02 赤星家の確執

 千駄ヶ谷との面談は、驚くほどスムーズに終了した。

 とはいえ、千駄ヶ谷が最初から最後まで凍てついた眼差しを保持していたことは予想の通りである。しかし千駄ヶ谷は氷の魔女のごとき迫力を漂わせつつ、決してユーリの決断を非難しようとはしなかったのだった。


「……猪狩さん。二年と二ヶ月ほど前に交わした会話をご記憶されているでしょうか?」


「え? え? いったい何のお話っすか?」


「誰よりも華やかなスター性を有するユーリ選手が確かな実力をも示すことがかなったなら、女子格闘技界の歴史をも動かすやもしれないといった内容の会話です。ユーリ選手はこの二年ほどで、十分に歴史を揺るがしたように思いますが……まだまだ激動のさなかであるというわけですね」


 そんな風に述べたてながら、千駄ヶ谷は絶対零度の眼差しで瓜子とユーリを見比べてきた。


「ユーリ選手の影響力が国内のみに留まらず、北米にまで及んだことを、心から喜ばしく思います。……『アクセル・ロード』へのご出場おめでとうございます、ユーリ選手」


「は、はいぃ……ですがユーリは、千さんの迫力に背筋が凍る思いなのですけれども……」


「左様ですか。しかし私は、貴女の決断に不満を抱いているわけではありません。今後のスケジュール調整と『アクセル・ロード』への対処について、考えを巡らせているのみです」


「ふにゅ? 『アクセル・ロード』への対処と申しますと……?」


「『アクセル・ロード』は、テレビ番組であるのですよ? ユーリ選手がこちらのコントロールの及ばない場所において、テレビカメラの前にさらされてしまうのです。そこで大きな失敗を犯せば、ユーリ選手のブランドイメージが著しく損なわれてしまう恐れもありましょう。幸い、時間はありますので、ユーリ選手が渡米するまでに対策案を捻出しようかと思います」


「はあ……他の方々の返答次第では、企画そのものが白紙に戻される可能性もあるようですけれども……」


「だからといって、手をこまねいているわけには参りません。すべての雑事はこちらに任せて、ユーリ選手は心置きなく『アクセル・ロード』において実力を発揮できるように取り計らいください」


 そんな言葉で、千駄ヶ谷との面談は締めくくられることになった。

 スターゲイトの本社ビルを出たユーリは、水を吸ったマシュマロのようにくんにゃりしてしまっている。


「にゃんだかごっそり精神力を削られた心地であるのです……ううう、お稽古に励んでリフレッシュしたいにゃあ」


「それじゃあ、お昼を食べたら道場に向かってみますか。きっと立松コーチも、道場で待機してるんでしょうしね」


「わーい、いくいくー! ちょっとでもお時間があったら、稽古をつけていただこー!」


 そうしてランチを腹に収めたのち、プレスマン道場まで出向いてみると、瓜子の予想通り立松が先んじていた。


「なんだ、こっちに来ちまったのか。ちょうど今、連絡を入れようと思ってたところだ。赤星道場の連中は、四時頃なら全員そろうそうだぞ」


 それならば、三時間近くの猶予が生まれることになる。ユーリの希望通り、その時間はぞんぶんに汗を流すことができた。タイトルマッチを終えたばかりの瓜子までもがトレーニングウェアに着替えるさまを見て、立松は苦笑していたものである。


 そうして、午後の三時半――瓜子たちがシャワーを浴びて私服に着替えたタイミングで、卯月選手たちがやってきた。赤星道場までは、ハリス氏の準備したハイヤーで送られることになったのだ。


