02 開会式

 その後は、普段と変わりのない調子で試合前の段取りが進められていった。

 ルールミーティングにドクターチェック、マットの確認にバンデージのチェック――たとえ異なる興行でも、その辺りの段取りはおおよそ統一されているのだろう。男子選手の数が多いことを除けば、瓜子にとっても見慣れた光景ばかりであった。


 そうして開演時間が迫ったならば、開会式に備えて入場口の裏に待機をする。この辺りの手順も、《アトミック・ガールズ》と同一だ。

 しかし、見知った選手は五名しかいない。柳原と多賀崎選手、レオポン選手と赤星道場のもう一名の選手、それに数時間前に初対面の挨拶を交わしたばかりの宇留間選手だ。しかし宇留間選手はきわめて朗らかな気性をしていながら、ルールミーティング以降は自分のセコンド陣ばかりと言葉を交わしていた。同じ女子選手である瓜子や多賀崎選手にも、大して興味は抱いていない様子だ。


(まあ、階級は違うし沖縄からの遠征だし……この日限りの相手に興味はないってことなのかな)


 ともあれ、四ッ谷ライオットと赤星道場の陣営がいてくれるだけで、瓜子が物寂しさを覚えることはなかった。


「それでは、間もなく開会式を開始します! すみやかに入場できるよう、試合の順番でお並びください!」


 スタッフの呼びかけに従って、十名の選手が整列する。《フィスト》はアマチュアの大会も充実しているため、プロの興行ではアマ選手によるプレマッチというものも存在しないのだそうだ。


 列の最後尾となるのはメインイベンターのレオポン選手で、恐れ多くも瓜子はセミファイナルとなる。女子選手は肩身のせまい《フィスト》の興行であるが、さすがに本日はタイトルマッチということで、瓜子が第九試合、多賀崎選手が第八試合とされているのだ。あとは、柳原が第六試合で、宇留間選手が第二試合であった。


「あの宇留間ってのは、アトミックに参戦してないんだよな? 瓜子ちゃんは、あいつの試合を観たことがあるかい?」


 と、レオポン選手が声をひそめつつ、気安い口調で語りかけてくる。

 そちらに「いえ」と答えると、レオポン選手は神妙な面持ちで「そっか」とライオンヘアーをかきあげた。


「あいつはへらへらしてるけど、実は要注意人物でさ。いずれは絶対にナナとぶつかることになるだろうからって、コーチ陣も目を光らせてるんだよ」


 それは『アクセル・ロード』の候補にされるぐらいなのだから、よほどの実力者であるのだろう。しかしそれを明かせない瓜子は、「そうなんすか」と応じるばかりであった。


「まあ確かに、体格からして目を引かれますよね。背丈はもちろん、身体の厚みが日本人離れしてるように思います」


「ああ。どうやら父親が、米軍基地の兵士だったらしい。それでもう、フィジカルがバケモノなんだよ。単純なフィジカルだけの話なら、ユーリちゃん以上かもしれねえな」


「ええ? それは、まごうことなきバケモノっすね」


「だろ? それに、ファイトスタイルも――あ、いや、それは本番で楽しむべきかな。アトミックに参戦する可能性は薄いんだろうけど、あれは一見の価値があるよ」


 すると、瓜子のすぐ前に並んでいた多賀崎選手も真剣な面持ちで振り返ってきた。


「ごめん。ついつい聞き耳を立てちゃったよ。あいつはそんな、大層な選手だったんだね」


「ええ。俺としては、ナナより師範やユーリちゃんとの対戦が観たかったところッスね。怪獣大決戦になることは間違いなしッスから。……でも、ウチもアトミックも、なかなか沖縄の選手を呼びつけるカネはひねり出せないッスよね。だから、ナナのやつに《フィスト》の舞台で怪獣退治を頑張ってもらおうって話になってます」


