06 密談

 ユーリと再会してから、あっという間に三日間が過ぎ去った。

 その期間、瓜子は欠かさず埼玉の山科医院に通っている。自宅のマンションから山科医院まで、電車とタクシーを乗り継いで片道一時間という距離であったが、ユーリのためであればどうということもなかった。往復の二時間と面会の二時間で、合計四時間――それだけの時間でユーリの心を少しでも慰められるなら、安いものである。


 それにユーリは、日を重ねるごとに元気を取り戻していた。もちろん身体のほうはそうそう劇的に回復するわけもないが、表情や目の輝きなどは明らかに活力を増していったのだ。それだけで、瓜子は涙を止められないぐらい嬉しかった。


 しかし決して油断はできないのだろう。これはのちのち聞いた話であるが、ユーリは体重が二十キロも落ちて、内臓の機能がのきなみ弱ってしまっていたのだ。百六十七センチの身長で三十キロ代まで体重が落ちたというだけで、危機的な状況であるはずであった。


「だけど、そうであるにも拘わらず、骨折や靭帯損傷のほうは順調に回復しているのだよねぇ。何だかまるで、怪我の回復にすべての栄養やカロリーが注がれて、その他の生命維持機能が二の次にされているかのようだけれども……そもそも肉体が衰弱していたら怪我が回復するわけもないんだから、やっぱり矛盾してるよねぇ」


 山科院長は、しわくちゃの顔で笑いながらそんな風に語っていた。


「まあとにかく、僕は全力で肉体の治療に努めるからね。心のケアは、おまかせしたよ」


「はい。自分も死力を尽くしてみせます」


 そうして瓜子は、ユーリのもとに通いつめることになった。

 ユーリの身は心配であるが、しかし顔をあわせることもできなかった三ヶ月半の時間を考えれば、むしろ幸福なぐらいである。そして、一日ごとに元気を取り戻していくユーリの姿が、瓜子にいっそうの活力を与えてくれるのだ。ともすれば、瓜子は自分の心のケアのためにユーリの存在を欲しているのではないかと思えるほどであった。


 そうしてユーリが帰国してから四日目となる、十二月の第三金曜日――瓜子は新宿駅のすぐそばにあるカラオケボックスにて、千駄ヶ谷と密会することに相成った。


「こんな場所までお呼びだてしちゃって、どうも申し訳ありません。ちょっと外部にはもらせないようなお話をご相談させていただきたかったので……」


「かまいません。私からも、猪狩さんに通達したい案件がありましたので」


 密会場所はスターゲイトの社屋でもよかったのだが、千駄ヶ谷も本日はあちこち出回る予定であったので、けっきょくこちらのカラオケボックスが選ばれたのだ。カラオケボックスで密談というのは、多賀崎選手との再会時に学んだ手法であった。


「千駄ヶ谷さんのほうも、何かご用事があったんですか? でしたら、そちらからお先に――」


「いえ。先にご連絡をくださったのは猪狩さんなのですから、まずはそちらのお話をうかがわせていただきたく思います」


 ここ最近は電話でしかやりとりしていなかったので、千駄ヶ谷と顔をあわせるのは二ヶ月ぶりぐらいである。しかしその冷徹なる面持ちやたたずまいに変わるところはなかった。


「それじゃあ、先にお話をさせていただきます。ひとつはユーリさんがらみのお話で、もうひとつは自分についてのお話なんですけど……」


 ユーリと交流のある相手には、「日本の病院に転院した」と周知されている。ただし、マスコミなどに情報が漏洩する危険を慮って、病院の所在やユーリの容態については、ごく親しい相手にしか伝えられていない。千駄ヶ谷は、その数少ないメンバーのひとりであった。


「先日もお話しした通り、ユーリさんは数ヶ月がかりの療養とリハビリに取りかかることになりました。ですから、その期間は芸能活動もままならないので……スターゲイトとのマネージメント契約を、一時解除していただけませんか?」


