03 最果ての地
翌日の昼下がり――瓜子は立松の運転するワゴン車で、埼玉の病院を目指すことに相成った。
後部座席には、瓜子の手持ちでもっとも大きなボストンバッグが詰まれている。ことと次第によっては何日でも泊まり込む覚悟であったため、必要な物資を詰め込んできたのだ。
「……ひと晩で、ちっとは落ち着いたみたいだな。その調子で、桃園さんを支えてやれ」
高速道路を飛ばしながら、立松がそのように語りかけてくる。
瓜子は拳を握りしめ、「押忍」と答えてみせた。
瓜子は相変わらず、綱渡りをしているような心地である。しかしサキやメイのおかげで、何とかここまで復調することができたのだ。あとはもう、全力でユーリを支えるしかなかった。
ユーリはすでに病院で、一時間ほど前に診察を開始したという連絡が入れられている。本来であれば空港に駆けつけたいぐらいであったが、なるべく安静な状態で病院に運びたいという話であったので、瓜子たちも現地で落ち合うことになったのだ。
「桃園さんに付き添ってるのは、卯月とその関係者だ。そもそも桃園さんを帰国させようと言い出したのも、卯月の野郎なんだからな。篠江会長も最初は渋ってたが、最終的には卯月の提案を呑むしかなかったらしい」
「押忍。……ユーリさんは、そんなにひどい状態なんすか?」
「俺も電話で聞いただけだから、なんとも言えん。卯月の判断に間違いがあったら俺がぶっ飛ばしてやるから、お前さんは手を出すんじゃないぞ」
正面を向いた立松の横顔は、普段以上の厳しさだ。立松とて、瓜子と同じぐらいユーリの身を案じてくれているはずであった。
ユーリの転院する病院は埼玉県川口市の郊外にあるとのことで、新宿から車で五十分ていどの道のりであるらしい。そのわずかな時間が、今の瓜子にはとてつもなく長く感じられてしまった。
そうして重苦しい雰囲気の中、ワゴン車はひたすら疾走し――高速道路を下りたところで、立松はカーナビゲーションシステムをオンにした。まったく不慣れな土地であったため、あらかじめ病院の住所を入力していたのだろう。あとはそちらの指示で、一般道路を駆けることになった。
ワゴン車は、どんどんうら寂しい区域に入っていくようである。
そうして『間もなく目的地です』というアナウンスとともに、緑色のフェンスに囲まれた白い建物が見えてきた。
「……まさか、ここなのか?」
そちらの敷地の入り口に車を寄せた立松は、ウィンドウを開けて門柱の名前を確認した。
『
「どうやら間違いないようだな。アスリートの機能回復に定評のある施設だって聞いてるんだが、しかしこいつは……」
立松は、不審の念を隠せない声でつぶやいている。
フェンスの向こうにうかがえるのは、いかにも病院らしい白い建物だ。ただし、決して立派な規模とは言い難い様相であった。なおかつ、フェンスも建物もぞんぶんに古びており、ともすれば廃屋に見えるぐらいであったのだった。
「……こいつは本気で、卯月をぶっ飛ばす準備がいるかもな」
立松は物騒な気配のはらんだ声でつぶやきつつ、敷地内に車を乗り入れた。
駐車場は、舗装もされていない空き地である。そこには何台かの軽自動車と、このような場には不似合いな黒塗りのワンボックスカーがとめられていた。
ワゴン車から降りた瓜子は後部座席のボストンバッグを引っ張り出してから、病院を振り仰ぐ。
近くで見ると、いっそう古びたたたずまいだ。そして建物の向こう側には名も知れぬ山が稜線を描いており、いっそう寂寥なる雰囲気を作りあげていた。
「よし、乗り込むぞ。気合は抜けてないだろうな?」
「押忍。大丈夫です」
瓜子は、そのように答えるしかなかった。
そして、震えそうになる膝を励ましつつ、病院の入り口に向かう。ともに歩く立松は、ごつごつとした身体に怒気に似た気配を纏わせていた。
入り口のガラス扉をくぐると、入ってすぐが受付のカウンターだ。
備えつけのスリッパに履き替えてから来意を告げると、妙に無機質な雰囲気である女性が「二階のHCUにどうぞ」と告げてきた。
「……HCUってのはICUのひとつ下のランクで、高度治療室とか呼ばれてるはずだな」
エレベーターは使わずに階段へと足を踏み出しながら、立松がそのように説明してくれた。
ICUというのが重篤な患者を相手にする集中治療室であることは、瓜子もかろうじてわきまえている。ユーリがそちらに区分されていないことを喜ぶべきなのか、あるいは心配するべきなのか――瓜子には、まったく判断がつかなかった。
そうして階段をのぼり終えるなり、立松が「おっ」と低い声をもらす。
そちらには、小ぢんまりとした待合室が広がっており――その真ん中に、卯月選手の姿が見えたのだ。
「突然の申し出を快諾していただきありがとうございます、猪狩さん。それに、立松さんも」
開口一番、卯月選手はそのようにのたまわった。
