08 打ち上げ(下)
瓜子がもとの席に戻ると、そこにはさらに人影が増えていた。
『ベイビー・アピール』のみならず、『ワンド・ペイジ』のメンバーまで勢ぞろいしていたのだ。これには瓜子も、いささかならず慌てることになってしまった。
「ど、どうもお疲れ様です。みなさん勢ぞろいで、どうなさったんですか?」
「そりゃあもちろん、瓜子ちゃんの可愛さにひかれた野郎どもが集結しちまったんだよ! まったく、節操がねえよなぁ!」
「勝手なこと抜かすんじゃねえ」と、山寺博人が不機嫌そうに言いたてる。
そしてそれをフォローするように、西岡桔平も発言した。
「まだ猪狩さんにきちんとご挨拶をしてなかったんで、ここで待たせてもらったんです。こんなむさ苦しい顔ぶれで待ちかまえちゃって、どうもすみません」
「と、とんでもありません。こちらこそ、ご挨拶が遅くなって申し訳ありませんでした」
瓜子が『ワンド・ペイジ』の面々と相対するのは、去りし日のライブ観戦以来である。しかしまだひと月も経ってはいなかったので、彼らも相変わらずの様子であった。
「猪狩さんが戻るまで、『アクセル・ロード』について語らってました。例の件は内緒にしてしまって、どうもすみません」
「例の件? ……ああ、『アクセル・ロード』で『トライ・アングル』のライブ映像が使われた件っすか?」
あの演出には瓜子も心から驚かされたものであるが、もちろんメンバーには事前に話が通されていたのだ。それは《フィスト》の打ち上げの場で、すでにタツヤたちから聞き及んでいた。
「俺たちも、晴れて北米デビューってわけだもんな! 瓜子ちゃんも聞いてるだろうけど、あの放送以来、海外でのダウンロード数が爆上がりなんだってよ!」
「えっ! それは初耳です! 『トライ・アングル』の音源って、海外でもダウンロードできるんすか?」
「そりゃあそうさ! それより何より、MVの再生回数なんかは比べ物にならないぐらいだけどな! やっぱ、ユーリちゃんの勇姿を映像で観たいって人間が多いんだろうぜ!」
「そうそう! つまり、瓜子ちゃんの勇姿も世界中で話題の的ってことさ!」
ダイのそんな言葉には、瓜子もがっくり肩を落とすことになった。
「それは、知りたくなかったです……きっと千駄ヶ谷さんも自分のメンタルを心配して、そういうお話を伏せていたんでしょうね……」
「……そんなに不満なら、のこのこ現場に出張ってくるんじゃねえよ」
山寺博人のぶっきらぼうな声に、瓜子はまた慌てることになった。
「す、すみません。みなさんの大事なMVなのに、こんな言い草は失礼でしたよね。『トライ・アングル』の存在が海外にまで広まったんなら、自分も嬉しく思います」
「ええ。やっぱりユーリさんの影響力っていうのは、とてつもないですね。海外のメディアやSNSも、大変な騒ぎみたいですよ。これで『アクセル・ロード』で優勝できたら、ユーリさんは一躍世界級のスターかもしれませんね」
人格者たる西岡桔平は、ゆったりとした笑顔でそんな風に言っていた。
するとそこに、新たな人影がよたよたと近づいてくる。それは、ソフトドリンクのグラスを携えた小笠原選手であった。頭にしこたまダメージをもらったため、小笠原選手も酒気は厳禁であるのだ。
「みなさん、お疲れ様。ちらっと聞こえたけど、『アクセル・ロード』の話題で盛り上がってるのかな?」
「あ、どうも。よかったら、こちらに座ってください」
西岡桔平が腰をずらして、小笠原選手が座る場所を確保した。
「ありがとう」と応じつつ、小笠原選手は大儀そうに腰を落ち着ける。オルガ選手のローキックが強烈であったため、小笠原選手は両足にもダメージを負ってしまっているのだ。
「お、小笠原さん、お疲れ様です! 今日の試合は、小笠原さんのベストバウトだったと思いますよ!」
小笠原選手のファンを以て任ずるタツヤがそのように言いたてると、小笠原選手は「ありがとう」と繰り返した。両方の目尻にガーゼを貼られて、左目の下も青く腫れあがった無惨な姿であるが、その表情はひたすら穏やかだ。
