ACT.4 reunion

01 不安の日々

《アクセル・ファイト》の十一月大会が終わってから、あっという間に日々は過ぎていき――ついに時節は、十二月に突入した。


 その数日間で、ユーリは意識を取り戻し、怪我の容態も急変していないことが告げられている。瓜子はその情報だけを心のよすがとして、ようよう日々を生き抜いているような状態であった。


 それにユーリは、頭以外にも小さからぬダメージを負っていたのだ。右前腕の尺骨と二本の肋骨が単純骨折で、左肩と左膝の靭帯も損傷してしまったのである。異国の病院でそのような診断を下されたユーリは、いったいどれだけ不安な気持ちで過ごしているか――それを想像しただけで、瓜子のほうこそ絶望の断崖に突き落とされてしまいそうだった。


「とりあえず、頭の怪我だけで一週間ぐらいは絶対安静だろうからな。お前さんも気が休まらないだろうが、もう少しの辛抱だ。桃園さんが戻ってきたらしっかり支えてやれるように、しっかり食ってしっかり寝ておけよ」


 コーチの立松などは、そんな言葉で瓜子を励ましてくれた。

 そして、ユーリに心酔する愛音も、意想外に元気そうな姿で瓜子を激励してくれたのだった。


「ユーリ様はどのような苦境に陥ろうとも、不死鳥のごとく蘇るのです! 愛音たちにできるのは、ただユーリ様を信じて待つことだけなのです! 猪狩センパイもそんなしょんぼりした顔をしていないで、ユーリ様のお帰りを待つのです!」


「ええ、わかってます。……後輩の邑崎さんにまで心配をかけちゃって、どうもすみません」


「まったくなのです! そもそも猪狩センパイは、ユーリ様への信心が足りていないのです!」


 きっと愛音は強気に振る舞うことで、内心の不安をねじ伏せているのだろう。それは瓜子が見習うべき、彼女の強さであった。


「それにしても、メディアの連中はあったまきちゃうよねー! これまでさんざん持ち上げてたくせに、いきなり手の平かえしちゃってさー! 文句を言いたいなら、沖縄娘に言えっての!」


 出稽古に来ていた灰原選手がそのように言いたてると、多賀崎選手が「やめろよ、馬鹿」と頭を小突いた。


「猪狩はネットニュースなんかチェックする習慣はないんだから、余計な情報を耳に入れるんじゃないよ。……猪狩も、気にしないようにね」


「押忍。そういう話は嫌でも耳に入ってきちゃうんで、気にしないでください」


 瓜子としては、そのように答えるしかなかった。

 確かに瓜子はネットニュースなど一切触れてもいなかったが、それでも不穏な情報はあちこちに飛び交っているのである。それを耳にしたくないならば、すべての人間と連絡を絶ってマンションに引きこもるしかないのだろうと思われた。


 世間には、心ない言葉が吹き荒れている。やはり日本の女子選手は世界に通用しないだの、ついにユーリのメッキが剥がれただの、ユーリや宇留間選手に決勝進出を許してしまった他の選手が不甲斐ないだの――ここぞとばかりに、否定的な意見が出回っていたのである。


 その反面、ユーリに寄せられる同情の声も少なくはなかった。ルール上はユーリの勝利であるはずなのに無効試合なのはおかしいだの、宇留間選手が無茶苦茶な試合をするためにユーリが巻き添えになってしまっただの、レフェリーがきちんと管理していればあんな事故は起きなかったはずだの――そういった意見も、確かに存在したのだ。


 しかしどちらにせよ、瓜子はそれらの言葉に重きを置いていなかった。

 瓜子の願いはただひとつ、ユーリが無事な姿で戻ってくることであったのだ。


 その願いさえかなうならば、あとのことなどどうでもかまわない。ユーリはこれまでどんな逆境に立たされようとも、その無尽蔵の情念と生命力で打開してきたのだ。ユーリがしっかり回復して、再び選手として試合を行えるようになれば、いわれのない誹謗中傷など木っ端微塵にできるはずであった。


