ACT.5 Triple title match

01 入場

 人生の岐路に立たされたユーリが思い悩んでいる間も、時間は粛々と過ぎ去っていき――あっという間に、一週間が過ぎてしまった。

 そうしてやってきた五月の最終日曜日は、《フィスト》の五月大会である。


 ユーリが『アクセル・ロード』に参戦するか否か、その返事をするのは明日になる。

 しかしこの段に至っても、ユーリはいまだ決断できずにいた。


「ユーリは時間ぎりぎりまで、めいっぱい思い悩む所存であるのです。きっとその期間はメンタルがめためたで情緒不安定の極致でありましょうけれども、どうか見捨てずに甘えさせてね?」


 ユーリはそんな風に語らっていたが、初日の更衣室で涙を見せて以降、瓜子に甘えたりはしなかった。稽古の間は元気いっぱいであったし、旺盛な食欲が落ちる気配もなかったし――ただ、ふとしたときにぼんやりと自失したり、ぼんやりとしながらぽろりと涙をこぼしたりして、瓜子を慌てさせたぐらいのものであった。


「でもでも、うり坊ちゃんの大事な大事なタイトルマッチでは、たとえ天地が裂けようともセコンドを務めあげねばならないのです! その日だけは絶対の絶対にぼけーっとしたりしないから、どうかおそばに置いてくださいまし!」


 そのように言い張るユーリとともに、瓜子はこの日を迎えることになった。

 およそ二ヶ月ぶりとなる、PLGホールである。格闘技の聖地と称されるこの会場において、瓜子は《フィスト》のタイトルマッチに挑むのだった。


 いざ入場しようと歩を進めると、関係者用の入り口に見慣れた面々が待ちかまえている。本日、瓜子のセコンドを務めてくれる、立松とサキだ。


「よう、来たな。今日はいつもと勝手が違うから、ここで待ってたぜ」


 立松は、普段通りの不敵な笑顔を向けてくる。

 そしてサキは、瓜子とユーリの姿をじろじろと見比べてきた。


「ふん。余計な話で頭を悩ませてる様子はねーみたいだな。選手様の集中を乱すような真似をしたら、遠慮なく叩き出してやっからな、乳牛」


「ユーリはお牛さんじゃないし、死力を尽くしてセコンドのお役目を全うするつもりだよぅ」


『アクセル・ロード』の一件に関しては、コーチ陣だけではなくMMA女子部門の選手にも周知されていた。ただ、懇意にしている外部の女子選手たちには、打ち明けていない。ユーリが申し出を断ったときに軋轢が生まれないようにという配慮である。


「それじゃあ、行くか。男どもが素っ裸でうろついてても、集中を乱すなよ」


「押忍。なるべくなら、そんなもんは拝見したくないっすけどね」


《フィスト》は男子選手が中心の興行であるため、本日は女子選手の試合も三試合しか組まれていないのだ。そういう場では、女子選手に対する配慮も欠けているのだというもっぱらの評判であった。


「自分たちがこういう興行に乗り込むのって、ユーリさんがレオポン選手とエキシビジョンをやった《G・ワールド》ぐらいですもんね。『NEXT・ROCK FESTIVAL』では、音楽部門の出場でしたし」


「うんうん。でもでもユーリはうり坊ちゃんと運命的な出会いを果たす前に、《NEXT》や《JUFリターンズ》にお邪魔したことがあるのだよねぇ」


「あ、そうか。そのときは、特に問題とかなかったんすか?」


「うみゅ。ただあの頃はプレスマンの正式な所属でもなかったので、荒本さんのお世話になってたにょ。メイクやお着替えは車の中で、控え室にはほとんど足を踏み入れなかったにゃあ」


 荒本とは、『スターゲイト』における千駄ヶ谷の前任者だ。《カノン A.G》の騒動の際には水面下で暗躍をした、影の立役者である。


「こっちだって出場選手なんだから、堂々としてりゃあいいさ。ただし、着替えだの何だのを覗かれたくなかったら、トイレなんかで済ませることだな。男連中にしてみても、そんな配慮をする余裕はねえからよ」


 そんな言葉を交わしている間に、控え室へと到着した。

 想像通りに、むくつけき男たちが密集している。ただしそれは道場でも見慣れた光景であったため、今さら瓜子が気後れする理由はなかった。


「あー、みんなおツカれサマー。チコクしないで、エラかったねー」


 と、先に到着していたジョンが、いつもの調子で笑いかけてくる。なんと本日はサブトレーナーである柳原も出場選手であり、ジョンはそちらの陣営であったのだった。


「ショタイメンのアイテもオオいだろうから、ウリコはアイサツをしておいてねー」


「押忍。新宿プレスマン道場の猪狩と申します。今日はよろしくお願いします」


 瓜子が頭を下げてみせると、控え室に集まった面々は実にさまざまな反応を見せてくれた。

「よろしくお願いします」と丁寧に挨拶を返してくれる者もいれば、そっぽを向いたまま無視をする者もいる。好奇の視線を向けてくる者もいれば、明らかに不機嫌そうな目を向けてくる者もいる。これもまた、道場でもお馴染みの光景であった。


