03 不和

「どうもお待たせしました。……みなさん、おひさしぶりです」


 卯月選手はいつも通りのお地蔵様みたいな面持ちで、一礼した。

 その背後には、卯月選手よりも大柄なガードマンが控えている。しかしその人物はロビーの出入り口をふさぐ格好で立ちはだかり、卯月選手だけがこちらに近づいてきた。


「今日はいきなり押しかけてしまって、申し訳ありません。ですがこれも日本の格闘技界の行く末を思っての行動ですので、ご容赦いただけたらと思います」


「へえ。しばらく見ない内に、ずいぶん偉そうな口を叩けるようになったもんだな、卯月よ」


 大江山軍造が、赤鬼のごとき笑顔で卯月選手を迎える。

 他の面々は、これまで通り――赤星弥生子は張り詰めた無表情、青田コーチは冷徹な面持ち、青田ナナは憤激の眼差し、大江山すみれは内心の知れない笑顔、マリア選手は慌て顔だ。


「で? お前さんはどの面さげて、俺たちの前に姿を現したんだ? しかも、ナナやマリアのコーチ役に名乗りをあげるなんざ、ずいぶんふざけた真似をしてくれるじゃねえか」


「それは、順番が逆となります。まずは俺が『アクセル・ロード』のコーチ役に任命され、その後に日本と韓国の選手陣が候補にあげられることになりました」


 テーブルの手前で足を止めた卯月選手は、落ち着き払った声でそのようにのたまわった。


「しかるのちに、日本の女子選手から候補者がリストアップされ……赤星道場所属の三名も、そこに名を連ねることになったのです。決して俺が、赤星道場の選手をコーチしたいと志願したわけではありません」


「おい、卯月。交渉を成立させたいなら、ちっとは空気を読んでくれよ」


 立松がげんなりした様子で口をはさむと、卯月選手は逞しい首をほんの少しだけ傾げた。


「ですが、事実関係は明らかにしておくべきでしょう。誤解を与えたまま、交渉を進めることはできません」


「ああもうわかったから、とっとと座れ。俺が説得役なんざを引き受けたことを後悔する前にな」


 すると卯月選手は、糸のように細い目を赤星弥生子のほうに向けた。


「弥生子。俺は座ってもいいのか?」


 赤星弥生子は背筋をのばしてソファに座したまま、卯月選手のほうを見ようともしなかった。

 そしてそのまま、感情を押し殺した声音で答える。


「数年ぶりに顔をあわせて……第一声が、その言葉か?」


「ああ。この家は、お前と親父のものだからな。俺が勝手に座ることは許されないだろう」


 そんな風に言ってから、卯月選手は同じ調子でつけ加えた。


「そういえば……最後に顔をあわせたとき、二度とこの家の門をくぐるなと言われていたな。お前の許しを得る前にのこのこと上がり込んでしまったが、やっぱり気分を害してしまっただろうか?」


「卯月……頼むから、空気を読んでくれ」


 立松が頭を抱え込んでしまうと、大江山軍造が面白くもなさそうに笑った。


「立松よ。お前さんが心配しなくても、俺たちは卯月がこういうやつだってことを嫌ってほどわきまえてるよ。こいつは七年前だか八年前だかにふらっと現れたときも、ずっとこんな調子だったんだからな」


「ああ、そうかい。だからこいつはいつまで経っても、あんたがたと和解できないってこったな。レムさんも、ずっとそのことを気にかけてたんだよ」


「レムの親父は、関係ねえさ。あいつがいようといなかろうと、こいつは家を出てたんだろうからよ」


 そんな風に言ってから、大江山軍造はぎょろりとした目で卯月選手をねめつけた。


「それで? 言いたいことがあるなら、遠慮なく言ってみろよ」


「はい。みなさんが俺に反感を抱いていることは、承知しています。ですがこれは、日本の女子選手にとって大きなチャンスでしょう。また、青田ナナさんやマリアさんが赤星道場の力を世間に知らしめたいと願っているなら、そちらの意味でも大きなチャンスとなるはずです。どうか俺に対する反感は一時的に保留して、この企画にご参加を願えないでしょうか?」


