02 選手入場

『こちらは現地の、会場入りの光景です』


 アナウンサーの言葉とともに、ユーリの新たな姿が映し出された。

 ユーリはお気に入りのボアコートを羽織り、優雅な足取りで薄暗い駐車場と思しき場所を闊歩している。コートの下は曲線美をあらわにするタイトなトップスとスキニーパンツであり、その表情は愛嬌たっぷりであった。


 ユーリの左右には篠江会長や早見選手が控えており、さらに見慣れぬ外国人の一団が前後をはさんでいる。その内の何名かはダークスーツの姿であったので、ジムの関係者ではなくボディガードなのだろうと思われた。


 それに続いて、宇留間選手の姿も映し出される。彼女はラフなパーカー姿で、やはりジムの関係者らしい人々を引き連れていた。フィスト・ジム沖縄支部のトレーナー陣が駆けつけたのか、あるいはあちらも北米在住の関係者が存在したのか、詳細は不明である。そしてそちらにもボディガードらしい一行が追従していたので、べつだんユーリが特別扱いされているわけではないようであった。


 そしてその次にお披露目されたのは、前日の計量シーンだ。

 そこはライブを行うようなステージで、客席にも大勢の人間が詰めかけている。いわゆる、公開計量というやつだ。トレーニングウェアの姿で登場したユーリが体重計の前でピンク色のビキニ姿をあらわにすると、尋常でない数のフラッシュがたかれて歓声や口笛が吹き荒れた。


 それで衆目にさらされたユーリの肢体は――やはり、相変わらずの色香と美しさである。胸も尻も大きく張っており、ウェイトが落ちたとは思えないほど肉感的だ。そしてユーリの表情も、明朗そのものであった。


(でも……これは、よそゆきの笑顔だ)


 ユーリはグラビアの撮影などに臨むときも、いつもこういった笑顔である。もちろんそれは万人をひきつける魅力的な笑顔であるのだが――試合の直前やライブ中に見せる笑顔や、瓜子の前で見せる笑顔などとは、まったく質が異なっているのだった。


「ピンク頭は、元気そうじゃん! これだったら、きっと大丈夫だよ!」


 灰原選手がそのように声を張りあげながら、瓜子の肩を揺さぶってくる。瓜子は内心の不安を押し殺しながら、「はい」と答えるばかりであった。


 そうして宇留間選手の計量シーンも映し出されたのち、画面は日本のスタジオへと戻される。


『本日の試合で勝利した選手だけが、《アクセル・ファイト》と正式契約を結ぶことができます。さらには「アクセル・ロード」インターナショナル大会の十回記念として、勝者に十万ドルの賞金が贈られるそうですね』


 アナウンサーのそんな言葉に、灰原選手がまた「えーっ!」という大声をほとばしらせた。


「十万ドルっていったら、一千万円じゃん! すげーすげー! ピンク頭が戻ってきたら、なんか奢ってもらわないと!」


「ああ。実は参加選手には、事前に告知されてたんだよね。秘密ごとがひとつ減って、気が楽になったよ」


 多賀崎選手は苦笑しながら、そんな風に言っていた。

 しかし、瓜子にとっては些末なことだ。本日の勝利には、十万ドル以上の価値があるはずであった。


『では、本日の対戦カードをおしらせいたします』


 画面上に、その内容が表示される。

 本日放映されるのはメインカードの六試合で、メインイベントは卯月選手とジョアン選手、セミファイナルがベリーニャ選手とパット・アップルビー選手――そしてユーリと宇留間選手の対戦は、第四試合であった。


『「アクセル・ロード」の決勝戦は第一試合や第二試合に組み込まれることが多いように思いますが、本日は第四試合になっておりますね。これはやっぱり、それだけこのカードが注目されているということでしょうか?』


『そうですね。それに、こちらは《アクセル・ファイト》の中規模興行で、普段の来場者数は二千名から五千名ていどであるはずですが……なんと今回は、一万人を突破したそうです。ユーリ選手ばかりでなく、卯月選手とジョアン選手の一戦やベリーニャ選手のデビュー戦というものが、それだけの期待を集めているのでしょう』


