ACT.6 新たな道へ

01 契約

《フィスト》五月大会の翌日――五月の最終月曜日である。

 瓜子とユーリは立松とともに、卯月選手と《アクセル・ファイト》のブッキングマネージャー・ハリス氏が滞在するホテルの一室を訪れることになった。


「そうですか。ユーリさんは、『アクセル・ロード』に出場する決断を下してくれたのですね」


 八日前と同じ部屋、同じソファに座しながら、卯月選手は内心のうかがえない無表情でそう言った。


「ユーリさんの決断を、心から嬉しく思います。ユーリさんであれば、きっとトーナメントを優勝して《アクセル・ファイト》との正式な契約を勝ち取ることがかなうでしょう。俺もコーチ役として、全力でサポートします」


「オウ、ウヅキ。エコヒイキはダメですよ?」


 ハリス氏が柔和な笑顔でたしなめると、卯月選手はお地蔵様のごとき面持ちで「もちろんです」とうなずいた。


「ですが、全日本人選手の中で、ユーリさんのポテンシャルが際立っていることは事実です。まあ、弥生子が参加すれば、その限りではありませんが……彼女は天地がひっくり返っても、このようなイベントには参加しないでしょうからね」


「それはザンネンです。ワタシはユーリとヤヨイコのシアイこそが、フタリのベストバウトだとオモっています。ユーリとヤヨイコのタイセンであれば、《アクセル・ファイト》のカンキャクたちをココロからマンゾクさせることがデキるでしょう」


 そんな風に語らいながら、ハリス氏はテーブルの上に書類の束を並べ始めた。いずれも日本語で記載されているようだが、なかなか膨大な量である。


「では、こちらが『アクセル・ロード』にサンカするためのケイヤクショです。こちらのケイヤクがテイケツされたノチに、ホカのニホンジンジョシセンシュにタイするスカウトをカイシいたしますので、どうぞゴカクニンをおネガいいたします」


「にゅにゅ? この契約書にすべて目を通さなければならないのですか? ユーリは、その……三行以上の文字を読んでいると、猛烈な睡魔に見舞われてしまうのですけれど……」


「しかたねえな。俺がしっかり確認してやるよ」


 立松が苦笑をしながら、書類の束を手に取った。

 今はいつも通りの様子であったが、昨晩の別れ際にユーリが決断の内容を伝えると、立松は大いに昂揚しながらユーリの手をつかんでしまい、大慌てで謝罪することになったのだ。それぐらい、立松もユーリに期待をかけてくれていたのだった。

 そうして立松が分厚い契約書に目を走らせていると、卯月選手が「ところで」と声をあげてくる。


「今後のスカウトに関して、みなさんにご相談があるのですが……赤星道場の面々に話を通す際、みなさんにもご同行を願えないでしょうか?」


「うん? お前さんに対する反感を気にしてるのか? だったらそちらのマネージャーさんにお願いして、お前さんは引っ込んでおけばいいだけのこったろ」


「いえ。俺がコーチ役である以上、どうしたって反感の思いはつきまとうはずです。それで弥生子ばかりでなく、青田さんやマリアさんにまで出場を拒否されてしまったならば、日本人選手の登用そのものが白紙に戻される恐れがあるのですよ」


「ふん。この契約書にも、しっかり記載されてるな。候補者十名の内、三名以上のキャンセルが出た場合は、この契約を無効とするってか」


 立松は手の甲で、分厚い契約書をパンと叩いた。


「つまり、この十人の他に、『アクセル・ロード』に相応しい選手は発掘できなかったってわけか?」


「ええ。この十名が、最低ラインです。これより実力で劣る選手には、シンガポールの選手陣に勝利できる可能性も皆無でしょう」


「ふん……それでそちらさんは、上から順番にスカウトしていく手はずなんだよな? その番付ってのは、どうなってるんだ?」


「……みなさんが赤星道場門下生のスカウトにご協力くださるなら、臨時の関係者として一部の情報を開示することも許されるかと思われます」


「相変わらず、のほほんとした顔で食えねえ野郎だな」


 立松は、横目で瓜子たちをねめつけてきた。


「どうするね? 俺は、お前さんがたの判断に従うよ」


「押忍。自分はもちろん、かまいませんけど……でも、自分たちでお力になれますか? 正直に言って、自分もユーリさんも青田ナナさんとはそれほど友好的なおつきあいじゃないんすけど……」


