02 急転
それからさらに日は過ぎて、十二月の第二月曜日である。
《アクセル・ファイト》の試合から、ついに二週間が過ぎた。つまりはユーリが緊急入院してからも、同じだけの日が過ぎたのだ。
しかし相変わらず、確たる連絡は入らない。数日置きに篠江会長から連絡が入れられているようであるが、『容態は急変していない』の一点張りであったのだ。
「ピンク頭はとっくに意識が戻ってるんでしょ? だったら電話ぐらいさせてくれりゃあいいじゃん! こっちはこんなに心配してるんだからさー!」
「でも、桃園は電話が苦手なんだろ? 今は入院中なんだから、桃園に負担をかけさせないようにしてるのかもしれないよ」
そのように語るのは、おおよそ灰原選手や多賀崎選手である。サキやメイは自分からユーリの話題に触れようとはせず、最近はさしもの愛音も口が重たくなっていたのだった。
そんな中、道場内でひときわ熱気をかもしだしているのは、蝉川日和とサイトーである。今週末、ついに《G・フォース》のアマチュア選手権の全国大会が開催されるのだ。十月に予選大会を勝ち抜いた蝉川日和は、全国大会の優勝とプロ昇格を目指してこれ以上もなく奮起していたのだった。
いっぽう女子MMA部門のほうは、いささか沈滞気味である。今月に試合を控えているのは瓜子のみであるし、その瓜子もいまだ対戦相手が未定であったのだ。《JUFリターンズ》が開催される大晦日までもう三週間を切ってしまったというのに、これでは本当に試合が組まれるのかどうかも疑わしいところであった。
なおかつ、サキは先月の試合で左膝に大きな負担をかけてしまったため、早い段階で一月大会の出場を辞退している。大晦日に試合をする瓜子も一月大会は出場を確約できないし――それにパラス=アテナの面々も、今回はひときわマッチメイクに難渋しているようであった。
今年の一月大会は、《レッド・キング》との合同イベントということで大きく盛り上がった。しかし現在は赤星道場のマリア選手と青田ナナがリハビリ中であるため、そちらを頼ることも難しいのだ。
さらに、現在の主力選手である小笠原選手と灰原選手には適切な対戦相手が見当たらない。小笠原選手は無差別級の目ぼしい相手をすべて下してバンタム級への転向を表明していたし、灰原選手ももう瓜子への王座挑戦まで下手に試合を組めないような状況であるのだ。
「だから今回は、『アクセル・ロード』で留守にしてたフライ級を中心に据えたいって話だったけど……今まともに動けるのは、あたしと沙羅ぐらいだからね。アトミックと《フィスト》の王者をそんな簡単にぶつけていいのかって、駒形代表も頭を抱えてるんじゃないのかな」
多賀崎選手は、そのように語っていた。ユーリや魅々香選手やマリア選手が負傷したため、フライ級も手薄であるのだ。あとに残されるのは、オリビア選手や沖選手であったが――そちらの両名は多賀崎選手や沙羅選手と対戦してから、まだそれほどの時間も経過していないのだった。
「あとはまあ、時任さんやラウラなんてのもフライ級に転向してるけど……時任さんはまだ調子を確かめてるさなかだし、ラウラに至ってはアトミックの所属でもないからね。よっぽど自分にメリットがあるマッチメイクじゃない限り、あいつはそうそうオファーを受けたりはしないだろうよ」
結果、《アトミック・ガールズ》の一月大会はマッチメイクが滞っている。瓜子も愛音も、灰原選手も多賀崎選手も、鞠山選手や小柴選手も、いちおうの仮押さえをお願いされただけで、対戦相手が決定されていなかった。
そうして熱情のぶつけどころを見失っている間に、粛々と日が過ぎていき――ついに十二月の第二週になってしまったのである。ユーリに対する心配も相まって、瓜子は綱渡りの綱がいっそう細くなってしまったような心地であった。
そしてその期間で、瓜子は誕生日を迎えている。ついに瓜子も、二十一歳になってしまったのだ。本年も、瓜子のバースデーパーティーをしようかという話が持ち上がっていたが、それはつつしんでお断りすることになった。ユーリぬきでそのようなパーティーを開く気になど、まったくなれなかったのだ。瓜子の心情を察してか、灰原選手や鞠山選手も無理に話を進めようとはしなかった。
(本当だったら、ユーリさんもとっくに帰ってる頃だったのにな……)
そんな風に考えると、瓜子はたちまち涙をこぼしそうになってしまう。