「ふうん。そんなやつがいるなんて、やっぱり世の中は広いんだね。階級さえ合えば、あたしも怪獣退治に挑みたかったところだよ」


 そんな風に言ってから、多賀崎選手ははにかむように微笑んだ。


「でもその前に、まずは目の前の試合だね。一世一代の大勝負だってのに、ついつい浮足立っちまったよ」


「あはは。緊張してないなら、それに越したことはないんじゃないっすかね」


「うん。猪狩とつじくんのおかげで、あたしもリラックスできてるよ」


 多賀崎選手は、レオポン選手のことを苗字で呼ぶ数少ないひとりであった。

 そしてそんな言葉を交わしている間に、すでに選手入場が始められている。列はどんどん短くなっていき、すぐに瓜子たちの順番も回ってきた。


『新宿プレスマン道場、猪狩瓜子!』


 リングアナウンサーの声に従って、瓜子は花道に足を踏み出した。

 とたんに、凄まじい歓声が爆発する。二ヶ月と一週間ぶりの、二千名による大歓声であった。


(でも……それにしたって、ずいぶんな出迎えだなぁ)


 瓜子としては敵地に乗り込んできた心持ちであったため、ブーイングを受ける覚悟であったのだ。しかしどれだけ耳をすませても、ブーイングなどは聞こえてこない。《アトミック・ガールズ》の興行と同じ勢いで、「瓜子!」や「うりぼー!」のコールがわきおこっていた。


《フィスト》においてはケージの内部で整列する取り決めであったため、瓜子はシューズのままステップをのぼり、多賀崎選手の斜め後ろにつく。

 そしてその後は、赤コーナー陣営であるラウラ選手の入場であったが――チャンピオンベルトを肩に抱えたラウラ選手が入場しても、まだ瓜子の名を呼ぶ声がちらほらと残されていた。


 ラウラ選手はすました顔で、逆側の列に整列する。

 昨日の調印式ではぞんぶんに挑発的な言葉を吐いていたラウラ選手であるが、本日は瓜子のほうを見ようともしなかった。


 そうしてレオポン選手と男子バンタム級の現王者も入場し、出場選手の二十名がケージの内に立ち並ぶ。

 開会の挨拶は、もちろんその王者だ。坊主頭で実直そうな面立ちをしたその人物は、訥々とした語り口調でひかえめに意気込みを語っていた。


 ちなみに《フィスト》では男子選手の部門にのみ、二種のタイトルが存在する。環太平洋王者と、世界王者である。上位であるのはもちろん世界王者であり、環太平洋王者までのぼりつめた選手が、あらためて世界王者に挑戦するのが定例であるらしい。それで本日行われるのは、環太平洋王座をかけたタイトルマッチであった。


「とはいえ、歴代の王者はどっちもほとんど日本人なんだから、そんな風にタイトルを分ける意味もあんまりなさそうなんだけどな」


 数日前、そんな風に説明してくれたのは、立松であった。

 長きの歴史を持つ《フィスト》は、今や二十国ばかりに普及している。が、各国で実績をあげた選手はおおよそ北米に流れてしまうため、日本で開催されるタイトルマッチにはほとんど絡んでこないのだそうだ。


 それで、近年に設立された女子部門においては、環太平洋王座というものも作られなかったらしい。男子選手よりも遥かに競技人口の少ない女子選手では、いっそうタイトルを分ける意義が見いだせなかったのであろう。ゆえに、本日瓜子と多賀崎選手が挑むのは、まごうことなき《フィスト》の世界王座であるのだった。


(まあ、こまかいことはどうでもいいさ。あたしたちは、てっぺんを目指すだけだ)


 そして本日は、格闘技業界において軟派と見なされている《アトミック・ガールズ》の力を見せつける所存である。

 それで瓜子と多賀崎選手は申し合わせたように、《アトミック・ガールズ》の公式ウェアを着込んでいたのだった。


(だから、ブーイングでもあがったほうが燃えるぐらいだったのにな。でもまあ、歓迎されてることに文句を言うわけにもいかないか)


