05 終焉

 レフェリーが『ファイト!』と呼びかけると、宇留間選手はこれまで通りの勢いで突進した。

 それを迎え撃つユーリは、腹が痛いのか前屈みで、左腕をだらりと垂らしており、左足に体重をかけないようにしている。そしてその顔はこれまで瓜子が見たこともないような無表情で、瞳は暗く陰っていた。


 宇留間選手は跳躍して、正面に蹴り足を振り上げる。

 いっぽうユーリは宇留間選手が跳躍すると同時に、横合いにぱたりと倒れ込んでいた。


 目標を失った宇留間選手はマットに着地して、その勢いのまま正面のフェンスまで駆け抜ける。

 すると、その間に半身を起こしたユーリは、座った体勢のまま宇留間選手のほうににじり寄ろうとした。


 フェンスまで到達した宇留間選手は背後を振り返り、ぎょっとした様子でユーリから遠ざかる。するとレフェリーが、ユーリに向かって『スタンド!』と命じた。

 ユーリはマットに右手をつき、右足の力だけで立ち上がる。

 その顔は――やっぱり虚ろな無表情のままだ。その目も、黒い穴のように光を失ったままであった。


「ピ、ピンク頭のやつは、どうしちゃったの? なんか、顔つきがおかしいじゃん!」


「ああ。もしかして、こいつは……宇留間のやり口に、キレちまったんじゃないの? 秋代のやつとやりあったときにも、ちょっとこんな感じだったよね」


 多賀崎選手はそのように語っていたが、瓜子は(……違う!)と内心で叫ぶことになった。

 確かに秋代拓海との試合でも、ユーリは常ならぬ姿を見せていた。ベリーニャ選手が悪質な反則行為で病院送りになってしまい、ユーリは大きく心を乱してしまったのだ。それでユーリは普段の無邪気さも格闘技に対する情愛も忘れてしまったかのように、力ない様子で試合に臨むことになったのだった。


 しかし、今のユーリの様子はその時とも大きく異なっている。

 今のユーリは、弱々しいのではなく――負の情念をみなぎらせているのだ。

 怒りや憎しみのように、熱をともなった情念ではない。もっと虚ろで、ぞっとするほど静謐な――死霊の怨念じみた情念であった。


 瓜子はかつて、こんな眼差しをした人間を一度だけ見たことがある。

 それは、テレビの収録スタジオでユーリを襲撃したときの、秋代拓海その人であった。ユーリの華麗な右ミドルで撃退されて、警備スタッフに取り押さえられた際、彼女はこういう深淵の闇めいた眼差しになっていたのだった。


(……どうしてですか、ユーリさん? たとえどんなに劣勢だって……ユーリさんがそんな目をする理由はないでしょう?)


 瓜子はほとんどテレビ画面に取りすがりたいほど心を乱してしまっていた。

 そんな中、試合は粛々と進行される。宇留間選手はレフェリーによってケージの中央に招かれていたが、試合再開を告げられるなりまた後方に逃げ出した。


 すると――ユーリも左足を引きずるようにして、追いすがる。

 相手の反撃など意に介していないような、危うい追従である。あっという間にフェンス際まで到達した宇留間選手はその勢いのまま跳躍し、フェンスを蹴りつけて、三角蹴りをお見舞いした。


