05 ダイレクト・リマッチ
熱気に満ちみちた歓声と拍手に包まれながら、瓜子は花道を闊歩した。
今日もまた、これまでで一番の熱量ではないかと思えるほどの大歓声である。これはホームたる《アトミック・ガールズ》の試合でもないのに、不思議な心地であった。
しかし何にせよ、これだけの人々が瓜子などに声援を送ってくれているのだ。
そしてその中には、愛音やメイ、小笠原選手や小柴選手、鞠山選手やオリビア選手、牧瀬里穂や加賀見老婦人、旧友たるリンや佐伯、それにダイやタツヤやリュウも含まれているはずであった。
(それに……きっとサイン会に来てくれた人も、何人かは混じってるんだろうな)
スポットライトが駆け巡る暗闇の向こうには、そういった人々が待ちかまえているのだ。
しかし瓜子は決して怯むことなく、花道を突き進んでみせた。
やがてボディチェック係の前まで到達したならば、脱いだウェアをユーリに受け渡す。その下に着込んでいるのも、もちろん《アトミック・ガールズ》公式の試合衣装だ。
瓜子にマウスピースをくわえさせた立松は、力強く肩を叩いてくれた。
顔を鋭く引き締めたサキは、面倒くさそうに瓜子の頭を小突いてくれた。
瓜子のウェアとシューズをバッグの中に仕舞い込んだユーリは、天使のような笑顔で拳を差し出してきた。
その拳に自分の拳をぎゅっと押しつけ、目だけで笑みを返してから、瓜子はボディチェック係に向きなおる。
男子が主体の興行であるため、ボディチェック係も男性だ。その人物は瓜子の顔にワセリンを塗り、グローブや手足に異常がないかを確認してから、マウスピースの有無をあらためて確認してきた。
それらのチェックを通過して、瓜子はケージへと上がり込む。
普段とは異なる色合いで、《フィスト》とさまざまなスポンサー企業のロゴがプリントされたマットだ。さらにケージそのものも、《アトミック・ガールズ》よりひと回り大きく造られていた。
(これなら確かに、女子選手のアウトファイターはいっそうステップを使いやすいだろうな)
しかし、瓜子に臆するところはなかった。
たとえ相手がどのようなスタイルで仕掛けてこようとも、臨機応変に対応するだけだ。ゴールデンウィークの合宿稽古以降は、プレスマン道場でもアウトスタイル対策を磨いていたのだった。
『赤コーナーより、ラウラ・ミキモト選手の入場です!』
新たな歓声が巻き起こり、軽快なダンスミュージックが流される。
その軽妙なるリズムに乗って、ラウラ選手が現れた。
彼女も動画サイトの人気者であるため、歓声のほどは瓜子に負けていない。ただ不思議と、ホームである《フィスト》においても多少のブーイングをもらっているようであった。
(まあ、ラウラ選手もフィスト・ジムの所属ではないし……それに、どっちかっていうとヒールのキャラクターなんだろうな)
何せ彼女は相手選手を挑発するトラッシュトークを売りにしているのだから、ベビーフェイス役は務まらないことだろう。
それに――これは鞠山選手の弁であるが、絶大な人気を獲得しつつある瓜子に挑発的な言動をしていれば、どうしたって反感を抱く人間は多いだろうとのことであった。
しかし、そのような話も試合には関係ない。ヒールだろうがベビーフェイスだろうが、ファン人気が高かろうが低かろうが、強い者が勝ち、弱い者が負ける。その一点に変わりはなかったのだった。
やがてボディチェックを終えたラウラ選手がケージの上まで到着すると、リングアナウンサーが厳粛なる面持ちでコミッショナー氏を紹介する。《フィスト》においても、タイトルマッチではコミッショナーの宣言と国歌の清聴というものが実施されるのだ。
瓜子が試合場でこの時間を迎えるのは、三度目のこととなる。一度目はメイとの暫定王者決定戦、二度目はラウラ選手との初防衛戦だ。
コミッショナー氏が定型文でもってタイトルマッチの内容を申告し、しかるのちに観客たちは起立をうながされる。瓜子にとってはわずか二ヶ月と一週間ぶりとなる国歌の清聴であったが、それでも厳粛な気持ちを保つことができた。