 そうして開会式は無事に終了し、各選手は花道を引き返すことになった。

 その際も、瓜子が花道に出ると、四方八方から名前を呼ぶ声が届けられてくる。それで瓜子が小首を傾げていると、入場口の裏にひっこんだところで多賀崎選手が苦笑まじりの声をかけてきた。


「何を不思議そうな顔をしてるんだよ。あんたはまだ、自分の人気を把握してないのかい?」


「いや、だけど、今日のお客さんはほとんどが男子選手の試合を目当てにしてるんでしょう? だったら、自分の人気なんて……」


「《フィスト》とアトミックの客層は、そうまで掛け離れてないんじゃないのかね。何にせよ、猪狩と桃園の人気は群を抜いてるんだろうと思うよ」


 そんな風に言ってから、多賀崎選手は珍しく悪戯小僧のような顔で笑った。


「今日だって、物販のブースにアトミックのグッズを置かせてもらってるんだろ? 猪狩の例のポスターなんて、馬鹿売れなんじゃないのかな」


「えええええー! 多賀崎選手だけは、そういう話を冷やかさないでくれると思ってたのに……」


「ごめんごめん。そんな本気で悲しそうな顔をしないでよ」


 と、多賀崎選手がすまなそうに笑ったとき、またレオポン選手が声をかけてきた。


「瓜子ちゃんのポスターがどうしたって? 俺もさっき拝見したけど、あれはなかなかの破壊力だったなぁ」


「……すみません。集中の邪魔になるんで、あっちに行ってもらえます?」


「そんな、つれないこと言うなよ。宇留間の試合を観戦するならご一緒にどうかなと思ったんだけど、どうだい?」


 レオポン選手のそんな言葉に、瓜子はまた首を傾げることになった。


「観戦って、何の話っすか? どっちみち、控え室のモニターはひとつしかないでしょう?」


「ああ。アトミックでは、客席に出るのを禁止されてるんだよな。でも《フィスト》だったら、二階の通路から観戦し放題だよ」


 そういえば、『NEXT・ROCK FESTIVAL』でも瓜子たちは、そうして客席の通路から試合やライブ演奏を見物していたのだった。


「まあ、二階の通路だったらモニターのほうが見やすいぐらいかもしれないけどさ。周りが男連中ばかりだと遠慮も出るだろうし、よかったらどうだい?」


「……今後、余計な言葉を吐かないと約束してくれるなら、オーケーしてあげなくもないっすけど」


「吐かない吐かない。ったく、瓜子ちゃんは俺にばっかり当たりがきついよなぁ」


 と、そんな言葉を実に楽しそうな顔で語るレオポン選手であった。

 そうして控え室で他の面々に打診してみると、五分の三のメンバーが了承してくれた。すなわち、瓜子と多賀崎選手とレオポン選手の陣営である。柳原と赤星道場のもう一名は女子の新人選手に興味が薄かったし、試合の順番もそれほど後半ではなかったのだった。


 ただし、赤星道場のセコンド陣はメンバーを入れ替えていた。レオポン選手のセコンドは赤星弥生子と大江山の親子であったため、遠慮をした大江山軍造が青田ナナにその役を譲ったのだ。青田ナナは雑用係に過ぎなかったので、それが師範代である大江山軍造と交代するなら、残される選手にも不満は生まれないはずであった。


「何せ、対戦の可能性が一番高いのは、ナナだもんな。あいつだったら、すぐさまナナの王座に挑戦することになるだろうぜ」


 二階を目指す道中でレオポン選手がそのように言いたてると、青田ナナは仏頂面で「ふん」と鼻を鳴らした。


「あんなMMAの基礎もできてないようなやつは、敵じゃありませんよ。どれだけフィジカルが凄くても、素人の男を相手取るようなもんでしょう」


「いやあ、男でもあんな動きをできるようなやつは、あんまりいないだろうよ。……っと、あんまり話すとネタバレになっちまいそうだな」


 宇留間選手とは、それほど素っ頓狂なファイトスタイルなのだろうか。それで《アクセル・ファイト》のブッキングマネージャーの目に留まったというのなら、なかなか驚異的な話であった。