 ここでまた、灰原選手が「えー?」と声をあげる。


「《アクセル・ファイト》っていっつも数万人のお客を集めてるって聞いてたのに、今日は一万しか入ってないんだねー」


「あのなー……確かに最近はメインの興行でも一万や二万ていどが平均らしいが、そいつを毎月コンスタントにキープしてやがるんだぞ? しかも、こういうセミ興行も定期的に開きながらだ。隔月で千人やそこらの客しか集められねー木っ端興行の所属選手がケチをつけられるような数字じゃねーだろ」


「うーん。でもやっぱ、前評判より小さい数字だとガッカリしちゃうなー」


「勝手にガッカリしてやがれ。だいたい《アクセル・ファイト》ってのは、勝ち負けの博打と放映料でがっぽり稼いでやがるんだからな。そうじゃなきゃ、十万ドルの賞金なんざポンと出せるもんかよ」


 さきほどもオッズという言葉が使われていたが、ユーリと宇留間選手の一戦ももちろん賭けの対象として扱われているのだ。それで世界中の人間がベットして、ユーリのほうが有利であると判定されたのは――やはり、光栄なことであるのだろう。


『おっと。現地では、第一試合が開始されるようです。まずは、そちらの一戦をお楽しみください』


 と、画面がまた現地の映像に切り替えられる。瓜子の見知らぬ外国人の男子選手のプロフィール画像が表示され、そこで誰もが息をつくことになった。


「ユーリさんの試合が待ち遠しいッスねー。生放送だから、よけいドキドキしちゃうッスよー」


「あはは! 一番とぼけた顔してるくせに、なに言ってんのさー! ま、セミーはピンク頭と会ったこともないんだもんねー!」


「そうッスね。でも、『アクセル・ロード』での活躍をずーっと拝見してたんで、ファン感覚で楽しみッスよー」


 男子選手の試合に関心が強いのはメイぐらいであったため、歓談タイムとなってしまう。画面では、まだ若そうな面立ちをした北米とオーストラリアの選手がそれぞれ入場を始めていた。


 瓜子はあまり口を開く気分になれなかったので、そちらの試合模様をぼんやりと眺めていたのだが――やはり彼らは若手の選手であるらしく、緊張で動きが鈍っているのか、お世辞にもお手本にしたいような内容ではなかった。

 それにやっぱり、ファイトスタイルが堅実であるように見受けられる。蹴りはほとんど使わずに、遠い位置からパンチをふるって、組み合いになったら壁レスリングだ。それで実力が拮抗しているものだから、けっきょくは時間切れの判定勝負であった。


「パッとしねー野郎どもだなー。ま、天下の《アクセル・ファイト》でも、選手のレベルはピンキリってこった。ましてやセミ興行じゃ、トップファイターの出番も少ねーだろうしよ」


 横目で観戦していたサキも、そんな風に言っていた。

 第二試合も第三試合も、同じ調子で試合が展開されていく。ラスベガスの大会であるためか、北米出身の選手が多いようだ。そんな中、第三試合に登場したブラジルの選手が豪快なKO勝利を収めたのが、ここまでで一番の見どころであった。


 そして――いよいよ第四試合、ユーリと宇留間選手の一戦である。

 おしゃべりに興じていた灰原選手たちも、姿勢を正して画面に向き直ることになった。


『続いて第四試合、ユーリ選手と宇留間選手の一戦ですね。まずは青コーナーから、ユーリ選手の入場です』


 アナウンサーの解説とともに、画面が会場に切り替えられる。

『アクセル・ジャパン』のときと同様に、派手な照明などの演出は見られない。ただし、歓声の向こう側からうっすらと聴こえてくるのは、『トライ・アングル』の『ハダカノメガミ』に他ならなかった。


 そうして花道に、ユーリの姿が現れて――瓜子の心臓を、激しく揺さぶった。

 ユーリは、満面の笑みである。

 よそゆきの笑顔ではない。これから行われる試合が楽しみで楽しみでしかたがないという、生命力にあふれかえった笑顔だ。そんなユーリの笑顔だけで、瓜子は胸中に満ちていた不安を溶かされるような心地であった。


 ユーリは『アクセル・ロード』のユニフォームである、青いタンクトップとショートスパッツという格好だ。歓声の吹き荒れる客席にひらひらと手を振りながら、時おりくるりとターンを切ってみせる。何もかもが、いつも通りのユーリであった。


