04 復活のサムライ・キック

 本選の第二試合が終了したならば、いよいよサキも出陣の刻限である。


「よし。それじゃあ、出向くとするか」


 立松がそのように声をあげると、ユーリが満面の笑みでぶんぶんと手を振った。


「サキたん、頑張ってねー! ここでサキたんの勝利をお祈りしているのです!」


「うるせーや。手前の試合に集中しやがれ、化け乳ホルスタイン」


 愛想や愛嬌の概念を持たないサキは、そんな罵詈雑言を残して控え室を出る。雑用係たる瓜子は必要な道具の詰まったボックス形のバッグを抱えて、その後を追うことになった。


 サキはもちろん立松やサイトーも落ち着いた面持ちであるが、瓜子の心臓は自分の試合のときよりも高鳴ってしまっている。サキの試合をようやく観られるのだという昂揚と、何か不測の事態が生じたりはしないかという不安と――とにかくさまざまな激情が、瓜子の胸中に渦巻いてしまっていた。


 途中で行きあった前園選手の陣営にお祝いの言葉を送りつつ、入場口の裏手に到着したならば、立松が構えたミットを相手にサキが蹴りを叩き込む。

 ウォームアップのための手加減された蹴りであるが、目を奪われるほどの流麗さだ。左膝にはテーピングとサポーターの処置が為されていたものの、もはや表面上に故障を抱えているという気配は微塵も存在しなかった。


 髪ののびたサキは後ろ髪を適当にくくっていたが、長い前髪は顎の下まで垂れている。瓜子であれば我慢のならない障害物であるが、サキはまったく気にする様子もないのだ。そして、長い前髪を振り乱しながら蹴りを放つサキの姿は、瓜子の胸をいっそう高鳴らせてやまなかった。


(あのユーリさんだって、ベリーニャ選手の前にサキさんの試合を観ていたらストライカーを目指していたかも、なんて言ってたぐらいだもんな)


 サキにはそれだけ、見る者を魅了する華やかさと実力があるのだ。

 自分はセコンドなのだと何べんも自戒していないと、瓜子もすぐに中学時代のファン心理に舞い戻ってしまいそうな心地であった。


 しばらくして、扉の向こうから大きな歓声がわきあがる。

 扉の隙間から覗き見したサイトーは、「ふふん」と鼻を鳴らしながらこちらに向きなおった。


「刈り上げ女のKO勝ちだな。後に続けよ、半分赤毛」


「うるせーよ、金髪」


 やがて第三試合で勝利した山垣選手の陣営が、どやどやと舞い戻ってきた。

 山垣選手は金髪のモヒカンをトレードマークにしていたが、現在は左の側頭部だけを刈り上げつつ、長くのびたモヒカンの部分を右側に流している。ジジ選手を思わせる、アシンメトリーの髪型だ。しかし何にせよ、その顔つきのふてぶてしさに変わりはなかった。