「何せ今日は、猪狩がエキシビションだったからね。メインよりエキシビションのほうが盛り上がったなんて言われたら大恥だから、尻に火がついた心地だったよ」
「あはは。自分もメイさんも、本選を食ってやろうっていう意気込みでしたからね。これも、切磋琢磨の一環でしょう?」
「うん、もちろん。あとは、北米に羽ばたいた桃園に負けるもんかっていう気概もね」
そう言って、小笠原選手は澄みわたった微笑をたたえた。
「それでアタシも、いずれは北米に出てやろうって考えてるからさ。そのときは、残された選手に今日のアタシぐらい奮起してもらいたいんだよ。乾杯の挨拶では、そういう気持ちを込めたつもりだったんだけど……うまく伝わったかなぁ?」
「きっと大丈夫ですよ。少なくとも、自分には伝わってました」
「それなら、よかった。……まあ猪狩なんて、《アクセル・ファイト》にストロー級があったら真っ先にスカウトされてたんだろうけどさ」
それは瓜子には、あまり現実味のない話であった。
しかしまた、夢物語と切って捨てているわけではない。瓜子は何がどうであろうとも、全力でユーリの背中を追いかける所存であるのだ。そして瓜子がなすべきことは、目の前の試合に死力を尽くすことだけなのだから――普段の心がけや行動自体には、何の変わりもなかったのだった。
「小笠原さんも、北米進出を視野に入れてるんだな。ってことは、バンタムまで体重を落とす予定なのかな?」
リュウがあらたまった面持ちで問いかけると、小笠原選手は屈託なく「うん」とうなずいた。
「去年はそれで失敗しちゃったけど、これから計画的に調整していくつもりだよ。何せ今の《アクセル・ファイト》は、バンタムが上限だからね」
「その身長でバンタムってのは、キツそうだな。でも、ウェイトを落としても今日みたいな試合をできるなら……《アクセル・ファイト》だって、夢じゃないよ。ユーリちゃんにとっては、最大のライバルになるだろうな」
「うん。でも桃園は正式契約を勝ち取ったら、フライ級に落とすんじゃないかな。……まあ何にせよ、桃園ひとりにすべてを背負わせられないからね。《アクセル・ファイト》の連中に、大和撫子の底力ってやつを見せつけてやらないとさ」
そのとき、大柄な人影がこちらを見下ろしてきた。小笠原選手と同じぐらい傷ついた顔をした、オルガ選手である。
「やあ、オルガ。今日はお疲れ様。アンタはこれでロシアに帰るって話だったから、打ち上げに来てくれて嬉しいよ」
『トライ・アングル』の面々はちょっとうろんげであったが、小笠原選手は悠揚せまらぬ笑顔だ。そうしてオルガ選手がその場に膝を折ると、その陰にひそんでいたメイもひっそりと着席した。
「オルガ、トキコに挨拶したい、言っている。今、大丈夫?」
「うん、もちろん。メイも通訳、ありがとうね」
メイはひとつうなずいて、オルガに英語で呼びかけた。
すると、オルガ選手も英語で静かに語り始める。その灰色の瞳は、一心に小笠原選手だけを見つめていた。
「……オルガ、ロシアに戻って、《アクセル・ファイト》を目指すためのトレーニングを開始する。そして、そちらでユーリとトキコと対戦することを願っている」
「うん。今度はおたがい、バンタム級だね。再戦できる日を楽しみにしてるよ」
「……トキコも、《アクセル・ファイト》を目指してる?」
「目指してるよ。アタシのガタイだと、日本で対戦相手を探すのもひと苦労だからさ。舞さんとアケミさんが引退した時点で、アタシは海外に目を向けてたんだよ」
あくまでも穏やかに、小笠原選手はそう言いつのった。
「アタシは別に、北米進出をゴールだと思ってるわけじゃない。でも、アンタみたいに強い相手は、もう海外で探すしかないんだよ。だから本気で、《アクセル・ファイト》を目指す。どっちが先に正式契約を勝ち取るか、勝負だね」
