04 蹂躙

『いっさい接触しないまま、二分もの時間が過ぎてしまいました。事前の予想通り、MMAの常識におさまらない展開となってしまいましたね』


 アナウンサーがそのようにコメントすると、深見氏が『はい』と応じた。


『宇留間選手が常識外れなファイトスタイルなので、こればかりはどうしようもないでしょう。ユーリ選手は、何とか反撃の糸口をつかみたいところですね』


 きっと試合を観ている人間の数多くが、深見氏と同じ思いであることだろう。

 そんな人々の感慨も知らぬげに、宇留間選手がまた突進した。


 四メートルほどの距離を一瞬で走り抜けて、跳躍する。今回披露されたのは、バックスピンキック――もしくは、ローリングソバットである。

 しかし、宇留間選手が跳躍すると同時に、ユーリはまた横合いにダイブして逃げている。目の悪いユーリは青田ナナやマリア選手のようにぎりぎりまで引きつけてカウンターを狙うことも難しいため、どうしても大きなアクションで逃げまどうことになってしまうのだ。


  そうしてユーリが身を起こす頃には、宇留間選手も遠くに逃げてしまっている。

 これでは、堂々巡りであった。


「うーん。おんなじことの繰り返しッスねー。これで時間切れになったら、どういう判定結果になるんスかねー」


「ちょっと、セミー! こわいこと言わないでよー! こんな注目されてる試合でそんな結果になったら、それこそ日本の恥でしょー!」


「でも、ありえない話じゃないよね。桃園も宇留間も普通だったら途中でバテそうなオーバーアクションだけど……こいつらは、ふたりそろってスタミナの化け物だからさ」


 多賀崎選手の言う通り、ユーリも宇留間選手もこれだけバタバタと動き回りながら、スタミナを消耗している気配はない。もちろん一度として接触していないのだから、おたがいノーダメージであるし――ユーリがその無尽蔵なスタミナでもって逃げ続けたら、このまま時間切れになることもありえなくはなかったのだった。


「だけどそれじゃあ百パーセント、乳牛の判定負けになっちまうだろーな。沖縄女はどんなに馬鹿げたアクションでも、とにかく攻撃し続けてるんだからよ」


「うん。ユーリ、試合を動かさないといけない。……普段と、逆のパターン」


「ああ。普段はまともじゃねー動きで対戦相手を悩ませてる乳牛が、頭を悩ませる番ってこったなー。さすがに今回ばかりは、非常識の度合いで負けちまってるってこった」


 すると、蝉川日和が「あ、だけど」と声をあげた。


「あの赤星弥生子さんってお人との対戦では、ユーリさんがあれこれ試合を動かしてたッスよねー。あれって、赤星さんのほうが非常識なファイトスタイルだってことじゃないッスっか? ……痛い痛い! なんで蹴るんスか!」


「クソ新人の分際で、目のつけどころがいいじゃねーか。確かにこいつは、大怪獣との対戦以来の正念場ってこったなー」


 そんな会話が繰り広げられる中、画面では同じ光景が繰り返されている。宇留間選手が突撃し、ユーリが大きなアクションで逃げるという、その繰り返しだ。

 最初は宇留間選手の突拍子もない動きに歓声や笑い声をあげていた客席の人々も、次第に冷やかすような口笛やブーイングめいた声をあげ始めている。試合時間は、すでに三分を越えてしまっているのだ。MMAの試合において、これほど長きにわたって両者が接触しないことなど、そうそうありえないはずであった。


 フェンスの向こう側では、篠江会長がしきりに声をあげているようである。

 果たして、その助言に従った結果であったのか――宇留間選手の跳び蹴りを回避したユーリが、身を起こすなり新たなアクションを見せた。遠い位置から、コンビネーションの乱発を繰り出したのだ。


 フェンス際まで逃げた宇留間選手は、遠い位置からきょとんとユーリの躍動を見守っている。

 ユーリは手足を振り回しながら、そちらにじりじりと近づいていった。コンビネーションの足を踏み出すアクションで、相手に接近しているのである。それは何だか、意思を持った竜巻が獲物を探し求めているかのような様相であった。


 ユーリは歩くよりも遅い前進であるので、宇留間選手はフェンスに沿ってぺたぺたと移動する。

 しかしユーリは攻撃の手を止めることなく、宇留間選手を追いかける。近づけるものなら近づいてみろと、宇留間選手を挑発しているかのようだ。


 すると――宇留間選手が突如として、駆け出した。ユーリを大きく迂回して、もっとも遠いフェンス面を目指したのだ。

 ユーリは技を振るいつつ、コンビネーションの継ぎ目で宇留間選手のほうに向きなおる。そうしてユーリが新たなコンビネーションを発動させるのと同時に、宇留間選手が突進した。