「よう、サキ。階級を落としたからって、前王者がぶざまな姿をさらすんじゃないよ?」


「こっちの金髪もうるせーな。今日も得意のヘッドバッドをかましやがったのか?」


 山垣選手はラフファイターで、かつてはサキも反則の頭突きで七針を縫う羽目になったのだ。

 山垣選手は悪びれた様子もなくにやりと笑い、サキのほうに拳を突き出した。


「あんたがぶざまな姿をさらすと、あたしらの立場がないんだからな。とっとと毒蛇ババアからタイトルをぶんどって、こっちに戻ってきな」


「だから、うるせーってんだよ」


 グローブタッチのためにのばされた山垣選手の拳を、サキは前蹴りで弾き返した。

 山垣選手は大笑いしながら、通路の向こうに消えていく。なんとも荒っぽい交流のさまであった。


「お、まだいたか。サキ、試合は拝見できねえが、健闘を祈っておくぞ」


 と、山垣選手と入れ替わりで、沙羅選手の陣営がやってきた。大和源五郎、ダニー・リー、榊山蔵人の三名だ。


「はん。おめーらにとっては、大事な大事な秘蔵っ子の障害物だろうがよ? 上っ面の応援なんざ、耳障りなだけだ」


「そんなことはねえよ。お嬢だって、お前さんとの対戦を心待ちにしてるだろうさ。お前さんが別の相手に負けちまったら、心底ガッカリするだろうな」


「へん。新手のプレッシャーか?」と愛想のない声で応じつつ、サキは長い前髪の隙間からダニー・リーのほうをねめつけた。


「なんだよ。陰気な目つきでガンくれてんじゃねーぞ、細目野郎」


「……気合は十分なようだな。京菜の期待に応えてやるがいい」


「あんなクソガキの思惑なんざ、知ったことかよ」


 サキは子供のように舌を出してから、いきなり瓜子の肩に腕を回してきた。


「おめーもな、横目でじろじろ人様を観察してるんじゃねーよ」


「な、なんすか? 八つ当たりはやめてくださいよ」


 試合直前とは思えぬ騒々しさである。

 そしてそんな中、扉の向こうからサキの名前がコールされたのだった。


 サキは瓜子の身を突き放し、何事もなかったかのように花道へと足を踏み出す。

 苦笑を浮かべた立松やサイトーに続いて、瓜子もそちらに踏み入っていくと――熱波のごとき歓声が、五体に叩きつけられてきた。


 やはり会場が小さいためか、普段とは異なる感覚で歓声がわんわんと反響している。それに、換気の設備も今ひとつのようで、真夏のごとき熱気であった。

 そんな中、サキの名を呼ぶ声があちこちから響きわたっている。

 耳をすますと、瓜子の名を呼ぶ声も聞こえるような気がしたが――そんなものは、耳をすまさなければいいだけのことであった。


 サキは普段と変わるところなく、かったるそうな足取りで花道を進んでいく。

 そのすらりとした後ろ姿が、瓜子にはとてつもなく格好よく見えてならなかった。


 ボディチェック係の前に到着したならば、サキは脱ぎ捨てたウェアをサイトーに受け渡す。

 立松の差し出したマウスピースをくわえて、セコンド陣をひとりずつ見回していき――最後に意味もなく瓜子の頭を小突いてから、サキはボディチェック係のほうに向きなおった。


 サキの試合衣装は青と白のカラーリングで、ハーフトップにファイトショーツという組み合わせだ。

 手足にも背中にも、しなやかな筋肉が張り詰めている。通常体重が五十キロを切ったサキは、何の苦も無く四十八キロまで落とし、ほんの数百グラムだけリカバリーしたのだという話であった。


 ボディチェックを完了したサキは、変わらぬ足取りでケージへと上がる。

 対戦相手の中堅選手は、気迫のあふれかえる面持ちでその姿を見据えていた。


『第三試合、アトム級、四十八キロ以下契約、五分三ラウンドを開始いたします!』


 リングアナウンサーが、熱気による汗でてらてらと顔を光らせながら宣言した。

 その口から語られる対戦相手のプロフィールは、もちろんこちらも研究済みである。相手も百六十センチというなかなかの長身で、所属は亜藤選手と同じガイアMMAであった。


 その亜藤選手は、相手のセコンドについている。彼女はかつてサキの王座に挑戦した経験があるのだから、その際にサキのファイトスタイルを徹底的に研究したことだろう。


 相手選手は、明らかにサキよりもがっしりとした体格をしている。身長はサキのほうが二センチ高いだけなのだから、それだけリカバリーの量が多いのだろう。それにサキは骨格そのものが細いため、そちらでも差が出ているようだった。


(やっぱりサキさんは、最初っからアトム級が適正体重だったんだろうな)


 しかしサキはこの体格で、KOの山を築いてきたのだ。最終的には無差別級の兵藤アケミをもKOで下してみせたのだから、規格外の格闘センスを有しているのである。


 よって、サキが軽量級の中堅選手に後れを取るという図は想像し難い。

 しかしサキは一年半ぶりの試合であるし、左膝も百パーセント完治しているわけではないし、階級を落としたことで相手のスピードもアップされるのだから――やはり瓜子は、不安と無縁ではいられなかった。