 その場に満ちた不穏な空気になどいっさい関心のない様子で、卯月選手はそのように言いたてた。

 卯月選手が淡々としていればいるほど、赤星弥生子の表情は冷たく研ぎすまされていく。それはまるで、世界そのものを拒絶しようとしているかのような迫力で――赤星弥生子のそんな姿が、瓜子を悲しい気持ちにさせてやまなかった。


 そんな中、立松は頭痛でも覚えたかのように眉間を押さえ、大江山軍造はげらげらと笑い始める。


「立松よ、匙を投げるなら今の内だぜ? こいつは、こういうやつなんだからよ」


「そういうわけにはいかねえよ。……ハリスさん。申し訳ないんだが、今度はあんたが席を外してくれねえか? こいつをどうにかしないことには、交渉もへったくれもないからよ」


「ショウチしました。ワタシのレンラクサキは、ウヅキがヒカえていますので」


 この静かな修羅場をにこやかな表情で見守っていたハリス氏は何の疑問も呈することなく、秘書とガードマンを引き連れてロビーを出ていった。

 あとは出入り口に立ちはだかっているガードマンを除けば、プレスマン道場および赤星道場の陣営、そして卯月選手ただひとりとなる。いまだソファに座ろうともしない卯月選手は、再び少しだけ首を傾げた。


「俺は何か、言葉を間違えてしまったでしょうか? よければ、ご教示をお願いします」


「あのなぁ。交渉を進める前に、何か言うことがあるだろうがよ? こんな最悪な空気の中で、まともに話を進められるとでも思ってんのか?」


「それはつまり、弥生子たちに謝罪をせよということでしょうか? もちろん俺は、弥生子を筆頭とする赤星道場の関係者に対して、非常に申し訳なく思っていますが……しかし、どれだけ頭を下げようとも、俺が赤星道場と《レッド・キング》を捨てたという事実に変わりはありません。失われた時間というものは、もう二度と取り戻すことができないのですから――」


「おいおい。そんな話は、お前さんの側がするもんじゃねえだろうがよ?」


「はい。それらはすべて、かつて弥生子から聞かされた言葉となります。俺には、反論の余地もありません」


 卯月選手のそんな言葉が、瓜子の理性の糸を呆気なく断ち切ってしまった。


「その言い草は、何なんすか! 卯月選手には、自分で物事を考える頭がないんすか!?」


 瓜子がいきなり大声をあげてしまったため、大江山軍造たちはぎょっとした様子で目を向けてきた。

 しかし一気に沸点を超えてしまった瓜子は、どうしても言葉を止めることができない。それぐらい、卯月選手の言い草が腹立たしくてならなかったのだ。


「そりゃあ弥生子さんは正しいことしか言ってないんですから、反論の余地もないでしょうよ! それで卯月選手は、すごすごと引き下がったんすか? 悪いのは全部自分だったって認めて、それでおしまいなんすか? そんなんで、仲直りなんてできるわけないじゃないっすか!」


「はい。ですが、俺がどれだけ謝罪しようとも、弥生子の鬱屈が晴れることはないでしょう。俺には、なすすべがありません」


「なすすべがなかったら、引き下がるんすか? だったら、和解することをあきらめたってことじゃないっすか!」


「……でしたら猪狩さんは、俺にどうしろと言うのですか?」


 百八十三センチの高みから、卯月選手はそのように反問してくる。

 それがあまりに腹立たしかったため、瓜子は自分も立ち上がることにした。


「そんなもん、他人に聞かないでくださいよ! 自分でおもいきり思い悩んで、あがけるだけあがいてください!」


「俺が、悩んでいないとでも? どうしてそんな風に決めつけるのですか?」


「悩んでるように見えないからっすよ! いつでもそんな無表情でぬぼーっと突っ立ってるから、弥生子さんたちを怒らせることになったんじゃないっすか?」


「それは、俺がそういう人間だからです。誰もが猪狩さんみたいに、素直に感情を出せるわけではないんです」


「そんなの、言い訳じゃないっすか! 申し訳ないと思ってるなら、申し訳なさそうな顔をしてくださいよ!」


「そんな上っ面の行為で、弥生子の怒りが収まるとは思えません。俺はもともと、感情が表に出ない人間なんです。そんな俺が無理やり申し訳なさそうな表情を作ったら、弥生子に気持ちが伝わるんですか? 弥生子はそんな、浅はかな人間ではありません。繰り返しますが、誰もが自然に感情を表面化できるわけではないんです」