(女なんか邪魔なだけだって考えるお人は、いまだに一定数いるみたいだからな)


 ましてや瓜子は、ファイターらしからぬ容姿をしてしまっている。すでに成人を迎えているのに、町なかでは中学生に間違われることもままあるぐらいであるのだ。ただ、瓜子はキックの時代から男子選手の間でもまれていたので、今さらそのような反応に気分を害することはなかった。


 柳原は試合前になると気を張るタイプであるため、遠い場所から目礼をしてくるばかりである。しかし彼はこの日に試合を控えながら、一週間前には《アトミック・ガールズ》でセコンドの役目を務めてくれたのだ。瓜子は精一杯の敬意と感謝を込めて、目礼を返してみせた。


 そしてその間に、何名かの選手やセコンドたちがざわめき始めている。瓜子のかたわらでひっそりと控えていたユーリの存在に気づいたのだろう。ユーリは人目を避けるためにキャップと黒縁眼鏡を装着していたが、ラフな格好でもその色香は隠しようがなかったのだった。


「マコトたちは、もうシアイジョウだよー。やっぱりイゴコチがワルいのかもねー」


「そうかい。それじゃあ俺たちも荷物を置いたら、そっちに向かうことにするか」


 立松がそんな風に答えたとき、瓜子の背後から「よう」という挨拶の言葉が投げかけられた。


「ひさしぶりだな、瓜子ちゃんにユーリちゃん。今日はよろしくお願いするよ」


 それは、赤星道場のレオポン選手であった。彼もまた、本日の出場選手――というか、栄えあるメインイベンターであるのだ。

 そしてレオポン選手の背後には、見慣れた一団がずらりと控えている。レオポン選手の他にももう一名の所属選手が出場するため、総勢八名の大所帯であるのだ。その中に赤星弥生子の凛々しい姿を発見した瓜子は、思わず笑みをこぼしながら「押忍」と挨拶してみせた。


「おひさしぶりです、弥生子さん。お会いできるのを楽しみにしていました」


 赤星弥生子は微笑むのをこらえるように口もとを引きしめつつ、「うん」とうなずいた。


「なんだよ。先に挨拶をしたのに、俺はスルーかぁ。こいつはちょっぴり傷ついちゃったなぁ」


 レオポン選手がおどけた調子でそのように言い出すと、サキが蹴っ飛ばすふりをした。


「おめーこそ、アタシらをスルーしてただろうがよ。試合の日にまで発情してんじゃねーぞ、オス猫野郎」


「そんなんじゃないッスよ。でも、蹴るふりだけなんて、サキさんも丸くなったッスね」


「へん。試合前の選手に怪我でもさせたら、何を言われるかわからねーからな。お望みとあらば、試合の後に蹴りまくってやんよ」


「あはは。そいつは勘弁です」


 レオポン選手は、にこやかに笑う。ライオンのようなヘアースタイルも小麦色に焼けた肌もすらりとした体格も、以前に見た通りのレオポン選手だ。瓜子はあらためて、彼にも一礼してみせた。


「ご挨拶が遅れてすみません。レオポン選手が戴冠できるように、応援してます」


「それはおたがい様だな。瓜子ちゃんと同じ日にベルトを巻けるなんて、光栄な限りだよ」


 メインイベントに出場するレオポン選手もまた、タイトルマッチであったのだ。しかし、その顔に気負いの色は皆無であった。


「レオポン選手は去年の夏頃に階級を上げたばかりなのに、もう王座に挑戦なんて、すごいっすね」


「それはこっちの台詞だよ。まさか、《フィスト》に初出場でいきなりタイトルマッチとはね。でもまあそれは、相手側の策略なんだろうけどさ。瓜子ちゃんに喧嘩をふっかけるなんて、まったく命知らずだよな」


 そう言って、レオポン選手は拳を差し出してきた。


「とにかく、今日は頑張ろうぜ。《フィスト》のベルトをぶんどってやろう」


 瓜子は「押忍」と応じながら、自分の拳をこつんと当ててみせた。

 そんな瓜子たちの姿を、赤星道場の面々は無言で見守っている。赤星弥生子、大江山軍造、青田コーチ、大江山すみれ、青田ナナ――あとは、合宿稽古で顔をあわせたことのあるサブトレーナーと、もう一名の出場選手だ。男子選手の試合であるのに、マリア選手を除く女性陣が勢ぞろいしているのが、いささか意外な感じであった。


