04 再会

「ユーリさん……」


 瓜子はふらつく足取りで、ユーリのもとへと歩み寄った。

 ユーリは、ベッドに座している。ベッドがリクライニング機能で四十五度ぐらいの角度をつけており、ユーリの弱りきった身を支えているのだ。そのベッドのかたわらには、車椅子も置かれていた。


 ユーリはぼんやりと、瓜子の姿を見返している。

 まぎれもなく、それはユーリである。瓜子は三ヶ月と二週間ぶりに、ようやくユーリと再会することがかなったのだ。


 しかし、ユーリの姿は変わり果てていた。

 もしもこれが生身の対面ではなく、写真か何かを見せられたのだったら、ユーリ本人と信じることも難しかったかもしれない。それぐらい、ユーリは変貌していたのだった。


 まずユーリは、淡いピンクのニット帽をかぶっている。その下にはさらに包帯が巻かれているようであったが――おそらく、髪は丸刈りにされてしまったのだろう。頭部の手術をするためには、やむを得ない処置である。かつては理央もこのようにして、髪の生えそろっていない頭を帽子で隠していたのだ。


 だから、そのような話はどうでもよかった。

 ユーリは肉体そのものが、変貌してしまっていたのだ。


 今のユーリは、初めて出会った頃の理央よりも痩せてしまっていた。

 あの肉感的であったユーリの肢体が、信じられないほど細くなってしまっているのである。点滴の刺された腕などは、まるで細い棒のようであるし――ベージュ色の病院着に包まれた上半身は、子供のように薄っぺらくて起伏がなかった。


 そして、その顔である。

 あれほど瑞々しい生気にあふれかえっていたユーリの顔が、手の平で包み込めそうなほど小さくなってしまっていた。

 やや垂れ気味の目や、すっと筋の通った鼻は、以前のままである。しかし、ふくよかであった唇は桜のつぼみのように小さくなって、頬から下顎にかけての線もびっくりするぐらい繊細な曲線を描いており――痩せさらばえたというよりは、むしろ幼子に戻ってしまったかのようであった。


 下半身は薄い毛布に隠されており、病院着の合わせ目から覗く胸もとや右の前腕には包帯が巻かれている。しかしその肌は、包帯よりも白く見えた。血の気というものがまったく感じられず、ユーリはまるで雪の精霊のように純白の存在になっていた。


 そんなユーリがはかなげな微笑みをたたえて、瓜子の姿をぼんやりと見やっている。

 その色の淡い瞳は、どこか焦点がぼやけているように感じられた。


「これは、夢じゃないんだよねぇ……? 卯月選手はユーリを日本に帰らせて、うり坊ちゃんに会わせるつもりだって言ってたから……これは本物のうり坊ちゃんなんだよねぇ……?」


「……ええ、本物っすよ。卯月選手に呼ばれて、お見舞いに来たんです」


 瓜子はまったく気持ちの整理もつかないまま、ユーリのすぐそばまで近づいた。

 そしてまた、新たな衝撃に見舞われる。ユーリは点滴のつながれた左腕に、白いリストバンドをつけていたのだった。


「そっかぁ……うり坊ちゃんに会えて、嬉しいようなそうでもないような……ちょっぴり複雑な気分だなぁ……」


「ど……どうして、嬉しくないんすか? 自分のこと、嫌いになっちゃったんすか?」


「そんなわけないじゃん……」と、ユーリははかなげに微笑んだまま目を伏せた。

 そうすると、長い睫毛が目もとに深い影を落とし――ユーリをいっそうひそやかな存在にしてしまう。


「でも……ユーリのこんな姿を見せたら、うり坊ちゃんを心配させちゃうだろうから……できれば、会いたくなかったかなぁ……」


「な、何を言ってるんすか。ユーリさんは、いったいどうしちゃったんすか?」


 瓜子はほとんどくずおれるようにして、ベッドの脇に準備されていた椅子に腰を下ろした。

 本当は、すぐにでもユーリの身に触れたいところであったのだが――ユーリに拒絶されるのが、怖かったのだ。それに、今のユーリはあまりに力を失っていたため、うかうかと触れることもできなかったのだった。


「頭の怪我は、問題ないって聞いてますよ。でも、心が弱ってるから、身体のほうまで衰弱しちゃってるんだって……ユーリさんは、何をそんなに落ち込んでるんすか? 自分が力になりますから、何でも遠慮なく聞かせてください」


「……やっぱりうり坊ちゃんは、優しいなぁ……ユーリのあんな姿を見ても、うり坊ちゃんは愛想を尽かさなかったんだねぇ……」


 ユーリの声もまた、別人のようにかすれてしまっている。

 しかし、より重要であるのは、その発言の内容であった。


「愛想を尽かすって、どういう意味っすか? ユーリさんは、なんにも悪いことなんてしてないじゃないっすか?」


「ううん……うり坊ちゃんも、《アクセル・ファイト》の試合を観てくれたんでしょう……? ユーリは、あのとき……全部、投げ出しちゃったんだよ……」


「全部、投げ出した? い、意味がわかんないっすよ。確かにあのときのユーリさんは、ちょっと様子が普通じゃなかったっすけど……でも、最後まで試合をあきらめなかったじゃないっすか」


