インターバル

進むべき道

《アトミック・ガールズ》五月大会の翌日――五月の第四月曜日である。

 その日、ユーリと瓜子は新宿プレスマン道場に呼び出されることになった。


 まあ厳密に言うと、呼び出されたのはユーリのみであるが、しかしもちろん瓜子が同行しないわけにはいかなかった。ユーリは人生の岐路に立たされているのだから、瓜子もそれを見届けずにはいられなかったのだ。


 試合の翌日は副業も完全オフであるし、今回は病院で検査を受ける必要も生じなかったため、瓜子とユーリは午後の早い時間から道場に向かう。そして、すでに稽古を始めているメイや男子選手の姿を横目に、事務室に招かれたのだった。


「さて。ひと晩たって、そっちも考えはまとまったかい?」


 難しい顔をした立松の呼びかけに、ユーリは眉を下げつつ「はあ……」と応じる。


「ユーリの気持ちは、最初から固まっているのですけれども……立松先生に嫌われてしまうのではないかと、センセンキョーキョーの心地なのです」


「桃園さんがどんな決断をしたって、俺が文句をつけたりはしねえよ。ただ、桃園さんが正しい決断をできるように、思いつく限りの口出しをさせてもらうつもりだからな」


 パイプ椅子に陣取った立松は、そのように言いつのった。


「で? 桃園さんの、今の率直な心情は? やっぱり、お断りするつもりなのかい?」


「はいぃ……ユーリがアメリカで活動するなど、まったくビジョンが見えませんため……」


「そうかい」と、立松は溜息をついた。


「まあ、その若さでこんな話を持ち掛けられたら、それが当然だわな。俺が桃園さんと同じ立場でも、さんざん思い悩んでるところだろう。……ただし、桃園さんは悩むことなく即断してるみたいだからな。悪いがここは、頭が割れるまで思い悩んでいただくぞ」


「うみゃあ。どうぞお手柔らかにお願いしたいですぅ」


「じゃ、手始めに。まず桃園さんは、こんなビッグチャンスにどうして気乗りしないんだい?」


 ユーリはいっそう眉を下げながら、瓜子のほうをちらちらと見やってきた。

 昨日よりはいくぶん気持ちの落ち着いてきた瓜子は、それを励ますために笑いかけてみせる。


「なんでも正直に話せばいいんすよ。その末に下された決断だったら、自分も立松コーチも決して文句を言ったりしませんから」


「うん……まずですね、ユーリはアメリカのみならず、海外まで足をのばすということに、とても後ろ向きであるのです。言葉も通じない異国の地に足を踏み入れるのが、とても不安に思えてしまいますので……」


「それは誰でも抱える不安だろうよ。その他には?」


「その他には……やっぱり、《アトミック・ガールズ》の存在でありますねぇ。メイちゃまからお聞きしたのですけれど、《アクセル・ファイト》と契約すると、他の興行には参加できなくなってしまうのでしょう?」


「ああ。北米では、専属契約が基本だからな。しかし、《アトミック・ガールズ》に固執して、北米進出のチャンスをふいにしちまうのかい?」


「はい……ユーリは《アトミック・ガールズ》が大好きですので……それを捨ててまでアメリカに進出する意味を見いだせないのです」


 そんな風に言ってから、ユーリはまたちらちらと瓜子の様子をうかがってくる。

 瓜子が同じ笑みを返すと、ユーリは意を決した様子で言葉を重ねた。


「それであの、本当の本当に本音をぶちまけてしまいますと……うり坊ちゃんと離ればなれで過ごすことなど、ユーリにとっては地獄そのものであるのです」


「うん。その答えも想定済みだったから、そんなに縮こまることはないよ」


 と、立松はいくぶん表情をやわらげた。


「ただな、『アクセル・ロード』に参加する二ヶ月間だけはどうしようもないが、たとえそれで優勝して《アクセル・ファイト》との正式契約がかなったとしても、北米で暮らすことになるわけじゃない。そこのところは、わかってるか?」


「はあ……でもでも、卯月選手や早見選手は、一年のほとんどをアメリカで過ごしておられますよね?」


「ああ。北米で試合をするなら、あっちで体調管理をするのが一番だからな。稽古の環境だって、あっちのほうが充実してるからよ。……ただし、北米の団体と契約した選手の全員が、あっちで暮らすわけじゃない。赤星道場のレオポンくんだって、以前は北米と日本を行ったり来たりの生活だったはずだぞ」