相変わらず、仏像のように内心の読めない面持ちである。すでに試合から二週間以上も過ぎているためか、どこにも死闘の痕は見られない。大柄な肉体にダウンジャケットを羽織った卯月選手は、糸のように細い目で瓜子たちを見比べてきた。その左右をはさむのは、ボディガードと思しき外国人の巨漢たちだ。
「誰も快諾した覚えはねえよ。納得がいかなかったら、そのすまし顔の形を変えてやるからな」
「はい。俺はベストの選択をしたつもりです。現在ユーリさんは山科院長の診察を受けていますので、しばらくこちらでお待ちください」
卯月選手は、どっしりとした大樹のごとき揺るぎなさだ。
それが心強いような、あるいは腹立たしいような――瓜子は錯綜しきった心持ちで、その眼前に進み出ることになった。
「卯月選手、その前にもうちょっと詳しい事情を聞かせてください。ユーリさんは、いったいどうしちゃったんすか?」
「はい。それは昨日、立松さんにお話しした通りとなりますが……ユーリさんはひどく心が弱ってしまって、それが肉体の衰弱まで招いてしまっているようなのです」
「だから、その意味がわかんないんですよ。ひどく落ち込んでて、食事も咽喉に通らないってことっすか?」
「それは、順番が違っているかもしれません。ユーリさんは肉体の衰弱から消化器官を含む内臓の機能が低下して、食事を摂取できない状態にあります。現在は点滴で栄養を補給している状態ですが……このままでは、PPNからTPNに切り替える必要が生じてしまうことでしょう」
「なんだよ、そいつは? 日本人なら、日本語で喋りやがれ」
瓜子の代わりに立松が声をあげると、卯月選手は落ち着いた声音でそれに従った。
「PPNは末梢静脈栄養、TPNは中心静脈栄養の意です。現在は腕の末梢静脈から点滴を打っていますが、この状況が長引くようであれば心臓に近い中心静脈にカテーテルの処置を施す必要が生じるということですね」
瓜子は目の眩むような衝撃に見舞われながら、それでも何とか正気を保ってみせた。
「どうして……どうしてそんなにひどいことになっちゃったんですか? 頭の怪我は、経過も良好だったんでしょう?」
「はい。脳に損傷はありませんでしたし、頭蓋骨の整復にも問題はありませんでした。ですから、これは……精神的なダメージから発した合併症のようなものであるのでしょう」
「精神的なダメージって、何のことですか? ユーリさんは、どうしてそんなに弱っちゃってるんですか?」
「それはご本人が語ろうとしないので、不明です。……そのために、今日は猪狩さんにお越しいただいたのですよ」
卯月選手の細い目が、真っ直ぐに瓜子を見つめてきた。
「ユーリさんがもっとも心を開いているのは、猪狩さんでしょう? 猪狩さんであれば、ユーリさんの抱えている苦悩を解きほぐすことができるかもしれません。そのために、俺は強引にでもユーリさんを帰国させるべきだと考えたのです」
「……ユーリさんは、何も喋ろうとしないんすか? 意識はあるんですよね?」
「はい。ですが、他者とのコミュニケーションを拒絶しています。先週にはジョアンの妹もお見舞いに来てくれたのですが、そちらとも会おうとしなかったのですよ」
「ユーリさんが……ベリーニャ選手のことまで拒絶したって言うんすか?」
どさりと、鈍い音色が響いた。
瓜子の手から、ボストンバッグが落ちたのだ。
「そんな……それじゃあ、自分なんかが何をしたって……」
「おい、取り乱すな。お前さんは、最後の砦なんだぞ」
立松が瓜子の肩を荒っぽくつかみ、引き締まった顔を近づけてきた。
「だいたい、ベリーニャ選手が何だって言うんだよ。たとえ憧れの選手でも、桃園さんとはほんの数回会っただけの関係だろ。お前さんは、どれだけ桃園さんと一緒に過ごしてるんだよ。自分の存在を、過小評価するな。お前さんだったら、絶対に大丈夫だ」
「ええ。俺もそのように期待しています」
立松の向こう側から、卯月選手はそのように言いたててくる。
「ユーリさんを『アクセル・ロード』に出場するように説得したのは、この俺です。そして、ユーリさんと宇留間さんをコーチングしたのも、この俺です。もちろんそんな責任感だけで、こんな真似をしているわけではないのですが……俺は心から、ユーリさんの回復を願っているのです。そのためにユーリさんを帰国させて、猪狩さんにおいで願ったのです」
立松が身を引くと、また卯月選手の姿が瓜子の視界に収まった。
その仏像のごときたたずまいに、変わりはない。ただやっぱり、その目は一心に瓜子だけを見つめていた。
「以前にもお話しした通り、俺は感情を表出させることが苦手です。だから俺がどれだけ切迫しているかも、猪狩さんには伝わっていないでしょう。でも、どうかこれだけは信じてください。俺はこんなことで、ユーリさんを失いたくないのです。もう一度、ユーリさんに元気になってほしいんです」
