06 結末

『大変な結末になりました! 場内も騒然としています! ユーリ選手は、果たして無事なのでしょうか!』


 遠いところで、誰かがそんな風にわめきたてていた。

 瓜子が呆然とその声を聞いていると――いきなり右の頬に、熱い感触が弾け散った。


「呆けてんなよ。目を開けたまま寝てんのか?」


 瓜子の白くかすんでいた視界に、サキの凛々しい顔が浮かびあがった。

 瓜子はまだ自失したまま、視線を巡らせる。すると、サキ以外の面々も瓜子を取り囲んでいた。


「ユ……ユーリさんは……」


「今、担架に移されてるところだよ。頭を固定されてるから、おそらく死んではいねーだろ」


「し、死ぬとか縁起の悪いこと言わないでよ!」


 灰原選手が泣きそうな顔で、サキの肩をぺしぺしと叩く。

 そんな二人の隙間から、テレビの画面が垣間見えた。血まみれのユーリが担架に乗せられているさなかである。


 リングドクターと思しき人物はユーリの額に白いタオルをあてがいながら、何か大声でがなりたてている。大勢のスタッフがその周囲に集まって、緊迫した眼差しを交わしていた。


 そんな中、ユーリは安らかにまぶたを閉ざしている。

 顔の血は綺麗にぬぐわれていたが、髪やタオルは真っ赤に染まってしまっている。そして、もともと白いユーリの顔が、ぞっとするほど青白くなってしまっていた。


 いっぽう宇留間選手はフェンスにもたれて座り込み、別のドクターに面倒を見られている。右腕を樹脂製の装具で固定された彼女は、赤ん坊のように泣きじゃくってしまっていた。


「ユーリさん……」と、瓜子は半ば無意識に立ち上がろうとする。

 すると、メイが横合いから瓜子の身を抱きすくめてきた。


「今は、動かないほうがいい。落ち着くまで、座っているべき」


「でも……ユーリさんが……」


「おめーがあたふたしたって、どーにもならねーだろ。これはラスベガスの映像なんだからよ」


 サキの左手が、瓜子の肩をぐっと押さえつけてきた。


「とにかく、落ち着け。きちんと呼吸しろ。おめーまでぶっ倒れたら、こっちは手が回らねーよ」


 瓜子は自分がどのような姿をさらしているのかも、まったく自覚できていなかった。

 瓜子の脳裏に浮かぶのは、鮮血にまみれたユーリの姿ばかりである。そして、安らかな寝顔と虚ろな無表情がフラッシュバックのように明滅して、悪酔いしてしまいそうであった。


『……あ、運営陣の裁定です! ただいまの試合は、両者試合続行不可能で、無効試合という裁定が下されました! 深見さん、これはどういう判断なのでしょう?』


『おそらくレフェリーは、宇留間選手がエルボーを出したところでストップをかけようとしていたのでしょうね。ユーリ選手はそのレフェリーの手を蹴りつけてから、腕ひしぎ三角固めで反撃したのです。自分からレフェリーに触れるのは反則行為となりますので、そこのあたりが加味されたのではないでしょうか?』


『なるほど! ですが、ユーリ選手がレフェリーに触れてしまったのは不可抗力でしょうし、それを反則行為と見なしたのならユーリ選手の反則負けになるのでは?』


『仰る通り、ユーリ選手の行為は不可抗力と見なされたのでしょう。しかし、その時点で試合がレフェリーの管理下から外れたことに違いはありません。そうして試合続行は不可能と見なされたはずのユーリ選手が反撃して、宇留間選手に甚大なダメージを与えました。そしてこちらもレフェリーがストップをかけるより早く、技が解除されてしまったので……何もかもがレフェリーの管理外で行われた結果として、無効試合の裁定が下されたのではないでしょうかね』