 大きな石像のように立ち尽くしたまま、卯月選手はそのように言葉を重ねた。


「弥生子に許してもらえるなら、俺は土下座でも何でもします。でも俺は、土下座という行為に何の意味も見出していません。そんな俺が土下座をしたところで、弥生子を余計に怒らせるだけでしょう。弥生子は、そういう人間であるのです」


「なんでそんな風に、弥生子さんの気持ちを決めつけるんすか?」


「俺はこれでも、弥生子の兄であるからです。一緒に暮らしていたのは十八年間だけですが、たとえ何年たとうとも、人の本質は変わらないはずです」


「だったら今の弥生子さんを見て、何も感じないんすか?」


「感じています。弥生子がどれだけ怒り、どれだけ悲しんでいるか……嫌というほど感じています。そして弥生子をそこまで苦しめているのは、俺の存在であるのです。だから俺は弥生子の前に姿を出したくないのだと、合宿稽古の際に打ち明けたはずですね?」


「ええ、聞きましたよ! でも、弥生子さんに一生分怒ってもらって、それで仲直りしたいって言ってたじゃないっすか!」


「今はその時期ではないとも言ったはずです。こんなタイミングで和解しようと試みたら、まるで『アクセル・ロード』のために和解しようとしているかのようじゃないですか。そんなのは、余計に弥生子を苦しめるだけです」


「だったら――!」と瓜子が怒声をあげかけると、そこに「すとーっぷ!」というユーリの声が重ねられた。

 そして瓜子の身体が背後から、温かくてやわらかいものに抱きすくめられる。鳥肌の浮いた白い腕を見るまでもなく、それはユーリの感触であった。


「あのね、うり坊ちゃん! 他のみなさんがびっくりしちゃってるから、いったん落ち着いたほうがいいと思うの! 卯月選手も、どうぞ気をお静めくださいまし!」


「ええ。ですが俺はどれだけ気を昂らせても表面化できない人間ですので、心配はご無用です」


「でもでも、卯月選手は怒りの鉄拳を握っておられるのです! だからユーリも愛しいうり坊ちゃんを守るために、立ち上がらざるを得なかったのです!」


 卯月選手は小首を傾げてから、自分の右拳を見下ろした。

 岩のように厳ついその拳は、確かに筋が浮き上がるほど強く握りしめられている。それを糸のように細い目で確認した卯月選手は、無表情のまま身をのけぞらせた。


「本当です。……無意識の内に拳を握ることなど、生まれて初めての体験です」


「にゅっふっふ。それはきっと、うり坊ちゃんの絶大なる激情のうねりに巻き込まれたゆえでありましょう」


 そんな風に言いながら、ユーリは瓜子の頭に頬ずりをしてきた。

 その腕の鳥肌が、いよいよくっきりと粒だっていく。そうしてユーリはぶるっと肢体をくねらせてから、名残惜しそうに瓜子の身を解放した。


「いやぁ、驚いた……卯月のやつがこんなムキになって喋りたおす姿を見たのは、初めてのこったよ」


 そんな風に言いたてたのは、大江山軍造であった。その顔は赤鬼のごとき笑みを消し去って、呆れ果てたような表情を浮かべている。

 青田コーチと青田ナナは困惑の念をこらえるように眉をひそめており、マリア選手は驚嘆の表情、そして大江山すみれはわずかに見開いた目で瓜子の姿をまじまじと見つめていた。