 ユーリはすとんとしゃがみこんで、その蹴りを回避する。

 頭頂部を蹴り足がかすめるような、危ういタイミングだ。あと一秒の半分でも遅ければ、顔面のど真ん中を蹴り抜かれていたはずであった。


 宇留間選手は、何事もなかったかのように着地する。

 するとユーリは右足一本でばね仕掛けの人形のように跳ね起きて、宇留間選手のほうに向きなおり、その背中に跳びかかった。


 宇留間選手はすでに駆け足のモーションであったため、ユーリののばした右手の指先は空を切る。

 するとユーリもまた、その勢いのままに宇留間選手を追いかけた。

 左足をかばっているために、俊足の宇留間選手に追いつくことはできない。

 しかし、宇留間選手が正面のフェンスに到着した頃、間合いはすでに二メートルぐらいにまで詰まっていた。


 背後を振り返った宇留間選手はぎょっとした様子で、別の方向に逃げ去ろうとする。

 ユーリは鉤爪のように曲げた指先で宇留間選手を捕らえようとしたが、それも紙一重で届かなかった。


 するとユーリは、またがむしゃらな追走だ。

 しかも今回は左足をかばうのもやめて、これまで以上の勢いであった。

 ステップを踏むのではなく、ただ駆け足で追いかける。まごうことなき、鬼ごっこである。客席からは、冷やかすような口笛とブーイングが錯綜していた。


 見かねたレフェリーが『タイム!』と宣告して、宇留間選手に再びの注意を与える。走って逃げるのがルールの範囲内だとしても、度が過ぎていると判断したのだろう。

 さらにはユーリも招かれて、宇留間選手とともに何事か申しつけられる。瓜子にはまったく聞き取れなかったが、日本のスタジオのライターが説明してくれた。


『ルールを順守して、クリーンなファイトを心がけるようにと注意を受けていますね。まあ、ユーリ選手も宇留間選手も決して反則を犯しているわけではないのですが……あまりにも、MMAの規範から外れているためでしょう』


『なるほど。ですがMMAというのは本来、ブラジルの「バーリ・トゥード」が基盤になっているはずですよね。「バーリ・トゥード」というのは、ポルトガル語で「なんでもあり」という意味でしょう?』


『はい。ですが現代MMAは、あくまで「バーリ・トゥード」を基盤にして進化を遂げた、新たな競技です。これが「バーリ・トゥード」の試合であれば注意を受けることもないでしょうが、MMAの試合としては不適切ということでしょうね』


 ライターがそのように語る中、試合が再開された。

 宇留間選手は注意勧告など知らぬげに、また全力で後退する。

 ユーリもまた、なりふりかまわず追いかけた。


 すると――宇留間選手はフェンス際まで到達する前に立ち止まり、その場で旋回した。一ラウンド目でも見せた、豪快なバックスピンハイキックである。

 ユーリはかろうじて、右腕でそれをブロックする。しかしやっぱり勢いに押されて、今度は倒れ込んでしまった。きっと左足にダメージを負っているため、踏ん張りがきかなかったのだ。


