03 再戦
鞠山選手の勝利を見届けたのち、ユーリの陣営は入場口へと進軍した。
そちらでは、小笠原選手がウォームアップに励んでいる。そしてこちらの接近に気づくと、小笠原選手は「やあ」と朗らかに微笑みかけてきた。
「どういう内容だったかはわからないけど、とにかく花さんが勝ったみたいだね。三年越しの、リベンジ達成だ」
「はぁい。まりりんさんのグラウンドテクニックをもっと堪能させていただきたかったところでありますけれど、勝利できたのはおめでたいですねぇ」
ユーリが笑顔でそのように答えたとき、花道からイリア選手の陣営が戻ってきた。
イリア選手は入場口をくぐるなり、ピエロのマスクをひっぺがし、のっぺりとした無個性な顔で瓜子に笑いかけてきた。
「まんまと、してやられちゃいました。MMAって、難しいですねぇ」
「はい。だから、楽しいんじゃないですか?」
イリア選手は「あはは」と笑い、ひょこひょことした足取りで立ち去っていく。その後ろ姿が見えなくなってから、小笠原選手は肩をすくめた。
「相変わらず、腹の読めないやつだね。ま、実力だけは確かなんだろうけどさ」
「押忍。イリア選手とやりあうと、神経が削られますからね。鞠山選手も、本当に大変だったと思いますよ」
「まあとにかく、後はアタシと桃園で締めくくりだ」
小笠原選手がユーリのほうに向きなおり、拳を差し出した。
ユーリは恐れ入りながら、ちょんとグローブをタッチさせる。そこで扉の向こうから、小笠原選手の名がコールされた。
「それじゃあユーリは、サイゴのウォームアップだねー」
ジョンがキックミットを構えて、ユーリがそこにミドルキックを叩き込む。
しかし、その時間は長く続かなかった。小笠原選手が姿を消した数分後には、凄まじいばかりの歓声が試合の終了を告げてきたのである。
ジョンの要請で扉の隙間から試合場を盗み見た瓜子は、レフェリーに腕を掲げられている小笠原選手の勇姿をそこに見出した。
いまだ五分も経過していないはずであるので、第一ラウンドで決着がついたのだろう。小笠原選手は打たれ強さで知られる大村選手を、ブランク明けの復帰試合で見事にKOで下してみせたのだった。
「小笠原選手の勝ちです。宣言通りにKOで仕留めるなんて、すごいっすね」
「すごいすごーい!」と、ユーリは元気いっぱいにハイキックを繰り出した。
「番狂わせは、鞠山さんだけだったな。桃園さんも、地力の違いを見せつけてやれ」
柳原がそのように呼びかけると、ユーリは「ほえ?」と小首を傾げた。
「ユーリはいっぺん負けておりますので、この際はジーナ選手のほうが格上にあたるのではないでしょうかぁ?」
「そうは言っても、桃園さんは現王者だからな。アトミックの舞台では、まごうことなき格上だよ」
「あははー。ユーリはいつもドオりにガンバればいいんだよー」
「はいっ! その点にぬかりはないのです!」
瓜子はユーリのセコンドにつくのもずいぶんひさびさであったため、この和やかさも懐かしいぐらいであった。そういえば、最近はもっぱら立松が瓜子の担当であったので、この時間にジョンとご一緒することもひさびさであったのだ。
そんな中、小笠原選手の陣営が戻ってくる。小笠原選手は出陣前と変わらぬ穏やかな笑顔であったが、セコンドの小柴選手はぽろぽろと嬉し涙をこぼしてしまっていた。
「さ、会場は温めてきたからね。思うぞんぶん暴れてきな」
「はいっ! 小笠原選手、KO勝利おめでとうございましたっ!」
にこにこと笑うユーリと小笠原選手が、あらためてグローブをタッチさせる。
そうして相手の入場を待ったのち、ついにユーリの出番である。
『赤コーナーより、ユーリ・ピーチ=ストーム選手の入場です!』
ユーリは弾むような足取りで、花道に足を踏み出した。
サキのときとは比較にならないほどの歓声が、四方からあびせかけられる。それは人気の差のみならず、ここまでの試合で練りあげられた熱気が加味されているはずであった。
ユーリはくるくるとターンを切りながら、満面の笑みで声援に応えている。
こんなユーリをこうまで間近で拝見するのも、瓜子には懐かしく思えてならなかった。
ユーリは、心から幸福そうな笑顔である。
