03 ピンクの怪物と暴虐のヒーロー

 けばけばしいラメ素材のタキシードを纏ったリングアナウンサーが、野太い声で選手紹介を開始した。

 しかし、ネイティブな英語でがなりたてられると、瓜子にはさっぱり聞き取れない。瓜子がかろうじてヒアリングできたのは、『トーキョー、ジャパン!』と『ストーム! ユーリ・モモゾノ!』の部分のみであった。


 これまでの選手も、氏名の前にニックネームらしきものを添えられていた。それでユーリには、日本と同じく『ストーム』の異名が与えられたようである。

 そして、宇留間選手に与えられたニックネームは――『スペクタクル』というものであった。


「……スペクタクル、壮観の意味。芸能用語で、壮大な見世物という使われ方もする」


 瓜子の疑念を察したかのように、メイがそのようなつぶやきをもらした。

 その間に、ユーリと宇留間選手はレフェリーのもとに招き寄せられる。


 レフェリーは『アクセル・ロード』でも登場していた、百九十センチはあろうかという黒人男性である。リングアナウンサーがその口もとにマイクをつきつけていたが、やっぱり瓜子には聞き取ることができない。頼りになるのは、日本のスタジオで解説しているアナウンサーのコメントであった。


『こちらの試合もこれまで通り、五分三ラウンドで行われます。ですが、宇留間選手のファイトスタイルを考えると、判定決着は考えにくいかもしれませんね』


『はい。宇留間選手の常識外れである大技が炸裂するか、あるいはユーリ選手が得意のグラウンド戦に引きずり込むか、完全決着を期待したいところですね』


『繰り返しますが、こちらは「アクセル・ロード」の決勝戦です。この試合の勝者は十万ドルの賞金を獲得すると同時に、《アクセル・ファイト》と正式契約を結ぶ権利が得られます。絶対王者アメリア選手が君臨し、ベリーニャ選手の参戦で群雄割拠の兆しが見え始めた女子バンタム級に殴り込むのは、ユーリ選手と宇留間選手のどちらであるのか。会場にも、期待の思いが渦巻いているようです』


 そんな言葉で解説されているともつゆ知らず、ユーリと宇留間選手はおたがいに笑顔で相手の姿を見やっている。

 身長百六十七センチのユーリに対して、宇留間選手は百七十二センチ。体重差は五キロていどであるが、電柱のような体格をした宇留間選手は相変わらず手足も胴体も丸太のように真っ直ぐで分厚かった。


 ユーリを見下ろすその顔は、ユーリに負けないぐらい屈託がない。きょろんと目が大きく、褐色の肌で、顔だけ見ていれば子供のように幼げである。しかし、彼女はこのような無邪気さを保持したまま、相手選手の骨をへし折れるような人間であるのだ。瓜子の脳裏には、まだ彼女が青田ナナの返り血にまみれながらのほほんと笑っている不気味な姿がくっきりとこびりついていた。


 宇留間選手は、真っ当なMMAの稽古をつけていない。彼女は古いアクション映画さながらの大技を稽古するばかりで、寝技や組み技はもちろん打撃技のディフェンスすら稽古していないようであるのだ。

 もちろんそれは、MMAの範疇である。試合の進行を妨げれば反則行為と見なされることもあるが、ケージの上で側転をしようがバク宙をしようが、相手を倒せば勝利となるのだ。


 ただ――瓜子は彼女のファイトスタイルを、MMAだと認めたくなかった。

 イリア選手や犬飼京菜なども、トリッキーな動きを見せることはある。しかしそれは、カポエイラや古式ムエタイやジークンドーといった格闘技の応用であるのだ。総合格闘技という和名を持つMMAは、世界のあらゆる格闘技を包括して然りであった。


 しかし宇留間選手というのは、根本が異なっている。

 三角蹴りや飛び蹴りやバックスピンキックなどは、まぎれもなく格闘技の技であろう。しかし彼女は、それを格闘技として認識しているのか――彼女にとってはそういった大技も、バク宙で相手を踏み潰すことと何ら変わらないのではないかと思えてならなかった。


(壮大な見世物……もしかしたら、それが宇留間選手の本質なのかもしれない)


 これはあくまで、瓜子の私見である。さらに言うならば、感情論である。瓜子はたとえ宇留間選手がどれほどの強さを持っていようとも、MMAに対するリスペクトを有していない人間を同志と認めたくなかったのだった。


 彼女は、MMAファイターではない。MMAに興味を持っていない人間が、その規格外のフィジカルでもってMMAを蹂躙しようとしているのである。――たとえ狭量と罵られようとも、瓜子にはそのように思えてしかたがなかったのだった。


(だから、ユーリさん……どうか、宇留間選手にだけは負けないでください。あたしはMMAが大好きなユーリさんに勝ってほしいんです)


 瓜子がそんな思いを噛みしめている間にルール確認が終了し、ユーリと宇留間選手はがっちりと握手をしてからそれぞれのコーナーに引き下がった。

 リングアナウンサーとカメラクルーも退陣し、ケージの出入り口にロックが掛けられる。レフェリーはそれらの姿を見届けてから、逞しい両腕を左右に開き――そしてなめらかなイントネーションで、『ファイト!』と宣言した。