『ありがとうございました。それでは、ご着席ください。……これより、セミファイナル、第九試合、女子ストロー級タイトルマッチ、五分三ラウンドを開始いたします!』
リングアナウンサーが再び声を張り上げると、大歓声がそれに応えた。
『青コーナー、挑戦者! 百五十二センチ、五十一・八キログラム、新宿プレスマン道場所属! 《アトミック・ガールズ》ストロー級第五代王者……猪狩、瓜子!』
瓜子はほどよく張り詰めた気持ちで、右腕を高く掲げてみせた。
歓声は、凄まじい勢いで渦を巻いている。女子選手の試合を侮っているような気配は、皆無であった。
『赤コーナー、王者! 百六十四センチ、五十一・九キログラム、トゥッカーノ柔術道場所属! 《フィスト》ストロー級第三代王者……ラウラ、ミキモト!』
ラウラ選手は両手を振り上げて、歓声とブーイングを煽るように手の先をそよがせる。観客たちは、惜しみなくその煽動に応えていた。
「では、両者中央へ!」
歓声に負けじと声を張り上げるレフェリーに従って、瓜子とラウラ選手はケージの中央に歩を進めた。
こうしてラウラ選手と向き合うのも、およそ二ヶ月と一週間ぶりだ。ラウラ選手が《アトミック・ガールズ》の公式ウェアからオリジナルの試合衣装にあらためている他は、大きく変わるところもなかった。
本日もコーンロウのヘアスタイルで金色の頭を編み込んでいるラウラ選手は、小麦色の端整な顔に不敵な笑みをたたえている。こんなすぐさま瓜子との再戦を願ったということは、足の負傷も大したことはなかったのだろう。そのしなやかな肢体には、前回と変わらぬ確かな力感が感じられた。
間に別の試合をはさまずに再戦することを、格闘技業界ではダイレクト・リマッチと称している。瓜子がダイレクト・リマッチに臨むのは、これで二度目のことであった。
前回に体験したダイレクト・リマッチは、もちろんメイとの連戦となる。暫定王者決定戦で瓜子に敗れたメイは、チーム・フレアに加入することですぐさま再戦を挑んできたのだった。
しかしあれは、メイが試合のルールに不満を抱いていたためとなる。最初の対戦では試合場もリングであり、肘による攻撃も禁止されていたため、これでは本来の実力を発揮できないという思いを抱いていたのだ。
それに対して、今回は――試合の序盤で足を痛めてしまったラウラ選手が、実力通りの結果ではなかったと言いたてたのが通った形となる。確かにあれでは、瓜子もラウラ選手を実力で下したとは言い難い心境であった。
(今回は、そちらの実力とやらを存分に味わわさせていただきますよ)
そんな思いを込めて、瓜子は拳を差し出してみせた。
ラウラ選手は当然のように、瓜子の拳を平手で引っぱたいてきた。
新たな歓声とブーイングを聞きながら、瓜子はフェンス際に引き下がる。
立松の真剣な顔とサキのクールな顔に変わりはなかったが、ユーリは期待に瞳を輝かせる幼子のような顔に変じていた。
「よし、落ち着いていけよ。まずは、相手のスタンスを見定めろ」
立松の声に「押忍」と応じて、瓜子は一回だけ屈伸する。
『ラウンドワン!』のアナウンスとともに、ゴングが鳴らされた。
瓜子はサウスポーの構えで、進み出る。
ラウラ選手もまた同じ構えで、進み出てきた。
そうして瓜子が間合いの外で足を止めると、ラウラ選手は大振りの前蹴りを繰り出してきた。
間合いの外ではあったものの、瓜子は用心して一歩だけバックステップを踏む。
ラウラ選手も蹴りを引くのと同時に下がったため、両者の間合いがいっそう開いた。
瓜子はあらためて、相手の懐に飛び込む隙をうかがう。
するとそこに、今度は右膝を狙う関節蹴りが飛ばされてきた。
これも間合いの外であったが、瓜子はまた一歩だけ引き下がる。空手をバックボーンとする小柴選手や小笠原選手、あるいは沙羅選手や犬飼京菜などであれば、そのまま蹴り足を前に下ろして間合いを詰めてくることもままあったので、瓜子も迂闊に足を止めないことが習慣になっていたのだ。
ただ今回も、ラウラ選手は蹴りの後にバックステップしていた。
つまりこれらは、瓜子をそばに近づけないための威嚇であったのだ。
(やっぱりラウラ選手は、アウトスタイルで距離を取る作戦なのかな?)