「本当は、マリアも来たがっていたのだけれどね。雑用係の枠は二名までだから、すみれとジャンケンで勝負することになったんだ」


 赤星弥生子がそのように言いだしたので、瓜子は小首を傾げることになった。


「ジャンケンで勝負っすか。やっぱりみんな、レオポン選手の戴冠する姿を見届けたかったってことっすか」


「それもあるが――」と赤星弥生子が言いかけると、大江山すみれが笑いを含んだ声で口をはさんできた。


「わたしは、猪狩さんの戴冠も見届けたいと思って名乗りをあげました。猪狩さんは、マリアちゃんを打ち負かすほどの実力者ですからね」


「え、あ、そうなんすか? それは恐縮です」


「はい。わたしはユーリさんのことも目標にしていますけれど、階級が近いのは猪狩さんですからね」


 大江山すみれはいつでもにこやかな表情であるが、内心は読み取れない。それで瓜子が答えあぐねていると、仏頂面のサキが進み出た。


「だったらまずは、今の階級で結果を出してみろや。いつでも相手になってやっからよ」


「はい。サキさんは階級を落とされたそうですね。いつか試合をできる日を楽しみにしています」


 大江山軍造がガハハと笑って、娘の小さな頭にグローブのような手の平を置いた。


「それよりまずは、今日の試合だろ! よかったら、ひさびさに祝勝会で盛り上がろうぜ! 三本のベルトを肴にすれば、さぞかし美味い酒を飲めるだろうさ!」


「そうだな。多賀崎さんにも、声をかけておくよ」


 立松がそのように応じたところで、ひとまず赤星道場との挨拶も一段落した。

 おたがいに荷物を置いて、試合場を目指す。その道中で、瓜子はこっそりとユーリに呼びかけた。


「弥生子さんが同行することは聞いてましたけど、青田ナナさんは予想外でしたね。……ユーリさんは、大丈夫っすか?」


「大丈夫だよぉ。今のユーリは完全無欠にセコンドモードでありますので、雑念は封印しておるのです」


 ユーリは無邪気な面持ちで、にこりと笑う。確かにユーリは複数の感情を抱え持つことができない人間であるため、今は苦悩の思いを無意識の層にまで追いやっている様子であった。


 そうして試合場に向かってみると、四ッ谷ライオットの陣営がケージのすぐ近くで談笑している。ただそこには、見慣れない女子選手の姿もあった。


「あー、来た来た! このお人らが、プレスマンの陣営だよ! わ、赤星のお人らまで勢ぞろいだね!」


 多賀崎選手のセコンドとして同行した灰原選手が、元気いっぱいの声をあげる。

 そのかたわらから、ひょろりとした人物が笑いかけてきた。


「はじみてぃやーさい。フィスト・ジムうちなーぬ宇留間やいびーん」


 それは本日の興行に出場する、三人目の女子選手であった。

 フィスト・ジム沖縄所属の、宇留間千花うるま ちはな――『アクセル・ロード』の候補に選ばれていた、十名のひとりだ。


 身長は百七十二センチ、階級は六十一キロ以下級。年齢は二十二歳のはずだが、子供のように幼げな顔立ちをしている。頭も少年のようなショートヘアで、かなりくっきりと褐色の肌をしており、ひょろひょろした細長い体格をしている。ただ、日本人にしては胴体に厚みがあり、電柱のようなプロポーションであった。


「こいつも青コーナー陣営だっていうから、うり坊たちに紹介しようと思ったんだよ! でもねー、こいつ、アトミックのこととか何にも知らないんだってさ!」


「わっさいびーん。なーキャリアが浅んぬで、業界ぬことを何にもわかっていねーんですー」


 宇留間選手はにこにこと笑いながら、赤星陣営の青田ナナへと視線を巡らせた。


「あやー、青田さん。みーどぅーさんやー。ちゅーや試合じゃなかったやいびーさやー?」


「……ああ。今日はセコンドだよ」


「あんやいびーさやー。青田さんぬタイトルんかい挑戦ないるぐとぅちばやびーんくとぅ、なーいちゅたー待っちていくぃみそーれーやー」


「……何を言ってるのか今ひとつわからないけど、タイトル挑戦ってとこは聞き取れたよ。ようやくデビュー三戦目で、ずいぶん大口を叩くもんだね」


 青田ナナのぶっきらぼうな応対にもめげた様子はなく、宇留間選手は「あははー」とのんびり笑った。

 彼女はアマチュア・フィストの全日本大会で優勝を果たし、去年の秋口にプロデビューしたばかりだという話であったのだ。それで《アクセル・ファイト》の運営陣の目に留まるということは、よほどのポテンシャルを期待されているということであった。


(なんか……こののほほんとした感じは、イリア選手に似てるみたいだな。それでもって、この場には『アクセル・ロード』の候補者が半数もそろっちゃったんだ)


 ユーリ、赤星弥生子、青田ナナ、多賀崎選手、宇留間選手――さらに、多賀崎選手と対戦する沖選手を含めれば、十名中の六名だ。女子選手の試合が三試合しかないことを考えれば、ずいぶんな運命の悪戯であった。


(……って、あたしのほうが雑念にとらわれて、どうするんだよ)


 瓜子がぶんぶんと頭を振ると、ユーリがきょとんとした顔で「どうしたにょ?」と問うてきた。


「いや、なんでもないっすよ。ただ雑念を振り払っただけです」


 ユーリは天使のような面持ちで、「そっか」と微笑んだ。

 その笑顔を目に焼きつけながら、瓜子はあらためて気持ちを整える。


 今はとにかく、目の前の試合に集中するのだ。

 ユーリの行く末に思いを馳せるのは、その後であった。

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