「はあ……」


「だからまず、桃園さんには今後のファイター人生を考えてもらいたい。桃園さんが《アトミック・ガールズ》に固執する気持ちはわからなくもないが――俺から見ても、そっちにはあんまり明るい未来が感じられないんだよな」


 やわらかい表情を保持しつつ、立松は厳しい眼差しを覗かせた。


「まず第一に、桃園さんは強くなりすぎた。本当の意味で互角の勝負ができるのは、いまや弥生子ちゃんひとりだろう。その上、今の《アトミック・ガールズ》に外国人選手を招聘する体力はないし――生半可な外国人選手なんざ、呼ぶだけ無駄だ。何せ桃園さんは、《アクセル・ファイト》との契約を勝ち取ったジーナ選手すら無傷で完封しちまったんだからな。たとえパラス=アテナさんが財政を立て直すことができたとしても、ジーナ選手より有望な選手を呼ぶことはなかなかできねえはずなんだよ」


「はあ……」


「そんな環境で試合を続けても、桃園さんの才能を腐らせるだけだ。だから俺は、桃園さんが《アクセル・ファイト》との契約を目指すことを願っている。才能のある人間は、それに相応しい舞台で活躍するべきだろうからな」


 そのように語りながら、立松は身を乗り出した。


「そして、もう一点。桃園さんの目標は、ベリーニャ選手なんだろ? どうやらベリーニャ選手は、近日中に《アクセル・ファイト》と契約するみたいだぞ」


 ユーリは「えっ」と硬直してしまった。


「北米の篠江会長に連絡を入れたら、そんな情報をいただけたんだ。《アクセル・ファイト》の運営陣は、ベリーニャ選手の参戦を手ぐすね引いて待ち受けていたらしいからな。ベリーニャ選手も頭や目の怪我は完治したみたいだし、今はもう契約金について相談してる真っ最中らしいぞ」


「そうですか……さすがベル様ですねぇ……」


「ああ。ベリーニャ選手なら、いずれ《アクセル・ファイト》でもベルトを巻くことになるだろう。それでもって、ベリーニャ選手が《アクセル・ファイト》と契約したら、もうそっちの舞台でしか対戦するチャンスは生まれないってことだ。さっきから言ってる通り、《アクセル・ファイト》は専属契約なわけだからな」


 ユーリの顔に、初めて苦悩の色が生まれた。

 やはりユーリにとって、ベリーニャ選手というのはそれだけの存在であるのだ。


「あとは、北米におけるトレーニング環境についてだが……もしも桃園さんが《アクセル・ファイト》との正式契約を勝ち取れたら、篠江会長が面倒を見てくれる。早見だって英語なんざからきしだが、会長のおかげで問題なく過ごせてるんだ。試合の二、三週間前に渡米して、篠江会長のもとで調整して、試合を終えたら日本に戻ってくる。それだったら、そうまで生活が激変するわけでもねえだろう? 《アクセル・ファイト》の試合数なんて、年に三回から五回ていどなんだからな」


「…………」


「あと、もう一点。これは桃園さん個人の話じゃねえが、同じぐらいの真剣さで聞いてもらいたい」


 熱意のこもった声で、立松はそう言った。


「桃園さんがこの話を蹴ったら、『アクセル・ロード』に参戦するチャンスは韓国の連中に回されちまうんだ。これは桃園さんだけじゃなく、多賀崎さんやナナ坊や――いや、日本の女子選手すべてにとって、大きなチャンスなんだよ。ここでシンガポールの選手連中を打ち負かして、《アクセル・ファイト》との正式契約を勝ち取れれば、日本の女子選手も世界レベルの実力だって証明できるわけだからな」


「…………」


「ひとりの選手にそんな重責を背負わせるようなやり口は、俺も嫌いだよ。パラス=アテナの連中が桃園さんや猪狩に頼りきってる現状も、俺は不健全だと考えてる。でもなあ……その反面、俺は誇らしいとも思ってるんだよ。自分の教え子が、それだけの選手に育ってくれたんだからな」


 と――立松は、思いも寄らないほど穏やかな笑みを覗かせた。


「俺から言いたいのは、それぐらいかな。最後の決断は、本人に任せる。桃園さんがあくまでこの申し出を断るってことにしても、俺やジョンは絶対に責めたりはしないし……申し出を受け入れるってんなら、全力でサポートする。北米までついていくことはできないが、決して篠江会長に任せきりにしたりはしない。だから、来週の月曜日までじっくり思い悩んで、進むべき道を決めてくれ。何か相談事があったら、俺もジョンもいつでも話を聞くからな」