よって瓜子は、力ずくで負の感情を押さえつけながら日々を生きることになった。
そして――ついにその日、運命を大きく動かす一本の連絡が届けられたのだった。
◇
「なんだって? おい、本気で言ってるのかよ?」
そんな風にがなりたてたのは、今回もやはり立松であった。
しかし今回は事務室ではなく、トレーニングルームにおいてのことである。立松は女子選手の指導の真っ最中であり、事務室から転送された着信を携帯端末で受け取ることになったのだ。
立松は険しい顔になりながら、トレーニングルームの壁際まで引き下がっていく。その姿に、瓜子はむやみに胸を騒がせることになってしまった。
「しかし、危険なことはないのか? そりゃあ峠は越えたんだろうが、まだ二週間しか経ってないわけだし……だいたい、容態は安定してたんじゃないのかよ? こっちはさっぱり、わけがわからんぞ」
立松は懸命に声を押し殺そうとしているようであったが、どうしようもなくそんな言葉が聞こえてきてしまう。それで瓜子のみならず、灰原選手も眉を曇らせることになった。
「あれってどう考えても、ピンク頭の話だよね? いったい何があったんだろう?」
もちろん、そんな問いかけに答えられる人間はいない。サキもメイも愛音も、多賀崎選手も高橋選手も、みんな稽古の手を止めることになってしまった。
「これじゃあ集中できないね。立松コーチが戻ってくるまで、インターバルにしようよ」
そのように宣言したのは、高橋選手である。十一月大会の敗戦では大きく気落ちしていた彼女であるが、現在は再起をかけて稽古に励んでいる。そして彼女はウェイトを大幅に落とす計画を立てており、肉の削げた顔がこれまで以上に精悍になっていた。
「……わかった。とにかく、決行するってんだな? 電話じゃ止めようがねえから、こっちも黙って受け入れるしかねえが……万が一のことがあったら、覚悟しておけよ。誓って、ただではすまさねえからな」
そんな不穏な言葉を最後に、立松は携帯端末を荒っぽくポケットに突っ込んだ。
そしてこちらを振り返り、深々と溜息をつく。女子MMA部門の選手一同は、みんな無言で立松の挙動をうかがっていたのだ。
「……誰が手を止めろと言ったよ。まったく、どうしようもねえ娘どもだな」
「だってそれはしかたないっしょ! そんなこと言うなら、あたしらを不安にさせないでよねー!」
灰原選手は怯む様子もなく、ボリューミーな胸の下で腕を組んだ。
「で、どういう電話だったの? ピンク頭に、何かあったんでしょ?」
「……ああ。説明しないわけにはいかねえだろうな。ただし、これは絶対にオフレコの情報だ。出稽古の三人さんにも、そいつを守ってもらう。約束できねえなら、あっちでジョンに面倒を見てもらってくれ」
「秘密だって言うんなら、絶対に守りますよ。だからどうか、話してください」
多賀崎選手が力強く応じると、灰原選手と高橋選手も大きくうなずいた。
立松もまた「よし」とうなずいてから、ふっと心配そうに瓜子のほうを見やってくる。
「……とりあえず、こっちに固まって座ってくれ。野郎連中にはどこまで打ち明けるか、あとでジョンと相談するからよ」
立松の言葉に従って、瓜子たちは壁際で車座になった。
その間、瓜子の心臓は痛いぐらいに暴れている。ともすれば、視界がぼやけてしまいそうだった。
「いったい何から話すべきか、こっちも整理が追いついてないんだが……とにかく、結論から語らせてもらおう。桃園さんは、明日帰国する」
灰原選手が「えーっ!」と声を張り上げると、立松は眼光でそれを黙らせた。
「まずは黙って聞いてくれ。さっきの電話は、卯月からでな。会長たちもすぐそばにいて、そっちの話も聞かせてもらったが……桃園さんは、明日帰国することになった。それで、日本の病院に転院するんだそうだ」
「転院? アメリカの医者は、頼りにならねーってのか? それにしたって、頭蓋骨をぶち割ってから二週間で飛行機に乗せるなんざ、無謀だろ」
サキが鋭く声をあげると、立松は厳しい表情で「ああ」とうなずいた。
「俺もそう思ったから、つい声を荒らげちまったんだよ。だけど、卯月が言うには……一刻を争う事態らしい。だから、危険を承知で帰国させるんだとよ」
「一刻を争うって、どういうこったよ? 容態は安定してたんだろ?」