『トライ・アングル』のライブにおいても、ユーリは同じぐらい幸福そうに見えていたものであるが――やっぱりこうして間近で見ると、幸福の度合いに若干の差があるのかもしれなかった。
(そりゃあユーリさんにとって、音楽活動はあくまで副業なんだもんな。格闘技の試合と差が出るのは、当然か)
しかしまた、ユーリはモデルの仕事をこなしているときよりも、音楽の仕事をしているときのほうがより楽しそうに見える。ユーリは『トライ・アングル』の活動に大きな喜びを見出しており――そしてそれ以上に、ファイターとしての生をかけがえのないものとしているのだった。
花道を踏み越えたユーリは、歓声をあびながらウェアとシューズを脱ぎ捨てる。
水をひと口だけ飲んでからマウスピースをくわえて、ジョンと柳原と拳をタッチさせ――そして最後の瓜子には、入念に拳を押しつけてきた。
「頑張ってください、ユーリさん。フェンスごしに見守ってますからね」
「うん!」と幸せそうに笑みをこぼしてから、ユーリはボディチェック係のほうに向きなおった。
端麗なる顔にワセリンを塗られて、グローブや手足の状態を確認され、いざケージへと上がり込む。その間も、三百名からの観客たちの歓声がわんわんと反響していた。
『メインイベント、第十試合、バンタム級、六十一キロ以下契約、五分三ラウンドを開始いたします!』
リングアナウンサーが、歓声に負けじと声を張り上げる。
『青コーナー。百六十四センチ。六十・九キログラム。ゴードンMMAジム所属……ジーナ・ラフ!』
ジーナ・ラフ選手は青い目を爛々と燃やしながら、右腕を振り上げた。
彼女も《アトミック・ガールズ》に参戦していた時代は五十六キロ以下級であったが、《アクセル・ファイト》との契約を機に階級を上げていたのだ。その姿は、二年前よりもひと回り大きくなっていた。
『赤コーナー。百六十七センチ。五十八・一キログラム。新宿プレスマン道場所属、《アトミック・ガールズ》初代バンタム級王者……ユーリ・ピーチ=ストーム!』
ユーリは両手を振り上げて、手の先をひらひらとそよがせた。
気負いも緊張もへったくれもない。楽しくて楽しくてたまらないという笑顔である。それは連敗記録を更新していた二年前とも変わらぬ笑顔であった。
レフェリーに招かれて、両選手はケージの中央で向かい合う。
ユーリは白とピンクのカラーリングで、ハーフトップとショートスパッツ。
ジーナ・ラフ選手は赤と青のカラーリングで、タンクトップとファイトショーツだ。
こうして間近で向かい合うと、やっぱり体格差は顕著である。ナチュラルウェイトでリミットに三キロも足りていないユーリと、リミットいっぱいで何キロもリカバリーしているであろうジーナ・ラフ選手であるのだから、それは当然だ。しかも相手は白人女性で骨格にも恵まれているため、下手をしたら二階級も違っているように見えるぐらいであった。
開会式ではダニー・リーに気負いすぎていると評されていたジーナ・ラフ選手であるが、現在はどうなのだろう。とりあえず、その雄々しい顔には闘志があふれかえっていた。
両者がかつて対戦したのは、一昨年の一月大会。二年と四ヶ月前のことである。
その期間に、ユーリは規格外のモンスターに成長を遂げ、ついに《アトミック・ガールズ》の王者になりおおせた。
いっぽうジーナ・ラフ選手も実力を上げて、《アクセル・ファイト》との契約にまでこぎつけたわけであるが――そちらの舞台で連敗を喫し、リリースされたのだと見なされている。
(それでもやっぱり二年前よりは実力をあげてるはずだし、ウェイトだって増えてるんだ。頑張ってくださいね、ユーリさん)
そんな風に祈る瓜子の眼前に、ユーリが軽い足取りで舞い戻ってくる。
そうしてユーリはもういっぺん瓜子に微笑みかけてから、ケージの中央に向きなおった。
『ラウンドワン!』のアナウンスに、レフェリーの「ファイト!」という肉声が重ねられる。
ユーリは綺麗なファイティングポーズを取り、迷いのない足取りで進み出ようとした。
そこに、ジーナ・ラフ選手が躍りかかってくる。
いきなりの先制ラッシュである。
しかしユーリは慌てず騒がず、適切な距離とタイミングで、前蹴りを繰り出した。
それに腹のど真ん中を蹴り抜かれたジーナ・ラフ選手は、たまらず引き下がる。