「卯月の言う通り、弥生子ちゃんの気持ちをなだめるには猪狩の存在が一番だろう。せいぜいにこにこ笑って、弥生子ちゃんを和ませてやれよ」


「はあ……卯月選手の隣でにこにこ笑ってたら、自分まで弥生子さんに嫌われちゃいそうな気がするんすけど……」


「そいつはもっともだ。だったら、弥生子ちゃんの目の前で、卯月をぶっ飛ばしてやるべきか」


「いやいやいや! 相手は日本人最強ファイターっすよ? こっちが殺されちゃいますって!」


「冗談だよ。お前さんは、猫じゃらしとしての役目を全うしてくれりゃあいい。……ま、相手は猫じゃなくって大怪獣だけどな」


 ほとんど振動を感じさせない立派なシートに収まりながら、瓜子は珍しくも立松の顔をにらむことになった。


「立松コーチはいつになく軽口を連発してますね。……さては、まだまだ浮かれモードなんすか?」


「バレたか。桃園さんはこの申し出を断るんじゃないかって、半分がた覚悟を固めてたからよ」


 立松が照れくさそうな顔で笑うと、瓜子をはさんで反対側に座していたユーリも楽しそうに「にゃはは」と笑った。

 そうして二台のハイヤーは、赤星道場の駐車場に到着する。

 もう片方のハイヤーから卯月選手が降りてくると、立松はあらためてその姿をねめつけた。


「なあ。お前さんは、数年ぶりのご対面なんだろ? やっぱりこの際は、引っ込んでおいたほうがいいんじゃねえのか?」


「いえ。俺がこの場に立ちあわなければ、弥生子はいっそうの怒りをかきたてられることでしょう。弥生子は、そういう気性であるはずです」


「そうかい。だけど俺は、お前さんを同行させるとは伝えてねえんだよ。そこでいきなりお前さんが現れたら、弥生子ちゃんたちも動揺しちまうんじゃねえのかな」


 そう言って、立松は親指でハイヤーのほうを指し示した。


「まずは俺から、弥生子ちゃんたちに事情を説明する。それで、必要だったらお前さんにご登場を願うってことにしねえか?」


「……立松さんがそのようにご判断したのなら、従いましょう」


 卯月選手はまったく感情を覗かせないまま、ハイヤーに逆戻りした。

 これで残るはハリス氏と、秘書らしき人物とガードマンらしき人物の三名だ。そちらにうなずきかけてから、立松は赤星道場の入り口へと足を向けた。


 瓜子たちが日中にこの場所を訪れるのは、赤星大吾の経営する『オラ!ホロ』にお邪魔した日以来である。用件が用件だけに、瓜子はむやみに心臓が騒いでしまった。


 立松は恐れげもなく出入り口のドアを開いて、「邪魔するぜ」と挨拶をした。

 すると、受付のカウンターでノートパソコンを操作していた若者が「いらっしゃいませ」と笑顔を返してくる。


「プレスマン道場の、立松さんですよね? 師範たちは、五階のロビーでお待ちです」


「そうかい。ありがとよ」


 立松に続いて瓜子たちも足を踏み入れると、若者の目がきょとんと見開かれる。キャップと黒縁眼鏡とマスクで人相を隠したユーリはともかく、その後に三名もの外国人男性が続いたのだ。しかもその内のひとりはヘビー級サイズのガードマンであるのだから、いったい何事かと思っていることだろう。


 そんな若者に見送られながら、一行はエレベーターへと乗り込む。

 五階というのはこの雑居ビルの最上階で、赤星家の人々の居住フロアであるはずであった。

 エレベーターを降りた立松は、迷う素振りもなく無人の廊下を突き進んでいく。コンクリの壁に鉄製のドアが並んだその場所は、マンションのような造りをしている。赤星弥生子や赤星大吾や六丸は、それぞれ別々に暮らしているのだろう。そしてかつては、卯月選手もこの場所で暮らしていたはずであった。


 その廊下の突き当たりにあるドアは、屋上への出入り口である。かつて瓜子はこのドアをくぐって、赤星弥生子と二人きりで語らうことになったのだ。

 そのドアを黙殺して、立松は廊下を右に折れた。ロビーとやらは、その向こう側に待ちかまえていたのだ。


「よう、待たせたな。いきなりの呼び出しに応じてもらえて、感謝してるよ」


 立松が、気安い調子で挨拶をする。

 ソファやテーブルの置かれた十二帖ていどの空間に、赤星道場の関係者が居並んでいた。

 赤星弥生子、大江山軍造、青田コーチ――青田ナナ、マリア選手、大江山すみれ――マリア選手を除けば、昨日顔をあわせたばかりの面々だ。しかも昨日は祝勝会までご一緒したため、半日ていどしか経過していなかった。


「昨日の今日でお前さんがたを迎えることになるとは、さすがに予想できなかったぜ。何か不穏な用件じゃなければいいんだがな」


 大江山軍造は陽気に笑いながら、娘のツインテールにした頭に手を置いた。


「そっちのご指名にすみれの名前は入ってなかったけど、同席を許してもらえるかい? こいつも気になって、稽古どころじゃないだろうからよ」


「かまわねえよ。どうせあんたは、こんな話を娘さんに黙っていられる性分じゃないだろうからな」


 両名の言葉を聞きながら、赤星弥生子はとても静かに瞳を光らせている。

 青田コーチはいつも通りに冷徹な面持ちで、青田ナナはうろんげな表情、マリア選手はきょとんと目を丸くしている。そして誰もが、瓜子たちの背後に立ち並ぶハリス氏の一行を気にしている様子であった。