「ううん……ユーリは、試合をやめちゃったんだよ……途中からは、ただ宇留間選手を処分することしか考えてなかったからねぇ……」


「処分」という言葉に、瓜子は悪寒めいたものを覚えた。

 しかし、ユーリの伏せられた目が陰ったりはしていない。そこには、あまりに力ない透明の光だけがたたえられていた。


「宇留間選手には、ユーリの攻撃がなんにも通用しなくって……宇留間選手はただ暴れてるだけなのに、ユーリはどんどんボロボロになっちゃって……それでユーリは、怖くなっちゃったんだよ……」


「こ、怖い? ユーリさんが、試合の相手を怖がったっていうんすか? でも別に、それでユーリさんが落ち込まなくっても――」


「ううん、違うの……ユーリのことなんて、どうでもいいんだよ……ユーリみたいなへっぽこは、誰に負けてもしかたないからね……」


 真っ白な顔で、今にもふわりと溶けて消えてしまいそうな微笑をたたえたまま、ユーリはそのように言いつのった。


「ユーリが怖かったのは……ベル様のことだよ……もしかしたら宇留間選手は、ベル様より強いんじゃないかって……そんな風に思っちゃったの……」


「そ、それが何だっていうんすか? もちろんベリーニャ選手だって、誰かに負けることはあるんでしょうけど……」


「うん……でも……宇留間選手だけは、駄目だったんだよ……MMAに興味がない宇留間選手が、ベル様より強いかもしれないなんて……そんなのは、どうしても我慢できなかったの……」


 ユーリは決して昂ることもなく、虚ろな眼差しになることもない。

 しかし、その変化のなさこそが、瓜子を不安にさせてやまなかった。


「もしもこのままユーリが負けたら、宇留間選手が《アクセル・ファイト》と契約することになっちゃうから……いつか、ベル様と対戦することになるかもしれない……そうしたら、ベル様が負けちゃうかもしれない……それどころか、取り返しのつかない怪我をしたり、もしかしたら……死んじゃうかもしれない……そんな風に考えたら、ユーリはどんどん心がおかしくなっていっちゃって……宇留間選手はここで処分しなくちゃいけないんだって……そんな風に思っちゃったの……」


「そ……そうだったんすか。だからあのときのユーリさんは、あんな怖い目つきになってたんですね」


 瓜子は懸命に自分を律しながら、そんな風に答えてみせた。


「でもやっぱり、ユーリさんが落ち込む必要なんてないっすよ。ユーリさんがベリーニャ選手を心配するのは当然の話ですし、それに……どれだけ物騒な心境になっていたとしても、試合中に反則をしたりはしなかったじゃないですか? MMAのルール内で試合を終えたんですから、何も気にする必要はありません」


「ううん……だけどユーリは、わかっちゃったんだよ……ユーリも宇留間選手と同類だなぁってさ……」


「同類? 何がですか? ユーリさんと宇留間選手は、まったく似てないじゃないっすか」


「そんなことないよ……ユーリだって、ずっと非常識な選手だって言われてたからねぇ……ユーリは馬鹿だから、MMAのセオリーも守れずに、ただ無茶苦茶に暴れるだけで……それで、色んな選手を傷つけてきちゃったでしょう……? サキたんやうり坊ちゃんのおかげで試合に勝てるようになってから、沙羅選手は入院しちゃったし……オリビア選手は骨折しちゃったし……秋代選手や魅々香選手は鼻を潰しちゃったし……」


「え、MMAに怪我はつきものじゃないっすか。沙羅選手たちはすぐ復帰しましたし、秋代選手なんかは逆恨みだったんですから――」


「でも……来栖選手は、もともと悪かった腰や膝を余計に痛めちゃったよね……ユーリなんかと試合をしてなければ、来栖選手ももっと選手として活躍できたんじゃないのかな……それに、エイミー選手やイーハン選手は、あんなに立派な選手だったのに……ユーリのせいで、入院することになっちゃって……」


「だ、だからそんなの、ユーリさんが気にする話じゃないっすよ。自分だってついこの間、対戦相手の拳を肘で砕いちゃいましたよ?」


「うり坊ちゃんは、立派なファイターだもん……でも、ユーリは違うから……きっと、宇留間選手と一緒なんだよ……」


 まったく調子を変えないまま、ユーリはそのように言葉を重ねた。


「だからね……ここでユーリが宇留間選手と対戦することになったのは、神様の与えてくれた運命なんじゃないかって……ユーリはそんな風に思っちゃったんだよねぇ……」


「う、運命? それは、どういう意味っすか?」


「ユーリも宇留間選手も、MMAを汚す存在だから……二人まとめて消滅するのが、一番正しい運命なんじゃないかって……ユーリは宇留間選手を処分するために生まれてきたんじゃないかって……そんな風に思っちゃったんだよ……」