もともとラウラ選手は、スタンドにおいてインファイトを恐れないタイプである。生粋のグラップラーである彼女は、テイクダウンを取られてもすぐに上を取り返す自信があるため、相手の組みつきを恐れずにぐいぐいと攻め込んでくるスタイルであるのだ。
しかし彼女は先の試合において、序盤であえなくKO負けを喫することになった。それでインファイターたる瓜子のリズムを崩すために、これまで見せなかったアウトスタイルで攻めてくるかもしれない――というのが、合宿稽古における鞠山選手の考察であったのだった。
その考察に重きを置いたプレスマン道場のコーチ陣は、瓜子がアウトスタイル対策に励むことを後押ししてくれた。ラウラ選手がどちらのスタイルで挑んできても対処できるように、調整期間の二週間で可能な限り指導してくれたのだ。
(こっちは凄腕のアウトファイターであるみなさんに、さんざんしごかれてきたんだからな。どんなスタイルでも怖くはないぞ)
瓜子は相手の様子をうかがうために、サイドステップを駆使して接近した。
相手は身体の向きだけを調整しつつ、真っ直ぐに下がっていく。まったく近づいてこようという気配がなかったので、組みつきやタックルのプレッシャーも感じなかった。
しかし瓜子は油断することなく、じわじわと距離を詰めていく。
ラウラ選手は、大きなステップで後ずさるばかりだ。ケージが普段よりも大きいために、それだけでもなかなか距離が詰めにくかった。
(でも、なんというか……本当に、圧力を感じないな。サキさんやメイさんはもちろん、灰原選手や邑崎さんだって、もっと怖い感じがするものだけど……)
サキは、一瞬の隙を突いてカウンターの蹴り技を繰り出してくる。たとえ本気を出さないスパーリングであっても、それと相対する際には一瞬も気が抜けないのだ。
メイはラウラ選手と同じようにサイドステップを苦手にしているが、前後のステップだけでも凄まじい鋭さであるため、やはり気が抜けない。瓜子と同程度のリーチであるくせに、とんでもない位置から攻撃を当てることが可能であるのだ。
灰原選手はすっかりステップワークが板についてきたため、今ではメイよりも巧みにサークリングすることができる。そして本来はインファイターであるためか、思いも寄らないタイミングで自ら接近して、相手をいっそう惑わすのだった。
それらの三名に比べると、愛音は綺麗なアウトファイターである。相手の意表を突くことは少ないが、そのぶんステップワークが洗練されている。小学生の頃からグローブ空手を学んでいた愛音は、灰原選手よりも基礎がしっかりしているぐらいであるのだ。そして、攻撃力に難がある分、敏捷性はサキやメイに次ぐほどであるので、まったく侮ることはできなかった。
然して――今のラウラ選手には、それらの四名から感ずるような圧力を感じない。
これがにわか仕込みの限界であるのか、あるいは瓜子を油断させようという策略であるのか、瓜子には何とも判別できなかった。
(でも、イリア選手みたいにトリッキーな技を仕掛けてくることはないだろうからな。組み技だけ警戒して、とにかく接近だ)
瓜子がそんな風に思案したとき、サキの声で「一分経過!」と告げられた。
おたがいに接触できないまま、けっきょく一分が過ぎてしまったのだ。
瓜子はさらなる展開を求めて、一段階だけギアを上げることにした。
瓜子はしっかりと重心を落とし、頭を振りながら、アウトサイドから接近する。
瓜子がギアを上げたためか、ラウラ選手はこれまでよりも慌ただしい挙動でステップを踏み、瓜子の接近から逃げた。
さらに瓜子が前進すると、それを嫌がるように前蹴りを飛ばしてくる。
これもまた、迫力のない蹴りである。
「嫌がるように」と瓜子に認識されている時点で、甘いのだ。サキでもメイでも灰原選手でも愛音でも――あるいは、鞠山選手でもイリア選手でもマリア選手でも、こんなぬるい攻撃を仕掛けてくることはないだろう。
瓜子はそのぬるい前蹴りを横合いに受け流し、さらに前進してみせた。
その足が、ついに自分の間合いに到達する。
蹴り足を戻したばかりのラウラ選手は、まだ動けずにいる。ラウラ選手は焦った顔で、しっかりと頭部をガードした。
だが、ボクシンググローブよりも小さなオープンフィンガーグローブでブロックを固めても、相手の攻撃を完全に防ぐことは不可能である。それを証明するべく、瓜子はガードの隙間から左ストレートをねじこんだ。
ラウラ選手の鼻っ柱に、瓜子の左拳が深く当たる。
その腕を引きながら、瓜子は右拳を振り上げた。
がら空きの胴体に、ボディアッパーだ。
その一撃で、ラウラ選手は身を折った。
十二センチも高みにあったラウラ選手の顔が、瓜子と同じ高さにまで下りてくる。
その前腕はまだ顔の高さに上げられていたものの、ガードが緩んで隙間だらけである。
これも何かの罠なのかと、瓜子は一瞬の半分だけ迷ったが――すぐさま左のフックに繋げることにした。
ラウラ選手のこの体勢から、有効な反撃をすることなど不可能である。
忘我の状態、集中力の限界突破などを迎えずとも、瓜子はそのように判断することができた。
瓜子の左拳が迫っても、ラウラ選手はまったく反応できていない。
本当に、これでいいのだろうか?
