありがとうございます。でも実は、ユーリさんの了承はもう取りつけてあるんすよ。ユーリさんは、自分にかまわずみんなで楽しんでほしいって言ってくれました」
「えっ! ユ、ユーリさんと、あたしなんかのことをお話ししてるんスか?」
「そりゃあしますよ。ユーリさんも、早く蝉川さんにお会いしたいって言ってましたよ」
「な、何だか恐縮ッス! あたしも早く、ユーリさんにお会いしてみたいッス!」
そんな風に言ってから、蝉川日和はふにゃんと微笑んだ。
「それに、猪狩さんもすっかり元気になって、嬉しいッス! ユーリさんは、順調に回復してるんスね!」
「ええ。ちょうど昨日から、流動食を口にできるようになったんです。美味しい美味しいって騒ぎながら、ぽろぽろ涙をこぼしてました」
そんなユーリの姿を思い出すと、瓜子も涙をこぼしてしまいそうだった。
「だから、みんなの都合がつくようだったら、派手にやりましょうよ。忘年会がてらって言ったら失礼っすけど、蝉川さんをお祝いしたいって人は道場の外にも山ほどいるでしょうしね」
「あ、ありがとうございます! 猪狩さんにそんな風に言ってもらえるだけで、あたしは胸がいっぱいッスよー!」
蝉川日和は顔を赤くしながら、ピンと毛先の跳ねた頭を自分でくしゃくしゃにかき回した。
そこに、トレーニングルームのほうから「おいコラ」とサイトーが近づいてくる。
「わざわざぶっ壊れた顔を出したかと思ったら、目的は猪狩かよ。稽古する気がねえなら、帰って寝とけや。どうせ今日は、スパーもできねえんだからな」
「あ、いえ、すみません! カラダが疼いてしかたないんで、サンドバッグだけでも叩かせてほしいッス!」
「そんなボカスカ殴られてなけりゃあ、もっと有意義な稽古を積めたろうにな。そんなディフェンスがザルのまんまじゃ、プロで通用しねえぞ。みっちりしごいてやるから、とっとと準備しやがれ」
そんな風に蝉川日和を指導してから、サイトーはぎろりと瓜子をねめつけてきた。
「お前さんも、入り口で立ち話なんざしてんなよ。さっきから、立松っつぁんがお待ちかねだぜ」
「え? 何のご用事っすかね?」
「知らねえよ。ま、地獄みてえに不機嫌そうなツラだったから、お前さんも尻の穴をしめておくこった」
サイトーはふてぶてしく笑いながら、トレーニングルームに引っ込んでいった。
瓜子はとりあえず着替えをしてから、立松の姿を探すことにする。しかしこちらが探すまでもなく、瓜子が奥側のトレーニングルームに踏み入るなり、男子選手の面倒を見ていた立松が飛んできた。
「おう、来たな。桃園さんの具合は、どうだったよ?」
「押忍。院長先生いわく、順調だそうです。自分の目から見ても、昨日よりお元気そうでした」
「そいつは何よりだ。じゃ、こっちの話をさせてもらうが――」
そこまで言いかけて、立松はくわっと目を見開いた。その視線は、瓜子の頭を跳び越えている。それで背後を振り返った瓜子も、目を丸くすることになった。
「あ、あれ? 弥生子さん? 今日はいったい、どうされたんすか?」
「……突然の訪問、失礼する。あの粗忽者は……不在かな?」
赤星弥生子は厚手のブルゾンにゆったりとしたボトムといういでたちで、そのすらりとした長身に青白い雷光めいたオーラを纏わせている。彼女と再会するのは、山科医院で出くわした日以来であった。
「う、卯月選手でしたら、午後の四時ぐらいには帰ってるはずですけど……卯月選手に、何かご用事ですか?」
「いや。あいつと出くわす可能性があるなら心の準備が必要なので、確認させてもらっただけだよ。私の側に、用事など皆無だからね」
赤星弥生子はそのように言い捨てたが、まだ剣呑な気迫を保持したままである。
そしてこちらでは、立松がぞんぶんに顔をしかめてしまっていた。
「なんのつもりか知らんが、ちょうどいい。ご本人から、話を聞かせていただこうか。言っておくが、猪狩のやつはまだお前さんの悪ふざけを何も知らねえぞ」
「そうですか。決して悪ふざけのつもりではなかったのですが……誤解のないように、私からも説明をさせていただきたく思います」
何やら立松のほうまで剣呑な雰囲気で、瓜子は居たたまれない心地である。
とりあえず、三人で事務室に移動することになり――その道行きで、赤星弥生子が瓜子に語りかけてきた。
「ところで、桃園さんの容態はいかがかな?」
「はい。おかげさまで、快方に向かっているようです。完全な回復には、まだまだ時間がかかるでしょうけれど……でも、危険な状態からは完全に脱したんじゃないかというお言葉をいただくことができました」
「そうか。それなら、よかった」
青白い気迫は消さないまま、赤星弥生子は眼差しだけやわらげた。
どうやら自分に含むところはないようなので、瓜子はひそかに息をつく。赤星弥生子の不興を買うというのは、瓜子にとって一大事であるのだ。
そうして三名は、雑然とした事務室に入室した。
椅子は二脚しか存在しないため、全員が立ったまま三角形を作る。まず発言したのは、立松であった。
「で、どうするよ? 俺とお前さんの、どっちの口から説明したもんかな」
「まずは、立松さんからどうぞ。私も正確に話が伝わっているのかどうか、確認をさせていただきたく思います」
「ああ、そうかい。何かの間違いだったら、俺も助かるんだがな」
立松は究極的な仏頂面で、瓜子に向きなおってきた。
「それじゃあ、説明させてもらうぞ。しっかり心の準備をしておけ。……ついさっき、《JUFリターンズ》のブッキングマネージャーから連絡があったんだ」
「あ、そうなんすか。ようやく自分の対戦相手が決まったんすか?」
「ああ。お前さんの対戦相手は、赤星道場所属の赤星弥生子様だとよ」
瓜子は暫時、思考停止することになった。
「え……じ、自分と弥生子さんが対戦するってことっすか?」
「ああ。俺の知る限り、赤星道場の赤星弥生子ってのは今そこに突っ立ってるお嬢ちゃんだけだからな」
瓜子はわけもわからぬまま、赤星弥生子のほうを振り返る。
しかし、赤星弥生子の様子に変わるところはない。ただ、その凛々しい面には試合直前のような気迫がみなぎっており――それが何より、立松の語った言葉が事実であるということを如実に物語っていたのだった。
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