 瓜子がそのように伝えると、千駄ヶ谷は数ミリだけ首を傾げた。


「それは、ユーリ選手ご本人のお考えでしょうか? そして、どのようなお考えにもとづくご提案なのでしょう?」


「えーと、自分から提案して、ユーリさんに了承をいただいた形となります。ユーリさんはしばらく収入がありませんし、治療費のことまで考えないといけませんので……少しでも、無駄な経費を削りたいんですよね」


「なるほど。当社とのマネージメント契約を、無駄な経費と仰る」


「あ、いえ、決してそういうわけでは……でも、契約期間内は無条件で契約料を支払うシステムでしょう? ユーリさんが渡米している間も、その契約料が支払われていたみたいですし……」


「なるほど」と繰り返してから、千駄ヶ谷はドリンクバーのカプチーノをすすった。


「劣悪な豆を使っていますね……きわめて苦々しい気分です」


「じ、自分の提案で気分を害してしまったなら、お詫びを申しあげます」


「いえ。それはこちらの説明不足が原因であるのでしょうから、何も謝罪には及びません」


 そんな風に語ってから、千駄ヶ谷は絶対零度の眼光で瓜子を見据えてきた。


「では、不足していた説明に取り掛からせていただきます。……猪狩さん。ユーリ選手が渡米していた三ヶ月と二週間、そして帰国されてから今日までの四日間、当社が何の業務も果たしていないとお考えでしょうか?」


「え? それはまあ……ユーリさんは、音楽やモデルの仕事もお休みしていたわけですし……」


「その期間、当社にはユーリ選手に対する問い合わせや取材の依頼などが殺到しておりました。渡米した直後は帰国後の撮影依頼、『アクセル・ロード』の放映が開始されて以降はそれに加えて取材の依頼、《アクセル・ファイト》の試合後は怪我の容態に対する問い合わせに関してでありますね。一日あたりの平均値は十数件、最大値は三十件近くにも及んだかと思われます」


 限りなく冷たい声音で、千駄ヶ谷はそのように言いつのった。


「本来は新宿プレスマン道場に届けられるべきご連絡も、のきなみ当社に届けられていたのです。まあ、当社は長きにわたってユーリ選手の選手活動もマネージメントしていたため、関係者各位もその頃の慣例を保持しているのでしょう。ですが、もしも当社とのマネージメント契約を解除されるというのなら、選手活動のみならず芸能活動やマスコミ各位の問い合わせも道場のほうに殺到するかと思われますが……それで問題はないというご判断でありましょうか?」


「い、いえ……そうですか。スターゲイトのほうには、そんなにあちこちから連絡が殺到してたんですね」


「ユーリ選手のネームバリュー、および『アクセル・ロード』におけるご活躍と決勝戦の顛末を鑑みれば、それも当然のことでありましょう。特に現在はユーリ選手の容態を巡って、マスコミ各位が血眼になっておられるようです。その防波堤を務めているのが、僭越ながら弊社ということになりましょうか」


 瓜子は心から反省して、千駄ヶ谷に頭を下げることになった。


「千駄ヶ谷さんのご苦労も知らないで勝手な提案をしてしまい、本当にすみませんでした。どうか、さっきのお話は忘れてください」


「こちらの説明不足に端を発しているのですから、謝罪は不要と申し上げたはずです。それでは、ユーリ選手のマネージメント契約は今後も継続するという方向でよろしいでしょうか?」


「は、はい。是非ともよろしくお願いします」


「承知しました」と、千駄ヶ谷はまたコーヒーカップに口をつけた。


「では、次なる案件をどうぞ」


「は、はい。今度は、自分の話なんですけど……またしばらく、何かのお仕事をさせていただけませんか?」


 千駄ヶ谷の切れ長の目が、きらりと光ったような気がした。


「それはつまり、グラビア撮影を含むモデルの活動を再開したいというお話でしょうか?」


「は、はい。今年はもう残りわずかですし、自分も大晦日に試合を控えてますんで、ちょっと時間を作るのが難しいんですけど……できれば、来年の年明けからお願いしたく思っています」


「なるほど。まあ、ユーリ選手が芸能活動を再開できない以上、マネージャー補佐の付添人たる猪狩さんも収入の目処が立っていないわけですが……それでも私の想定より、ずいぶん迅速なご判断であったかと思います」