 試合開始のホーンが鳴らされて、宇留間選手が突進する。

 当然のように、大技を繰り出すためのロケットスタートである。瓜子は最初から、息を詰めることになってしまった。


 そして、それに対するユーリは――フェンスに沿って、全力疾走した。八角形のフェンスを辿るようにして、なりふりかまわず駆け回ってみせたのである。

 宇留間選手がケージの中央に達した頃には、ユーリはその真横あたりに達している。方向転換するには直角に曲がらなければならないし、なおかつユーリはその間も足を止めていない。それでけっきょく宇留間選手はケージの中央で足を止め、ユーリはその真後ろにまで到達することに相成った。


 宇留間選手は頭をかきながら、背後を振り返る。

 その間に、ユーリはクラウチングのスタイルを取って、宇留間選手のほうにぴょこぴょこと接近していた。その姿に、サキが「ははん」と鼻を鳴らす。


「誰の考えか知らねーが、まあ合格点だな。乳牛は目ん玉が弱えんだから、飛び蹴りを紙一重でかわすなんていう芸当は不可能だろうしよ」


「うん。あんな馬鹿げたアクションにつきあう必要はないからね。五分の条件で、仕切り直しだ」


 サキや多賀崎選手の力強い言葉に、瓜子も大きく勇気づけられる。ユーリの潔い逃げっぷりにも、拍手を送りたいほどであった。


 ケージの中央にたたずんでいた宇留間選手は、ぴょんぴょんと跳ねながら背後のケージまで後退する。

 しかしユーリは慌てず騒がず、同じ歩調で前進した。無理に追いかけずとも、両者の間には四、五メートルの距離しかなかったのだ。ユーリはすぐにケージの中央に到着し、これまでと反対の立ち位置が形成されることになった。


 すると――今度は宇留間選手がケージに沿って全力疾走する。

 ケージの中央で足を止めたユーリは、その場でせわしなく横回転して何とか宇留間選手と正対しようと試みた。

 しかし宇留間選手が足を止めようとしないため、ユーリもくるくると回るばかりである。客席には、呆れたような笑い声がわきたっていた。


 そうして宇留間選手がケージを一周し、二周目に足を踏み出そうとしたタイミングで、レフェリーが『タイム!』と声をあげた。


『宇留間選手が、レフェリーのもとに招かれます。遅延行為で、口頭注意を受けているようですね』


『はい。走って逃げることはぎりぎり反則行為にはあたりませんが、あのように走り回るのは試合の進行の妨げにしかなりませんからね。こちらのレフェリーは「アクセル・ロード」でも宇留間選手の試合を担当していたので、対処が手馴れてきたのでしょう』


 解説陣は、そのようにコメントしていた。

 ユーリと宇留間選手はケージの中央に集められて、そこで試合再開である。

 すると、宇留間選手は性懲りもなく後ろ歩きでフェンス際まで引き下がった。

 ユーリは相変わらずの調子で、ぴょこぴょこと間合いを詰めていく。急いで追いかけようとしないのは、きっとセコンド陣の指導であろう。視力に難のあるユーリは、ひときわ慎重に振る舞う必要があるのだ。


 すると宇留間選手は口頭注意もどこ吹く風で、またフェンスに沿って全力疾走する。

 だがしかし、今度はフェンスの二面ぐらいを駆け抜けたところで方向転換し、ユーリに向かって突撃した。


 ユーリとの距離は、せいぜい四メートルほどだ。そしてユーリはガードを固めながら、おおよそ宇留間選手と正対している。そんなユーリに向かって、宇留間選手は躊躇なく跳びかかった。


 驚くべき高さにまで舞い上がった宇留間選手は、長い右足を鋭く折り曲げる。彼女の狙いは、飛び膝蹴りであった。

 瓜子が息を呑む中、ユーリは横合いにダイブする。

 飛び膝蹴りをかわされた宇留間選手はマットに着地して、その勢いのまま正面のフェンスまで駆け抜けた。

 そして、マットに倒れ込んだユーリは――仰向けの姿勢となって、宇留間選手の方向に足を広げる。グラウンドで迎撃するための姿勢である。


 両者の距離は、やはり四メートルほどだ。

 宇留間選手はしばし思案する様子を見せてから、またユーリのもとに突撃した。

 そして、一・五メートルほどの間合いで踏み切り、再び跳躍する。その着地地点は、ユーリのもとだ。宇留間選手はマットに横たわったユーリの身を真上から踏み潰そうと試みたのだった。


 青田ナナの無惨な末路が脳裏をよぎって、瓜子は思わず身をすくめてしまったが――宇留間選手が跳躍すると同時に、ユーリは横合いにごろごろと転がった。ユーリ本人の判断か、あるいはセコンド陣が助言を飛ばしてくれたのか、とにかく宇留間選手の思惑を察することができたのだ。


 宇留間選手は、無人の空間にどしんと着地する。

 その間に何回転もしたユーリは、ぴょこんと身を起こした。

 そうしてユーリが距離を詰めようとすると、宇留間選手はまた背後のフェンスへと逃げていく。


 けっきょく今回も、両者は接触していない。

 ユーリが無傷であるのは何よりであったが、しかし試合時間はすでに二分に達していた。ケージの内を走り回り、飛び回り、転がり回っているだけで、それほどの時間が過ぎてしまったのだ。


 そんな中、宇留間選手はのほほんとした表情であり――そして、それと相対するユーリのほうは、どこか不満げな幼子めいた面持ちで唇をとがらせていたのだった。

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