05 アトム級暫定王者
驚くべきファーストコンタクトを果たしたサキと犬飼京菜は、その後も一瞬として動きを止めることなく苛烈な打撃戦を展開させた。
サキはなめらかなステップワークからフリッカージャブやサイドキック、犬飼京菜は暴風雨のごときステップワークと大技の連発だ。
サキの本領はアウトスタイルであったが、犬飼京菜が凄まじい勢いで猛攻を仕掛けてくるため、なかなか距離を取ることができない。それでも何とか中間距離をキープできるように、さまざまな攻撃を繰り出していた。
まだおたがいの攻撃は、ほとんど相手の身に触れていない。
しかしまた、どちらかの攻撃が一発クリーンヒットしただけで、戦況は大きく傾くことだろう。それはほとんど、真剣で斬り合っているような様相であった。
サキの攻撃は、まさしく日本刀のごとき斬れ味を有している。
いっぽう犬飼京菜のほうは、鉈や斧とでも称するべきだろうか。
しかし、一撃で致命傷になりえるという意味に変わるところはなかった。
二十センチの身長差を帳消しにできるほど、犬飼京菜のステップワークは鋭い。それに、寝技では彼女に分があるため、テイクダウンの警戒をする必要がなく、それでこうまで大胆に動けるのだろうと思われた。
いっぽうサキは、その反応速度となめらかなステップワークでもって、犬飼京菜の猛攻をしのいでいる。しかも犬飼京菜は、時おりテイクダウンのフェイントをも織り交ぜているのだ。それらのすべてを回避できるのは、ほとんど神業と称したいほどであった。
まぎれもなく、二人は死力を尽くしている。
しかし二人は、まだまだ奥の手を隠しているはずだった。
その一端を最初に見せたのは、犬飼京菜のほうである。
サキのサイドキックをかわすと同時に、犬飼京菜は頭からマットに突っ込み、両足を高々と振り上げた。古式ムエタイの技、『ヤシの実を蹴る馬』である。
まだ蹴り足を戻しきっていないサキの顔面に、犬飼京菜の蹴り足が迫る。
サキは強引に首をひねって回避しようと試みたが、回避しきれずに左頬を蹴られることになった。
その一撃で、火花のように赤い血が弾け散る。
しかしサキは倒れることなく、ようやくマットに到着した右足で踏み込み、側転してから身を起こした犬飼京菜のもとに迫った。
ぞっとするほどなめらかな所作で、サキの左ミドルが繰り出される。
ようよう身を起こしたところであった犬飼京菜は、右腕でそれをガードすることになった。
体重差を考えれば、犬飼京菜のほうにも小さからぬダメージが生じたことだろう。しかし犬飼京菜はその場に踏み止まり、サキの軸足へと両腕をのばした。
するとサキは左足一本で跳躍し、カウンターの膝蹴りで迎え撃つ。
犬飼京菜は素晴らしい反応速度で首をひねったが、右肩に膝蹴りをもらうことになった。
サキのほうも強引な仕掛けであったが、犬飼京菜は打たれ弱い。それで今度こそ、犬飼京菜もまろぶように距離を取ることになった。
サキはその場に留まったため、実にひさかたぶりに場が沈静する。
客席は、歓声の嵐である。
試合時間は、すでに三分を過ぎている。両者は一度も静止しないまま、それだけの時間を苛烈な攻防に費やしていたのだ。左の頬が裂けたサキも、右腕をだらりと垂らした犬飼京菜も、いつしか肩で息をしていた。
そうして動きが止まると、今度は気迫の内圧がぐんぐん上昇していく。
おそらくは、サキも犬飼京菜も短期決戦を狙っているのだ。何をどのように考えても、左足に負傷を抱えた両者がこのような攻防を三ラウンドも続けられるとは思えなかった。
それから次に奥の手を見せたのは、サキである。
サキはマットをすべるようなステップワークを取りやめて、力強くも流麗なる足運びでステップを踏み始めた。
サキが左膝を負傷する前に磨きぬいた、本来のステップワークだ。それはマットをすべるようなステップワークよりも左膝に負担がかかるため、瓜子はまたひそかに不安な気持ちをねじ伏せることになった。