 やがて二階に到着したならば、客席の最後列の背後に立ち並ぶ。確かにこれは運営側にも許されている行いであるらしく、警備スタッフも文句をつけてこようとはしなかった。ただ、あまりに大人数なものだから、いささか驚いているようだ。


 三選手の陣営が勢ぞろいしているのだから、総勢は十二名である。

 瓜子、ユーリ、サキ、ジョン。レオポン選手、赤星弥生子、大江山すみれ、青田ナナ。多賀崎選手、灰原選手、四ッ谷ライオットのトレーナーとサブトレーナー――顔ぶれとしても、なかなかのものであった。


「あの宇留間って、そんなに注目されてる選手だったんだねー。まだプロ三戦目って話だったから、まったく気にしてなかったよー」


「うん。それにまあ、アトミックに参戦する可能性はほとんどゼロだしね。でも、いずれ桃園や小笠原が《フィスト》に乗り込む可能性だってなくはないんだろうし、チェックしといて損はないでしょうよ」


 灰原選手や多賀崎選手は、そのように語らっていた。

 いっぽうプレスマンの陣営は、真剣な面持ちで口をつぐんでいる。ユーリの決断次第では『アクセル・ロード』で対戦する可能性が生じるわけであるし――そしてそれを赤星道場や四ッ谷ライオットの面々に秘匿している立場であったため、うかうかとコメントできなかったのだ。


 ただし、ユーリ本人はふにゃんとした顔で試合場を見下ろしている。今は『アクセル・ロード』の一件を意識の外に追い出しているため、何も思うところはないのだろう。そうして瓜子の視線に気づくと、ユーリはいっそうふにゃふにゃとした顔で笑った。


「ウルマって、変わったお名前だねぇ。うっかりすると、ウルさんと混同してしまいそうだわん」


 その笑顔に愛おしさと痛ましさを同じだけ喚起されながら、瓜子も「そうっすね」と笑ってみせた。


 眼下では、すでに第一試合が開始されている。若手の男子選手による、幕開けの一戦だ。どちらもなかなかアグレッシブなファイトスタイルであったため、会場はなかなかわきかえっていた。


「それにしても、レオポンくんは大したもんだな。階級を上げて一年足らずで、タイトルマッチまでこぎつけたんだからよ」


 四ッ谷ライオットのトレーナーがそのように呼びかけると、レオポン選手は「いえいえ」と愛想よく応じた。


「まあ俺は、フライ級でも環太平洋王座までは獲得してますからね。そのあたりのキャリアを買ってくれたんだと思うッスよ」


「ああ。けっきょく世界王座には挑戦しないまま、北米に出向いたんだっけ? だけどやっぱり、北米の壁は厚いよなぁ」


「そうッスね。俺もあっちでは暮らさずに、行ったり来たりだったもんで、減量がキツかったッス。だから今度は、この階級で挑むつもりッスよ」


「うんうん。レオポンくんの若さなら、まだまだいくらでもチャレンジできるもんな。《アクセル・ファイト》まで手が届くように、陰ながら応援してるよ」


 そんな会話を聞かされていると、瓜子も口がむずむずしてしまう。北米進出の経験があるレオポン選手に、あれこれ話を聞きたくなってしまうのだ。


(でもそれは、ユーリさんの決断を待ってからでも遅くないはずだ。ていうか、あたしがあれこれ気を回さなくても、立松コーチたちがしっかりサポートしてくれるんだしな)


 そうして気づくと、瓜子はユーリや『アクセル・ロード』の話で頭がいっぱいになってしまっている。

 しかし瓜子は、開きなおることにした。この宇留間選手の試合を見届けるまでは、好きに頭を悩ませようと決めたのだ。そうしてその試合が終了したならば、ユーリを見習って頭を切り替える。瓜子の出番は第九試合であるのだから、試合に集中する時間はたっぷり残されているはずであった。


 そうして第一試合は時間切れとなり、赤コーナー陣営の判定勝利で終了し――ついに未知なる強豪・宇留間選手の試合が開始されたのだった。

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