「……べつだん、それを疑ってるわけじゃねえがな。しかしそれなら、もう少し立派な転院先はなかったのかよ?」
立松が横から口をはさむと、卯月選手は瓜子を見つめたまま「ええ」とうなずいた。
「ユーリさんの症例は、いささかならず常軌を逸しています。それに対処できるのは、常識にとらわれないドクターだけでしょう。そうでなかったなら、ユーリさんにはラスベガスの医療機関に留まっていただいて、猪狩さんにお越しを願っていたところです」
「ふん。そんな言葉を聞かされても、なかなか胸を撫でおろす気にはなれねえが――」
そこまで言いかけて、立松は口をつぐんだ。
そこに「やあやあ」と何者かが近づいてくる。それは白衣を纏った、老齢の医師であった。
「お待たせお待たせ。ひとまず診察は終了したよ。卯月くんの言っていた通り、これはなかなか興味深い患者であるようだねぇ」
その軽妙なる言葉に、立松がたちまち眉を吊り上げた。
「おい、言葉には気をつけてもらいてえな。興味深い患者ってのは、どういう言い草だよ?」
「ああ、ちょっと言葉を間違えてしまったかな。それじゃあ、興味深い症例と言い直すことにしようか」
その医師は悪びれる様子もなく、にっこりと微笑んだ。
おそらくすでに、還暦は越えているのだろう。無精にのばした髪は真っ白で、顔中に深い皺が寄っている。極度に分厚い老眼鏡をかけており、もともと大きそうな目が不自然なぐらい巨大化していた。それで背丈は瓜子よりも小さく、手足は枯れ枝のように痩せ細っている。吹けば飛びそうな見た目であるが、ただ立ち居振る舞いは矍鑠としていた。
「山科院長、お疲れ様です。こちらがさきほどお話しした、猪狩さんです」
「ああ、この娘さんか。うんうん、確かにこれは、そっくりだ」
「……そっくり?」
瓜子が思わず反問すると、山科院長は「うんうん」といっそう相好を崩した。
「あの患者さん――ええと、桃園さんだったかな? その桃園さんの病室に、二枚の絵が飾られていてね。それが君にそっくりだったのだよ。あれはずいぶんと絵心のある人の作品なのだろうねぇ」
瓜子が言葉を失うと、卯月選手が声をあげた。
「ユーリさんが合宿所に持ち込んでいた、例の肖像画です。ユーリさんを少しでも元気づけられればと思い、入院当初から俺が運ばせていたのです」
「うんうん。僕が診察している間も、彼女はずっとあの絵を見つめていたよ。よっぽどお気に召しているのだろうねぇ」
得も言われぬ激情に見舞われて、瓜子は身を震わせてしまう。
すると、卯月選手が音もなく身を乗り出してきた。
「ユーリさんは間違いなく、猪狩さんの存在を求めています。だからこそ、猪狩さんにお越しいただいたのです。どうかユーリさんのお力になっていただけますか?」
「うんうん。身体のケアは僕が受け持つけど、心のケアは専門外だからねぇ。彼女に必要なのは、まず元気になりたいという心意気だと思うよ」
瓜子は痺れきった舌を無理やり動かして、「わかりました」と答えてみせた。
「自分に何ができるかはわかりませんけど……どうか、ユーリさんに会わせてください」
「うんうん。それじゃあ、こちらにどうぞ」
山科院長は小さな身をひるがえして、ひょこひょこと歩き始めた。
瓜子と立松、卯月選手と二名のボディガードが、それに追従する。ユーリの病室は、二階のもっとも奥まった場所に存在した。
山科院長がノックすると、ドアがするりとスライドされて、若い女性の看護師が顔を覗かせる。そちらの女性が廊下にまで出てくると、山科院長が瓜子のほうを振り返ってきた。
「さあ、どうぞ。僕たちはここで待機しているから、必要があったら声をかけてくれたまえ」
瓜子は唇を噛みながら、立松のほうを振り返った。
立松は試合前のように真剣な面持ちで、瓜子の背中にそっと手を当ててくる。それに力強く押し出されたような心地で、瓜子は病室に足を踏み入れた。
広々とした、真っ白な病室である。
四つのベッドが置かれているが、三つは無人だ。
そして、カーテンの引かれた窓際のベッドに――限りなく懐かしい存在が座していた。
「ユーリ……さん……?」
瓜子が無意識の内に呼びかけると、壁に張られた二枚の絵をぼんやりと眺めていたその人物が、ゆっくりと振り返ってくる。
長い睫毛に縁取られたやや垂れ気味の目が、瓜子の姿を見て――その口もとに、淡い雪のような微笑が浮かべられた。
「わあ……ほんとにうり坊ちゃんだぁ……卯月選手は、本気だったんだねぇ……」
力なくかすれた声が、二人きりの病室にひっそりと響きわたる。
その声に導かれるようにして、瓜子はユーリのもとへと足を踏み出すことになったのだった。
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