犬飼京菜は狂犬の形相で、関節蹴りを射出する。今はオーソドックスの構えであるため、無事な右足を軸にした力強い攻撃だ。
しかしそれよりも早く、サキは相手のアウトサイドに回り込んでいた。
そして、革鞭のごときフリッカージャブで犬飼京菜の顔を叩く。犬飼京菜は尻尾を踏まれた子犬のように、横合いへと跳びすさった。
サキは息をつく間も与えず、左のミドルキックを繰り出す。
犬飼京菜は再び跳躍して、それを回避した。
その間も、右腕はだらりと垂らしたままである。もしかしたら、右肩に膝蹴りをもらったダメージで、腕が上がらないのかもしれなかった。
しかしもとより、犬飼京菜はパンチの技をほとんど使わない。犬飼京菜はサキのステップワークに対抗するべく、自らも荒々しいステップワークを再開させた。
どちらも左足に深手を負っているとは思えない動きである。
しかし瓜子は、その一歩ごとに息が詰まる思いであった。
犬飼京菜は誰が相手でも、自らの生命を燃やし尽くそうとしているかのような迫力であるが――今はサキの静かなたたずまいからも、同じだけの気迫が感じられてならなかった。
まぎれもなく、二人はおたがいの生命をぶつけ合っているのだ。
そんな二人の気迫と覚悟が、瓜子の胸を圧迫しているのだった。
犬飼京菜は、大技を連発する。
それをステップワークで回避しながら、サキも斬撃のごとき攻撃を繰り出した。
第一ラウンドの残り時間は、一分である。
そこでさらなる猛攻を見せたのは、犬飼京菜のほうであった。
右のハイキックを繰り出したのち、左のバックスピンハイキックに繋げる。さらには身を伏せての水面蹴りに、両足タックルのフェイントをはさんでから、再び右のハイキック――人の形をした竜巻のごときコンビネーションである。
サキも最初の三発は回避できたが、水面蹴りで危うく足を払われそうになり、タックルのフェイントで意識をそらされ――その結果、右のハイキックをくらうことになった。犬飼京菜は、二十センチも長身である相手の頭に足を届かせることがかなうのだ。
ハイキックをまともにくらったサキは、たまらずマットに倒れかかる。
犬飼京菜はうなりをあげて、そこに躍りかかった。グラウンド戦となれば、彼女が圧勝してもおかしくはないのだ。
だがサキは、横ざまに倒れると同時に、左足を振り上げた。
倒れた状態での、蹴りである。普通であれば、大した破壊力も望めない攻撃であったが――綺麗に指をそらしたサキの足先は、中足でもって犬飼京菜のレバーを蹴り抜いてみせたのだった。
自らの突進力がカウンターの威力に変換されて、今度は犬飼京菜がマットに倒れ込む。
それから両者は、ほとんど同時に身を起こした。
おたがいの攻撃が届く、危険な距離である。
そこで、犬飼京菜は後ずさり――サキは、前進した。
右足で踏み込んだサキは、左足を大きく振り上げる。
狙うは、犬飼京菜の頭部である。サキはいきなり、左のハイキックを繰り出したのだ。
そのふくらはぎに刻まれた燕の軌道が、瓜子の心臓を揺るがした。
これはもう、長きにわたってサキの活躍を見守ってきた経験のなせるわざであろう。瓜子はほとんど本能で、それが燕返しを狙った蹴りであると知覚することになったのだ。
もちろん犬飼京菜とて、サキの得意技については研究し尽くしているに違いない。燕返しを完全に防ぐには、最初のハイキックをよけるのではなく腕でブロックするべきであるのだ。
しかし、犬飼京菜の右腕は、今も下にさげられたままであった。
今から右腕を持ち上げても、間に合いはしない。犬飼京菜は、どうにかしてハイキックとかかと落としの両方を回避するしかなかった。
それで犬飼京菜が選択したのは、スウェーバックであった。
サキのハイキックというものは、ダッキングで身を沈めるほうがかわしやすい軌道やタイミングで放たれている。それでも強引に身をのけぞらせてハイキックを回避すれば、開けた視界の中でかかと落としが迫ってくるので、対処することが可能である――という考えであるのだろう。
ほとんど犬飼京菜の前髪をこするようにして、サキの左足が天空に駆け抜けた。