「ええ。もうしばらくは生活に困ることもないんですけど、お見舞いの交通費も馬鹿にならないし、いざとなったら経済面でもユーリさんを支えてあげたいですし……それに何より、女子格闘技界の勢いを止めたくないんです」


 そんな風に言ってから、瓜子は決死の思いで身を乗り出すことになった。


「それで、千駄ヶ谷さんにもういっぺん確認させていただきたいんですけど……本当に自分なんかがモデル活動を続けることで、少しでも格闘技業界を盛り上げられるんでしょうか?」


「無論です。ユーリ選手が長期休業することになった現在、状況はより深刻化したと言っていいでしょう。また、沙羅選手のご決断が、いっそう拍車をかけることになるやもしれません」


「沙羅選手のご決断? って、いったい何のお話っすか?」


「ちょうど本日、彼女のコメントがネットニュースに掲載されていたのです。彼女は今後、日本国内の選手活動に専念するそうです」


 それは瓜子にとって、まったく寝耳に水の話であった。


「どうやら沙羅選手は『アクセル・ロード』におけるご活躍の影響で、北米の《スラッシュ》からスカウトのお声をかけられたようです。ですが沙羅選手は『アクセル・ロード』に出場したことで、北米進出というものがご自分に適していないという結論に至ったようですね。それで、《スラッシュ》からのスカウトをお断りするのと同時に、今後の方針を開示されたとのことです」


「そ、そうだったんですか。でも……沙羅選手は、どうして北米進出をあきらめることになったんでしょう?」


「そもそも彼女は《アクセル・ファイト》を足がかりにして、北米のプロレス界に進出しようという目論見であったようです。ですが、どれだけ北米のMMA界で活躍したとしても、現役のMMA選手である限りはプロレス界に進出というのも難しいようで……さらには、北米の風土や環境もお気に召さなかったようですね。ご本人いわく、『ラスベガスの水は合わんわ』だそうです」


 確かに沙羅選手は、『アクセル・ロード』においてスタミナの維持に苦労しているようであった。何かしら、コンディションの調整に難しいものを感じたのだろう。


「ともあれ、ユーリ選手に次ぐスター性を有していた沙羅選手が、北米進出を断念する事態に至ったのです。また、『アクセル・ロード』では数多くの出場選手が負傷して長期休業に追い込まれることになりましたし……大きな期待をかけられていた決勝戦もあのような結果に終わり、ユーリ選手もまた長期休業で、宇留間選手に至っては引退を表明いたしました。日本国内の女子MMA界は、これまでの勢いを失って深く沈滞する恐れがあるでしょう。それを覆せるのは、もはや猪狩さんただひとりであるのかもしれません」


「そ、それは大げさすぎますけど……自分のモデル活動が、ほんの少しでも力になれますか?」


「大いなる力になることは、私が保証いたします」


「そうですか」と、瓜子は全力で溜息をつくことになった。


「それでしたら……来年から、またマネージメント契約をお願いしたく思います……」


「実に悲壮な表情ですね。我が身を犠牲にしてまで業界の活性化をはかろうとする猪狩さんの心意気に、私は深く感銘を受けました」


 氷の仮面のごとき無表情のまま言い放ち、千駄ヶ谷はソファに置いていたブリーフケースをまさぐった。


「では、こちらの資料に目を通していただけますでしょうか? あくまで仮決めの段階ですか、来年一月からのスケジュールを組んでみましたので」


「え? え? ど、どうして自分の話を聞く前から、こんなもんを準備していたんですか?」


「それはもちろん、私の側からもモデル活動の再開を打診しようと思案していたためとなります」


「千駄ヶ谷さんのお話っていうのは、それだったんすか……」


 安物のビニールのソファの上で、瓜子はぐにゃりと脱力することになった。

 が、そんな場合ではないと、慌てて居住まいを正す。


「せ、せっかく先回りしていただいて申し訳ないんですけど、スケジュールに関してお話ししておくことがあるんです。自分は毎日、ユーリさんをお見舞いしないといけないので――」