 そんな話は、どうでもよかった。

 瓜子の目は、テレビ画面に吸いつけられている。担架に乗せられたユーリは大勢の人間に取り囲まれながら、ケージを出て花道を戻っていった。


「あのセコンドの人たちは、プレスマンの関係者なんでしょ? だったら、あのお人らに連絡すればいいんじゃない?」


「そんなことより、まずは病院の診察だろ。病院への搬送が片付くまで、あっちだって大騒ぎだろーよ」


「で、でも、心配ッスよね。あんなに血が出たら、やばくないッスか?」


「だから、不吉なこと言うなってばー! ピンク頭なら、絶対に大丈夫だよ! けろっとした顔で日本に帰ってくるってば!」


 そんな言葉の数々が、瓜子の麻痺した心を悪い意味で刺激した。


「じ……自分はやっぱり、様子を見てきます。道場に行けば、そっちに連絡が……」


「今日は日曜日で、道場も空っぽだよ。そんなことも忘れるぐらい取り乱してるから、じっとしとけって言ってんだ」


 サキの顔が、再び瓜子の視界をふさいできた。

 瓜子の肩をつかんだサキの手が、ぐっと力を込めてくる。


「そもそもアタシらは、篠江のジジイの連絡先も知らねーだろうがよ。あっちで何かはっきりしたら、立松っつぁんや鰐のほうに連絡がいく。アタシらは、黙ってそれを待つしかねーんだよ」


「で、でも……」


「でもじゃねーよ。そもそもおめーは、パスポートも持ってねーだろうがよ? たとえそんなもんを持ってたとしても、ラスベガスまでは飛行機で半日だ。今のおめーが、半日も大人しく座ってられんのか? とにかく、ここで連絡を待て。話は、それからだ」


 まったく心の定まっていない瓜子は、何が正しいのかもわからないまま「はい……」とうなだれるしかなかった。

 そして自分が痛いぐらいに左手首を握りしめていることに、ようやく気づく。その下には、ピンク色のリストバンドが隠されていた。


「……猪狩は、ちょっと休んでなよ。その間、番組のほうはこっちでチェックしておく。もしかしたら、そっちでも何か情報が出るかもしれないからね」


 多賀崎選手は、そんな風に言っていた。

 そちらにも、瓜子は「はい……」と虚ろな言葉を返すことしかできなかった。


                 ◇


 立松からサキのもとに連絡が入ったのは、それから二十分ほどが経過したのちのことである。

 ただし、その内容も経過報告の域を出なかった。


『桃園さんは、近所の病院に搬送されたらしい。診察が終わったら連絡をもらえるそうだから、お前らもちょっと待っておけ』


 スピーカーから聞こえてくる立松の声は、はっきりと緊迫していた。

 その間に、テレビ画面では卯月選手とジョアン選手の試合が始められようとしている。ユーリのこぼした鮮血を清掃するのにずいぶんな時間が取られていたが、その後に行われたベリーニャ選手とパット・アップルビー選手の試合は一ラウンド目で決着がついたのだ。その結果は、三分三十五秒でチョークスリーパーにより、ベリーニャ選手の一本勝ちであった。


『ユーリ・モモゾノの容態が心配です。ですが彼女は、きっと元気な姿で戻ってくることでしょう。彼女とこの《アクセル・ファイト》の舞台で試合をする日が待ち遠しいです』


 勝利者インタビューにおいて、ベリーニャ選手はそのように語っていた。こちらの映像は生放送であったが、日本のスタジオの女性アナウンサーが同時通訳してくれたのだ。それで瓜子は、初めて涙をこぼすことになったのだった。


 その後も、刻々と時間は過ぎていき――壁にもたれて膝を抱え込んだ瓜子は、視界の端で卯月選手とジョアン選手の試合模様を眺めていた。瓜子はまだその内容を把握する機能が戻っていなかったが、卯月選手は大怪獣タイムを使わないままジョアン選手を相手取っているようであった。


 しかしその結果は時間切れで、ジョアン選手の判定勝利である。瓜子の目には互角に見えたが、ジャッジの裁定は全員が48対47のユナニマス・デシジョンであった。


『卯月選手も健闘しましたが、惜しくもジョアン選手の牙城には届きませんでした! ……ですが、卯月選手は最後まで大怪獣タイムを発動させませんでしたね!』


『はい。ジョアン選手が出す隙を与えなかったのか、あるいは卯月くんの作戦だったのか……とにかく、再戦を楽しみにしたいですね。ジョアン選手が判定勝負まで持ち込まれたのは数年ぶりのことなのですから、卯月くんがこの階級で戦っていけることは証明できたでしょう』