 ただしそんな中、一件だけ看過できないニュースが飛び込んできた。

 それを瓜子に知らせてくれたのは、やはり灰原選手である。


「ちょっとちょっと、これ見てよー! あの沖縄娘、MMAを引退するんだってよー!」


 瓜子は息を呑みながら、灰原選手の掲げる携帯端末の画面に目を奪われることになった。そちらはネットニュースのサイトであり、『お騒がせファイター宇留間千花、引退を表明』という記事タイトルがつけられていたのだ。


『ユーリさんとの試合で、わたしは格闘技の怖さを思い知らされました。わたしはこれまでまともに技をくらったこともなかったので、格闘技が危険な競技だということもきちんと理解できていなかったんだと思います。わたしはもうこんな痛い目にはあいたくないので、右腕の怪我が治ったらスタントマンでも目指そうかと思います』


 そちらの記事には、そのように書かれていた。

 彼女もまたユーリの腕ひしぎ三角固めによって、右上腕骨の螺旋骨折と肘靭帯の断裂という重傷を負っていたのである。


「だったら最初っから、『アクセル・ロード』に参戦すんなよって話だよねー! そうしたら、マコっちゃんとピンク頭で決勝進出して、ハッピーな結末だったのかもしれないのにさー!」


「あたしは青田に負けたんだから、関係ないだろ。でも、前半の部分は賛成するよ。宇留間さえいなかったら、きっと青田が決勝進出してたんじゃないかな」


 多賀崎選手も仏頂面で、そのように言いたてていた。

 瓜子は、考えがまとまらない。ユーリに手ひどいダメージを与えた宇留間選手がさっさと引退してしまうというのは、腹が立つようなやりきれないような――とりあえず、それを喜ぶ気持ちにはなれなかった。


「でもやっぱり、無効試合ってのはおかしいよねー! けっきょくピンク頭はレフェリーストップをかけられる前に、沖縄娘をぶっ倒してたんだからさ! アレって、十万ドルの賞金が惜しかったんじゃないのー?」


「それよりも問題は、むしろ正式契約のほうだったんじゃないのかな。あれで桃園の勝ちにしたら、桃園と正式契約しなきゃいけないわけだからね」


「どーして契約を渋るのさ! ピンク頭が勝ったんなら、当然の権利じゃん!」


「でも桃園も宇留間のせいで、自分の試合をできなかったろ。あの試合内容じゃ、《アクセル・ファイト》に相応しくないって思われても――」


 そこまで言いかけてから、多賀崎選手は慌てて瓜子に頭を下げてきた。


「ごめん。こんな話だって、聞きたくないよな。あたしもつい灰原につられて、熱くなっちまったよ」


「いえ、気にしないでください。多賀崎選手は当事者なんだから、熱くなるのが当然っすよ」


 すると今度は灰原選手が眉を下げながら、瓜子に身を寄せてきた。


「それよりあたしは、うり坊が心配だよー! いっそわんわん泣いちゃったほうが、スッキリするんじゃない?」


「でも、自分が泣いたってユーリさんの回復が早まるわけじゃないっすからね」


「そうやって変に落ち着いてるのが、心配なんだよー! うり坊は、猪突猛進が身上でしょー?」


「それは周りの方々に言われてるだけで、自分から身上にした覚えはないっすよ」


 そんな風に答えるときは、瓜子も自然に笑うことができた。

 しかし、自分がどのような顔で笑っているのかは、まったく想像がつかない。無理に笑っているような顔であるのか、泣き笑いのような顔であるのか、あるいはユーリのようによそゆきの笑顔であるのか――何にせよ、本来の笑顔とはどこか違っているのだろうと思われた。


 言われるまでもなく、瓜子は懸命に自分を律している。

 気分としては、ずっと綱渡りをしているようなものである。ちょっとでもバランスを崩したら、たちまち負の感情にとらわれて身動きが取れなくなってしまうのではないか――瓜子はそんな心地で、《アクセル・ファイト》からの数日間を過ごしていたのだった。