 しかしその突進は一歩で、宇留間選手はすぐさま身をひねる。

 宇留間選手は、ユーリに向かって側転をしたのだ。


 まさか、青田ナナと同じように、側転で勢いをつけたのちにバク宙をして、ユーリを頭上から踏み潰そうというのだろうか。

 だが、両者の間にそこまで大きな間合いは存在しない。そうであるにも拘わらず、宇留間選手は側転で二回転して――そのままユーリと激突することに相成った。


 灰原選手が、「わーっ!」と悲鳴まじりの声をあげる。

 それはまるで、交通事故のようにショッキングな光景であったのだ。

 瓜子もまた、悪夢を見ているような心地であった。


 そんな中、二人はもつれ合うように倒れ込み――そしてユーリが、すかさず宇留間選手にのしかかろうとした。

 しかし、仰向けで倒れ込んだ宇留間選手は、長い右足でユーリの胸もとを蹴りつける。その一撃でユーリは後方に吹っ飛び、宇留間選手も後方に転がってから、その勢いでひょこりと身を起こした。


 ユーリはしりもちをついた体勢で、痛そうに胸もとを押さえている。

 すると宇留間選手が、そちらに向かって突進した。

 瓜子は思わず息を呑んでしまったが――ユーリは頭を抱えつつ、足の力だけで横合いにダイブする。宇留間選手は跳躍したが、ユーリが間合いの外であったため、けっきょく何の攻撃も出さずに着地して、遠くのフェンス際まで逃げ去っていった。


 ユーリはいくぶんしんどそうな面持ちで、ゆっくりと身を起こす。

 そうしてユーリがファイティングポーズを取ったところで、第一ラウンド終了のホーンが鳴らされた。


「あー、びっくりした! あんな勢いでぶつかったら、普通はどっちも大ケガだよねー!」


「ああ。いくら何でも、無茶苦茶すぎる。桃園のやつは、本当に大丈夫なのかな」


 ユーリは息をつきながら、自陣のコーナーに戻っていく。

 その姿に、瓜子はぐっと奥歯を噛みしめることになった。ユーリが左足をかばっているような歩調であったのだ。


「完全に無傷とはいかなかったみてーだな。乳牛は三週間前の試合で、しこたま左足を痛めてたはずだしよ」


 ユーリが椅子に腰を下ろすと、篠江会長がすかさず左足に氷嚢をあてがった。

 そしてユーリが何か告げると、別の氷嚢が胸もとにもあてられる。苦しまぎれの蹴りをくらって、胸にもダメージを負ってしまったのだろうか。いっぽう宇留間選手のほうは、涼しい顔で咽喉を潤していた。


「……ダメージを負ったし、ポイントも失った。ま、この乳牛にしてみれば、毎度おなじみのパターンなんだろうが……今回ばかりは、勝手が違ってきやがるな」


「うん。ユーリ、どんなに苦境でも、爆発力で跳ね返す。でも、今回の相手……爆発力で、ユーリを上回ってる」


「逆に言えば、この沖縄女が乳牛に勝ってるのは爆発力だけなんだよなー。だけど、手前の一番の持ち味で負けちまうと……こいつは対処が難しいぞ」


 そんな風に言ってから、サキが瓜子の頭を小突いてきた。


「ただな、篠江のジジイはああ見えて戦略家だ。何せ、立松っつぁんやジョンを差し置いて会長の座を担ってやがるんだからよ。あの沖縄女を相手取るのが決勝戦だったことを、感謝するべきだろーぜ」


 瓜子は左手首ごとリストバンドを握りしめながら、「押忍」と答えてみせた。

 しかし、瓜子の内に生まれた不安は消えてくれない。瓜子を何より不安にさせていたのは、ユーリの表情であったのだ。


 ユーリは、とても不満げな顔をしていた。

 楽しそうな顔でもなく、苦しそうな顔でもなく、今にも口をとがらせそうな不満顔であったのだ。ユーリが試合中にこのような姿を見せるのは、これが初めてであるはずであった。


(MMAらしい試合展開にならないのが、不満なんすか? だったら何とか、ユーリさんの力で宇留間選手をMMAの土俵に引きずりこんでください!)