そして――燕はそのまま、地上に舞い降りた。
そうしてサキは左足でマットを踏みしめると、腰をひねりながら右足を振り上げた。
左ハイキックから右のバックスピンハイキックに繋げる、犬飼京菜さながらのコンビネーションである。
スウェーバックしていた犬飼京菜は、まだ体勢が戻りきっていない。
そして彼女は、右腕を下げたままであるのだ。
結果――サキの右足は、犬飼京菜の右こめかみを真横から撃ち抜くことに相成った。
犬飼京菜は、スローモーションのようにゆっくりと倒れ込む。
そしてサキもまた、自らの蹴りの威力に引きずられるようにして倒れ込んだ。右の蹴りを出したということは、傷ついた左足に全体重をかけていたのだ。
サキはぜいぜいと息をつきながら半身を起こし、汗だくの顔で天を振り仰ぐ。
それに続いて、犬飼京菜もぶるぶると身を震わせながら起きあがろうとしたが――それはレフェリーの力強い腕によって制止されることになった。
『一ラウンド、四分四十五秒! バックスピンハイキックにより、サキ選手の勝利です!』
瓜子は指一本動かせないまま、そんなコールを聞くことになった。
サキの動きがあまりに美しかったため、思考が停止してしまったのだ。中学時代からサキの活躍を見守ってきた瓜子でも、これほど強烈に心をつかまれたのは初めてであったかもしれなかった。
犬飼京菜の強靭さこそが、サキのこの美しさを体現させたのだ。
瓜子もまた、メイと至福の時間を過ごしたばかりの身であったが――それでもどうしても、嫉妬に似た思いを抱かずにはいられなかった。
「すげーすげー! サキのやつ、あんなぐったりしてたのに、すげー動きだったじゃん!」
灰原選手が快哉をあげながら、瓜子の身に抱きついてくる。
その間に、モニター上では無理やり立ち上がったサキがレフェリーに右腕を上げられていた。
そして、いつの間にかケージに上がりこんでいた駒形代表が、サキの腰にベルトを巻きつける。
アトム級暫定王座のベルトである。
サキの腰に、再びチャンピオンベルトが巻かれたのだ。その勇姿を見届けた瞬間、瓜子は止めようもなく涙をこぼしてしまった。
サキがベルトを巻いた姿を目にするのは、いったいいつ以来のことだろう。《アトミック・ガールズ》においてチャンピオンベルトが持ち出されるのは、タイトルマッチの日のみであったから――まず間違いなく、それは瓜子がユーリと出会う前にまでさかのぼるはずであった。
(そういえば……あたしがユーリさんと出会った日が、サキさんの最後のタイトルマッチだったんだっけ)
サキはあの日、ラフファイターたる山垣選手を相手に防衛戦を執り行い、アクシデントの頭突きで七針を縫う手傷を負ったのだ。しかし瓜子は千駄ヶ谷に連れられて控え室のユーリに挨拶をさせられていたため、それらの姿を見届けていなかったのだった。
ともあれ――サキは三年以上ぶりに、瓜子の眼前でチャンピオンベルトを巻いている。
たとえそれが暫定王座のベルトであろうとも、瓜子の胸に去来する感動に変わりはなかった。
観客席でも控え室でも歓声と熱気があふれかえり、サキの戴冠を祝福してくれている。
そこに、リングドクターの手を振り払って身を起こした犬飼京菜が、左足を引きずりながらサキのもとに歩み寄った。
レフェリーから腕を下ろされたサキは、右足一本で体重を支えつつ、目の前に迫った犬飼京菜を見つめ返す。
犬飼京菜は口をへの字にしたまま、ただ一心にサキの姿を見上げていた。
すると――サキがしなやかな左腕を振り上げて、犬飼京菜の頭にぽんと手を置いた。
犬飼京菜は猛然とその手を振り払い、そしてサキの身に抱きついた。
おたがいのセコンド陣は、そんな両者の姿を遠巻きに眺めている。
サキはしばらく仏頂面で立ち尽くしていたが――最後には何かをあきらめた様子で、犬飼京菜の茶色がかった頭をわしゃわしゃとかき回したのだった。
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