「はい。ご覧の通り、スケジュールは午前か午後のどちらかに集中させておりますし、平日の夜間はのきなみ空けております。これでしたら、毎日四時間以上の自由時間とこれまで通りの練習時間を確保できるのではないでしょうか?」


「……そこまで先回りしてくださったんですね」


 瓜子は泣きそうになったので、笑うことにした。


「どうもありがとうございます。何だかもう、千駄ヶ谷さんの手の平で踊らされてる気分っすよ」


「これが、私の職務ですので」


 そんな風に語りながら、千駄ヶ谷はわずかに身を乗り出した。


「猪狩さん。《アクセル・ファイト》の顛末によって、格闘技界は大きく震撼いたしました。しかし、決してすべてが悪い方向に向かっているのではないのだと、私はそのように推測しております」


「というと? いい要素があるんなら、自分もありがたいっすけど」


「良きにつけ悪しきにつけ、ユーリ選手と宇留間選手の一戦は世界中の人間を驚愕させました。悪しき評価ばかりが耳についてしまうのは致し方のないことでありますが、それでも格闘技というものが――とりわけ女子選手の存在というものが注目されたことに疑いはありません。たとえ無効試合という不本意な結果に終わろうとも、ユーリ選手は間違いなくそのカリスマ性とポテンシャルでもって、世界中の人々の心に爪痕を残してみせたのです」


 決して氷の無表情は崩さないまま、千駄ヶ谷はそのように言いつのった。


「そうであるからこそ、今この時が重要であるのです。ユーリ選手のもたらした熱気を時代の仇花で終わらせてしまうか、あるいは新たな時代の礎とするか……それを決するのは、いま活動できる女子選手の方々なのだろうと思います」


「……はい。ユーリさんの頑張りは、絶対に無駄にさせませんよ。ユーリさんが復帰するまで、自分が死ぬ気で繋いでみせます」


 瓜子は拳を握りしめながら、そのように応じてみせた。

「素晴らしい意気込みです」と、千駄ヶ谷は身を引いた。


「では、最後の案件となりますが――」


 と、千駄ヶ谷は再びブリーフケースをまさぐった。

 そこから取り出されたのは、小さなMP3プレーヤーである。


「――よろしければ、こちらをユーリ選手にお渡し願えるでしょうか?」


「え? 何すか、これは?」


「『トライ・アングル』の新曲のデモ音源です。ユーリ選手もデジタルオーディオプレーヤーをお持ちでしょうが、そちらに音源を入力するにはいったん実機をお預かりしないといけないため、こちらに入力した次第です」


 その言葉に、瓜子は心から驚かされることになった。


「で、でも……ユーリさんはいつ回復するか、まだ目処も立ってないんすよ?」


「それでも、音楽活動の再開も視野に入れておられるのでしょう? それとも現在は、選手としての復帰しか念頭にないのでしょうか?」


「……いえ。病室にプレーヤーを持ち込んで、ずっと『トライ・アングル』の音源を聴いているそうですよ。実際のところ、メンバーの方々がどういう心持ちであるのか、すごく心配してるみたいです」


「であれば、これもまたユーリ選手のお心を支える一助になるのではないでしょうか?」


「もちろんです」と、瓜子は涙ぐむことになってしまった。


「『トライ・アングル』のみなさんも、ユーリさんの復帰を待ってくださっているんですね。自分も……言葉にならないぐらい、嬉しいです」


「そうですか。お礼のお言葉は、直接メンバーの方々にお願いいたします」


 そう言って、千駄ヶ谷は左手首の腕時計をちらりと見やった。


「では、お話もここまでですね。私も次の仕事がありますので、失礼いたします」


「はい。今日はお忙しい中、ありがとうございました。千駄ヶ谷さんにも、心から感謝しています」


「職務ですので」と繰り返してから、千駄ヶ谷は少しだけ目を細めた。


「猪狩さんは、職務など関係なくユーリ選手を支えておられるのでしょう? それこそが、賞賛に値する行為であるかと思われます。……どうかこれからも、ユーリ選手をお願いいたします」


 そうして瓜子と千駄ヶ谷の密談は、きっかり二十分間で終了することに相成ったのだった。

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