 ユーリのこんな姿も、ライブ中継で全世界に発信されているのである。

 ただでさえ情緒の揺らいでいる瓜子は、そんなことを想像するだけで全身の血がわきたってしまいそうであった。


 ユーリの後に続くのは、篠江会長と早見選手と見知らぬ白人男性である。そちらが身につけているのは、《アクセル・ファイト》のロゴが入ったトレーニングウェアだ。かつて『アクセル・ジャパン』に早見選手が出場した際には、立松や柳原も同じ格好でセコンドを務めていたものであった。

 さらに前後は、スーツ姿のボディガードに固められている。ラスベガスの治安がいかほどのものであるのかを知らない瓜子には、それもありがたい措置であった。


 やがてボディチェック係の前に到着したユーリは、タンクトップとシューズを脱ぎ捨てる。そうしてハーフトップの姿となって露出面積が広がると、客席にはいっそうの歓声が巻き起こった。

 明らかに、これまでの試合よりも会場が盛り上がっている。そのおおよそは、ユーリの色香によってかきたてられたものなのかもしれないが――多少ばかりは試合に対する期待感も加味されているのだと信じたいところであった。


 ユーリは三名のセコンド陣と拳をタッチさせてから、ボディチェック係のほうに向きなおる。白い面に薄くワセリンを塗られて、グローブや手足の状態と、マウスピースの有無を確認されて――そういった手順は最近の《アトミック・ガールズ》と同一であったが、やっぱり瓜子は胸が騒いでならなかった。スタッフも観客ものきなみ外国人であるために、見慣れた光景でも異国情緒が満載であるのだ。


 すべての準備を終えたユーリは跳ねるような足取りでステップを踏み越えて、黒いケージに踏み込んだ。

 タキシード姿のリングアナウンサーやカメラクルーの居並ぶケージの内を一周しながら、四方の客席にウインクや投げキッスを送りつける。それでまた、歓声がうねりをあげることになった。


「ピンク頭は、いつも通りだねー! いつも通りすぎて、なーんか腹が立ってきたなー!」


 そんな風に言いながら、灰原選手の声には笑いが含まれている。瓜子としても、灰原選手とそれほど掛け離れた心境ではなかった。


 ほとんど三ヶ月近くも北米に滞在して、その期間に三戦もの試合をこなし、ウェイトが落ちてしまうほどのバッドコンディションでありながら、ユーリはこれまで通りの輝きを放っている。こちらがこれほど心配しているのに、ユーリは無邪気な笑顔であり――二年前の瓜子であったなら、自分の存在などユーリにとっては道端の石ころ同然であるのだという被害妄想に陥っていたところであろう。


 しかしもはや、瓜子がユーリの心情を見誤ることはない。

 ユーリはすべての逆境をはねかえし、全身全霊で負の感情を体外に追いやっているのだ。

 親しい人間に会えない寂しさも、過酷な環境による疲労も、あちらで見舞われた数々の不幸も、格闘技に対する熱情でねじ伏せているのだった。


(ユーリさんなら、絶対に大丈夫です。宇留間選手を倒して、ユーリさんの強さを世界中に見せつけてやってください)


 瓜子がそのように祈る中、画面が赤コーナー側の花道に切り替えられた。

 こちらもまた青いタンクトップとファイトショーツを纏った宇留間選手が、銀色のお面をかぶって登場する。一万人の観客が詰めかけて、世界中に配信されているこの大舞台においても、彼女はコミカルな入場スタイルを決行した。


 上半身だけ飛行のポーズで、薄明るい花道を全力疾走である。ボディガードやセコンド陣は、迷惑そうな面持ちでそれを追いかけるのだ。幸いなことに、客席には笑い声が響き渡っていた。


「うー、背筋がぞわぞわするー! やっぱこんなやつを優勝させたら、日本の恥だよー!」


「ふん。そんなことより恥じるべきは、こいつのMMAに対する姿勢だろうさ」


 多賀崎選手が、いつになく不機嫌そうな調子でそのように応じる。もともと多賀崎選手も宇留間選手に対して思うところがあったようであるが、青田ナナの無惨な敗北によって、いっそう反感がつのってしまったようだった。


 ともあれ――お面を放り捨てた宇留間選手も、無事にケージインを果たす。

 ユーリの海外遠征の総決算たる『アクセル・ロード』の決勝戦が、ついに開始されるのだった。

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