大歓声の中、ユーリは何事もなかったかのように前進した。
(なるほど。前回の試合を研究して、先手を取ろうとしたのかな)
しかしあれは、兵藤アケミぐらいの体格であったからこそ、有効であったのだ。ジーナ選手もユーリよりふた回りは大きかったが、そのていどの体格差はこの階級において毎度のことであったのだった。
ケージの中央に押し戻されたジーナ・ラフ選手は、一転して慎重に距離を測り始める。
そうして最初は左ジャブを出していたが、しばらくするとサウスポーに切り替えて、右のジャブを出し始めた。
「ふん。もしかしたら、桃園さんがつぶる目に合わせて、フォームを変えてやがるのかな」
柳原が、低い声でそのようにつぶやいた。
ユーリは背中を向けているために視認できないが、閉じる目を頻繁に切り替えるというのが基本のスタンスであるのだ。
しばらくすると、ジーナ・ラフ選手はまたオーソドックスのフォームに戻した。
なかなか徹底しているが、もっと有効な攻撃を狙わなければ、意味がない。青田ナナも、そうして片目の隙を突こうと画策するあまり、自らペースを乱してしまったのだ。
そして、相手のペースなどおかまいなしに、ユーリは前進する。
ユーリが最初に出したのは、絵に描いたように美しい左ローであった。
ジーナ・ラフ選手は、弾かれたような勢いでバックステップする。
ユーリはそのまま踏み込んで、左ジャブを何発か射出した。
ジーナ・ラフ選手は大きく動いて、それも回避する。ユーリの攻撃力を警戒しているのか、ずいぶん慎重な対応であった。
だが――数えきれないほどユーリとスパーを重ねてきた瓜子には、あまり感心できない慎重さである。ユーリは立ち技における判断力に難があるため、攻防が入り混じった展開のほうが苦手であるのだ。ユーリに好きに攻めさせると、どんどん波に乗らせてしまうのである。
(アウトスタイルで翻弄するっていうんならまだしも、中間距離に留まって様子を見るってのは、一番の悪手だよ)
そんな瓜子の思いを証明するかのように、ユーリがふわりと右足を振り上げた。
とてつもない破壊力を秘めた、右ミドルである。
それを左腕でブロックしたジーナ・ラフ選手は、顔をしかめて後ずさった。どれだけ完璧に防御しても、このていどの体格差であれば骨まで響いたはずだ。
そしてユーリはひょいひょいと距離を詰め、今度はワンツーを繰り出した。
ジーナ・ラフ選手はかわしきれずに、これも両腕でガードする。右ミドルに続いて右ストレートまでブロックした左腕には、いい感じにダメージが蓄積されたはずであった。
さらにユーリは前進して、ワンツーから左ミドルのコンビネーションを披露する。
それでジーナ・ラフ選手がぐらついたならば、左フックと右ボディのコンビネーションだ。
これだから、ユーリを波に乗せてはいけないのである。
ジーナ・ラフ選手はすべての攻撃をガードしていたが、もう両腕にダメージが溜まっているはずであった。
これではならじと判じたか、ジーナ・ラフ選手は右拳を振り上げた。
大振りの、右フックである。
ユーリはふっと頭を沈めて、相手の胴体に組みついた。
さらに、相手の左足に右足を掛けて、後方に押し倒す。
そうしてハーフガードを死守しようとする相手の両足を回避して、至極あっさりとサイドポジションを奪取してのけたのだった。
「一分半経過です!」
ユーリの快進撃に心を弾ませながら、瓜子はそのように告げてみせた。
ユーリは三発のパウンドを相手の顔面にくらわせてから、ニーオンザベリーの体勢を取る。今回は、ひとつのポジションごとに三度のパウンドを出すように言いつけられていたのだ。
ジーナ・ラフ選手は必死に腰を切り、何とか不利なポジションから逃げようとする。
しかしグラウンドに移行してしまったならば、体格差の恩恵もいっそうしぼんでしまう。ユーリはもっと重い選手でも楽々と抑え込めるほどの技量を有しているのだ。
こんな序盤からグラウンドで上を取れたユーリは、嬉々として相手の上にのしかかっている。
そしておそらく多くの人間の予想を裏切って、身体を反転させた。相手の脇腹にのせた左膝を支点にして、後ろ向きに相手の腹にまたがったのだ。
ユーリは迷いなく、相手の右足につかみかかった。