 瓜子がそのように祈る中、ホーンとは異なるブザーが鳴らされた。セコンドアウトの合図である。

 篠江会長は最後までユーリにアドバイスを送りながら、セコンドの用具一式を抱えて退陣した。そうして立ち上がったユーリは雑念を払うようにぷるぷると頭を振ってから、いつになく勇ましい面持ちで対角線上の宇留間選手のほうを見る。その瞳に強い光がきらめいていたため、瓜子はようやく安堵することができた。


 レフェリーが『ファイト!』と声をあげ、第二ラウンド開始のホーンが鳴らされる。

 宇留間選手は性懲りもなく、ロケットスタートだ。

 ユーリもまた、ケージに沿った全力疾走でそれを回避した。


 そして、宇留間選手がしかたなさそうにケージの中央で立ち止まると――今度はユーリが、宇留間選手に向かって突撃した。

 宇留間選手はどこか嬉しげにも見える表情を垣間見せてから、その場で旋回する。跳躍なしの、バックスピンハイキックである。


 青田ナナやマリア選手であれば、ダッキングなどでかわしていたところであろう。しかし目の悪いユーリは、左腕のブロックでその豪快な蹴りを受け止めた。

 それでユーリは、上体を泳がせることになってしまったが――ぐっと踏み止まって、宇留間選手につかみかかった。


 すると宇留間選手は、駄々をこねる幼子のように身を揺すって、腕を突っ張った。それだけで、ユーリは呆気なくマットに突き飛ばされてしまい――その弱々しい姿に、瓜子は思わず息を呑んでしまった。


「なんて馬鹿力だよ。こいつは乳牛より怪力だってのか?」


 サキがそんなつぶやきをもらす中、ユーリはめげずに起き上がる。すでに宇留間選手は後方に逃げていたので、ユーリは大股でそれを追いかけた。

 そして、間合いの外から右のミドルキックを放つ。さらにステップインして、二発のジャブとフックを振るった。


 宇留間選手は横を向き、全力疾走で距離を取ろうとする。

 すると、右フックを終えたユーリも駆け足でそれを追いかけた。

 宇留間選手が足を止めると、また遠い距離からミドルを放つ。宇留間選手がそれを嫌がって逃げ出すと、ユーリもまた駆け足で追従だ。


 ユーリは遠近感に難があるものの、これだけ距離を空けての追従であれば、問題はないのだろう。

 そうして宇留間選手がフェンスにまで到達して三角蹴りを見せた際には、横合いにダイブして回避することができた。


 宇留間選手はその隙にユーリから遠ざかろうとしたが、ユーリも身を起こすなり宇留間選手を追いかける。そして宇留間選手が体勢を整える前に、また遠い間合いから右ミドルを繰り出した。


 スタミナに自信のあるユーリならではの、執拗な追撃である。

 それで何とか、助走の距離だけは潰すことはできている。助走さえさせなければ、宇留間選手にはバックスピンキックや二段蹴りていどの技しかないのだ。そういった技で反撃されたならば身体の頑丈さで受け止めてやろうという気迫が、ユーリの満身からみなぎっていた。


「ふん。これでようやく、リズムをつかめるか?」


 サキがそのように言ったとき、宇留間選手がいきなりユーリに背を向けた。

 そのまま全力疾走で逃げるのかと思いきや――宇留間選手は腰を屈めて、跳躍する。宇留間選手は、その場でバク宙を披露したのだ。


 その着地点には、ユーリが立っている。

 それで両者は、再び激突することに相成ったのだった。


 マットに倒れ込んだユーリは、左肩を押さえてのたうち回る。

 いっぽう宇留間選手は転倒の勢いでごろごろ転がった末、その反動で起き上がった。

 そして――まだ倒れているユーリに向かって、突進する。


 宇留間選手は跳躍し、ユーリのもとに躍りかかった。

 蹴りではなく、ただ倒れているユーリを踏み潰そうという動きである。

 ユーリはかろうじて反転し、なんとかその攻撃からは逃れた。


 しかし、両者の距離はまだ近い。

 マットに着地した宇留間選手は、うつ伏せになったユーリの腹を下から蹴りあげた。

 とうていMMAとは思えない、サッカーボールを蹴るような所作である。

 ユーリは苦悶の表情で仰向けになり、宇留間選手のほうに足を開いた。グラウンドで迎撃しようという体勢だ。


 だが、宇留間選手は肩をすくめつつ、跳ねるような足取りで遠ざかっていく。そうして宇留間選手が次のアクションを見せる前に、レフェリーが『スタンド!』とユーリに命じた。


 ユーリは腹を抱えながら、のろのろと起き上がる。

 その姿に、瓜子は慄然と息を呑むことになった。


 したたかに蹴りあげられたユーリの腹は、青紫色になってしまっている。

 それに、左肩を痛めてしまったのか、左腕をだらりと垂らしており、左足にも体重をかけないようにしているようだ。


 二度の衝突と一度の蹴りだけで、ユーリは満身創痍である。

 だが――瓜子が戦慄したのは、別の理由からであった。


 ユーリが、これまで見せたことのない顔になっていたのだ。

 ユーリの白い面からは、すべての表情が消え去っており――いつでも明るくきらめいているその瞳は、真っ黒い穴のようにすべての光を失っていたのだった。

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