 瓜子は激情をかきたてられたあまり、言葉を失ってしまった。

 その間に、ユーリはさらに言葉を紡いでいく。


「それで試合が終わってみたら、ユーリはこんな状態だったから……ああ、このままユーリが消えちゃえば、みんな丸く収まるんだって思ったの……うり坊ちゃんやベル様の大好きなMMAを守ることができたんなら、ユーリにも生まれてきた意味があったのかなって……ユーリもちょっとは、幸せな気分だったんだぁ……」


「な……何を言ってるんすか! いい加減にしてくださいよ、ユーリさん!」


 瓜子は椅子を蹴倒して、ユーリの座したベッドに身を乗り出すことになった。

 ユーリはゆっくりと目を上げて、瓜子のほうを見やってくる。その白い顔が、たちまち涙でぼやけていった。


「泣かないで、うり坊ちゃん……うり坊ちゃんに泣かれたら、ユーリも悲しい気持ちになっちゃうよ……」


「そんな馬鹿馬鹿しい話を聞かされて、平静でいられるわけないじゃないっすか! ユーリさんは、どこまで頭が足りてないんすか? 今日という今日は、本当に愛想が尽きそうっすよ!」


「うん……ユーリは、お馬鹿だからねぇ……」


「ええ、大馬鹿っすよ! ユーリさんと宇留間選手は、全然似ていません! 似てるどころか、正反対の存在っすよ! ユーリさんはMMAが大好きで、あんなに稽古を頑張ってきたじゃないっすか! そんなユーリさんが宇留間選手を同類あつかいするなんて、自分には我慢がなりません!」


 両目からふきこぼれるものをぬぐうこともせず、瓜子はそのようにわめき散らした。


「ユーリさんは大好きなMMAのために、宇留間選手を処分しようと考えたんでしょう? そのためなら、自分が消えてもいいとすら思ってたんでしょう? MMAにまったく興味がない宇留間選手とは、まったく正反対の存在じゃないっすか! 自分だって、MMAが大好きなユーリさんに勝ってほしいって、ずっとそう思ってましたよ!」


「うん、でも……」


「でもじゃないっすよ! このまま消えちゃえばいいなんて……それでちょっとは幸せな気持ちだなんて……そんな悲しいこと、言わないでください。取り残される自分は、どうなるんすか? 自分の気持ちを、ほんのちょっとでも考えてくれたんすか?」


「うん……でも、うり坊ちゃんはみんなに愛されてるから……」


「それでも自分が一番大切なのは、ユーリさんっすよ! ユーリさんが自分を置いていなくなっちゃうなんて、そんなの耐えられないっすよ!」


 瓜子はついに激情にとらわれて、ユーリの手を握りしめてしまった。

 別人のように細くて、まったく力の感じられない手だ。しかし、そこに宿された温もりに変わるところはなかった。


「お願いですから、生きることをあきらめないでください……自分と一緒に、MMAを頑張ってください……自分は、MMAを大好きなユーリさんが、大好きなんです」


 ユーリはまだ、雪の精霊のように微笑んでいる。

 だが――その目から、透明のしずくがこぼれ落ちた。


 華奢な指先が、瓜子の手を弱々しく握り返してくる。

 その温もりが、瓜子にいっそうの涙を流させた。


「ユーリは……MMAを続けてもいいのかなぁ……?」


「そんなの、ユーリさんの好きにすればいいんすよ。誰に遠慮する筋合いがあるっていうんすか。もしも文句を言うやつがいたら、自分がぶっ飛ばしてやりますよ」


「もう……うり坊ちゃんは、乱暴だにゃあ……ユーリの思い出の中のうり坊ちゃんは、もっとおしとやかだったのに……」


 ユーリの痩せ細った顔に、かつての無邪気さがかすかにひらめいた。

 瓜子はとめどもなく涙をこぼしながら、力ずくで笑ってみせる。


「そんなのは、幻想っすよ。やっぱり三ヶ月半も離ればなれだと、記憶が歪むみたいっすね」


「うん……ユーリは毎日、うり坊ちゃんの絵を見ながら過ごしていたけど……生身のうり坊ちゃんのモーレツな存在感に、窒息してしまいそうなのです」


「ここは病院だから、息が止まっても蘇生してくれますよ」


 そうして瓜子は、この三ヶ月半でこらえにこらえていた言葉を口にすることになった。


「おかえりなさい、ユーリさん。ずっと会いたかったです」

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