「頭や手足の負傷に関しては、それで間違いないらしい。頭の中身に問題は起きてないし、術後の経過も良好だそうだ。ただ……心身の衰弱が尋常でないって話なんだよ」
「心身の衰弱って……どういうことっすか?」
瓜子は半ば無意識の内に、そのように反問していた。
立松は何かをこらえるように眉を寄せながら、瓜子を真っ直ぐに見つめてくる。
「言葉通りの意味だとしか言いようがないそうだ。とにかく桃園さんは心のほうが弱っちまって、それに引きずられるみたいに身体のほうも衰弱してるんだとよ」
「そんな……どうして……」
「それがわからんから、日本の病院に転院させるんだそうだ。卯月の伝手で、埼玉の病院に入院させるそうだが……そちらで期待できるのは、肉体面のケアだけだ。精神面のケアはお前さんにお願いしたいと、卯月の野郎はそう言っている」
立松は、優しさと厳しさの入り混じった目で瓜子の顔を見つめた。
「そりゃあ普通に考えても、桃園さんはしんどい時期だろう。それを支えてやれるのは、お前さんしかいない。……明日、その病院に行ってくれるか?」
「も……もちろんです」
「よし。車の運転は、俺が引き受けた。あっちの状態がわからんから、猪狩以外の人間は遠慮してくれ。そしてくれぐれも、他言無用だぞ。こんな話がマスコミにもれたら、何を書かれるかわかったもんじゃないからな」
サキたちが何か答えたようであったが、もはや瓜子の耳ではまともに知覚できなかった。
すると、温かく力強い手の平が右肩に置かれる。瓜子が顔を上げると、そこにはサキの仏頂面が待ちかまえていた。
「今日は稽古にならねーだろ。家に帰って、明日の準備でもしておけや。クロタコ、帰り道のフォローはおめーにまかせたぞ」
どこか遠からぬ場所から、メイの「うん」という声が聞こえてくる。
そうしてサキに腕を引かれて立ち上がった瓜子は、気づくと更衣室にたたずんでいたのだった。
ぼんやり視線を巡らせると、サキとメイだけが間近から瓜子の様子をうかがっている。メイはきゅっと唇を噛んでおり、サキは鋭く目をすがめていた。
「しゃんとしろや、瓜。おめーは乳牛と再会できる日を心待ちにしてたんだろーだよ? だったらちっとは、ポジティブシンキングってやつを心がけやがれ」
「でも……ユーリさんが……」
「でもじゃねーんだよ。そんな腑抜けたツラで、あの乳牛のぶってー身体を支えられんのか? どうせあいつはおめーに会いたくて、駄々をこねてるだけだろーよ」
そんな風に言いながら、サキはまた瓜子の肩をつかんできた。
「だから、気合を入れてけや。おめーがそんなぐにゃぐにゃしてたら、共倒れだぞ」
「だって……どうしたらいいのか、わかんないんすよ」
そんな言葉を振り絞ると同時に、瓜子の目から熱いものがふきこぼれた。
膝から力の抜けてしまった瓜子は、サキの胸もとに取りすがってしまう。瓜子より何キロもウェイトの軽いサキは、そのしなやかな身体で瓜子を支えてくれた。
「ずっと容態は安定してるって話だったのに……ユーリさんが、そんなひどい状態だったなんて……しかも、弱った心が原因だなんて……自分は、どうしたらいいんすか?」
「どうもこうもねーよ。おめーが駆けつけるだけで、十分だろ」
「そんなことないっすよ……自分には、なんの力もないんですから……」
瓜子は止めようもなく泣き言をこぼしながら、サキの胸もとの生地をつかんだ。
「理央さんが昏睡状態だったとき、サキさんはどうやって乗り越えたんすか……? 自分には……こんなの、無理っすよ……」
「馬鹿かよ、おめーは? あの頃のアタシがどれだけグズグズだったかは、おめーらが一番わかってるだろーがよ?」
サキの力強い手が、瓜子の頭にぽんと置かれた。
その切れ長の目には、これまでと異なる輝きがたたえられている。それは元来の凛々しさを残したまま、すべてを包み込むようにやわらかい眼差しであった。
「その尻を叩いてくれたのは、おめーらだ。お望みとあらば、アタシがめいっぱい尻を叩いてやんよ。だから踏ん張って、あの乳牛を支えてやれ。それは、おめーにしかできねーことなんだからよ」
瓜子はサキの胸もとに取りすがったまま、声を出して泣いてしまった。
それはこの二週間、全力でねじ伏せていた激情の爆発であり――どれだけ自分を律しようとしても、決して止めることがかなわなかったのだった
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