「……トキコの覚悟、嬉しいと言っている」
メイがそのように通訳すると同時に、オルガ選手が手を差し出した。男子選手さながらの、大きくて分厚い手だ。小笠原選手が笑顔でその手をつかみ取ると、オルガ選手もまた傷だらけの顔でうっすらと微笑んだ。
「トキコ、シアイ、コウエイダッタ。ドウモアリガトウ」
「こちらこそ、日本に長々と滞在してくれて、ありがとう。アタシと試合をしてくれて、ありがとう」
メイがその言葉を伝えると、オルガ選手は小笠原選手の手をぎゅっと握ってから、すみやかに身を起こした。
メイは居残り、オルガ選手だけが父親のもとに立ち去っていく。その後ろ姿を見送りながら、タツヤは深々と息をついた。
「あらためて、あんなオルガと真正面からやりあった小笠原さんはすげえなあ。俺なんて、向かい合っただけで腰が引けちまいそうだよ」
「あはは。オルガにビビってたら、北米進出なんて口にできないからね。それに、選手としての怖さは猪狩やメイも負けてないはずだよ」
「それはわかってるけど、瓜子ちゃんたちはちまちましてて可愛いからさ」
「なんすか、それ? 自分たちも、怖い部分をお見せしましょうか?」
「あはは。それは試合で、ぞんぶんに拝見してるよ。小笠原さんも瓜子ちゃんもメイちゃんも、みんな北米で活躍できるさ」
「でも、まずはユーリちゃんだよな」と、リュウが真剣な面持ちでつぶやく。
「けっこう俺の周りでも、ユーリちゃんが優勝して当然って空気になってるけど……相手があの、非常識な宇留間だからな。正直言って、どんな試合になるのか想像もつかねえよ」
「お前、瓜子ちゃんを不安にさせるようなこと言うなよな! ユーリちゃんなら、絶対に勝ってくれるさ!」
ダイがそのように声をあげたが、リュウの表情に変わりはなかった。
「俺だってそう信じてるけど、あの宇留間ってやつがおっかねえんだよ。ユーリちゃんと同じぐらい馬鹿げたファイターなんて……これまで、大怪獣ジュニアぐらいしかいなかったからさ」
「自分も、そう思ってましたよ。でも、ユーリさんなら勝ってくれるはずです」
瓜子は自分を奮い立たせて、そんな風に言ってみせた。
「もちろん、勝負に絶対はありませんけど……負けたときのことは、負けたときに考えます。今は全力で、ユーリさんが勝てるように応援したいと思います」
「うん。たとえ勝とうが負けようが、選手は頑張り続けるしかないからね」
小笠原選手はすべてを包み込むような笑顔で、そのように言ってくれた。
リュウはドレッドヘアーを揺らしながら首を振り、はにかむような笑みを浮かべる。
「ユーリちゃんの心配や応援は、一週間後だよな。今は、あんな凄い試合を見せてくれた小笠原さんや瓜子ちゃんやメイちゃんを、めいっぱいお祝いさせていただくよ」
「そうそう! それでユーリちゃんが戻ってきたら、また祝勝会だ! しばらくは試合もライブもねえんだから、騒げるときに騒いでおかないとな!」
ダイが陽気に言いながら、ビールのジョッキを持ち上げる。それですみやかに、深刻になりかけていた空気が熱っぽさを取り戻したようだった。
瓜子たちはユーリがいなくても、これだけ立派な試合を見せることができた。
そして来週には、ユーリが今日の興行に負けない活躍を見せてくれることだろう。
瓜子はそのように信じていたし――この日本には、瓜子と同じ思いを抱く人間が数えきれないほど存在するはずであった。
(頑張ってください、ユーリさん。みんな、ユーリさんがものすごい試合を見せてくれるって信じてますよ)
十四時間の時差があるというフロリダでは、そろそろ朝食の頃合いであろうか。瓜子は左手首のリストバンドを撫でさすりながら、猛烈な食欲を発揮しているユーリの姿を想像し――そうして目もとにこみあげてくる熱いものを、全身全霊でこらえることに相成ったのだった。
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