 宇留間選手は嬉々として距離を取り、助走をつけて突進する。

 いっぽうユーリは半身だけ起こして、逃げようという素振りも見せなかった。


 宇留間選手はユーリを踏み潰すべく、跳躍する。

 すると同じタイミングで、ユーリがむくりと立ち上がった。

 まだ空中にいた宇留間選手とユーリが、激突する。

 同時に倒れ込んだ二人は、同時に立ち上がり――そしてユーリが、宇留間選手につかみかかった。

 ユーリの両腕が、宇留間選手の両脇に差される。あとは手をクラッチして足でも掛ければ、テイクダウンを取れるはずだ。


 しかし宇留間選手が猛然たる勢いで身をよじると、ユーリは呆気なく吹き飛ばされてしまった。

 ウェイトの落ちているユーリは本来のパワーを失ってしまっているのか、あるいは宇留間選手の怪力が規格外であるのか――大人と子供のような力量差である。


 ユーリは力なく身を起こし、宇留間選手はその間に距離を取っている。

 そしてユーリが体勢を整えるより早く、宇留間選手がまた突進した。

 六メートルほどの助走をつけた宇留間選手は跳躍して、鋭角に曲げた右膝を突き出す。破城槌のごとき、飛び膝蹴りである。


 ユーリは――かわそうとしなかった。

 その胸もとに、真正面から宇留間選手の膝蹴りが突き刺さる。

 ついに、宇留間選手の大技をまともにくらってしまったのだ。


 車に轢かれたような勢いで、ユーリは後方に吹っ飛んでいく。

 そうして、背中からフェンスに叩きつけられた。

 そんなユーリの鼻先に、宇留間選手がすとんと着地する。

 すると――ユーリがフェンスに叩きつけられた反動を利用して、宇留間選手につかみかかった。


 宇留間選手の両脇に腕を差し込んで、今度こそがっちりとクラッチを組む。

 そして、宇留間選手の右足を内側から掛けようとした。

 右足を掛けられた宇留間選手は、左足一本でたたらを踏む。

 そして――そのように密着した状態で、宇留間選手は右拳を振りかざした。


 ユーリのこめかみに、宇留間選手の右拳が叩き込まれる。

 ユーリはハンマーの一撃でもくらったような勢いで、マットに倒れ込んだ。

 しかし、クラッチは解除していない。宇留間選手もろとも倒れ込んだのだ。


 宇留間選手は、何事もなかったかのように立ち上がろうとする。

 しかしユーリは両腕をクラッチするばかりでなく、両足で宇留間選手の腰をはさみこんだ。

 それでもなお、宇留間選手は力ずくで立ち上がる。

 電柱のような宇留間選手の胴体に、ユーリが正面からへばりついている格好だ。客席には、驚嘆のざわめきや笑い声が吹き荒れていた。


 宇留間選手は困り顔で頭をかいてから、正面のフェンスに突進した。

 人間ひとりを抱えているというのに、恐るべき俊足である。そして宇留間選手はその勢いのままに、ユーリの背中をフェンスに叩きつけたのだった。


 しかしユーリは、宇留間選手に抱きついたまま離れない。両足を四の字クラッチにして、完全に宇留間選手の身を拘束しているのだ。


 宇留間選手はひとつ肩をすくめてからケージの中央に向きなおり、再び突進した。

 しかし今度はフェンスに到達する前に跳躍し、ユーリの身をマットでプレスする。

 その勢いで、腕のクラッチだけは解除された。

 上半身の自由を得た宇留間選手は、「よっこらしょ」とばかりに身を起こそうとする。が、ユーリの両足は腰にからみついたままだ。


 宇留間選手は溜息をついてから、ユーリの足に手をかけた。

 しかし、四の字クラッチにした足はそう簡単に振りほどけるものではない。とりわけユーリは足が長いため、クラッチも深いのだ。


 宇留間選手はもういっぺん溜息をつくと、面倒くさそうにユーリの顔面を殴りつけた。

 ユーリは力なく、両腕で頭部をガードする。すると宇留間選手は、左右の拳でパウンドを乱打した。


 その一撃ごとに、ユーリの腕が軋み、へし折れそうな勢いである。

 そして時にはガードをすりぬけた拳が、ユーリの顔面に叩きつけられた。


 レフェリーは表情を引き締めつつ、両名のかたわらに片膝をつく。

 このまま殴り続けられれば、レフェリーストップとなる展開である。


 第二ラウンドの残り時間は、すでに一分を切っている。

 しかし、まったく無抵抗のままパウンドをくらい続ければ、十秒もかからずにストップされるはずであった。


 宇留間選手は、無茶苦茶なフォームで拳を振るい続けている。

 きっとパウンドの稽古もしていないのだろう。しかし、長いリーチと卓越したフィジカルだけで、それは恐るべき破壊力を発揮していた。


 それでもユーリは、動かない。ただ両足のクラッチを保持するばかりである。きっとそのクラッチを解除すれば、宇留間選手は身を起こして遠ざかっていくはずであるのに――ユーリは頑なに、四の字クラッチを死守していた。


 宇留間選手はいったん息をついてから、おもいきり振りかぶった左拳をユーリの腕に叩きつける。

 その一撃で、両腕のガードが弱々しく開かれると――宇留間選手は、フルスイングで右肘を振り下ろした。


 まるでギロチンの刃めいた右肘が、ユーリの額に叩きつけられる。

 それと同時に、信じ難いほどの鮮血が飛散した。


 ユーリの足が力を失い、ぱたりとマットに投げ出される。

 それでレフェリーが、宇留間選手の肩に手を置こうとした。


 その瞬間――ユーリの両足が、爆発的な勢いでのびあがった。

 宇留間選手の肩に触れかけていたレフェリーの手が、その足先によって弾き返される。


 ユーリの両手は、たったいま自分の額を打ち砕いた宇留間選手の右腕を抱え込んでいた。

 その右腕と首を、ユーリの両足がからめ取った。

 そうして三角締めの形が完成されると同時に、ユーリは宇留間選手の右腕をひねりあげた。

 三角締めの応用技、腕ひしぎ三角固めである。


 宇留間選手の右腕が、あらぬ方向にねじ曲がる。

 骨がへし折れ、靭帯の引き千切れる音が、画面ごしに聞こえてくるかのようであった。

 しかし実際に聞こえているのは、宇留間選手の絶叫だ。


 宇留間選手やレフェリーがタップするより早く、ユーリは腕ひしぎ三角固めを解除した。

 宇留間選手は本来と反対の方向に折れ曲がった右腕を抱えて、のたうち回り――そしてマットに手足を投げ出したユーリは、ぴくりとも動かなかった。


 その間に、ユーリの額から噴き出る鮮血がマットを染めていく。

 それはまるで、広大なるケージのマットをすべて染めあげようかという勢いであり――そうして血の海に沈んだユーリは、驚くほど安らかな表情でまぶたを閉ざしていたのだった。

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