「落ち着いていけよ、サキ。まずはじっくり、試合勘を取り戻せ」


 ルール確認を終えたサキがフェンス際に戻ってくると、立松がそんな風に呼びかけた。

 サキはぶっきらぼうに、「あいよ」と答えるばかりである。


 そうして、試合開始のブザーが鳴らされた。

 サキは右腕をだらりと垂らし、左拳だけを胸の高さにあげた、独特のサウスポースタイルでケージの中央に進み出る。

 真っ直ぐにのばした身体は完全に半身であり、重心は後ろ足だ。MMAにおいて、こうまで徹底したフリッカースタイルというのは、なかなか類を見ないことだろう。


 しかし相手選手は怯んだ様子もなく、果敢に攻め込んできた。

 左右のフックを振り回し、最後には豪快な右ローを繰り出してくる。彼女も完全にストライカーであったが、同門にレスリング巧者の亜藤選手がいるため、組み技のディフェンスには自信があるのだろう。また、サキが自分から組み技を仕掛けることはほとんどないという点も、しっかりわきまえているはずであった。


(だからあたしは予想外のタックルをくらって、あっさりテイクダウンされちゃったんだよな)


 そんな瓜子の感慨もよそに、相手選手は猛攻を仕掛けている。

 おそらくは、サキが試合勘を取り戻す前に、戦況を有利に進めようとしているのだろう。

 それに、パンチばかりでなくローも多用している。サキが故障を抱えているのは後ろ足の左膝であったが、前足を潰せば自然に左足への負担が増すのだから、十分に効果的な攻撃であった。


 ただしサキは、いずれの攻撃も回避できている。

 パンチもローも、いっさいサキの身に触れていないのだ。

 サキは寒気がするほどの静けさでステップを踏んで、完全に距離をコントロールしていた。


 それでも相手選手は、執拗に手を出してくる。

 スタミナに、よほどの自信があるのだろう。試合開始から一分が過ぎても、相手選手は勢いをゆるめようとはしなかった。


「いいぞ、慎重に見ていけ! 相手の動きが止まったら――」


 と、立松が言葉を飛ばしかけたとき――サキの左足が、すうっと振り上げられた。

 なんの予備動作もなく、無造作に見えるぐらいの挙動であったが、その中足は吸い込まれるようにして相手のレバーに突き刺さった。


 相手はたまらず身を折って、後ずさろうとする。

 サキは長い足で一歩だけ踏み込み、今度は右ローを繰り出した。

 鞭のようにしなった右足が、短い軌道で相手の左腿を打つ。


 その一撃でダメージを負った相手は、もつれる足でさらに逃げようとした。

 サキはもう一度、一歩だけ踏み込む。

 踏み込むと同時に、再び左足が振り上げられた。


 初動は、さきほどの三ヶ月蹴りと同一である。

 よって相手は、必死の形相で腹をかばっていた。

 しかし、サキの左足は途中で上方に跳ね上がり――サキの左ふくらはぎに刻まれた燕のタトゥーが、天空を目指して飛翔した。

 その流麗なる軌跡に、瓜子は思わず嘆息をこぼしてしまう。


 サキの左足は、相手の右こめかみをこするようにして、さらに天高くのびあがった。

 サキのフィニッシュブローである、左ハイからのかかと落とし――「燕返し」である。

 しかし、天を旋回した燕が地上に舞い降りようとしたとき、すでにそこに敵はいなかった。側頭部を蹴り抜かれた相手選手はその時点で頭蓋骨の内部を揺さぶられて、腰からマットに落ちていたのだった。


 サキは一歩だけ後ずさってから、ファイティングポーズを解除する。

 レフェリーは、大慌てで両腕を交差させた。


『一ラウンド、一分十五秒! 左ハイキックにより、サキ選手のKO勝利です!』


 怒号のような歓声が、会場を揺るがした。

 肌がびりびりと震えるのを感じながら、瓜子は言葉も出ない。そしてその目は、マットに黙然と立ち尽くすサキの姿に奪われたままだった。


(ああもう……どうしてサキさんは、こんなにカッコいいんだろう!)


 こんなサキに憧れて、瓜子は格闘技を始める覚悟を固めることになったのだ。

 どんなに自分を戒めても、瓜子の心はすっかり中学時代に引き戻されてしまっていた。

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