「重要なのは、弥生子の心情です。もし赤星道場の面々がこれまで通りの関係性を継続しているならば、青田さんもマリアさんも弥生子の心情を一番に慮ることでしょう。ですから、弥生子と親密な関係を築いているという猪狩さんのお力が必要であるのです」


 瓜子は眉を下げながら、「はあ」とうなずくしかなかった。


「そうまで仰るなら、微力を尽くそうかと思いますけど……ユーリさんも、それでいいっすか?」


「もちのろん! 死ぬ気で決断したというのにイベントそのものが白紙になっちゃったら、ユーリは虚脱の極致でありますわん」


 ユーリはにぱっと笑いながら、そんな風に言っていた。

 またいつもの調子で、つらい話は頭の外に締め出しているのだろう。『アクセル・ロード』の開催は三ヶ月以上も先の話であるのだから、今から瓜子との別れを気に病んでいては身がもたないはずであるのだ。


(今回だけは、ユーリさんの特殊な精神構造がちょっぴり羨ましいな)


 しかし瓜子は、ユーリの決断を全力で応援すると決めたのだ。

 瓜子はすべての気力を振り絞り、ユーリを安心させるための笑顔を返してみせた。


「それじゃあ、決まりだな。この契約がまとまったら、今日にでも出向いてやるよ。……で、候補者の番付ってのは、どんなもんなんだ?」


「実は昨日の《フィスト》における試合によって、番付が一部変更されました。変更後の番付は……ユーリさん、弥生子、青田ナナ、宇留間千花、鴨之橋沙羅、鬼沢いつき、多賀崎真実、御堂美香、沖一美、羽田真理亜という順番になります」


「ほう。宇留間や鬼沢ってのは、《フィスト》の王者である多賀崎さんより上なのか」


「はい。多賀崎さんは、あくまで五十六キロ以下級の王者ですからね。宇留間に鬼沢という選手は六十一キロ以下級で確かな実績を残していますし……宇留間選手に至っては、ユーリさんと弥生子に次ぐポテンシャルを有しているかと思われます」


「あんな力任せの大暴れは、MMAと見なす気にもなれねえがな。ま、テレビ番組ならイロモノ枠も必要か。……しかしそうすると、たとえ弥生子ちゃんが参戦しなくても、マリア嬢ちゃんは出場できない可能性があるわけだな」


「ええ。この近年は、彼女も結果を残せていませんので。……試合内容を鑑みると、マリアさんも多賀崎さんや御堂さんに負けないポテンシャルを感じるのですけれどね。そうすると、あとは試合結果で判ずる他ありません」


「了解したよ。……とりあえず、契約書の内容に不備はないようだ」


 立松は書類の束をそろえてから、よく光る目で卯月選手の顔をねめつけた。


「ただ、桃園さんに確認しておくことがある。サインをさせるのは、その後だ」


「ええ、どうぞ。俺たちは、席を外すべきでしょうか?」


「ただ日程の確認をしたいだけだから、聞かれてまずいことはねえよ」


 そう言って、立松は同じ眼差しのままユーリを振り返った。


「桃園さん。合宿所にこもる期間は二ヶ月間だが、実質的な拘束期間はまるまる三ヶ月ぐらいになる。それでも、問題はないか?」


 ユーリはくにゃんと弛緩しかけてから、慌てて背筋をのばした。


「それは、どういったお話でありましょう? 詳しくご説明を願いたいのです」


「これはあくまで決勝戦まで勝ち進んだときの話だから、そのつもりで聞いてくれ。……まずな、合宿所に入るのは九月の第二週からだが、その前に現地で一週間ぐらいは調整期間を作るべきだろう。何せ合宿所のあるラスベガスってのは、湿度10パーセント以下の砂漠気候ってやつだからな。日本の湿度に慣れてる人間は、油断するとすぐに咽喉をやられちまうんだよ。あとは時差ボケの問題もあるし、最低でも一週間、欲を言えば二週間ぐらいのゆとりをもって前乗りしたいところだな」


「ふみゅふみゅ……」


「で、トーナメントの決勝戦が行われる《アクセル・ファイト》の興行は、合宿所を出て十一日後の、十一月最終日曜日だ。たったそれだけの期間じゃあ日本に舞い戻る猶予もないから、九月の頭から十一月の終わりまで、まるまる三ヶ月ぐらいを北米で過ごすことになるわけだな。……このスケジュールで、問題はないか?」


 ユーリは固く目をつぶり、大きく息を吸い込んでから、「はい」と答えた。


「たった今、覚悟完了いたしました。ユーリはきっかり三ヶ月間をアメリカで過ごす覚悟でございます」


 厳しい表情をした立松は、眼差しだけを優しくやわらげながら、「よし」とうなずいた。


「それじゃあ、この契約書に問題はない。思うぞんぶん、サインをしてやりな。……ああ、いちおう言っておくが、トーナメントの一回戦目で敗退しても三、四週間は戻ってこられない計算になるから、そのつもりでな」


「にゃっはっは。どのような結果になろうとも、ユーリは死力を尽くす所存でございまする!」


 ユーリはペンを取り、ハリス氏の指し示す場所に次々とサインをしていった。

 これにてユーリは、『アクセル・ロード』に参戦することが決定されたのである。

 あとは、残りの選手たちの返答次第であった。


「コングラチュレーション。アナタのサンセンをココロからカンゲイします、ユーリ・モモゾノ」


 ハリス氏が握手を求めたため、ユーリは迷わずその手を握った。そして、テーブルの下で鳥肌の浮いた手の甲を撫でさする。


「俺も、心から嬉しく思います。では、赤星道場に関しては……やはり、夜を待つべきでしょうか?」


「俺にだって道場の仕事ってもんがあるんだぞ。夕方までに関係者をそろえられるかどうか、こっちでアポを取っておくよ。ここでのんびり、連絡を待ってろや」


「承知しました。では、またのちほど」


 こういう際には、外見通りに淡泊な卯月選手である。瓜子たちは契約書の控えを押し抱きつつ、高級ホテルのスイートルームから辞去することになった。


「ああ、やれやれ。すっかり肩が凝っちまったな。……でも俺も、桃園さんの決断を嬉しく思ってるよ」


「はい。ユーリが何とか勝ち抜けるように、ゴシドーゴベンタツよろしくお願いいたしまする」


「ああ。こっちも死ぬ気で、サポートさせていただくよ」


 エレベーターに乗り込みながら、立松はとても満足そうな顔で笑っていた。


「それじゃあ俺は、赤星道場に連絡を入れておくからな。そっちは、千駄ヶ谷さんとの対決が待ってるんだろ?」


「うにゃー! それが最大の試練であるのです! 朝の内に、ほんのり事情は伝えているのですけれども、いったいどれだけ凍てついた眼差しが待ち受けているものか……うり坊ちゃんが、頼みの綱ですぅ」


「はいはい。ユーリさんの盾になって、氷漬けになる覚悟っすよ」


 ユーリに合わせて、瓜子は気安く笑ってみせた。


「でも、ユーリさんの本業にあわせて副業のマネージメントをするのが『スターゲイト』の役割なんすからね。どんなに本業が忙しくなったって、千駄ヶ谷さんに文句をつけられるいわれはないっすよ」


「ほへー。うり坊ちゃんは、そんな強気で千さんと対決する覚悟でありますの?」


「まさか。土下座でも泣き落としでも何でもする覚悟っすよ」


 瓜子のおどけた返答に、ユーリも「あはは」と笑ってくれた。

 それから、ふっと透き通った眼差しで瓜子を見つめてくる。


「それにしても、九月の頭から十一月の終わりまで日本に戻ってこられないのかぁ。……うり坊ちゃんの試合を二回も見逃すことになるなんて、泣いて馬謖を斬る覚悟でしたわん」


「だから、馬謖を斬る必要はありませんって。……そもそも、そんな先の興行に自分が出場できるかどうかは未確定っすよ」


「《アトミック・ガールズ》を盛り上げるのに、うり坊ちゃんの存在は必須でありましょう。北米にて、うり坊ちゃんの激烈な勝利を祈っているのです」


 そのように語るユーリの目には、ほんの少しだけ透明の涙が浮かべられていた。

 よって瓜子も、同じだけの涙を誘発されてしまい――二人は涙をこぼすことなく、ただ潤んだ瞳でおたがいの顔を見つめることになったのだった。

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