「……はい。ありがとうございます」と答えるユーリの声は、蚊が鳴くようにか細くなってしまっていた。

 立松はひとつうなずいて、瓜子のほうに視線を転じてくる。


「猪狩も試合前の大変な時期だが、プライベートの部分では桃園さんを支えてやってくれ。それは、お前さんにしかできないことだからな」


「押忍。もちろん、そのつもりです」


「それじゃあ、稽古を始めてくれ。稽古中は、頭を悩ませないようにな。そんなもんは、怪我のもとだからよ」


 瓜子はユーリとともに、事務室を出た。

 ユーリは迷子のように不安げな面持ちでうつむいてしまっている。それを力づけるために、瓜子はもういっぺん笑いかけてみせた。


「ほら、稽古中は悩むなって言われたでしょう? おもいきり身体を動かして、リフレッシュしましょうよ。思い悩むのは、その後です」


「うん……」と力なくうなずくユーリを追い立てるようにして、瓜子は更衣室を目指した。

 中途半端な時間であるために、更衣室は無人だ。そうしてユーリはのろのろと着替えを始めたのだが――下着姿になるのと同時に、ぺたんと床に座り込んでしまったのだった。


「ど、どうしたんすか、ユーリさん?」


 瓜子が慌てて駆けつけると、ユーリはぽろぽろと涙を流してしまっていた。


「ユーリは……ユーリは、ベル様と戦いたいの……ベル様は、ユーリなんかと試合をしたいって言ってくれたから……」


「ええ。もちろんそれはわかってますよ。ユーリさんにとって、ベリーニャ選手は一番の憧れなんですからね」


 瓜子は冷たい床に膝をつき、肌に触れないように気をつけながらユーリのもとに寄り添った。

 ユーリは深くうつむいたまま、ぽたぽたと涙を落としている。


「それに……もしも『アクセル・ロード』ってイベントに参加できたら……多賀崎選手たちも、すっごく喜ぶよね……」


「はい。でも別に、ユーリさんが責任を感じる必要は――」


「それに、青田ナナさんやマリア選手も……弥生子殿が参戦できないなら、代わりに自分たちが頑張るんだって……赤星道場と《レッド・キング》のために、実力を証明するんだって……きっと沙羅選手が参戦できたら、犬飼京菜ちゃんも喜ぶだろうし……」


 聞いているだけで胸が詰まってしまいそうなほど、ユーリの声は悲哀にまみれていた。


「ユーリはベル様と戦いたいし、みんなにも喜んでほしいの……でも……うり坊ちゃんと二ヶ月間も離ればなれだなんて……想像しただけで、心臓が痛くなっちゃうの……」


 そんな言葉を振り絞りながら、ユーリはようやく面を上げた。

 その顔は、頑是ない幼子のような泣き顔になってしまっている。


「うり坊ちゃん……ユーリはどうしたらいいの……?」


 瓜子は何も答えられないまま、ユーリのピンク色をした髪をひと房、きゅっと握りしめてみせた。

 ユーリもまた大粒の涙をこぼしながら、瓜子の髪をきゅっと握りしめてくる。

 ユーリの泣き顔を間近から見つめながら、瓜子もまたかつてなかったほどに心を乱してしまっていた。


(ユーリさんがどうするべきかなんて……そんなの、あたしが聞きたいぐらいだよ!)


 立松が言う通り、これはユーリのファイター人生を左右するビッグチャンスであると同時に、日本国内の女子選手に大きな希望をもたらす契機になりえるはずであった。

 しかしそのためには、まず『アクセル・ロード』で勝ち残らなければならない。

 二ヶ月間、北米の合宿所で過ごさなくてはならないのだ。


 なおかつ、合宿所で過ごす期間は、電話やメールで外界とコンタクトを取ることも許されない。トレーニングの様子やトーナメント戦の結果が番組の放映前に流出してしまわないように、すべての通信手段を禁じられてしまうのである。


 これでは、ユーリが二の足を踏むのも当然のことだろう。

 そして、瓜子もまた――二ヶ月もの期間をユーリと離ればなれで過ごすことなど、想像することもできなかったのだった。

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