「それで……いったいどういったご用件でしょうか? そちらに見慣れない方々も控えているようですが」


 赤星弥生子が沈着なる声音で問い質してくると、立松は「そうだな」と頭をかいた。


「俺は腹芸なんてできねえし、そんなもんはするつもりもねえ。こちらのお人は、《アクセル・ファイト》のアジア地区のブッキングマネージャーで、ハリスさんだよ」


《アクセル・ファイト》のひと言で、青田ナナの目に闘志の炎が燃えあがった。

 それをなだめるように笑いながら、立松は空席のソファを指し示す。


「とりあえず、こっちも座らせてもらうぜ。とうてい立ち話では済まない用件なんでな」


 四人掛けの大きなソファに、ハリス氏、立松、瓜子、ユーリの順番で腰を下ろす。秘書とガードマンは、またソファの背後で待機の構えだ。

 それに向かい合うのは赤星弥生子と大江山軍造と青田コーチで、三名の女子選手は横からこの対峙を見守るポジションである。

 こちらの全員が腰を下ろすのを待ってから、立松は「さて」と声をあげた。


「それじゃあ、単刀直入に言わせてもらうぜ。《アクセル・ファイト》の運営陣は今年の九月、女子選手による『アクセル・ロード』を企画してる。その候補者に、うちの桃園さんと――それに、弥生子ちゃんとナナ坊とマリア嬢ちゃんも選ばれたって話なんだよ」


 青田ナナはいっそう猛烈に眼光を燃やし、マリア選手は瞳を輝かせた。

 しかし赤星弥生子は、冷たいほどの無表情だ。そしてそのしなやかな肢体には、初めて出会ったときと同じぐらいの勢いで雷光のようなオーラが駆け巡っているように感じられた。


「それは、光栄な申し出です。ですが……どうしてプレスマン道場の方々が、《アクセル・ファイト》の関係者と同行されているのですか?」


「お前さんの不肖の兄貴に、お願いされたからだよ。……その『アクセル・ロード』に参加する日本人選手のコーチ役を務めるのは、卯月のやつなんだ」


 この言葉には、大江山軍造と青田コーチが大きく反応した。


「よりにもよって、卯月かよ! ずいぶんとまた、愉快な真似をしてくれるもんだな!」


「まったくだ。まるで俺たちに嫌がらせをしているかのようだな」


 すると赤星弥生子が、感情の欠落した声音で両者をたしなめた。


「それはあまりに、不遜な物言いだろう。外部の人間にとっては、赤星道場とあいつの確執など知ったことではないのだからな。……だけどそれで、立松さんのお立場がわかりました。あいつは立松さんたちに、説得役などをお願いしたわけですね」


「ああ。俺たちは、赤星道場と卯月の確執を嫌ってほど思い知らされてるからな。その上で、『アクセル・ロード』に参加してもらえるかどうか……こっちの都合も相まって、説得役を引き受けることになったんだよ」


「……そちらの都合とは?」


「『アクセル・ロード』の候補者は十人いるんだが、その内の八名が出場しない限り、この話は白紙に戻されちまうんだ。で、赤星道場からは三名の選手が選ばれてるから、最低でもひとりは出場してもらわねえと、このチャンスは韓国の選手陣に流されちまうわけだよ」


 立松の明け透けな物言いに、赤星弥生子は「なるほど」と首肯して――そして、ソファから立ち上がった。


「では、私は席を外させていただきます。後の交渉は、ナナたち本人とお願いします」


「待った待った! 弥生子ちゃんは、赤星道場の責任者だろうがよ? そもそも弥生子ちゃんだって候補者のひとりなんだから――」


「私は、お断りします。私は北米の興行に、一切の興味を持っていませんので」


《アクセル・ファイト》は専属契約であるため、そちらと契約すると《レッド・キング》で試合を行えない立場となる。ゆえに、赤星弥生子が参加を辞退するのも致し方のない話であったが――もちろん、立松も引き下がろうとはしなかった。