ジーナ・ラフ選手は猛然と半身を起こして、ユーリの背中にへばりつこうとする。こういったリスクが生じるため、普通は逆向きにまたがろうとはしないものであるのだ。
しかしユーリはジーナ・ラフ選手に背中を取られるより早く、相手の右足を両腕で抱きかかえた。
さらに、両足で相手の右足をはさみこむ。あとはしっかりとホールドして、相手の右足を真っ直ぐにのばせれば、膝十字固めの完成であった。
膝十字固めは完全に極まれば、その瞬間に膝靭帯を破壊されかねない、危険な技である。
その恐怖心に呑み込まれてしまったのか――ジーナ・ラフ選手は惑乱の表情で、左足を振り上げた。
こめかみを蹴られたユーリは、相手の右足を抱えたまま横合いに倒れ込む。
それと同時に、レフェリーが「ストップ!」を宣言した。
会場には、ブーイングの嵐が巻き起こる。
グラウンド状態で頭部に足の攻撃を加えることは、反則行為なのである。これは《アトミック・ガールズ》でも《アクセル・ファイト》でも共通しているはずであった。
「くそっ、きたねえやつだな! 桃園さん、大丈夫か!?」
柳原のがなり声に、ユーリはぴょこんと半身を起こす。そしてこちらに向きなおり、にっこりと微笑んだ。まあ、あのように苦しまぎれの攻撃で、大きなダメージを負うことはないだろう。それにしても、今のは悪質な反則行為であった。
レフェリーはイエローカードを提示しながら、厳しい顔でジーナ・ラフ選手に警告を与える。ジーナ・ラフ選手は減点1で、次に大きな反則を犯せばその場で失格負けであった。
「ユーリさん、残り二半分です! 集中を切らさないで!」
大歓声とブーイングに負けないように、瓜子も声を張り上げる。
そんな中、試合はスタンド状態に戻されて再開された。
ユーリはめげた様子もなく、変わらぬ軽やかさで前進する。
それに対するジーナ・ラフ選手は、がむしゃらに頭から突進した。
狙いは、両足タックルである。
しかし、距離が遠すぎる。ユーリはバービーの動きでそれを回避して、悠々と相手の背中にのしかかることになった。
すかさずジョンが、「キャンセル」の指示を送る。
パウンドを打たなくてもよい、という合図だ。
ユーリはほとんど笑顔のような表情で、相手の身体を押し潰した。
ジーナ・ラフ選手は何とか仰向けの体勢を取ったが、またもやサイドポジションを取られてしまっている。反則を犯してまでグラウンド戦を回避したのに、これでは自ら元々の不利なポジションに戻ってしまったようなものだ。
しかしユーリは、さきほどと反対の方向に身体をずらした。
相手の頭の側に回り込み、上四方のポジションとなったのだ。
そのポジションではパウンドも打てないし、狙えるサブミッションも少ないために、やはり選択されることの少ないポジションである。
その体勢で、ユーリは左腕を相手の頭の裏側に差し込んだ。
そして、もう片方の手でクラッチを固めつつ、相手の頭に体重をかける。ユーリのやわらかい上腕が、それで相手の頸動脈を圧迫する形になるのだ。これは上四方のポジションから狙える希少な技、ノースサウスチョークであった。
ジーナ・ラフ選手は、死に物狂いで腰をバウンドさせる。
しかしユーリが愛しい相手を抱擁するように、ぎゅっと両腕を絞り込むと――ジーナ・ラフ選手の手足が、ぱたりとマットに落ちた。
レフェリーはユーリの背中をタップしてから、頭上で両腕を交差させる。
大歓声の中、ユーリは名残惜しそうに身を起こした。
『一ラウンド、二分五十三秒! ノースサウスチョークにより、ユーリ・ピーチ=ストーム選手の一本勝ちです!』
コンクリの壁が割れてしまうのではないかという勢いで、歓声が吹き荒れる。
ここ最近では珍しいほどの、ユーリの圧勝であったのだ。
レフェリーに右腕を上げられたユーリは、「てへへ」という顔で笑っていた。
ユーリの戦績は、これで十八勝十一敗一引き分けとなる。
ジーナ・ラフ選手との前回の対戦では、記念すべき十度目の敗北を喫してしまったユーリであるが――このたびは、記念すべき三十戦目を見事に勝利で飾ることがかなったのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます