04 潮流

 瓜子の暴走というハプニングを乗り越えて、青田ナナとマリア選手の両名は『アクセル・ロード』に参戦することが決定された。

 ブッキングマネージャーのハリス氏を呼び出して、契約内容を吟味したのち、両名は契約書にサインをすることに相成ったのである。


 もちろん候補者リストの末席であるマリア選手に、現時点で参加資格は与えられていない。が、『アクセル・ロード』においては負傷欠場する選手も少なくないため、補欠の人員を確保する必要があるのだそうだ。それでマリア選手も、輝くような笑顔で契約書にサインをしていたのだった。


 その後の進展は、実にスムーズなものであった。

 優先度の高い順に、候補者との交渉が進められ――一週間も経たない内に、赤星弥生子を除く九名から契約を取りつけることがかなったのだ。


 これにて、本年度の『アクセル・ロード』は日本とシンガポールの選手陣で執り行われることが決定された。

 瓜子は風聞で聞くばかりであったが、ハリス氏は至極満足そうな面持ちで北米に帰還したとのことである。


 その内容が世間に公表されるのはこれより一ヶ月と少しの後、七月を迎えてからとなる。

 それまでは、絶対の秘密である。信用の置ける相手に事情を打ち明けることは許されていたが、もしもSNSやマスコミ関係者などに秘密を漏洩させたならば重い罰金が課せられることも、契約書にはしっかり記載されていた。


「ああもう、こんなものすごい話を一ヶ月以上も黙ってろだなんて、ほとんど拷問だよねー! さっさと解禁されないかなー!」


 そんな風に騒いでいたのは、灰原選手である。出場選手である多賀崎選手と同門である灰原選手には、もちろんその日の内に事情が打ち明けられることになったのだ。


 そしてプレスマン道場の陣営は、パラス=アテナの駒形氏にも事情を打ち明けることに相成った。ユーリを筆頭とする有力選手がしばらく《アトミック・ガールズ》に出場できなくなってしまうのだから、パラス=アテナにしてみれば死活問題であるのだ。立松が電話でそれを伝えた際、駒形氏は通話口の向こうで卒倒しそうになっていたようだとの話であった。


『それは本当に、死刑宣告をされたような心地でありますね……ユーリ選手のみならず、沙羅選手や多賀崎選手まで年内の出場が絶望的だとは……いえ、卯月選手から観戦の願い出をされたときから、ずっと不吉な予感は抱えていたのです。そもそもジーナ選手がどうして自ら出場を願ってきたのか、わたしはずっと疑問に思っていましたし……そういう意味では、胸のつかえが取れたような心地です』


 そんな風に語らいながら、駒形氏は力なく笑っていたらしい。


『ですがもちろん、みなさんのご決断を非難することなどできるはずがありません。《アトミック・ガールズ》を主戦場にしていた選手たちが「アクセル・ロード」に出場できるなどというのは、光栄の限りです』


「ああ。桃園さんたちがしっかり実力を示してやれば、それを育てた《アトミック・ガールズ》だって評価されるはずだ。胸を張って、見送ってやりなよ」


 立松は、そんな言葉で駒形氏を慰めたのだという話であった。

 そして、その内容を伝えられた際にもじもじとしていたのは、ユーリである。


「ところで、あにょう……九月と十一月の大会に出場できないのは致し方ないとして、その前には七月の興行が控えているのですが……ユーリたちは、そちらの出場も控えなければならないのでしょうか?」


「そりゃあそうだろう。試合で大きなダメージを負ったら、『アクセル・ロード』に参戦できなくなっちまうんだからな。こっちだって、そんな話に許可は出せねえよ」


 ユーリは「がびーん!」という擬音とともに、しおしおと萎れてしまった。

 そこで助け船を出したのは、瓜子である。


「でも、四ヶ月も期間が空いたら、ユーリさんは逆に調子を崩しちゃうんじゃないんすかね。ユーリさんはベリーニャ選手との対戦で負傷した期間を除くと、一ヶ月や二ヶ月の間隔で試合を続けていたわけですから……」


「そんなハイペースで試合を続ける選手なんざ、他にはいねえんだよ。お前さんだって、キックの時代はそうだったろ?」


「押忍。でも、自分も去年は八試合もすることができて、それで調子が上がったような気がするんすよ。今だって、四ヶ月も空いたら試合勘が狂うんじゃないかって心配になるぐらいですし……」


「お前さんも、桃園さんの中毒がすっかり伝染しちまったみたいだな」


 立松は、やんちゃな我が子を見守るような面持ちで苦笑した。


「だけど、今回ばかりはこっちの方針に従ってもらうぞ。こいつは桃園さんのファイター人生がかかった大一番なんだからな。こっちには、桃園さんを万全の状態で『アクセル・ロード』に送り届ける責任と義務があるんだよ」


 そんな風に言ってから、立松は同じ表情のままユーリのほうを振り返った。


「ただ……どうしてもって言うんなら、エキシビションでも組んでもらうか?」


「えきしびしょん?」


「ずいぶん前に、レオポンくんとキックのルールでやりあったろ。ただし、打撃ありのルールじゃ危なっかしいから、許せるのはグラップリング・マッチぐらいだな」


「グラップリング・マッチなら、許されるのですか!? ずーっと前にノーマ選手と対戦したグラップリング・マッチは、とってもとっても楽しかったのです!」


「ただし、桃園さんの活躍を妬むような輩は、相手にできないからな。そんな気の利いた相手を準備できるかどうか、そいつはパラス=アテナ次第だ」


 ユーリは「わーい!」と両腕を振り上げてから、とろけるような笑顔で瓜子に向きなおってきた。


「うり坊ちゃん、ありがとー! やっぱりユーリは魂の奥底から全身全霊でうり坊ちゃんをお慕い申しあげているのですっ!」


 瓜子はユーリから叩きつけられる情愛の波動にむせかえりそうになりながら、「はいはい」と苦笑を返してみせた。


 その後、立松から連絡を受けた駒形氏が大喜びしていたことは言うまでもない。パラス=アテナはユーリが負傷していた時代にも、サイン会やライブイベントなどを企画して、ユーリの人気にすがっていたのだ。たとえエキシビションのグラップリング・マッチであろうとも、ユーリが出場するか否かというのはチケットの売れ行きや番組の視聴率に大きく関わってくるのだろうと思われた。


 そして、その余波を受けたのは、瓜子である。

 フライ級とバンタム級の主力選手が出場できない七月から十一月まで、瓜子の出場を仮押さえさせてもらえないかと、そのように願われることになってしまったのだ。


「そんな、開催するかどうかも決定していない先の話をされてもな。なるべく善処はするが確約はできないと答えておいたよ」


 立松は、そんな風に言っていた。


「それにお前さんは《フィスト》の王者になったんだから、今後はあちらさんからも試合のオファーがあるはずだ。《フィスト》だったら海外の強豪選手を呼んでくれるかもしれねえし……お前さんも情に流されないで、自分のファイター人生を一番に考えろよ?」


「押忍。もちろん自分は可能な限り、アトミックのお役に立ちたいっすけど……もうサキさんだって復帰したんすから、何も心配はいらないっすよね」


「おー、さすがチャンピオン様ともなると、余裕しゃくしゃくだなー」


 いつの間にか接近していたサキが、瓜子の頭を小突いてくる。

 しかしそれは、瓜子の本心であった。《アトミック・ガールズ》にはサキを筆頭に、魅力的な選手が居揃っているのだ。瓜子はそれらの人々と手を携えて、ユーリたちの留守を守ってみせようという覚悟であった。


(でも……もしもユーリさんがトーナメントに優勝したら、《アトミック・ガールズ》はこれっきりってことになっちゃうんだよな)


 そんな風に考えると、瓜子の胸はずきりと疼いた。

 しかし瓜子は、そんな痛みをも抱えていくのだと決めたのだ。たとえ戦いの舞台が変わろうとも、同じ世界で頑張っていることに変わりはない。ユーリが瓜子の躍進を願ってくれているように、瓜子もユーリの躍進を見届ける覚悟であった。


 そうしてそれから、さらに一週間後――六月の第一日曜日である。

 その日、瓜子とユーリは都内某所のダイニングバーに呼び出されることになった。

 灰原選手の発案で、ちょっと早めの壮行会が開かれることになったのだ。


「だって普段は他の連中の耳を気にして、好きに語らうこともできないじゃん? 事情を知ってる人間だけを集めて、ぱーっと騒ぎたかったんだよ!」


 そうして招集されたのは、合宿稽古でお馴染みのメンバーである。

 瓜子、ユーリ、サキ、メイ、愛音。灰原選手に、多賀崎選手。小笠原選手に、小柴選手。鞠山選手に、オリビア選手。魅々香選手に、来栖舞――この中で部外者となるのは武魂会と玄武館の面々であるが、そちらの三名にもいずれかの関係者の判断で事情を打ち明けられていたのだった。


「ただ、喜んでばかりもいられないよね。申し訳ないけど、あたしはしばらくプレスマン道場への出入りを遠慮させてもらおうと思うよ」


 壮行会が始められるなり、真剣な面持ちでそのように宣言したのは、多賀崎選手であった。『アクセル・ロード』のトーナメントを勝ち進めば、いずれユーリと対戦することになるのだから、やはりこれ以上は稽古をともにするべきではないと考えたのだろう。


「ま、あたしもトップファイターに仲間入りして、うり坊へのタイトル挑戦が現実味を帯びてきたところだからさ! タイミングとしては、ちょうどよかったんじゃない?」


 事前に話をしていたらしく、灰原選手は笑顔でそのように言いたてていた。


「でも、出稽古を控える分は、こうやってプライベートで遊ぼうよね! 試合場の外でまでツンケンする理由はないんだからさ!」


「ふん。だけどあんたたちは、その出稽古で実力をのばしたはずなんだわよ。大舞台への出場が決まるなり実力が落ちたら、目も当てられないだわね」


 鞠山選手はにんまりと笑いながら、多賀崎選手の引き締まった顔を見た。


「よかったら、今度はわたいがマコトをしごいてやるだわよ。そうしたら、どこかのピンク頭なんて敵じゃないんだわよ」


「それはありがたい申し出だけど……でも、『アクセル・ロード』には御堂さんだって出場するんだから、あたしに肩入れするのはまずいんじゃない?」


「マコトが強くなる分は、美香ちゃんも強くなればいいんだわよ。わたいは誰に肩入れすることもなく、平等にしごいてやるんだわよ」


「そうだな」と、来栖舞も沈着な声で同意した。


「君たちは日本人女子選手の代表として、『アクセル・ロード』に出場するんだ。まずは全員がシンガポールの選手陣に勝利できるように、最善を尽くしてもらいたい。わたし個人は美香の稽古に注力したく思うが、他のみんなが花子に遠慮する必要はないだろう」


「……そうですね。日本人選手の底力を見せつけてやります」


 そのように語る多賀崎選手も、テーブルの端で静かにしている魅々香選手も、恐ろしいほど真剣な眼差しになっていた。『アクセル・ロード』に出場する身でありながら、ふにゃんとした笑顔をさらしているのは、ユーリただひとりである。


 しかしこれからは、ユーリも多賀崎選手や魅々香選手と対戦することを想定して、稽古を積んでいかなくてはならないのだ。

 いっぽう瓜子は、灰原選手や鞠山選手と対戦する可能性が生まれている。トップファイターに仲間入りした両名は、タイトル戦線に絡んでくる可能性が濃厚なのである。


 この場に集まったメンバーは、これまで同じ苦難を乗り越えるために切磋琢磨してきた間柄であったが、今後は個々の戦いに身を投じなければならないのだ。

 しかしそれもまた、個々が実力をつけて同じフィールドに立ったのだという証でもあった。これまでともに努力してきたからこそ、現在の結果があるのである。そのように考えれば、瓜子が寂寥の思いにとらわれることもなかった。


(もちろん、多賀崎選手たちと一緒に稽古をできなくなるのは残念だけど……プレスマンには、これだけ頼もしいチームメイトがそろってるんだからな。こんな恵まれた環境で、文句なんて言えるわけがないよ)


 瓜子がそんな風に考えていると、隣の席に小笠原選手が腰を下ろしてきた。


「なんか、いきなりの急展開だったね。『アクセル・ロード』の開催が来年あたりだったら、アタシにも出場の目があったのかなぁ」


「押忍。小笠原選手だったら、間違いなく選ばれていたでしょうね。自分も残念に思ってます」


「あはは。でも、桃園たちのおかげで、ついに北米への道が切り開かれたね」


 小笠原選手はゆったりと笑いながら、テーブルに置かれていた瓜子のグラスに自分のグラスを当ててきた。


「だけどそうなると、アタシたちの責任も重大だ。アトミックは桃園たちの力だけで成立してるんじゃないって、アタシたちが証明してやらないとね」


「押忍。そういう意味では、小笠原選手の存在が心強くてならないっすよ」


「それは、こっちの台詞だよ」と、小笠原選手はいっそう楽しそうに微笑んだ。


「年内は、アタシらでアトミックを盛り上げてやろう。そうしたら、来年からも色々とチャンスが生まれるはずさ。今回のこのチャンスだって、舞さんたちが支えてきた歴史の上に成り立ってるんだからね」


 小笠原選手のやわらかい声音は、瓜子の心の奥底にまでしみわたっていった。

 瓜子とユーリの道は、決して分かたれたわけではない。ただ、より大きく太い道になっただけなのだ、と――そんな思いを、いっそう深めることがかなったのだ。


 この場に集まった面々も、赤星道場やドッグ・ジムの面々も、親交は薄くとも日本中のどこかのジムで汗を流している面々も――ひいては世界中で活躍している選手たちも、同じ道を歩いているのである。それはもしかして、日本の片隅で細々と流れていた《アトミック・ガールズ》という小さな川が、激流の大河と合流したということなのかもしれなかった。


(そうだとしたら……先頭を切って道を切り開いてくれたのは、やっぱりユーリさんってことになるんだろうな)


 そして、そんなユーリもたったひとりで道を切り開いたわけではない。これだけ大勢の人々と切磋琢磨して、その熱情に相応しい結果を示すことができたからこそ、ユーリは新たな道に足を踏み出すことがかなったのだった。


 ユーリは瓜子たちに置いていかれたくないなどと言い張っていたが、それはこちらの台詞である。

 ユーリの背中を見失ってしまわないように、瓜子はこれまで以上に死力を尽くす覚悟であった。

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