「弥生子ちゃんが参加を辞退するってのは、いっこうにかまわねえよ。でも、弥生子ちゃんは道場主として、この交渉を見届けるべきだろう?」


「いえ。むしろ私の存在などは、邪魔にしかならないことでしょう。ナナとマリアが心置きなく決断できるように、私は席を外すべきだと思います」


 そうして立松のほうを見据えたまま、赤星弥生子は言葉を重ねた。


「ナナ、マリア。私のことにはかまわずに、自分にとってもっとも望ましい決断をしてほしい。師範代と青田コーチは、ナナたちのサポートをよろしくお願いする」


 青田ナナは無念そうに目を伏せて、マリア選手はしょんぼりと肩を落とした。

 その姿に、立松はいっそう慌ててしまう。


「ちょっと待ってくれよ、弥生子ちゃん。この二人がどれだけ弥生子ちゃんのことを慕ってるかは、わかってるだろ? 弥生子ちゃんがそんな態度だったら、この二人だって『アクセル・ロード』に参加しようって気にはなれねえよ」


「そんなことはありません。私は、二人を信じています」


 そうして赤星弥生子がきびすを返そうとしたため、瓜子も黙ってはいられなくなった。


「待ってください、弥生子さん! もしかして弥生子さんは、卯月選手がこの場に同席しなかったことを怒っているんですか?」


「……そうかもしれないね」と、赤星弥生子は低い声でつぶやきながら、自分の胸もとの生地をつかんだ。


「あいつの無責任さを思い知らされたような心地で、さっきから居たたまれないんだ。こんな私がそばにいても、ナナとマリアに悪い影響を与えるだけだろう。だから私は、席を外させてもらいたい」


「卯月のやつなら、駐車場に居残ってるよ! 俺がそうするように言いつけたんだ!」


 立松が言葉を重ねると、赤星弥生子はびくりと立ちすくんだ。

 そして、大江山軍造が呆れ果てたようにがなり声をあげる。


「卯月の野郎が来てるって? だったらどうして、顔を見せねえんだよ?」


「あいつがいきなり姿を出したら、あんたがたも冷静ではいられないかと思ってよ。こいつは余計な気遣いだったか?」


「いやあ、いきなり卯月の面を拝んでたら、他の話は耳に入らなかったかもしれねえな」


 そんな風に言いながら、大江山軍造はにやりと口角を上げた。

 まさしく、赤鬼のごとき笑顔である。


「だったら、卯月の野郎を呼んでくれ。あとの話は、それからだ。……すみれ、ナナ、いきなり殴りかかったりするんじゃねえぞ?」


「わたしが卯月さんを殴る理由はないよ」と笑顔で応じつつ、大江山すみれはいつも以上に内心が知れなかった。

 そのかたわらで、青田ナナは爛々と両目を燃やしており――マリア選手はひとりであわあわとしながら、そんな両名の姿を見比べている。

 そしてソファから立ち上がったままであった赤星弥生子は、完全な無表情で虚空をにらみ据えていたのだった。


「それじゃあ、卯月を呼ぶからな。本当に、乱闘騒ぎとかは勘弁してくれよ?」


 そんな風に言ってから、立松は携帯端末で卯月選手を呼び出した。

 その間に、大江山軍造は赤鬼の笑顔で赤星弥生子に呼びかける。


「師範もとりあえず、腰を落ち着けろよ。あいつの面を拝むまでは、席を外すこともできねえだろ?」


 赤星弥生子は無言のまま、もとの席に腰を下ろした。

 ただその身から放たれる青白いオーラは、今にもバチバチと放電しそうな気配である。その姿は、やはり初対面のときと同じぐらいの威圧感を有しており――そして今の瓜子には、痛ましく思えてならなかった。


 卯月選手がいなくなってしまったために、赤星弥生子はひとりで赤星道場と《レッド・キング》を守ることになったのだ。

 十六歳という若さでデビューをして、男子選手ばかりを相手取り――陰では八百長のインチキファイターと罵られながら、十年以上も孤独に闘い続けてきたのである。


 そのいっぽうで、卯月選手は《JUF》で活躍し、スター選手となりおおせた。《JUF》の壊滅後はしばし沈下していたものの、現在は《アクセル・ファイト》のトップファイターとして返り咲いている。一回の試合で何十万ドルというファイトマネーを頂戴し、専属のガードマンをつけて、高級ホテルのスイートルームに滞在するような身分であるのだ。三百人の規模の会場で興行を行い、財政を支えるために屋台まで出している《レッド・キング》とは、比較にならない世界であろう。卯月選手は赤星道場と《レッド・キング》を捨てることで、それだけの栄光をつかむことに相成ったのだった。


(卯月選手と和解しろなんて、そんなことは軽々しく口にできないけど……でも、このまま放っておいていい話じゃないはずだ)


 そんな思いを抱えながら、瓜子は赤星弥生子の気迫に満ちた姿を見守ることになった。

 そして――廊下の向こうから、ついに卯月選手が姿を現したのだった。

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