瓜子がずっとスパーを重ねてきた、頼もしい仲間たち――サキやメイ、灰原選手や多賀崎選手、愛音や小柴選手――あるいは、合宿稽古でお世話になった、小笠原選手や鞠山選手、魅々香選手やオリビア選手であっても、こんな無防備な姿を瓜子の前にさらすことはなかった。
(まあ、ユーリさんだったらありえなくもないけど……ユーリさんは、持ち前の頑丈さで受け流しちゃうからなぁ)
そんな思いをよぎらせながら、瓜子は左フックを繰り出した。
瓜子の左拳が、ラウラ選手の右こめかみにクリーンヒットする。
グローブとバンデージ、それにラウラ選手の髪や頭皮を貫通して、おたがいの骨と骨がぶつかりあったような心地であった。
硬い頭蓋骨を殴った衝撃が、瓜子の拳から手首、前腕、肘、上腕、肩にまで伝わり、さらに、背骨を伝って足もとにまで抜けていく。
それを心地好く感じながら、瓜子は左腕を振り抜いた。
ラウラ選手の身体は半回転して、すぐ横合いにまで迫っていたフェンスに激突してから、マットに倒れ伏す。
瓜子はその場で拳を下ろし、レフェリーの裁定を待った。
ラウラ選手は、完全に意識を失っており――ほんの一瞬だけ世界が止まったかのような静寂ののち、歓声が爆発した。
『一分三十九秒! スタンド・パンチにより、猪狩瓜子選手のKO勝利です!』
《フィスト》においては、左フック等の技名ではなく、そのようにコールされるらしい。
瓜子がそんな的外れな想念に身をゆだねていると、レフェリーが右腕をつかんできた。
瓜子が右腕を上げられると、さらなる歓声が渦を巻く。
そして、ラウラ選手のもとにはリングドクターが駆けつけ、瓜子の腰には《フィスト》のチャンピオンベルトが巻かれた。
《アトミック・ガールズ》よりも古い歴史を持つ《フィスト》の――ただし、《アトミック・ガールズ》よりは後の時代に設立された女子部門の、チャンピオンベルトである。
わずか九十九秒で勝利を収めることができた瓜子は、なかなかその重さを実感することができなかった。
しかしまた――瓜子が相手を完封することができたのは、まぎれもなくこれまでに積み重ねてきたトレーニングの結果であったのだ。
このベルトの重みを実感できなかったのなら、瓜子が新たな王者として重みを与えてやればいい。
そんな想念を抱きながら、瓜子は四方の客席に一礼していった。
そうして最後に顔をあげると、フェンスの向こう側にセコンド陣の姿が見える。
試合場への入場が許されているチーフセコンドの立松は、入り口に向かっているさなかだ。
サキはクールな表情のまま、肩をすくめている。
そして、ユーリは――なめらかな頬に、ぽろぽろと涙をこぼしてしまっていた。
だけどその顔は、天使のようにあどけなく微笑んでいる。
ユーリのそんな表情が、いくぶん物足りなさを覚えていた瓜子の胸を満たしてくれた。
そうして瓜子はノーダメージのまま、二戦連続でラウラ選手を下し――《アトミック・ガールズ》と《フィスト》の二冠王の座を手中にしたのだった。
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