 そんな中、赤星弥生子は――折り目正しく座したまま、その切れ長の目をまぶたに隠している。若武者のように凛々しい顔には、とても静かな表情がたたえられていた。


「それに、猪狩さんも大層な爆発っぷりだったな。猪狩さんのほうこそ卯月に殴りかかるんじゃないかって、ひやひやしちまったよ」


「……すいません。どうしても、黙っていられなかったので」


 ユーリのおかげで沈静化した瓜子は、とてつもない後悔と羞恥心を抱え込むことになってしまった。


「部外者の自分が取り乱してしまって、本当に申し訳なく思っています。……卯月選手も、申し訳ありませんでした」


「謝罪には及びません。それに、言葉だけの謝罪に意味はないでしょう。猪狩さんがまだ俺に腹を立てていることは、顔にくっきりと書かれていますので」


「それはその通りですけど、自分なんかが卯月選手を怒鳴りつける筋合いではありませんでした。そのことだけは、心からお詫びします」


「ああ……俺は弥生子だけじゃなく、猪狩さんまでそんなに怒らせてしまったのですね。本当にもう、どうしようもないほど居たたまれない気持ちです」


 そんな風に言いながら、卯月選手は珍しくも嘆息をこぼした。

 すると――瓜子の向かいから、「くっ」という奇妙な声が聞こえてくる。

 瓜子が目をやると、赤星弥生子が目を閉じたまま、自分の口もとに手をやっていた。


「お前がそんなに気落ちする姿を見るのは、初めてだ。……まったく、ざまはないな」


 赤星道場の面々が、仰天した様子で赤星弥生子を振り返る。

 おそらく、赤星弥生子は――手の平の下で、笑いを噛み殺しているのだ。

 卯月選手は数ミリだけ眉尻を下げながら、そんな赤星弥生子の姿を見下ろした。


「俺がぶざまなことは、隠しようもない事実だろう。ただ……お前にお前呼ばわりされると、とても胸が苦しいのだが」


「お前だって、私をお前呼ばわりしているじゃないか。家族の縁を切った人間に、文句をつけられる筋合いはない」


 口もとを手の平で隠したまま、赤星弥生子は逆の手で空いているソファを指し示した。


「とにかく、座れ。お前のように図体のでかい人間に立たれていると、目障りだ」


「……では、俺の話を聞いてくれるのか?」


「『アクセル・ロード』について、聞かせてもらおう。もちろん私は辞退させてもらうが、ナナとマリアには交渉の余地があるのだろう?」


 そう言って、赤星弥生子はようやく目を開き、口もとから手を離した。

 その切れ長の目には澄みわたった光がたたえられており、口もとは凛然と引き締められている。ここ最近では瓜子にとってもっとも見慣れている、赤星弥生子の沈着で凛々しい表情だ。


「ナナ、マリア。さっきは道場主としての責任を放棄しようとしてしまい、すまなかった。しかし、私の本心はさっき語った通りとなる。私のことなどはかまわずに、自分にとってもっとも望ましい決断をしてほしい」


「……本当に、それでいいんだね?」


 青田ナナが鋭く問い返すと、赤星弥生子は「うん」と静かに応じた。


「もちろん、ナナとマリアのどちらかが《アクセル・ファイト》と正式に契約を交わすことになって、《レッド・キング》に出場できなくなってしまったら、私としても忸怩たる思いだが……だけど以前から言っている通り、みんなには自分の可能性を極限まで広げてもらいたいと願っている。そうしてみんなが外部で活躍するたびに、《レッド・キング》と赤星道場の存在価値が証明されるはずだ」


「わかった」と、青田ナナは力強くうなずいた。

 マリア選手もまた、輝くような笑顔で首肯する。

 すると、ソファに着席した卯月選手が「しかし」と声をあげた。


「俺は猪狩さんや立松さんに和解をしろと責めたてられた。それを無視して話を進めてもいいものなのだろうか?」


「……お前は本当に、空気の読めない人間だな」


 赤星弥生子は凛然とした表情のまま、卯月選手を見返した。


「そんな話を蒸し返していたら、一生話を進めることはできないぞ。私は絶対に、お前と和解する気などないのだからな」


「いや、しかし……」


「ハリス氏とやらを呼び戻すといい。いったいどのような条件であるのか、じっくり聞かせていただこう」


 卯月選手は再び嘆息をこぼしながら、携帯端末を取り出した。

 そんな中、赤星弥生子が瓜子の顔を見つめてくる。

 その薄くてなめらかな唇が、「ありがとう」という形に動かされたような気がした。

 それで瓜子は人目もはばからずに暴走してしまったという自責の念を、ほんの少しだけやわらげることがかなったのだった。

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