 しかし、もっとも苦しい状態であるのは、ユーリであるのだ。

 立松や愛音に示唆されるまでもなく、瓜子の役割はユーリを信じて、ユーリを支えることである。そんなユーリを差し置いて、瓜子のほうが身を持ち崩してしまうなど、そんな情けない話は我慢がならなかった。瓜子は死力を尽くして正気と健康を保ち、ユーリの帰還に備えなければならなかったのだった。


 そうして十二月に入って数日が過ぎ、《アクセル・ファイト》の放映から一週間が突破した頃――メイとともに朝から稽古に励んでいた瓜子は、半開きであった事務室のドアから立松のがなり声を聞くことになった。


「おいおい、ずいぶんな言い草だな! そんなやり口じゃあ、うちの大事な選手を預ける気になれねえぞ!」


 ちょうどインターバル中であった瓜子は、ドリンクボトルにのばしかけていた手を硬直させることになった。

 やがて立松が事務室から出てきたならば、足をもつらせながら駆け寄ってしまう。


「ど、どうしたんすか、立松コーチ? まさか……ユーリさんの身に、何かあったんすか?」


 立松は、心から不思議そうに「あん?」と眉をひそめた。


「いや、会長からは何の連絡もないが……いきなり血相を変えて、どうしたんだよ?」


「だ、だって今、電話の様子がおかしかったですから……うちの大事な選手って、ユーリさんのことじゃないんすか?」


「なんでそうなるんだよ」と、立松は困り顔になりながら苦笑した。


「うちの選手はみんな大事だし、お前さんだってそのひとりだよ。……今の電話の相手は、《JUFリターンズ》のブッキングマネージャーだ」


「《JUFリターンズ》? それじゃあ……」


「お前さんの対戦相手だった選手が、練習中に怪我をしたんだとよ。で、代理の選手を見つけるのにどれぐらいかかるかわからねえから、とりあえず待機しとけっていうふざけた言い草だったんだ」


「なんだ、そんな話だったんすか……」


 瓜子が思わず安堵の息をつくと、立松はたちまち眉を吊り上げた。


「そんな話ってのは、聞き捨てならねえな。桃園さんが心配なのはわかるが、手前の試合に集中できないなら出場は辞退しろ。そんな腑抜けに、道場の看板は預けられねえからな」


 瓜子は後悔の念にどっぷりとまみれながら、「すみません」と頭を下げることになった。


「ユーリさんを理由に、自分の試合をあきらめたりはしたくありません。反省しますから、どうか許してください」


「……本当に、きっちり集中できるんだな?」


「押忍。死ぬ気でやりきってみせます」


「そうか」と、立松は表情をやわらげた。


「しかし、対戦相手が不明なままじゃ、せっかくの気合もぶつけようがねえよな。もう大晦日まで四週間を切ってるってのに、頼りねえことだぜ」


「押忍。何だか今年は、こういう話が多いみたいっすね」


「ああ。アトミックでも、後藤田さんとのタイトルマッチが二回連続で流れちまったもんな。しかし相手が《JUFリターンズ》だと、どこの国からどんな選手を引っ張り出してくるかも予測できねえし……アトミック以上に、厄介だよ」


 立松はそのように嘆いていたが、瓜子はそれほど気にしていなかった。決して試合を軽んじているわけではなく、誰が相手でも死力を尽くすだけだと開きなおっているのだ。


(……ユーリさんたちだって、情報の少ないシンガポールの選手を相手にあれだけ頑張ってみせたんだもんな)


 そんな風に考えると、胸の奥が引きつるように痛む。

 ユーリと離ればなれになってから、ついに三ヶ月が突破してしまったのだ。しかもユーリは頭蓋骨の骨折という深手を負って緊急入院することになり――これでもう、一週間も過ぎ去っていたのだった。


(でも、容態は急変してないっていうし、一週間は絶対安静って話だったんだから……きっと今日や明日ぐらいには、何らかの連絡が入るはずだ)


 瓜子はそのように考えて、胸中に渦巻く不安と焦燥の思いをねじ伏せるしかなかった。

 しかしこの日もその翌日も、ユーリに関する連絡はいっさい入ってこなかったのだった。

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