 そんな言葉も、瓜子の心には響かなかった。

 そうして番組が終了したのちも、なかなか連絡はなく――瓜子よりも先に、灰原選手が爆発することに相成った。


「どーして連絡がこないのさ! どんな怪我でも、診察にこんな時間がかかるなんてありえないっしょ!」


「あんたがキレてどうするんだよ。今は黙って待つしかないだろ」


 リビングには、みんなの抱えた不安の念がヴェールとなって垂れこめているかのようであった。

 サキもメイも蝉川日和も、灰原選手も多賀崎選手も、誰もがユーリの身を案じてくれているのだ。そしてその何割かは、ユーリだけでなく瓜子に向けられた思いであるのかもしれなかった。


 そして、灰原選手たちの携帯端末は何度もメッセージを受信していた。鞠山選手や小柴選手やオリビア選手などが、心配して様子をうかがっているのだ。ただ、瓜子の携帯端末だけは一度として着信やメールの受信をすることもなかった。


「どうせおめーはパニっくてるだろうからって、どいつもこいつも遠慮してるんだろ。感謝しとけよ、タコスケ」


 と、瓜子の隣にどかりと座り込んだサキが、そのように言いたてた。


「ちなみにアタシのとこには、赤星の連中から連絡が入ってたぞ。大怪獣女も、おめーを心配してアタフタしてるとよ。この騒ぎが一段落したら、連絡を入れてやれや」


「……はい。ありがとうございます」


 赤星弥生子の姿を思い浮かべると、瓜子はまた涙をこぼしてしまいそうだった。

 彼女もまた、どれだけユーリの身を案じてくれていることだろう。いま彼女の優しい言葉などを聞かされたら、瓜子は子供のように泣いてしまいそうだった。


 そうしてついに、立松から二度目の連絡が入ったのは――《アクセル・ファイト》の番組が終了してから、たっぷり一時間ほどが過ぎたのちのことであった。


『連絡が遅れちまって、申し訳なかったな。向こうもバタバタしてて、俺もたったいま連絡をもらったところなんだ』


「そんな挨拶はいいから、とっとと結果を聞かせてくれや」


『ああ。桃園さんは、緊急手術を受けることになったんだ。頭蓋骨の陥没骨折で、脳挫傷や髄膜炎の恐れがあったんだとよ』


 そんな風に言ってから、立松は慌ててつけ加えた。


『その手術が成功したっていう連絡だったんだよ。幸いなことに、脳のほうに問題はなかった。もちろんしばらくは入院して、経過観察する必要があるんだろうが……何か容態が急変しない限り、危険なことはないだろうって見込みだから、猪狩にもそう伝えておいてくれ』


「伝えるも何も、リアルタイムで聞き耳を立ててやがるよ。大丈夫だったんなら、最初にそれを言ってほしかったもんだぜ」


 サキは深々と息をつきながら、瓜子の頭をかき回してきた。


「だとよ。おめーもそろそろ、現世に戻ってこいや」


「ユーリさんは……大丈夫だったんすね?」


 瓜子がぼんやり問い返すと、立松が『ああ』と力強く応じてくれた。


『普通だったら脳にまでダメージがいって、選手としての復帰なんかも絶望的だったらしいが……奇跡的に、脳は無傷だったんだとよ。桃園さんは、脳まで筋肉でできてるのかもしれねえな』


「笑えねー冗談だぜ。あの乳牛だったら、ありえねー話じゃねーだろ」


『まったくだな。……とにかく、桃園さんは大丈夫だ。少しばかり帰国するのは遅れちまうだろうが、そんなもんはご愛敬だろ。ただ、数ヶ月もリハビリに励むのはしんどいだろうから、お前さんがしっかり支えてやれ』


「だとよ」と繰り返しながら、サキが瓜子の頭を小突いてきた。

 それに押し出されるようにして、瓜子は涙をこぼしてしまう。これまで行き場を見失っていた激情が、一気に噴出したような心地であった。


「よかったねー! だから、大丈夫だって言ったじゃん!」


「なに言ってんだよ。あんたのほうこそ、オロオロしてたくせにさ」


「でも、本当によかったッスよー。あたしだって、最悪の状況を想像しちゃってましたもん」


「……ユーリ、強いから、すぐに復帰する」


 そんな人々の温かい言葉が、瓜子にいっそうの涙を流させた。

 しかしもちろん、これでハッピーエンドと言えるわけがない。瓜子はユーリの容態が回復するまで、大きな不安と焦燥を抱えながら日々を過ごすことになってしまったのだった。

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